第5章「19:32」

「ここが、オジカの研究所か……」

 夜も更けた頃、トウジの運転する車に揺られて二時間程。俺とトウジは人里離れた開けた土地にポツンと存在する白い建物を見上げていた。

「警備員の一人もいないなんて、何か薄気味悪いな」

 トウジが辺りときょろきょろと見回した。トウジが言うように、広大な敷地の中には人の姿は全く見当たらない。俺達が敷地に侵入しても、警報の一つも鳴らず不気味なほどの静寂が辺りを包んでいる。

 周囲を警戒しながら建物の入り口を見つけ、ドアの前に立ったトウジと顔を見合わせる。

「もしかしたら、守り切れないかもしれない。それでもいいか?」

 俺がトウジにそう問うと、トウジは笑って自慢げに胸を張った。

「俺のこたぁ気にするな。これでも高校の頃は陸上部でブイブイ言わせてた方なんだぜ。今でも走りには自信があるからな」

「……ふ、そうか。なら、安心だな」

「あ、お前信じてないな? ったく、今度昔のアルバムも見せてやるからな」

「ああ、楽しみにしている」

 俺が小さく笑うと、トウジが安心したような顔をする。緊迫した空気なのに変わりはないが、また一つ大事な約束が出来た事が嬉しかった。この約束を守るためにも……俺は真実を知らなければならない。

 気を引き締め、ドア横にある白いインターホンのボタンに手を伸ばす。すると、ザザッとインターホンから雑音が微かに聞こえ手を止める。

「やあ、ミツカイ君」

 インターホンから、突如男の声が聞こえてきた。俺とトウジの間に、緊張が走る。

「ドアのロックは解除されている。入ってきなさい。ただし……同行者の彼は置いてね」

 同行者、そう聞いて俺はトウジを見た。トウジは強張った顔で「……一人じゃ危険だ、俺も行く」と言う。だが、ここで男の命令を聞かなかったらどうなるかわからない。

「……俺一人で行く。トウジは車で待っていてくれ」

「なにか、罠があるかもしれないぞ」

「例え罠があっても、戦う力はある。だから……信じて、待っていてくれ」

 俺が真っ直ぐ瞳を見つめると、トウジはしばらく黙った後「……わかった」と強張った顔のまま頷いた。俺はそれに静かに笑いかけて、「……大丈夫だ」とトウジの肩を叩く。トウジが、俺にそうしてくれたように。

「……じゃあこれだけ持ってけ」

 トウジがポケットから何かを取り出し、俺に渡してきた。俺が渡されたそれに目をやると、それは四角い銀色のジッポライターだった。

「お守り程度にしかならんが……何かあったら、使ってくれ」

「ああ、わかった。……ありがとう」

 俺とトウジの会話が終わったのを見計らったかのように装飾のない簡素なドアが自動で開く。俺はトウジの肩から手を離し、ゆっくりとドアを潜り抜ける。振り向くと、トウジが心配そうな顔でこちらを見ていた。だが、言葉を交わす暇もなくドアは静かに閉ざされてしまう。

「一番奥の部屋、そこにいる」

 白い天井から、男の声が降り注いだ。一人覚悟を決め、装飾の一切ない真っ直ぐな廊下を歩いていく。広い道の途中にはドアがいくつかあり、ドアには大きく番号が書かれている。まるで、病院のような……と、そこまで考えて「何故俺は病院のようだと思ったのだろう?」と疑問に思う。何処か、懐かしい気持ちになるのは何故だ?

 不思議な気持ちのまま廊下を進んでいくと、一番大きなドアのある場所に到達する。横開きらしいドアに手を掛けようとすると、ドアが機械的な音を立てて勝手に開いた。

 中に入ると、机がいくつか並べられており、その上に様々な機材や薬品、本などが置かれている。KIΧにいた頃のナルサワの研究室を思い起こさせる風景だった。

「待っていたよ、ミツカイ君」

 声の方向に顔を向けると、部屋の一番奥に置かれたデスクが目に入る。

「……お前が、オジカか」

 俺がゆっくりとデスクのある方へと向かって行くと、デスクの向こう側で背を向けていた黒いオフィスチェアがくるりと回転した。

「ああ、私がオジカだ。久しぶりだね、ミツカイ君」

 オフィスチェアに座る白衣の男、オジカ。こけた頬に不健康な肌色のその男は、皴の刻まれた口元をにんまりと上げる。写真よりも老けて見えるのは、六年の歳月がたっているからだろうか。

「やはりお前は俺の事を知っているんだな」

「もちろんだよ。君を忘れた事は一度もない。君は、私達の作った最高傑作なのだからね」

 最高傑作。その言葉を聞いて、俺は眉間に皺を寄せる。ナルサワが常々口にしていた言葉でもあるそれは、今の俺にとっては好ましい言葉ではない。だが、俺はあえてその感情を抑えた。

「話してもらおうか。俺の過去について」

「ああ、いいだろう。だがその代わりに条件がある」

 俺はやや警戒しながらも「……何だ」とオジカを見る。オジカは笑みを崩さず言った。

「私の身の安全を保障して欲しい。君に過去についての話をすることで、きっと私はナルサワ君に狙われるだろうからね」

「……何故、ナルサワはそこまでして俺の過去を隠す?」

「君に何も知らずにいて欲しいのだよ。自分が犯した罪を知られることで、大事な君に嫌われたくないからだ」

 犯した罪? それは一体何だというのだ。俺の疑問を読んだかのように、オジカは「まあ、少しずつ話すから待っていてくれ」と俺を諭す。

「まず、君が異種混入型の構成員の第一号だったということは既に知っているかな」

「……カミシロ博士の残した資料で読んだ。だが、俺が何故選ばれたのかが分からない」

「はは、それは至極簡単だよ。君がカミシロ博士の身内だったからだ」

 オジカの発言に俺は目を見開いて固まった。俺が、カミシロ博士の身内だと? 予想外の事実に俺が衝撃を受けて黙ったのも気にせず、オジカは話を続けていく。

「君はね、元々カミシロ博士の孫だった。君は酷く身体が弱くて、十八になるまで病室からほとんど出た事のない状態だったのだよ。そんな君を治療し、健康で丈夫な肉体を与えるためにカミシロ博士は研究を積み重ねた末、君に特殊な手術を行った。それが、異種混入型構成員の始まりだったんだ」

 酷く落ち着いた声で話すオジカだったが、ふいに妖しくニヤリと微笑んで俺を見た。

「……なんて、美しい話だと思うだろう? でもね、実際はそんな美しい話ではない。もっと残虐で、恐ろしい事が起きていた。カミシロ博士は君に完璧な手術を施す為に数え切れないほど沢山の人間を犠牲にして人体実験を繰り返していたんだよ。君の為に、罪なき人が死んでいったんだ」

 絶望が、身体を駆け抜けていく感覚がした。心臓が、何度も殴られたように酷く痛む。これ以上聞いてはいけないと頭の中で警鐘が鳴っている。だが、オジカはそんな俺を楽しそうな顔で観察し、口を開く。

「博士がKIΧに所属したのも、人体実験が安易に出来るからだった。博士は君の為なら非人道的な行為を全く厭わなかったよ。私ですら、その執念に恐れを抱いたさ。そして、その執念の犠牲になった一人が……彼、ナルサワ君だった」

 耳を塞ぎたくなるような事実の中に、突如として現れた名前に顔を上げる。俺の疑問にすぐに答えるように、オジカが言った。

「ナルサワ君はカミシロ博士の部下だった男に勧誘されてKIΧに入った青年だった。ナルサワ君を勧誘した時点で彼を実験台にすることは決まっていたんだがね……。……結局ナルサワ君への人体実験は、言ってしまえば失敗だった。彼の身体は完全に異種と適合が出来ず、拒絶反応を起こしてしまったんだ。あれは、思い出すのが心苦しい程壮絶だったな。彼が肉体に起こる拒絶反応で苦し気に暴れていたのを今でも覚えているよ。最終的に、左目を失うことにも繋がってしまったしね」

 俺はオジカから述べられる事実にただ呆然と立ち尽くした。ナルサワが、俺の所為で。様々な感情が俺の中に沸き起こる。ナルサワの微笑みが、俺の頭の中を過る。

「実験台にされてもなおナルサワ君がカミシロ博士の研究に協力したのは、本当に心から君の事が大切だったからなのだと私は思うよ。でなければ、自分の肉体を不完全な化け物にされたのに正気でいられる訳がない。君が、ナルサワ君の生きる意味だった。……だから、それを奪う人間は絶対に彼は許さなかったよ。それが例え、カミシロ博士だったとしても」

 オジカの意味深な言葉にはっとする。俺は「まさか……」と唇を震わせた。オジカは微笑んで頷く。

「カミシロ博士はね、君の実験に成功した後に君を組織から連れ出そうとした。君の完璧な肉体が完成し、KIΧに用がなくなったのだ。だが、それを許さなかったのがナルサワ君だ。彼は君を連れ出そうとしたカミシロ博士を殺し、君を完全に自分のモノにするために君の両親をも殺した。君の弟は脅威にならないと見なされて無事だったようだが。その後、ナルサワ君は君の記録と記憶を抹消し、君の顔を別の者へと作り替えたんだ」

 オジカが淡々と述べていく真実に、もはや俺は言葉を紡ぐことすらできなかった。思考が上手くまとまらず、呼吸が浅くなる。もうこれ以上、何も考える事をしたくなかった。

「これが君の求めていた真実だよ、ミツカイ君。どうかな? 自分が多くの人間を犠牲にして生き延びたと知って……」

「俺、は……」

「しいていうなら、ナルサワ君やカミシロ博士を狂気に駆り立てたのも君だ。君の存在が、多くの人を狂わせたんだよ。ああ、なんて罪深い男なんだろうね、君は」

「黙れッ!!」

 俺は無意味に吼えた。オジカの話す言葉を受け入れたくなかったのだ。俺は記憶を失う前から多くの人間を殺めてきていたなんて、そんな事実を到底受け入れられるはずもなかった。俺の存在その全てが、罪だった。そんなことが……。

 無言でオジカに背を向けた。もうオジカと話すことはない。いや、話したくなかった。これ以上オジカの言葉を聞けば、俺は罪の重さに耐えらなくなりそうだったからだ。

「これからどうするんだい。ミツカイ君」

 後ろ手に、オジカの声が聞こえた。俺はしばらく黙り込んでから呟いた。

「……ナルサワに、会いに行く」

「ほう、何故? 家族の復讐にでも行くのか?」

「違う。復讐なんかでは、ない。ただ……アイツと話がしたいんだ」

 ナルサワが隠していた全てを知った今、もう一度俺はアイツと話をしなければならないと思った。いや、話がしたいんだ。ナルサワと真正面から。

「そうか……。なら、すぐにでもナルサワ君に会わせてあげよう」

 俺がオジカの言葉を疑問に思う前に……突如、声にならない激痛が身体に走る。

「……が、はっ……!」

 目を見開いたまま、自分の身体に目をやった。見れば、俺の胸元から銀色に光るかぎ爪のような三本の刃が突き出ている。身体を貫かれた。そう認識してから間もなく、喉元からせり上がってきた黒い血液が唇から噴き出る。

「私からのアドバイスだが、警戒は常に怠るべきではないよ……ミツカイ君」

 オジカの声と共に、ゆっくりと刃物が体内から引き抜かれる感覚を味わう。目眩と共に俺はその場に片膝をついた。肺が血液で満たされ、上手く息が出来ない。血が止まらず、激痛が身体を支配する。

「血が止まらず、痛みが引かないだろう? この爪の素材は特殊でね、傷の回復を遅くすることが出来るのだよ」

 オジカの楽しそうな声が聞こえる。何とか振り返ると、いつのまにかオジカの姿はローブを被った化け物の姿に変化していた。

「驚いたかな。私もね、君達のような力を手に入れたんだ。美しいだろう?」

 オジカが、俺の血液の滴るかぎ爪を俺に見せつける。……この状況は、かなりまずい。一時撤退しなければと痛みに蝕まれる身体を無理矢理立ち上がらせ、俺は研究室のドアへと向かう。一歩一歩が重く、身体が鉛にでもなったかのようだ。

「死にかけの鴉がどう足掻くか、見せてもらおうじゃないか」

 オジカを背に、なんとかドアを開ける。研究室から転がり出ると、傷口を押さえながら一時的に隠れられる場所を探した。俺は必死に意識を保ちながら視線を彷徨わせる。一瞬、薬品倉庫のドアプレートが目に入った。あそこなら、血液を止める薬品か何かがあるかもしれない。俺は淡い期待を抱きながら、身体を引きずって倉庫へと向かった。

 倉庫のドアまで辿り着くと、必死にドアを開け雪崩れ込むように部屋の中に入った。薬品棚がずらりと並び、段ボールが積まれたやや狭い部屋だ。

 俺は薬品棚の中を見渡した。茶色い小瓶や、透明な小瓶に入った液体はどれが自分を生かす薬なのかわからない。一か八かで傷口に塗ってみるべきか……などと考えているうちに、コツコツと靴音が近づいてくるのがわかった。オジカだ。

 俺は今、大量に出血している。きっと廊下にも血の跡が残っているはずだ。オジカが血を辿ってここに来るのも時間の問題だろう。この状況を打破するにはどうするべきか。何が最善なのか。

 ……いや、むしろ俺はここで死ぬべきではないのか? オジカの話した言葉がすべて真実だったとしたら、俺は多くの人の命を犠牲にしてきている。そんな奴が、生きていて良いのだろうか? 俺の存在は、ここに必要なのか。罪を、今償うべきではないのか。

 頭の中で思考が滅茶苦茶になり始め、その場にうずくまった時、ふいに触れたジャケットの胸ポケットにあるものが入っていた事に気が付く。胸ポケットからそれを取り出すと、それはこの施設に入る前にトウジから預かったライターだった。

 トウジの心配そうな顔が思い浮かぶ。きっと、俺が戻ってくるのをトウジは待っていてくれているだろう。トウジだけじゃない……俺の実の弟である、ミナトも。

 こんな汚れた存在である俺を、信じてくれている人がいる。罪悪感で押しつぶされそうになり、俺はライターを握り締めた。

 分かっている。死は、償いではない。俺が自分の意志で死んでも、犠牲になった人達は報われない。むしろ、俺が生きて罪を負うことが償いなのだ。ここで死ぬのは、ただの自己満足でしかない。

 それにまだ……俺はナルサワに会っていない。俺はナルサワと話をしなければいけない。アイツが何を考え、抱えていたのかを全て知りたい。ナルサワの罪を、俺も背負いたかった。

 死ねない。死んではいけない。ここで全てを終わりにしてはいけない。俺は気持ちを奮い立たせて立ち上がろうとした。だが、上手く力が入らずによろけて近くにあった段ボールを倒す。中からガラス瓶が何本も転がり出て、床に落ちて割れた。瓶が割れた途端、ツンとした独特の匂いが鼻をついた。

「これは、エタノールか……」

 床に広がった液体に、俺はあることを思いつく。俺は段ボールをよく見た。段ボールの中身が丸々全てエタノールだと知った俺は段ボールを勢いよくひっくり返し、中に入っていた瓶を全て割った。床は液体で水浸しになり、俺は他にも薬品棚の薬品を次々と割って床などにぶちまけた。まるで錯乱してしまったかのように見せかけるために。

 そうこうしているうちに、ギギと音を立てて倉庫のドアが開かれる。俺は窓のある壁に背を預け、オジカを待ち構えた。

「……酷い有様だね。薬でも探していたんだろうが、君の傷は癒えないよ」

 オジカは俺に向かって笑いかける。俺はオジカを睨みつけたままに口を開いた。

「……お前の本当の目的はなんだ」

「私の目的は、KIΧの上級幹部として認められることだ。オジカ製薬はKIΧのビジネスパートナーではあるが、いつ彼らに見限られるかわからないからね。だから、私がKIΧに入ることで、オジカ製薬を存続させたいんだ。……その為には、交渉する必要がある。ナルサワ君も今じゃ立派な幹部だ。だから彼に取り入っておけば、上層への加入は間違いない」

「だから、俺が必要なのか」

「私はナルサワ君がいかに君を大事にしているかはずっと知っているからね。今回の君の脱走劇は絶好のチャンスだと思ったよ。君を捕まえて人質にすれば、彼は絶対に動く」

 笑みを深めるオジカに、俺は「……そういうことだったのか」と呟いた。

「私が、何の意図もなく君に全てを話すと思ったかい。残念だったねミツカイ君。大人はズルいものなんだよ。」

 俺はふらふらと立ち上がる。胸の傷口を押さえながら、いかにもなフリで血を吐きだすと「もう直、君も終わりか。」とオジカが呟いた。

「君が死んだら、君の四肢を切断し丁寧に包装してナルサワ君に送り返しておいてあげよう」

 オジカがゆっくりと近づいてくる。俺は、ひたすらタイミングを窺う。まだだ、まだ……まだもう少し近づいてからだ。俺は逃げるふりをして、窓際に背中を押しつける。

「それでは、終わりにしようか。ミツカイ君」

 オジカが俺の数歩先まで近づいた時。ここだ。俺は片手に隠し持っていたジッポライターに火をつけ、オジカの足元に投げつけた。

「なっ……⁉」

 オジカの驚く声が聞こえる。だが、それも一瞬だった。アルコールまみれになった床にライターの火が引火し……激しい音を立てて爆発する。ありえないほどの明滅と、激しい熱。爆音に飲まれ、オジカの断末魔は聞こえなかった。

 爆発と共に起こった強烈な爆風を受け、俺は窓ガラスごと外へと吹き飛ばされてしまう。敷地の芝生に投げ出され、身体を強く打つ。痛みに声を上げる事も出来ず、それでもなんとか肩で息をしながら、燃え盛る薬品倉庫を見つめる。

 ……オジカは追ってこない。きっと、爆発に巻き込まれて奴は死んだ。俺は全身の力が緩むのを感じ、その場に寝転がる。意識が徐々に遠くなっていく感覚がして、俺は静かに目を閉じた。

  

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