第3章「12:10」

 トウジの案内で居間へと向かうと、部屋の中央に置かれたテーブルに三人分の料理が並べられていた。確か、トウジが「カレー」といっていたものだ。席に着くと、トウジとミナトが顔の前で手を合わせて「いただきます。」と呟いているのを無言で見つめる。

「? お兄ちゃんはいただきます、しないの?」

 俺の視線を不思議に思ったミナトが首を傾げる。俺はミナトに促されるように見よう見まねで手を合わせ、「……いただきます」と呟いた。

 ミナトとトウジが食事をする様子を観察しながら、自分も同じように用意された料理を口に運ぶ。口に料理を運んだ瞬間、俺はハッとする。

「……これは……」

「む、まさか口に合わなかったか?」

 トウジの言葉に、すぐに俺は首を横に振ったが、驚きと困惑で思考がフリーズしていた。そんな俺に、トウジは更に「なんだよ、そんな変な顔して」と言う。

「……初めて食べる味だと……思って……」

「えー! ミツカイ兄ちゃん、カレー食べた事ないの? そんなわけ……あ、そうか。きっとキオクソウシツだからカレーを食べた事忘れちゃってるんだよ!」

 ミナトが一人、納得したような顔で「きっとそうにちがいない」と頷く。俺はミナトの話に対応する事も出来ず、ただ口の中に広がる複雑な味わいに感覚を集中させていた。

 組織では殆ど味のしないゼリー状の栄養食しか支給されておらず、特に俺のような異種混入型の構成員は任務優先だった為に注射器や点滴を使った強制的な栄養補給が常だった。だから、こんな風に様々な味のする食べ物を食べたのは初めてなのだ。もしかしたら、俺の失った過去の中では食べた事があるのかもしれないが。

「き、記憶喪失ぅ? おいおい、初耳だぞそんな話」

 トウジが驚きの声を上げたので我に返る。トウジは「どういうことなんだ」と俺に説明を求める視線を寄こし、俺は一度口に含んだ食べ物を飲み込むとトウジに言った。

「……俺には過去の記憶がない。何処で生まれたのか、家族がいたのかすらわからない。自分が昔、どんな姿をしていたのかも……。だから、組織を抜け出して……」

 そこまで言ったところで、突然ピンポンと甲高い音が部屋に鳴り響いた。

「すまん、ミツカイ君。ちょっと待っててくれ」

 トウジが申し訳なさそうに席を立ち、居間から出て行く。ミナトはといえば、食事を口に運びながらも、俺の話の続きを聞きたくてうずうずとしているようだった。

 しばらくすると、トウジが居間に戻って来て、何やら怪訝そうな顔で俺を見て言う。

「ミツカイ君、君のお姉さんだという方が迎えに来た……ぞ? 今、客間に通した」

「……なに?」

 俺は食事をしていた手を止める。俺の姉……? そんな存在がいた覚えはない。もしかして俺の過去に関係がある人物なのかと一瞬考えたが、何故俺がこの家にいる事を知っているのだろうかという疑問がすぐに浮かぶ。まさか……。

「……案内してくれ」

 嫌な予感がしながらも、俺は席を立つ。ミナトが一瞬、不安げな顔をしたが「……すぐ戻る」と言うと、ミナトは小さく笑って頷いた。

 その後すぐにトウジと共に居間から出て廊下を渡り、客間の入り口のドアに到着すると、俺は辺りの様子を窺いながらトウジに低く告げる。

「……ミナトと一緒に居間にいろ。俺が良いというまで絶対に部屋から一歩も出るな」

 俺の様子がおかしい事に気が付いたのか、トウジは俺に「わかった」と緊張した面持ちで短く答えてすぐに居間へと戻っていった。

 トウジが居間へと向かったのを確認してから、俺は覚悟を決めて静かに客間のドアを開いた。

 ドアを開けると、客間に置かれたシックなこげ茶色のソファーが一番に目に入る。そしてそこには、長い髪に清潔感のあるスーツを身にまとった女が足を組んで座っていた。その首には……俺と同じ銀色の制御装置が付いている。

「久しぶりね、ミツカイ君」

 きりっとした吊り目気味の女は、メッシュの入った黒髪をさらりと揺らしてにこやかに微笑んだ。俺は女の向かい側にあったソファーに座り、女を見据えた。

「ああ、久しぶりだな……メギツネ」

「一体いつぶりかしら? 私が管理部門に移ってからすっかり会わなくなっちゃって……でも、噂はずっと聞いていたわ。貴方が前線でいつも大活躍しているってね」

 メギツネは何処となく嬉しそうな表情で俺に言う。メギツネは以前、何度か俺と一緒に任務にあたっていた構成員だ。その後、構成員の管理や教育を担当する部門にメギツネが移って以降会う事はなくなった。だが、今はそんな事はどうでもいい。

「昔話をしに来た訳じゃないんだろ」

 俺がメギツネを睨みつけると、彼女は笑みを崩さないまま胸ポケットから小さな箱を取り出した。思わず身構えたが、メギツネは「ただの煙草」とおかしそうに目を細めた。

「貴方も吸う? 美味しいわよ」

「……いらん」

 あら、そう。と微笑んで、メギツネは箱から取り出した細い棒状のそれを口に咥えた。細い指先が再び胸ポケットを漁り、今度はクリアブルーのライターが取り出される。メギツネは慣れた手つきでライターを鳴らすと棒の先端に火をつけた。火がついてすぐ、白い煙がゆらりゆらりと妖しく立ち上る。

「ミツカイ君、KIΧに戻りなさい。今ならまだ、間に合うわよ」

 ふうと白い煙を唇から吐きだしたメギツネが言う。

「……俺はもう組織には戻らない」

「強情ね。ミテラに逆らった者がどうなったか、貴方が一番よく知ってるでしょう」

「ああ、知っている。だが、俺はそれでも本当の自分を知りたい。例え組織を裏切ることになっても……俺は俺の過去を知る必要がある」

 メギツネは一瞬目を丸くしてから、アハハ! とおかしそうに笑った。何がおかしいんだと眉根を寄せると、メギツネは目元を指で拭い言った。

「本当の自分、ねえ……。ミツカイ君、貴方がそんな人間臭い事言うなんて思わなかった。私は貴方のこと、無慈悲で完璧な組織の道具だと思っていたのに……違ったのね。残念だわ」

 紫煙を吐きだして、メギツネは寂しそうな顔を作る。本当に、俺の事を完璧な道具だと思っていたとでも言うように。

「俺は組織の道具じゃない。ナルサワの作品でもない。俺は……」

「もういいわ。ナルサワ君には悪いけど、貴方にはもう利用価値がない事がハッキリとわかった」

 メギツネの言い放った言葉に、俺が言葉を返そうとした時だ。ぐにゃり、と視界が歪む。突如襲ってきた、脳みそが揺さぶられているような酷い目眩に俺は思わず体勢を崩す。紫煙が揺蕩い、目の前に座るメギツネの姿がうねり……人間の姿から変化した。俺の視界に、女の姿ではない狐の怪物の姿が映る。

「ちゃんと異種混入型の構成員にも効くなんて……流石ナルサワ君の作った銘柄だわ」

 頭の中に、メギツネの声がこだまする。俺は恐ろしい程の目眩を感じながらも、メギツネの姿を捉えようと必死になった。だが、俺の目の前にはメギツネの姿が重複して見えている。よろけながらも立ち上がりメギツネと距離を取ろうとするが、もはやメギツネと自分との距離感が掴めない。

「ごめんなさいね、さっきのは嘘……これは特別な煙草なのよ。まあ、言ってしまえば毒ガスみたいなものかしら? 私は平気だけれど、この煙草に耐性のない者は皆すぐに正気を保てなくなるわ。例え……同じ化け物の貴方でも」

 俺は無我夢中でメギツネのいる方向に拳を繰り出した。だが、当たった手ごたえはない。それでも、ひたすら拳を繰り出す。それがおかしいみたいに、メギツネの甲高い笑い声が脳みそを殴りつけるように響き渡る。

「無様ね、ミツカイ君。貴方は本当にナルサワ君の最高傑作だったはずなのに……。貴方は私に殺される。ホント、残念だわ」

 メギツネの声が近づく。だが、姿を掴むことが出来ない。 

 このままでは、メギツネに殺される。少しずつ、身体から力が抜け始めた頃だった。

「ミツカイ兄ちゃん!」

 バン! と大きな音を立てて、ドアが開く音がした。この声はと振り向く暇もなく、小さな影が部屋の中に飛び込んでくる。そして、何かを持った影が、客間に合った窓ガラスを叩き割った。ガシャンッと大きな音を立ててガラスが割れると、部屋の中に新鮮な風が勢いよく吹き込んでくる。

 風と共に、充満していた煙が外へと放出される。途端に息がしやすくなり、その場で大きく咳き込んだ。

「このクソガキ……ッ!」

 メギツネの怒りの声。声の方を見ると、メギツネがミナトの首を絞めていた。ミナトが苦しそうに顔を青くするのを見て、一気に頭に血が上る。ざわりと身体の奥から力が込み上げ、俺の身体を黒く染め上げた。

「やめろぉおおッ!」

 変化した俺は勢い良くメギツネに体当たりをすると、自分諸共窓の外へと押し出した。我残っていたガラスが、互いの身体をズタズタに傷つける。

「あぐっ……ッ!」

「ぐぅ……ッ!」

 俺とメギツネはそのまま地面に叩きつけられ、呻き声を上げる。ガラスの破片で怪我をしたのも気にせず、俺とメギツネはすぐに立ち上がった。

「死になさいッ!」

 メギツネは右足に装着していたクナイ数本を手に持つと、俺の方に向かって投げつける。俺はそれを素早く飛んで避け、投げられたクナイの一本を手に持つとメギツネに向かっていく。まだ少し煙を吸った後遺症か、上手く力が入らないながらも俺はメギツネの首元を狙った。

 制御装置が破壊されると構成員は体内に組み込まれた遺伝子物質が暴走し、その肉体を保てなくなる弱点がある。メギツネを行動不能にさせるには、首元の制御装置を破壊するしかない。だが、俺のそうした魂胆は既にわかっているようで、メギツネも一心不乱に抵抗する。

「私の首は、そう簡単には取らせないわよ……ッ!」

 俺の攻撃を受けながら、メギツネがニヤリと不敵に微笑んだ。コイツは何かをまだ隠している……そう感じた時、一瞬の隙をついてメギツネが後ろ手に宙返りをした。その一瞬、きらりと靴の先端が光ったのを見逃さなかった。

 咄嗟に身体を反らしたが、顔にビリっとした熱い感覚が走る。顔が切れたのだ。見ると、メギツネの靴の先端に尖った刃物が付いていた。

 再び距離を詰めてきたメギツネが、踊る様な華麗な足さばきで俺に食らいつく。攻撃の隙が無い。どうにかしてメギツネの隙をつかなければならない。そこで、一つの案を思いつく。

 俺はクナイをメギツネの顔の横スレスレにわざと投げつけ、力を一瞬だけ緩めて自らの隙を作った。メギツネがその力の緩みを見ていないわけがなく、ここぞといわんばかりに俺の首元に刃物を突き刺した。

「がぁ……ッ!」

 鋭い痛みが走り、俺はその場に跪き、仰向けに崩れ落ちた。突き刺された刃物によって息が出来なくなり、口元から黒々とした液体が込み上げ、溢れ出る。首元から刃物が引き抜かれると、吹き出た生ぬるい真っ黒な液体が地面や身体を汚した。

「……私の勝ちよ」

 地面に倒れ、ひゅーひゅーと喉を鳴らしているとメギツネが俺の手首の制御装置を足で踏みつける。このまま勢いをつけて手首を踏みつぶされれば、俺は肉体を保てなくなるだろう。

「さようなら、ミツカイ君」

 そう言って、メギツネが俺の制御装置を踏みつぶそうと片足を上げた時。俺はすぐ近くに落ちていたガラスの破片をメギツネの足首目がけて突き刺した。

「ぎゃッ!」

 メギツネが短い悲鳴を上げた。彼女がよろけたところで、俺は身体を無理矢理起こしてメギツネに覆い被さる。二人で倒れ込むと、暴れるメギツネを抑え込んで即座に首の制御装置に手を掛けた。

「や、やめッ……!」

 メギツネの言葉も聞かず、俺は力ずくで彼女の首元から制御装置を引き剥す。そして、一気に手の内で破壊した。

「イヤアァーーッ!!」

 メギツネが絶叫し、顔を手で覆う。苦しそうに身体をばたつかせる彼女の身体がみるみるうちに黒く腐食し、溶けだし、人型の原形を失っていく。最後には、ただのどろついた黒い液体になり果て、彼女はその姿を消してしまった。

 ……これが、俺達の最期だ。俺は破壊したメギツネの制御装置を手元から滑り落とす。カランと軽々しい音でそれは地面に落ちた。俺も、手首の制御装置を壊されればこうなるのだ。こんなもの一つで、俺達の命は左右される。俺達は、本当は人間よりも脆いものなのだ。

 ナルサワが言っていた。「君の居場所はここにしかない」と。それは、本当の事なのかもしれない。逃げた所で、俺は結局化け物のままでしか生きられない。

 だが……俺の過去を封じ、俺が俺であることを殺そうとする奴らに、死んでも居場所なんぞ見出すものか。俺は例え化け物でしかなかったとしても、俺の意志で生きる事を選びたい。

 俺は静かに立ち上がると、変化を解く。しばらくメギツネの死んだ痕跡を見つめてから、ミナトが無事だったかを確かめなければと顔を上げた。

「ミツカイ君!」

 俺が顔を上げたタイミングで、後ろから声がかかる。振り返ると、トウジが駆け寄ってくるのが見えた。振り返った俺の顔を見て、トウジの顔がみるみるうちに青ざめる。俺は今、かなり酷い見た目なのだろう。口や首元から黒い液体を零し、シャツも吹き出した体液の所為で真っ黒に汚れている。

「……み、なと……は」

 首の傷が癒えていないせいで、上手く喋れない。言葉を零す度に口から勝手に液体が零れ出てしまうのを鬱陶しく感じていると、トウジが青い顔のまま「ミ、ミナトなら無事だ」と俺に言う。少しだけ安心した気持ちになると身体からフッと力が抜け、よろけて倒れそうになった。

「だ、大丈夫か⁉ ミツカイ君ッ!」

 トウジが俺の身体を支えてくれる。俺は途切れ途切れに「す、まない……」と謝った。何の関係もないトウジやミナトを、危険に晒してしまった。これは、俺のミスだ。俺がもう少し早くこの家を離れていれば、こんな事にはならなかった筈だ。俺が悔やんでいると、俺の顔を見つめていたトウジが「……やっぱりそうなのか……」と呟いた。

「黒い血に、あの化け物……やっぱり、カミシロの言ってたことは……あの資料は本当だったのか……」

「カミ、シロ……?」

 俺が目を見開くと、トウジが「ああ」と深刻な顔で頷く。

「……俺の親友だった男……ミナトの父親の、カミシロがな……自分の親父が危ない研究をしてるって俺に相談してきたことがあったんだ。その証拠の資料も、アイツが死ぬ前に貰ってある。もしかしたら……君の過去に関係があるかもしれない」

 俺は食い入るようにトウジを見つめた。その資料をすぐに見せてくれ、そう言いたかったが、口から出たのは言葉ではなく真っ黒な液体だけ。その様子を見て、トウジが慌てて俺を引きずって家の方へと向かって行く。

「と、とにかく手当てが先だ! ミツカイ君、くたばんなよ!」

 トウジの励ましに俺はそれ以上喋るのを止め、ただ首を縦に振った。こんなところで、死ぬ訳にはいかない。真相を掴むまでは……絶対に。

 俺はトウジに支えられながら、地面をしっかりと踏みしめて歩き出した。


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