第2章「11:32」

 次に目が覚めると、見知らぬ木製の天井が視界いっぱいに広がった。俺はモトキと共に地上で死んだのではなかったのか。

 ゆっくりと起き上がり、陽の光が差し込む部屋の中を見渡す。アンティーク調の机と本棚が二つほど置かれた、何処となく生活感のある部屋。壁に掛けられた古びた時計は、十一時を指していた。こんな場所は知らない。多分、組織のアジトというわけでもない。

 それからすぐ自分の身体に目をやると、いつも着ていた紫のタートルネックではなく、真っ白いシャツを着ていた。シャツのボタンを外して、撃たれて抉られた肩の部分を確認する。傷口が、真っ白なガーゼで固定されていた。手や腕にもよく見れば包帯が巻いてある。誰かが、俺の傷の手当てをしたようだ。

 俺とモトキが地上に落ちた後、何が起こったのか。俺がこの状況を解き明かそうと考えていると、部屋の右手にあるドアが控えめな音を立てて開いた。

 視線をドアの方に集中させ身構えると、ドアからひょっこり顔を出したのは幼い少年だ。起き上がっている俺を見た途端、少年は驚いたように目を丸くした。バタン! と大きな音を立ててドアが閉まり、バタバタと忙しない足音が遠ざかっていく。

「おじさん! お兄ちゃんが目を覚ましたよ!」

 遠くでそんな声がした。おじさん、とは誰の事だろう。まさか組織の人間か?油断はできないと身を固くする。逃走経路は左手にある窓くらいか。窓から見える景色から推測すると、おそらくここは二階に相当する場所だろう。飛び降りれば難なく逃げられそうだ。身体の方も痛みや痺れはなく、ほぼ回復している状態。これなら、戦いになっても大丈夫だ。

 頭の中でここから逃げ出すシミュレーションをしていると、ドアの向こうから足音が近づいてくるのを察知した。間もなくして再びドアが開き、今度顔を出したのは少年ではなく五十代後半くらいの男だった。

「おお!目が覚めたのか。調子はどうだ?」

 部屋に入ってきた男は顔色を明るくすると俺に微笑む。俺は顔を強張らせたまま「……組織の人間か?」と尋ねた。男は不思議そうな顔で「組織?」と首を傾げる。誤魔化しているような顔ではなく、本当に分からないといった表情だ。

「お兄ちゃん、山の中の川で倒れていたんだよ」

 男の後ろから少年が顔を出して俺に言った。少年の言葉を補足するように男もまた言葉を続ける。

「ああ。俺とミナトで山登りをしていた時にな、山の川岸で君が倒れているのを見つけたんだ。生憎、山の麓の病院が休みだったからウチで応急処置だけさせてもらったんだが……もう起き上がれるのか? 随分な怪我をしていただろう」

「……俺の身体は問題ない」

 そう言って俺がベッドから下りようとすると、男が「こらこら、ちょっと待て!」と俺を慌ててベッドに戻す。俺が男を見ると、男は心配そうな表情を浮かべていた。

「怪我をしているんだから、まだ安静にしていた方が良い」

「傷はもう既に癒えている。それに、俺には……やらなくてはいけない事がある。だから休んでいる暇はない」

 俺は一刻も早く自分の過去についての手がかりを掴まなければいけない。いつ組織の奴らが迫ってくるかもわからない切迫した状況なのだ。こんな所で立ち止まっている訳にはいかない。

「お兄ちゃん無理しちゃだめだよ。きっとまた、怪我しちゃう」

「ミナトの言う通りだ。焦って動いたらまた怪我をしかねんぞ。それに……自分じゃわからんのだろうが、君は酷い顔をしている」

 酷い顔。そう言われて、自分の顔に触れた。男の言う、酷い顔とはどういうものなのだろうか。よくわからない。俺は一体、今どんな顔をしている? この作り物の顔は、どんな表情で男と少年に映っている?

「……今日だけでいいから、休んでいきなさい。ここは安全だ」

 無言で俯いた俺の肩を、男が優しく叩く。「安全」なんて言葉は、初めて言われたかもしれない。組織の理想追及のために、いつも危ない橋を渡ってきた。安全な場所などどこにもないままいつも過ごしてきた俺にとって、ずっと無縁だった言葉。それを聞いたとき、不思議と張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。男の言葉を、信じたい気持ちになった。

「じゃあ、俺は飯の準備をしてくる。あ、そういえば君、名前はなんていうんだ?」

「……ミツカイだ」

「ミツカイ、か。俺はトウジだ。そんであっちのちんちくりんはミナト」

「ちょっとおじさん! ちんちくりんって何さ!」

 トウジと名乗った男に、ミナトと呼ばれた少年がむくれる。トウジは「本当のことだろうが。」と豪快に笑って、ミナトの頭をくしゃくしゃと乱暴に撫でまわした。

「じゃあ、後は頼んだぞミナト。くれぐれも、失礼のないようにな」

 トウジはミナトの顔に笑いかけると、そのまま部屋を出て行った。部屋には俺とミナトが残され、俺が黙り込んでいるとミナトがこちらにぱたぱたと駆け寄ってきた。

「ねえねえ、ミツカイ兄ちゃんって、何してる人なの? どっから来たの?」

 ミナトが、キラキラと目を輝かせて俺を見つめる。純真無垢な瞳の輝きにやや圧倒されながら「……俺は……」と口を開きかけて、やめた。こんな少年に「自分は秘密結社で働く化け物だ」なんて話したって信じてはくれないだろう。それに、何処から来たのかは俺の方こそ知りたい問題なのだ。

「……わからない」

 言えたのはそれだけだった。俺には、結局今のところなにもわかっていない。ただカミシロという男が俺の過去に関わっているという手掛かりしか持ち合わせておらず、それ以外の事はまだ掴めていないまま。それがどうしたってもどかしく、早く真実を知りたいと気持ちが焦る。

「ミツカイ兄ちゃんは記憶喪失ってやつなの?なんか、漫画の主人公みたいだ」

「……漫画?」

「そう。僕の好きな漫画に出てくる正義のヒーローもね、最初は記憶がなくて……でも、仲間と一緒に色んな思い出を作って強くなるんだ! 僕、その漫画持ってるからあとでミツカイ兄ちゃんに貸してあげるよ!」

 ミナトは楽しそうにはしゃいで俺に言う。何も知らない無邪気な微笑みを見ていると、なんだか拍子抜けする。それと同時に、俺とミナトの間に流れる時間や感覚が全く違っている事を感じさせられた。きっと、ミナトはごく一般的な日常を送ってきたのだ。

 でも、俺は違う。俺は人殺しの道具だ。過去の記憶に興味を持つまでずっと何も考えず、感じず、淡々と人を攫い、殺してきた。きっと、俺はミナトやトウジのような平穏な日常を送る人間達と交わって良い存在ではない。

「ミツカイ兄ちゃん、どうしたの? 具合、悪くなってきた?」

 ミナトの心配そうな声を聞いて顔を上げる。不安そうな顔で俺の顔を覗き込むミナトの顔を見ていると、どうしてか「この少年を不安がらせてはいけない」という気分にさせられた。

「……俺は平気だ。それより、漫画とはなんだ?もっと詳しく話してくれ」

「ええ⁉ ミツカイ兄ちゃん、漫画のこと知らないの……?」

「読んだ記憶がない」

「あ、そっか。じゃあ僕が教えてあげる! あのね、漫画っていうのはね……」

 俺が説明を求めると、ミナトは意気揚々と話を始めた。漫画がどういうものなのかという話や、ミナトが好きだと言うヒーロー漫画の話など、ミナトの話は尽きない。

 だが、不思議と嫌な感じはなく、むしろもっと聞いてやりたい気持ちで俺はミナトの話を聞き続けた。

「ミナト、ミツカイ君、食事の用意が出来たぞ。……って、何をそんなに盛り上がってるんだ?」

 しばらくミナトの話を聞いていると、部屋のドアが開いてトウジが顔を出す。ミナトが「あ、おじさん!」と声を弾ませると、トウジがやれやれといった顔で溜息をついた。

「ミナト……お前、まぁた漫画の話でもしてたな?」

「だって、ミツカイ兄ちゃんが漫画読んだことないっていうんだもの」

「ミツカイ君は怪我人なんだぞ? ちょっとは加減しろよ、まったく。まあ、とにかく飯だ、飯。今日はカレーだぞ」

「カレー⁉ やったあ! 僕先に行ってるね!」

 ミナトはすこぶる嬉しそうな笑顔を作ると、一目散に部屋を出て行った。まるで嵐のような勢いにぽかんとしていると、トウジが申し訳なさそうに笑う。

「ほんと、元気な奴だろ? 騒がしくて悪いなミツカイ君」

「……別に構わない」

 俺が首を横に振ると、トウジがほっとした顔をしてから少しだけ真面目な顔をする。

「ミツカイ君。君、ご家族はいるのか。きっと君を心配しているから後で連絡だけでもした方が良い」

「……俺に家族はいない」

 組織の奴らは、家族と呼べるものではなかった。それに記憶を失っている今、俺に家族というものがいるのかどうかすらもわからない。だから、俺は「いない」と答える事しか出来なかった。

 俺の言葉に、トウジは少し悲しそうな顔をする。そして小さな声で「……君もか」と零した。その言葉の意味が分からずにトウジを見つめると、トウジは少し躊躇いながらも口を開く。 

「……ミナトもな、家族がいないんだ。アイツが小さい頃に、皆死んじまって。俺はな、身寄りのなくなったミナトを引き取っただけで、血は繋がってないんだ」

 トウジは神妙な面持ちのまま言葉を一度切り、それから「はあ」とため息をついた。

「俺も何とか頑張っちゃいるが、やっぱりミナトは寂しいみたいでな。だから君に甘えちまってるんだ。許してやってくれ」

 トウジの寂し気な笑みに、俺は「……ああ」とだけ答える。ミナトが気丈に振舞っているのは、寂しさの裏返しだったのかもしれない。そう思うと、あのはしゃぎぶりや人懐っこさにも納得がいった。ミナトも、俺のように人には分からない孤独を抱えているのだろう。それでも、明るく無邪気に笑っている。

「……俺は、ミナトのようにはなれない」

 俺がそう呟くと、トウジがきょとんとする。でもそれからすぐに、穏やかに微笑んだ。

「アイツみたいにならなくたっていいさ。君は君のままでいいんだよ、ミツカイ君。誰かに決められた君じゃない、君がなりたい君でいい」

 トウジの言葉が、頭の中に突き刺さる。誰かに決められた自分じゃない、俺がなりたい自分になる。それは、今の俺にとってとても重要な事な気がした。その為には、やはり自分が歩んできた道を辿る必要がある。組織に操られていた空っぽな自分ではなく、本来の自分を取り戻したい。一人決意を新たにして、俺はベッドを下りた。

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