第1章「19:45」
ナルサワの言葉をきっかけにして、俺は自分が何者なのかについて考えるようになった。俺はいつどこで生まれたんだ? ナルサワの言葉が本当ならば、元からこの身体ではなかったんだろう。なら、きっと「普通の人間だった頃の自分」が存在しているはずなのだ。
しかし、それに関することが何ひとつ思い出せない。それを酷く不気味に感じる。俺の「ミツカイ」という名前も本当の名前なのかすら怪しい気持ちになってきていた。
そもそも俺はどうしてこの組織に入った? 何故、俺はこの組織で人を攫っている? どうして組織の邪魔者を排除している?
今の今まで何も分からないまま、俺はただ無感情に任務を遂行してきた。だが今は違う。「過去」という一つの綻びから、疑念が次第に胸の中にどんどんと降り積もっていく。
「ミツカイ、最近何かあった?」
第二ラボにナルサワから頼まれていたデータを届けに行った時の事だ。ナルサワが、ふいに俺に問いかけてくる。今の俺には自分の中にある疑念を言葉にするほどの力がなく、ただ「……別に」とだけ言ってその場を去ろうとした。
「母さんが心配していたよ。君の様子がちょっとおかしいってさ」
ナルサワの言う「母さん」とは、KIΧのトップであるミテラの事だ。ミテラは世界中にいる構成員の一人一人を記憶……いや、監視していると聞いていたが、本当の事だったのか。
「俺はいつも通りだ。何も変わっていない」
「……そう? まあ、何かあったら言ってよ。僕達は友達なんだからさ」
友達。その言葉を聞いて、また一つ疑問が浮かぶ。ナルサワと俺はいつから一緒にいるのだろう。気づいたときには隣にいたナルサワというこの男の事を、俺は「KIΧの科学者」としてしか知らない。逆にナルサワは、俺の事を昔から知っているようだが。
「ナルサワ……」
俺がナルサワに疑問を投げかけようとした時だ。机に置かれた内部連絡用の電話が鳴り、ナルサワがすぐに受話器を耳に当てる。
「……ああ、うん。わかった。ミツカイに伝えとく」
ナルサワは短くそう言うと、すぐに電話を切った。電話を置くと、やれやれと肩をすくめてナルサワが俺に向き直る。
「仕事だよ、ミツカイ。ウチに関わってる科学者が逃げたってさ。まだそこまで遠くに行ってないはずだから、すぐに見つけられると思う」
「……そうか」
「ふふ……大丈夫だよ。君の話なら仕事が終わったら聞いてあげる。だから行っておいで」
ナルサワが俺の肩を軽く叩く。こいつは、俺の言いたいことが分かっているようだ。ならさっさと仕事を終わらせようと、俺は踵を返してラボを飛び出した。
それから合流した他の構成員と共に協力し、広大な施設の中を一つ一つ確認して回った。だが、科学者を見つける事は出来ない。もしかして、既に地上へと逃げ出してしまっているのではないかと考え始める。
俺は構成員に指示を出して地上へと向かわせ、俺はまだ探していない部屋があるかもしれないという理由で施設の中に残った。……なんて、それはただの口実だ。俺は自身の過去の手がかりが何処かにあるかもしれないという期待を抱いていたから施設の中に残ったのだ。逃げた科学者なんて、そのうち誰かがどうにでもするだろう。KIΧは、そんな生半可な組織ではない。裏切り者を徹底的に追い詰めて殺す。俺がわざわざ手を下す必要も、本当はない。それよりも今は、自分の事が知りたい気持ちの方が強かった。
「……そういえば、第六ラボは立ち入り禁止だったか」
施設の中を見て回っている途中、ふいに現れた部屋にはたと気が付く。迷路のような敷地内の中にひっそりと存在する、閉ざされた第六ラボ。今は物置になっているというその場所は、ナルサワが「絶対入らないで」と念を押してきた場所である。多分、構成員も立ち入ることを躊躇って入らなかったかもしれない。俺は仕事上仕方ないと言い訳して、第六ラボに入ることにした。
ラボは鍵がかかっておらず、やや錆び付いたドアを身体が通り抜けられるくらいまで開けることが出来た。俺は身体をスライドさせてラボの中に入ると、辺りを見回す。カビと薬品の混じった独特で強烈な匂いが部屋の中に充満していて、普通の人間だったら耐えられないだろうと感じた。
微かにドアの方から差し込む光を頼りにラボの中を歩いていくと、机の上には乱雑に散らばった資料やビーカーなどが転がって、まだ中に濁った薬品が入ったままのフラスコなども何個か存在していた。まるで、誰かが何らかの研究を途中まで行っていたかのようだ。何故、このような中途半端な状態で研究室が放棄されているのだろう。俺が不思議に思いながら、机に置かれた資料を読もうとした時、ふいに部屋の奥からガタリと何かが動く音がした。
「誰だ」
鋭い声と共に音が鳴った方向を睨みつける。ガタ、ガタと音がもう一度して、机の下からよろよろと何者か這い出てきた。
「……君は、ミツカイ君か」
ぼんやりとした光に照らされ、頬のこけた中年の男の姿が闇から浮かび上がる。男は汚れた白衣を着ていて、彼が逃げ出した科学者だとすぐにわかった。
「大人しく投降しろ」
「ああ、KIΧから逃げられない事なんて最初から知っている。だが……ミツカイ君。君は……君だけなら逃げられるはずだ」
「……いきなり何を言いだすんだ?」
科学者の言葉の意味が分からずに怪訝そうな顔を作ると、科学者はやつれた顔のままわなわなと唇を震わせた。
「私は、君の過去を知っている」
「俺の、過去?」
思わず目を見開くと、科学者は一つ頷いた。俺の過去を知っている? この科学者が? ずっと手がかりのなかったはずの俺の過去を知っている者がいるという衝撃に、俺は衝動的にずかずかと足早に科学者に近づき科学者の胸倉を掴んだ。
「教えろ。お前は何を知っている」
「……君の、全てだ。だが、教える前に……約束して欲しい事がある」
俺はまだ信じられない気持ちのまま科学者の顔をじっと見つめる。だが、科学者の顔は本気の顔をしていた。上手くごまかして逃げよう、という意思は感じられない。俺は短く「……何を約束すればいい?」と科学者に問いかけた。
「組織から……KIΧから脱退してくれ。それが条件だ」
「何故……?」
こいつは何を言いだすんだという顔で科学者を見つめると、男は酷く悲しげな顔で俺を見つめ、ぼそぼそと口を動かした。
「元々、彼は……カミシロ博士は、君を組織に入れるつもりはなかったんだ。ただ、君を……」
「おい、待て。カミシロ博士とは誰だ? そいつは俺の過去に関係があるのか?」
俺が更に科学者の男に詰め寄った時だ。突然、科学者がカッと目を見開く。そして大げさなほどにガタガタと身体を痙攣させ、その口からはみるみるうちに泡が溢れ始めた。
「なっ……どうした⁉」
俺が問いかけても、男は答えない。否、答えられないのだ。男の零れ出そうなほど見開かれた目がぐるりと反転し、あっという間に白目を剥く。その途端、男の身体かが力が抜け、一気に俺の腕に体重がのしかかる。男はそれ以上、ピクリとも動くこともなくなってしまった。
一体何が起きたのかと驚いたのも束の間、ふいに男の服の袖口から何かが滑り落ちたのを見逃さなかった。服の中から滑り落ちた、小さくて細長い紐のようなそれは、俺が捕まえる暇もなく素早い動きで床を這って逃げていく。薄暗くてよく見えなかったが、どうやら生き物のようである。俺がその姿を目で追っていくと、その生き物は入り口付近に立つ人物の足元に到達し、やがてするするとその人物の服の中に入っていった。
「ここには入ったらダメだって言ったじゃないか。ミツカイ」
ドアの前に立つ人物の声には、聞き覚えしかなかった。いや、もう既にそこにいるのが誰なのかはわかっていた。
「ナルサワ……」
「僕との約束を破るの何回目? ひどいじゃないか。いっつも、ミツカイは僕との約束を守ってくれないんだから。そろそろゼッコーだよ、ゼッコー。ま、そんなことしないけど。あはは」
ナルサワがいつもの調子で笑う。俺は男を抱えたまま、ナルサワを見つめていると、ナルサワが片手をこちらに差し出して言った。
「その死体は僕が貰うよ。ミツカイは戻っていいから」
「……こいつは俺の過去を知っていると言っていた」
「そんなの嘘だよ。ミツカイの事を知っているのは僕だけさ」
「なら、どうしてお前は俺の過去を話そうとしない? お前は何かを隠している。俺の過去に……何があった?」
ナルサワは、俺の問いかけに黙り込んだ。苛立った俺が、「答えろ」と声を荒げても、ナルサワは何も言わない。俺は男の死体を床に置くと、ナルサワの方へ歩いていく。ナルサワの目の前に立ち、俺はナルサワの両肩を掴んだ。
「ナルサワ、頼むから……教えてくれ。俺は一体、誰なんだ……」
それは問いかけというよりかは、懇願に近かった。俺は、自分が何者かをどうしたって知りたいのだ。胸の奥底から沸き起こり続ける疑問と違和感を、自分の過去を知ることで払拭したい。ただそれだけだった。
「……どうやら、教育がもう一度必要らしいね」
ナルサワが、ぼそりと呟く。教育? そう聞き返そうとした時、足元に鋭い痛みが走った。何事かと足元を見る暇もなく、身体が強烈な痺れに支配されてその場に膝をついてしまう。身体中から汗が滲み始め、床に水滴がポタリと落ちた。
「あーあ……こんなこと、ほんとはしたくなかったよ。僕の大事な
膝をつく俺の顔を覗き込むようにして、ナルサワが膝を抱えて屈んだ。きっとこの身体の異常は、ナルサワが仕掛けてきたものであることはまず間違いがなかった。このままではまずい。逃げなければ……。俺は身体に力を入れて、何とかよろよろと立ち上がる。
「へえ、これでもまだ立てるのか。君の身体能力には毎回驚かされるなあ。やっぱりミツカイはすごいや」
ナルサワの嬉しそうな声を無視して、俺は思うように動かない身体を引きずって歩き出した。第六ラボを抜け出しても、ナルサワは何故か追いかけてこない。きっと、俺を追う必要がないと判断したのだろう。
「何処に行ったって無駄だよ、ミツカイ。君の居場所はここにしかないんだから」
ナルサワの声が後ろ手から聞こえた。俺はそれも無視して、施設の出口を目指すことにした。
幸い、構成員には俺が地上に出ろと指示を出してあるおかげで、施設の中で捕まることはなかった。だが、問題は地上に出た後だ。地上には先ほども言ったように、まだ科学者を探している構成員が何人もいるはずだ。きっともう既に、ナルサワが次の捕縛者として俺を指定しているに違いない。次のターゲットは、俺だ。構成員達の攻撃を潜り抜けられるかは、俺の気力にかかっていた。
捕まれば、きっと俺は間違いなく組織の洗脳……あるいは拷問を受けるに違いない。再び記憶を消され、組織の完璧な道具となるように教育され直すだろう。もしかしたら、その方が俺の為になるのかもしれない。だが、それで本当に良いとはどうしても思えなかった。過去へのどうしようもない探求心を、俺は忘れたくなかった。初めて感じたこの感情を、無下にしたくないと思っている自分がいる。だから、絶対に捕まる訳にはいかない。
必死の思いで迷路のように入り組んだ施設内を抜け、何とか辿り着いたエレベーターを使って地上へと抜け出る。地上に出てすぐ、鬱蒼とした森が視界に広がった。森の中から微かに見える空は濃紺、無数の星が散らばり夜を告げている。闇に紛れ、逃げ切る事が出来るかもしれないと期待を抱いた。あともう少し身体の痺れがなくなれば、変化する事も出来そうだ。最後まで足掻かなければと力を振り絞り、森の中を歩き出した時だった。
「何処に行こうってんですか、ミツカイの兄さん」
ハッとして、振り返る。そこには、黒の戦闘服を身にまとった構成員達がずらりと横一列に並んでいた。先頭には、他の構成員とは違う姿をした人物が立っている。その姿には見覚えがあった。
「……モトキか」
モトキ。KIΧの構成員であり、俺と同じ数少ない異種混入型の構成員。ネズミと人間の混合種で、暗殺や潜入捜査などを担当している男だ。モトキは、先ほど死んでしまった科学者を一緒に探していた仲間の一人だった。だが、今は違う。
「ミツカイの兄さん。アンタがターゲットになる日が来るなんて思いもしなかったッスよ。俺ぁ残念で仕方ねえ」
すでに変化した状態のモトキは、手に持っていた拳銃を俺に向けた。モトキと俺の間には距離があるが、十分狙いを定めれば当たる。いつもだったら避けられるものだが、ナルサワの力で麻痺したこんな身体だ。避けられるかわからない。
「大人しく降伏してくださいよ。俺にも情はあるんでね、アンタを撃つのは流石に気が引ける」
「俺は降伏しない」
「……じゃあ、仕方ねぇな」
モトキは躊躇いなく俺に発砲した。放たれた弾丸は俺の肩に命中し、一気に身体中の血が沸騰するような激痛が走る。
「今頃、ナルサワの兄ィが泣いてますよ。アンタの不義理の所為でね」
モトキが俺に近づいてくる。このままでは捕まってしまう。しかし、先ほどの身体の痺れが激痛によって上書きされたのをきっかけに身体の感覚が変わった。今なら変化が出来る。身体に目いっぱい力を入れると、腕についた制御装置が淡く光り出す。
身体が黒く柔い鎧によって覆われ、俺は自分が漆黒の怪物へと変化したことを確信した。
「チッ、変化しちまったか」
モトキが恨めしそうな声を漏らすとともに再び銃口をこちらに向けた。俺は素早くモトキと距離を詰め、銃身を手で掴む。それでも諦めずに発砲したモトキの銃弾が逸れ、大きな発砲音と共に頬を掠めて飛び立った。モトキはそのまま銃を手放すと俺から距離を取る。
「お前ら、第二プランに変更だ。何が何でも取り押さえろよッ!」
モトキの声と共に、何人もの構成員達が俺の方に向かってくる。俺やモトキのように変化こそしてないが、暗殺や特殊な任務をこなすために改造された構成員達である。素人とは違った柔軟な動きで、次々と俺に襲い掛かってくる。傷さえ負っていなければなんてことはなかったものの、肩の痛みで動きが鈍る。それを見逃さなかった構成員が、怪我をした俺の肩に持っていたナイフを突き刺した。
「ぐ、ぁあ……っ!」
肉を抉る様にナイフを突き動かされ思わず呻く。その一瞬の隙をついて、構成員達が俺の身体を拘束した。身動きの取れない状態になると、モトキが俺に近づいてくる。
「まさに手負いの獣ッスねえ、ミツカイの兄さん。まだ、降伏しねーんですか?」
「……しない」
肩で息をする俺を見て、モトキは楽し気に笑った。
「ヒャハハハッ。いやあ、殴り殺し甲斐があるっつーもんですよ。俺、ずっとアンタが嫌いだったんスよね。そのスカした態度が気に食わなかったんだ。だからアンタを殺して良い理由が出来て俺は万々歳ッスわ。ナルサワの兄ィには悪いけど……よっ!!」
モトキは手元にはめたメリケンサックで、勢いよく俺の顔を殴りつけた。口内が切れ、口の端から黒い血が伝う。頬にじわじわと広がる痛みに耐える暇もなく次の打撃が来る。
一発、二発、三発。顔や身体への容赦のない攻撃に、意識を飛ばしそうになりながら膝を折る。それでも、俺は機会を窺っていた。
「まだ死なんで下さいよ。つまんねえからさ」
そう言ってモトキが拳を振り下ろそうとした瞬間。俺は背中の翼を一気に広げると、構成員とモトキを翼で蹴散らした。
「ま、まだそんな力が……ッ!」
「う、おおおッ……!」
俺の力に怯んだモトキに掴みかかり、俺は力を振り絞って上空へと急速に飛び上がる。森がどんどん遠ざかり、夜空が近づく。
「離せっ!」
暴れるモトキと共に上空で揉み合いになりながら、それでも高く飛ぶ。ある程度の高さまで到達した時、今だ! と思った。瞬間、俺はモトキの身体をがっちりと掴むと今度は一気に森の中へと急降下していく。
「ま、まさかこのまま……ッ!」
俺の攻撃意図に気づいたのか、モトキがヒュッと喉を鳴らす。だがもう遅い。落下は既に始まっているのだ。俺は躊躇うことなく地上へ向かって落ちていく。このまま地上に激突すれば俺もモトキも命はないだろう。だが、今はもうこれしか方法がない。
俺は覚悟を決めて、彗星のごとき速さで地面へと落下した。
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