第2話 前世への思い

 氷室はオルゴールを置いて、目を開くと、ニッコリと微笑んで、その視線を私に浴びせてきた。そして、視線を感じた私もニッコリと微笑んで、視線を合わせることがこの場所で一番安息な気分になれるのだということを感じていた。

――私は何かに怯えているのかしら?

 怯えているというよりも気味の悪さをずっと感じていたように思う。

「先輩は、気に入った人形があったんですか?」

 と聞いてきたので、

「気に入った人形ではなく、気になった人形があったという方が正解なのかも知れないわね」

 と答えた。

「それは、過去にあったことの思い出に関わるようなことなんですか?」

 とあらためて聞かれると、

「それが分からないんですよ。何か記憶の奥に共鳴するようなものがあるような気もするし、それがいつのことなのか、その時の私がどんな心境だったのか、まったく思え出せないんです。そう思うと、過去にあったことではないようにも思えるんです。まさか未来に起こることを予知しているわけでもないでしょうにね」

 と言って、苦笑いを浮かべた。

 その表情を見た氷室は、その日一番の真剣な表情になり、私を見つめた。少しビックリした私は、

「どうしたの?」

 と、恐る恐る聞いてみた。

「あ、いえ、中田さんが突拍子もないことを口にするからですよ」

 と言って、半分顔が引きつっているようにも見えた。

「そんな大げさな」

 と私は言ったが、その時は確かにサラリと流してくれればいいことだったのに、表情を変えるほど相手を真剣に考えさせることだったなどと、想像もしていなかった。

 彼はそれでもすぐに表情を戻すと、

「未来のことが、分かるんですか?」

 冗談のつもりを彼は真剣に受け取っていたのだと改めて分かると、

「いえいえ、冗談ですよ。そんなことが分かるはずないじゃないですか」

「そうですね。確かに未来のことを分かる人がいるとしても、まさかこんなに身近にいるなんてありえませんよね」

 と言っていたが、まだ何かを考えているようだ。

「未来のことが分かるという小説やドラマを今まで結構見てきたつもりだったんですが、どうしても嘘くさいというイメージで見てきていますからね。あくまでも小説やドラマの世界としてですね」

「でも、ごく身近な未来であれば、予想することは可能ですよね。例えばその日の夕方のことなど、計画していたことを実行していれば、おのずと見えてきますからね」

「確かに、それは未来のことではありますが、『未来のことが分かる』というのとは若干違っているように思うんですよ。予測から予想するというのは分かるわけではなく、理論から解明するものですよね。分かるというのは、予想していなかったことを知っているということであり、予知のことなんじゃないかって思うんですよ」

 と私がいうと、

「まさしくその通りです。でも、そうなると、本当に予知できたとしても、それは完全に限定的なことだけであって、事実として起こることのただ一つのことでしかないような気がするんですよ」

「どういうことですか?」

「今言われた予想のように、順序立てて時系列に沿う形で想像するものですよね。でも予知の場合は、順序も時系列も関係ない。未来の一つの出来事を予知することになるのだから、想像できることではないんです。だから余計に予知能力は、一種の超能力のように思われるんでしょうね」

 と彼は言った。

「予知能力って、超能力ではないんですか?」

 私は漠然と超能力の一種だと思っていたので、ここは素直に驚いたが、その様子を見て彼は驚いたようだった。私の言葉がかなり意外に感じられたのであろう。

「超能力ではないですよ。予知できるのは一人ではないということです。誰であっても時期が来るからなのか、それとも何かの条件が揃うからなのか、予知ができる瞬間というのがあるようなんですよ」

「それは、誰もが持っているということですか?」

「持っているという言い方は語弊を感じますが、それは違いますね。タイミングが合えば確かに誰でも予知はできると思うのですが、中には予知できたことをただの夢の延長のように思うだけで、自分で気づかないままの人もいます。そんな人はすぐに予知したことを忘れてしまうので、結局、予知できたとしても、予知していないのと同じことになるわけです」

「なるほどですね。じゃあ、予知能力の予知という表現もおかしいわけですね?」

「それは違います。実は本当に未来のことが分かる予知能力を持っていると思われる人も存在していると思いますよ。いわゆる預言者のような人ですね。彼らは自分でも意識していて、それを能力だと思っていました。しかも、それを神から与えられたものとして、その力を使うことを義務のように感じているのでしょう。だから、預言者として君臨している。預言者には預言者たる意味があるわけです」

「予知能力を持っている人は、それほどいるんでしょうかね?」

「それは分かりませんね。時代時代で存在しているのかも知れませんし、そうなれば、表に出ないだけで、今の時代でも、世界のどこかに何人かいるのかも知れませんね。ただ、それが持って生まれたものなのか、それともある日突然身につくものなのか、それは疑問です」

 私は意外だった。

「えっ、ある日突然などということがあるんですか? まるで急に何かに覚醒したかのようですよね」

「覚醒……。そうですね、覚醒という言葉が一番ふさわしいのかも知れませんね」

 そう言って、また少し彼は考え込んでしまった。

「喫茶ルームに戻りましょうか?」

 そう言って私は助け船を出した。

「ええ、そうしましょう」

 一も二もなく彼も賛成した。二人はゆっくりと喫茶ルームに戻ると、テーブルの上にあった飲みかけのコーヒーを口にした。コーヒーはすっかりと冷え切っていて、ここを離れてから、結構時間が経っていることを示していた。

「実は僕、何となくですが、前世の記憶のようなものがあるようなんです」

 と、またしても不思議なことを言いだした。

「えっ、前世ですか?」

「ええ、あれはきっと前世だと思うんです。思い出すと言ってもごく短い期間なので、夢を思い出したんじゃないかって思ったんですが、夢に見たことを思い出したのとでは、どこかが違っているんですよ」

「というと?」

「夢で見たものを思い出す時というのは、最初に思い出してから少しの間、だんだん思い出していって、あるピークから後はまた忘れていくんです。そのピークが何であったのかは、想像している間分かっているんですが、覚めてくると、そのピークを忘れていき、ピークがあったことすら、我に返ると忘れてしまっています」

「それが夢の世界のことですか?」

「ええ、そうです。でも前世のことを思い出そうとすると、一気に自分がその世界に入り込んでいるのが分かるんですが、それは一瞬のことで、気が付けば、すぐに忘れてしまっています。この時、前世のことを思い出したという意識はハッキリ残っていて、夢の世界のピークのことのように、忘れてしまうということはないんです。もっとも一瞬のことなので、覚えていないだけなのかも知れないんですけどね」

「そうなんですね。でも、前世のことを思い出している時は一瞬だと言っていましたけど、それって夢の世界と同じじゃないんですか?」

 と聞いた。

「同じというと?」

 彼は分かっていないようだ。

「夢というのは、どんなに長い夢であっても、目が覚める寸前の一瞬に見ると聞いたことがあります。だから、夢というのが時系列で覚えていなかったり、時間の感覚がないものだと思い込んでいたりするんじゃないでしょうか」

 氷室は、自分が感じていることをすべて夢だとは思っていない。そう思うと、自分も彼と同じ感覚になってもいいのではないかと思っていた。

 氷室は、夢というものがどういうものなのか、自分なりに理解しているようだった。その話を聞いて私も、

――同じようなことをいつも考えているような気がする――

 と感じた。

 自分の中では、そう思っているのは自分だけであって、他の人とは違うものだと思っていた。それは私の性格の一つで、

――人と同じでは嫌だ――

 という思いから来ていた。

 両親と一緒にいる時は特に感じていて、親と一緒に見られるのが嫌で、何よりもそれを自分で認めたくないという思いが強かった。

 何といっても、相手は親である。血の繋がりというものがある以上、いくら違うと言っても、誰が信じてくれるだろう。少しでも親と同じような素振りを見せれば、

「そら、やっぱり親子じゃないか」

 と言われ、ほんの少しだけ垣間見られた共通性を、すべて一緒だと思われるのは心外であった。

 そう思われることが、一番嫌だと言っても過言ではないだろう。それだからこそ、自分は親に限らず、他の人とは違うと感じていたい。これはまわりの人に対しても同じことだが、それ以上に、自分に信じ込ませたかった。いわゆる、

――自己暗示――

 というものである。

 私は自己暗示には掛かりやすいものだと思っている。自分は人と同じでは嫌だと思っていながら、気がつけば人の言っていることを信じてしまっていることがある。無意識のことなので、気がつくのが早ければ、すぐにあらためるのだが、遅い時には人から指摘されるという失態を演じてしまうこともある。

 しかし、遅かれ早かれ同じことだった。先に自分が気づいても、その恥ずかしさや自己責任への思いは、自分を苛める感覚に陥ってしまい、自己嫌悪が長引けば、躁鬱症になってしまうこともあった。

 知っている人もいるかも知れないが、私は中学時代から躁鬱症の気があった。誰にも言わずに一人で抱え込んでいたが、その思いを支えていたのは、

――自分は人とは違う――

 という思いだった。

 人と同じだと思うと、欝状態の時などに、抜けることのできない底なし沼に足を突っ込んでしまいそうになる。

――躁鬱症は、誰もが陥ってしまうものだ――

 という意識があるので、躁鬱症に入り込んだ時に誰もが苦しむ欝状態でも、自分だけが違うと思うとすれば、その時に、

――他の人ほど苦しまずに抜けることができる――

 と考えていた。

 冷静に考えると、この考えは「負の連鎖」に結びついてくるものなのかも知れない。自分の普通の状態からマイナス思考に入り込み、減算法で自分を正当化しているように感じるからだ。実際にはそうではないのかも知れないが、我に返った時、「負の連鎖」を思い出してしまう。

 ただ、考えてみれば、欝状態自体が「負の連鎖」ではないだろうか。そう思うと、いくら正当化しようとしても「負の連鎖」から逃れることができないのであれば、私は完全に「負の連鎖」の、思うつぼである。

 その時に思うのは、

――やっぱり、両親との血の繋がりからは逃れることができないんだわ――

 と感じることだった。

 そう思うと一つの言葉が頭をよぎる。

「因果応報とは、このことを言うんだわ」

 と自分に言い聞かせ、ため息をつきながら、自分には、逃れることができない輪廻の上に生きているということを思い知らされる結果になった。

 その思いは欝状態の時に感じさせられる。

 欝状態に入ると、

――考えれば考えるほど深みに嵌ってしまう――

 と、本当に底なし沼を想像させられるが、底なし沼を想像した時点で、もう自分は終わりなのだと思わされてしまった。

 そう思うと、うつ状態に入り込んだ時、たまに感じるのは、

――私の前世ってどんな人生だったんだろう?

 という思いだった。

 前世ということに関して、今までに何とか考えたことがあった。

 最初に考えたのは小学生の頃だった。あの時はテレビで見たアニメの中で出てきた前世という言葉、初めて聞いた言葉に疑問を感じていた。

 誰かに聞けばよかったのだろうが、まさか両親に聞くなどありえなかった。

 小学生なので、友達に聞いても、果たして納得のいく、そして何といっても正解を示してくれるかどうか分からない。それでも友達に聞くしかなく聞いてみたが、友達からもハッキリとした答えを得ることはできなかった。

 それよりも、

「どうして中田さんは、そんなおかしなことに疑問を持つの?」

 と、少し変わった子供のように見られてしまった。

 しかも、その友達が自分の母親に前世のことを聞いたものだから、話がややこしくなってきた。

 友達の母親も子供に聞かれて困惑していた。もし、今自分が近所の子供に聞かれたとして、何と答えていいのか分からない。自分自身が漠然としてしか感じていないことを、理解していない、しかも、理解できるのか分からない子供相手に説明しろと言われてもできるはずはないだろう。

 友達の母親は困惑してしまったことで、

「そんなの子供のあんたが知らなくてもいいの」

 と、けんもほろろだったようだ。

 友達は、母親から怒られたと思ったのだろう。煩わしいことを聞いて、面倒がられてしまった。友達は、

――僕が悪いんだ――

 と母親に対しては感じたことだろう。

 しかし、自分に対しては納得がいかない。

――僕がこんな嫌な思いをしなければいけないのは、最初に質問してきたあいつのせいだ――

 ということで、恨みは私に戻ってくる。

 元々無理な質問だったのを、押し通してしまったことでこんなことになってしまった。友達も災難だったに違いない。

 しかし、そのせいで、友達と険悪なムードになってしまった。その頃から私のことを、

「あいつは、変わったやつだ」

 とウワサになってしまい、自分の立場がクラスの中で泣くなってしまっていたことに気づかされた。

 子供がまわりと気まずくなる時というのは、こういう些細なことからなのかも知れない。自分たち一人一人はなかなかその時分からないが、後から考えると分かってくるというものだ。

 その時は、まず自分の立場から考える。まわりを見るのには扇型に目の前が見えている。まるでレーダーを見ているようではないか。レーダーというものは索敵の兵器であるが、そこにはどうしても避けることのできない死角が存在している。

 死角というものを意識していないと、すべてが見えていると錯覚してしまい、一つ何かきっかけになることが見えただけで、そこからの想像力が、見えているという錯覚に繋がるのだが、それを、

――レーダーでの索敵だ――

 というように感じるのであれば、それは錯覚でしかないのだ。

 だから、友達が母親から受けた思いを。こちらにぶつけているのだということを理解していないまま付き合おうとすると、結局関係を修復することができず、喧嘩別れのようになってしまう。

 そうなると、仲直りはできないだろう。なぜなら、その時に一番辛い思いをしたのが友達だということを私の立場からも、母親の立場からも分かっていなければ、両方向にしこりを残したまま、その友達は頑なになってしまうことだろう。そうなると、仲直りなどできるはずもなく、近づこうとすればするほど、しこりは硬くなっていくに違いない。

 私はその時、最初に質問した「前世」への思いが少し分かったような気がした。

――何と皮肉なことなんだ――

 と私は感じたが、それは、友達が間に挟まって辛い思いをしたということに気づけるかどうかで、前世への感情は変わっていくのだ。

 前世についてその次に考えたのは、中学に入ってのことだった。その頃には小学生の時の友達とのしこりはなくなっていたが、その代わり、私自身、人との関わりを遮断するようになっていたのだ。

――それもこれも、すべては両親のせいなんだ――

 という思いを抱いた中学時代、成長していく中で、

――大人になんかなりたくない――

 という思いを馳せていた。

 大人になるということは、子供の頃に感じた思いがリセットされ、親になった途端、子供の頃のことなどまったく忘れてしまっていて、

――自分も両親と同じになるのではないか――

 と思うからだった。

 つまり、大人になるというのは、私は子供を持った時だと思っている。本当であれば、

「自分の子供にだけは、自分と同じ思いをさせたくない」

 と思い続ければいいのだろうが、私にはできない気がした。

 それは私に限ったことではなく、他の人にとっても同じこと。

――誰もが親になった瞬間、子供ではなくなるのだ――

 と、ずっと思っていたのだ。

 中学時代に感じた前世というのは、

――前世は絶対に人間だったんだ――

 という思いだった。

――人間は人間にしか生まれ変われない――

 という思いがあって、高校時代まではそう信じていた。

 人間が人間にしか生まれ変われないということは、ある意味、束縛にも似ていて、

――人は生まれることも、死ぬことも自分で選んではいけないんだ――

 と感じた。

 これは、テレビでも同じセリフを見た気がしたのだが、この思いはどこかの宗教の勧誘の人からも聞いた言葉だった。

 話がどんなに説得力のあるものであっても、優先順位としてそこに宗教団体が絡んでくれば納得するわけにはいかないと思っていた。その思いがあったことから、高校生になってもう一度前世を考え直した時、

――自分の前世は人間だったとは限らない。人間だから人間に生まれ変わるというのは、束縛した考え方なんだわ――

 と考えるようになっていた。

 中学時代までは、前世に対して漠然とした考え方を持っていたが、高校に入り、少し変わってきた。

――自分の前世が人間ではないのではないか?

 と思うことで、前世というものへの意識が変わってきた。

 ある時、夢の中で自分が道端の石ころ、つまりは路傍の石になっているのに気づいた。すぐに目が覚めたが、その時の夢は、しばらく忘れることができなかった。

――こんなに長く夢を忘れることができなかったなんて――

 と、感じたのだ。

 夢というのは、目が覚める間に忘れるものだと思っていた。そして覚えている夢というのは、怖い夢に限るのだというのも、夢に対しての意識だった。しかし、この時は怖い夢を見たという意識はなかったのに、なぜ覚えていたのか、自分でも不思議だった。

 私は、なかなか忘れることができなかったことで、それが前世だと気づいた。

――夢の中で前世を見るなんて――

 と、感じたのだが、それも少しおかしな感覚になっていた。

 さらに私は深く考えてみた。

――前世で、今の夢を見たのではないか?

 と感じたのだ。

 人間ではない私が夢を見たというのは、本当は夢ではなく、石ころのような動かないものにも意識があり、ある一定の期間、あるいは時期を過ごすと、石も前世と別れることになる。

 その時、次の世界で人間になるとして、意識は持ったまま人間になり、ただ、その意識は決して開けることのできない「パンドラの匣」として封印されているのかも知れない。

――その「パンドラの匣」を私は開けてしまったということなのかしら?

 という疑問を持つ。

 しかし、あるキーワードを感じることでその「パンドラの匣」は開くのだとすれば、やはり私は、他の人とは違うという発想を持っていてもいいのではないかと感じるのだった。

 現世で私は人間になっているので、何かを考えることができると思っている。だから、前世も後世も、自分は人間でい続けると思うのだ。

 だが、人間以外でも、何かを考えることができるとすればどうだろう? 犬やネコのようなペットであっても、豚や牛のような家畜であっても、考えることができるのかも知れない。

 いや、路傍の石であっても、何も考えていないと誰が言えるというのだろう。言葉が通じないから、あるいは、何も言葉を発することができないからと言って、何も考えていないと思ってもいいのだろうか?

 もちろん、人間と同じ考えであるわけはないだろう。しかし、それでも、輪廻のように存在がこの世から消えて、来世に生まれ変わり、さらに来世が待っているという状態であれば、どこかで人間であることも考えられる。その時に考えるということを覚えていたのだとすれば、いくら石になってしまったとはいえ、考えることのできないとはいえないだろう。

 私が路傍の石の時に夢を見たと感じたのは、錯覚ではなく、本当のことだったのかも知れない。路傍の石だった時の記憶は、決して思い出したくないものであり、人間以外記憶も思い出したくない。

 いや、人間だった時があったとしても、それが本当に幸福だったと言えるだろうか。人間には歴史があり、過去の歴史で今のような平和な時代など、どれほどあったというのだろう。

――そういう意味では歴史を勉強するというのは、いろいろな意味で大切なことだと言える――

 という思いを抱くようになっていた。

 ただ、現世を生きる上で、前世を信じている人がどれほどいるだろう?

 人によっては信じているが、口にするとバカにされてしまうと思い、考えていることを封印している人もいることだろう。

 私もそうだった。

 前世などという言葉を人に話すと何を言われるか分からないという思いはあったが、そもそも私には、人と関わることを嫌だと思っている考えがある。人に話すことなどないはずなのだ。

 ただ、絶えず自分に問いかけているような気がした。

 時々、何も考えていないと思っている時があるが、急に我に返って、

――今、何をしていたんだろう?

 と思うことがある。

 何かを考えていたという意識はあるのだが、そんな時に考えていたことを思い出したいとは思わなかった。

――どうせ、ロクなことではないんだわ――

 と考えているからだ。

 私は、氷室の口から出てきた「前世」という言葉だけで、ここまでの発想が頭に浮かんできた。氷室は、前世の記憶があるような気がすると言ったが、それはどんな記憶だというのだろう。

 私も確かに、彼のように前世の記憶という言葉を意識すれば、

――これって前世の記憶なんじゃないかしら?

 と感じることも少なからず存在しているような気がする。

 しかし、存在しているからと言って、すぐに言葉にできるかと言えば、それは難しいことだった。一人の世界に入り込み、考えることができる時だけ、前世を想像することができる。

 しかも、それが本当に自分の記憶なのかどうか、ハッキリとは分からない。

「記憶なんだ」

 と言われれば、そんな気にもなるし、

「記憶じゃないんだ」

 と言われれば、それを言い返すだけの材料が私にはなかった。

 しかし、一旦、

――前世の記憶だ――

 と思えば、その感情を貫いてしまう。基本的に、一旦思い込んでしまったら、自分が納得できるまで、その思いを覆すことは自分からできないのであった。

「前世の記憶があるって一体?」

 と、氷室に聞いてみた。

「それは先輩も似たような気持ちを持っているように思うんですが、もちろん、いつの時であっても、覚えているというわけではないんです。何かのきっかけがあって思い出せそうな気がするのであり、しかも、一度思い出しかけたことであっても、途中で少しでも戸惑ってしまうと、それまで思い出したことすら、忘れてしまうんです。だから、思い出せそうだったという意識だけが残って、まるで夢の中で考えていたことを時間が経っておぼろげに思い出したような、そんなおかしな気分になるんです」

 と、彼がいうと、

「それなら、思い出したことを意識しないようにすればいいんじゃないですか?」

 と、私はわざと簡単に答えた。

「そんなに簡単なことではないと思うんです。一旦意識してしまったことは、忘れてしまったとしても、頭のどこかに残っているんですよ。それが近い将来必ず顔を出すと分かっているので、その時のために、自分なりに覚悟のようなものが必要になります。これって結構エネルギーを必要とするんですよ」

「エネルギー……。確かにそうですね。でも、それはエネルギーなんでしょうか? ストレスというマイナスのエネルギーなのかも知れませんよ」

「そうですね。確かにストレスかも知れませんけど、思い出しかけて中途半端に終わってしまう方が、私にはストレスを溜める大きな要因だって思うんです。だから、一度思い出したことは、忘れないようにするために、自分の覚悟を持っていなければいけないんですよ」

「氷室君は、それで前世の記憶をどこまで覚えているの?」

「本当に何となくなんです。記憶というのは、時間が経てば経つほど、薄れていくものなんでしょうけど、前世の記憶というのは、薄れていくことはないんです」

「どういうことですか?」

「普通の記憶は、忘れるためにあるようなものだって僕は思うんです。つまり、頭の中とは敵のような状態です。その時、毛嫌いしているのは自分の頭の方で、本人の意識は、忘れたくないと思っていても、頭の中では反対のことを考えている。でも、前世の記憶は逆なんです。自分の頭は忘れたくないと思っているんですが、記憶の方が、自分から遠ざかっていく。何しろ、記憶した相手とは違う相手に記憶されているわけですから、前世の記憶からすれば、迷惑千万ですよね。だから、何とか僕は前世の記憶に、自分の意識を少しでも近づけようと考えているんです」

「それって、普通の記憶は、意識の方が記憶を遠ざけているんだけど、前世の場合は、記憶の方が、意識を遠ざけていると考えているわけですね」

「ええ、その通りです。だから、同じ記憶だと言っても、種類はまったく違う。でも、前世の記憶は意識を遠ざけようとする中で、その方法を、前世の記憶を普通の記憶にまぎれさせることで、隠そうとしているんですよ。つまりは、隠すわけではなく、紛れ込ませるという考えですね」

「木を隠すには森の中ということわざですね」

「ええ、その通りです」

「あなたはそこまで分かっているのであれば、前世の記憶にたどり着けることもできるんじゃないですか?」

「僕はそう思っています。でも、なかなか難しいところなんですよね。ひょっとすると、前世の記憶にたどり着くことは、自分の運命を決定付けることになるかも知れない」

 と、彼は言ったが、

「どういうことですか?」

 私は、何となく胸騒ぎを覚え、背中に汗が滲んだような気がした。顔が紅潮し、ハッキリと何かを感じたような気がしたが、身体の中に一瞬流れた電流にショックを覚え、彼が次に言う言葉を予想することができた。

「僕がもし、前世の記憶にたどり着くことができれば、僕の現世での人生は終わってしまうような気がするんだ」

――やっぱり――

 私の想像したとおりだった。

「私も今、あなたがそう言うだろうという想像はつきました。でも、それってあなただけのことなんでしょうか?」

 というと、彼はニヤッと笑ったかと思うとすぐに真顔に戻り、

「まさしくその通りです。僕はこの考えは誰にでも言えることであり、例外のないことだって思っているんですよ」

「つまりは、人が寿命であれ、事故や病気であれ、この世から魂が消えてしまうことになるその寸前に、誰もが前世の記憶を意識の中に取り込もうとして、最初で最後の取り込みが成功すると考えているんですね?」

「ええ、そうです。もちろん、突飛な発想であることは分かるんですが、こちらの方が、前世という世界を肯定する上で、一番しっくりくる考えではないかと思うんです。思い出すことでまた来世への道筋ができる。そうやって輪廻を繰り返していくことになるんじゃないでしょうか?」

「なるほど、そういう考えなんですね?」

「ええ、あなたも似たような考えをお持ちのようですが、何となくですが、また別の考えがあるようにも思えるんですが、違いますでしょうか?」

 彼の言葉は、私の胸に響いた。

「確かにあなたのいう通りだわ。私もあなたの意見を聞いていて、すべての点において納得できることができたの。でもそれは、あなたの考えに共鳴したからであって、私の中にある考えが覚醒されたのかも知れない。人の意見を利いていて、すべての点において納得できるなんて、普通では考えられないことだと思うの。それができたということは、今まで考えたこともなかった私の中で眠っていた考えが、あなたの意見に共鳴し覚醒した。そう思う以外にないって、今は思っているんです」

 と私は詰まることなく言葉にした。

――私がこんなことを口にするなんて――

 一人で考えている時に、頭をよぎるのであれば分からなくもない意見だが、まさか他の人を前にして、こんなに言葉を詰まらせずにいえるなど、今までの私からでは考えられないことだった。

「僕の記憶というのは、前世が存在したということを自分に納得させるためのものであって、自分が納得できればそれだけでいいと思っているんですよ。だから、こんなことは今まで人に話したこともないし、話すつもりもありませんでした。でも、あなたを見ていて、そしてここで人形やオルゴールと接していて、前世への思いを馳せるということに我慢ができなくなってしまったんです」

「じゃあ、あなたは、前世の記憶があるというのは、漠然としたものだということですね?」

「ええ、前世の記憶だと思えることを感じることは何度かあるんですが、その時々で、記憶がまったく違っているんです。どれかは夢なのかも知れないと思っているんですが、すべてが夢だったり、前世の記憶だったりというのはありえないんですよ。そう思うと、夢が曖昧な記憶であるのと同じで、前世の記憶も、いくら薄れることはないと言っても、最初から漠然としたものであれば、漠然としたものでしかないと思っているんですよ」

「私も、前世らしきものを感じることもあるんですが、あなたと同じように、その時々でまったく違ったシチュエーションを感じています。でも、それは漠然としたものではなく、例えば、人間ではない生き物が、何かを感じたり考えたりするということに疑問を感じてしまうんですよ。その思いがあるから漠然とはしていないんでしょうね。そういう意味では私の方があたなよりも現実的なのかも知れませんね」

「現実的というのは、少し違うかも知れません。あなたの方が私よりも、一つ一つのことに納得できないと気が済まない性格なのかも知れませんね。だから私のように、まったく同じスピードで時系列を流すわけではない。私は同じ時間の間隔で流してしまっているから漠然としてしまっているような気がします」

「ああ、そういう考えもありますね。だから、この世のように時を正確に刻んでいる世界では、一度覚えたことでも、次第に忘れていくんですね。時を正確に刻まない世界であれば、漠然と過ごすこともなく、一つ一つを納得させながら、生きていくことができる。つまりは、記憶はずっと意識のままいられると言えるんじゃないでしょうか?」

「僕は、時を正確に刻んでいる世界と、一つ一つを納得させていく世界の二つが存在しているような気がするんですよ。前世や来世が、そのどちらになるか僕には分からないんだけど、これも輪廻を繰り返していく上で必要なことではないかと思うんですよね」

「ところで、あなたはこの現世で一緒だった人が、来世でも一緒になれるとお考えですか?」

「それは難しいところですね。でも、現世のように、時を正確に刻んでいると、皆同じ時期に死んでしまうわけではないので、来世でもまた会えるような気はしませんね。でも、逆に時を正確に刻んでいないとしたら、自分の気になる人がいるとして、同時にその世界からいなくなるということもあるかも知れません。それは死というような概念ではなく、悲しいというイメージはないのではないでしょうか? だとすると、その人と来世で会える可能性はかなりの確率であるのではないかと思います」

「そうであってほしいですよね。でも、ここでのお話はあくまでも勝手な想像なので、何とも言えませんけどね」

 と言って、私が笑うと、彼も笑った。

 これが怒涛のような会話の中での一つの区切りのような気がした。時間を気にせずに話をしていたこともあり、気がつけば、笑うことすら忘れていたようだ。

 話が少し落ち着いてきてからのことだった。急に私の頭の中で何かが閃いた気がした。普段から何も考えていないようで、実はいろいろ考えていると思っている私は、急に閃いたようにフッと何かに気づくことは少なくなかった。

 だから、この時に閃いたことも、いきなり閃いたという意識はなく、きっと普段から考えていることがこの時に集約されて、降臨してきたのだと思えたのだ。

「私は、前世や来世のことなどあまり考えたことはないんですが、今生きている時代と平行して別の世界が開けているという思いはよく抱きます」

 と言うと、彼も興味津々の様子で、

「それは、パラレルワールドというやつですね」

 と、身を乗り出すようにして私に答えた。最初に話題を出したのが私なのでどうしても贔屓目に見えてしまいがちだが、彼の様子は今までの中で一番興奮しているかのようにも感じた。

「ええ、そうです。詳しいことはよくは知らないんですが、その世界には私やあなたと同じ人がいて、でも実はまったく違う人であり、ただ、環境は今のこの世界と同じものだという一種の矛盾を孕んだ発想をしてしまうことがあったんです」

「確かに矛盾と言えばそうですよね。僕もあなたと似たような発想を抱いていることが結構あるんですけど、僕にも矛盾があるんですよ」

「どういう矛盾なんですか?」

「僕は、何もないところから新しいものを創造するということへの発想は結構できるんですが、似た世界への想像は、妄想に近いものであり、できないものだって思っていたんですが、この世界だけは違うようなんです。それを矛盾だと思っているんですよ」

「私もあなたと同じように、新しいものへの創造をいつも感じています。そういう意味ではあなたのいう矛盾を私も抱えていることになると思います」

 氷室の発想は、自分の発想にどことなく近いものがある。しかし、根本的なところで同じものが存在しているのかどうか、ハッキリとは分からなかった。

 氷室と話していると、自分が今抱いている思いを口にしないではいられない。もし、相手が氷室以外であれば絶対に口にしようとは思わないだろう。

「私は、考えているこの世界は、厳密にいうとパラレルワールドとは違っているものではないかと思っているんです」

「どういうことですか?」

「確かに私やあなたのような人間は存在していて、世界もまったく同じ光景で見えている世界のはずなのに、存在している世界はまったく違っている。つまり、静的な状態では同じ世界なのだけれども、動的な世界では、まったく違った世界なんじゃないかって思うんです。それを、『次元が違う』と表現するのが一番納得がいく答えなんでしょうが、私は同じ数の次元の違う世界というものと、本当に次元が違っている世界とを混同して皆が考えていることから、発想が混乱してしまうのではないかと思うんです」

「というと?」

「次元と世界という発想を、同じように扱ってしまうから『次元が違う』と言われても別に不思議に感じないんですよ。次元というと、頭に数字がつきますよね。一次元、二次元、そして三次元。それが、点や線であり、平面であり、そして立体である。これは私たちが知っている世界です。でも、昔から考えられている四次元の世界というのは、そこに時間という概念が存在しているんです。つまり、同じ時間に同じ場所と思えるところに、見えないだけで、別の世界が広がっているという世界ですよね。そこには時系列が存在しているのか、タイムマシンなどという昔から考えられているアイテムへの発想は、ここから生まれてくるんですよね」

 と、私がいうと、彼もそれに追随した。

「アインシュタインの相対性理論というのをご存知ですか?」

「ええ、言葉は知っています。理論の中でも有名なものくらいなら分かるような気がしますよ」

 というと、彼は頷くと、おもむろに話し始めた。

「これは昔話の浦島太郎や、昔映画で話題になったことが相対性理論の発想になるんですけど、時間というのは、速度によって変わるという発想ですね」

「何となく聞いたことがあるような気がしますが、漠然としているような気がします」

 私は、ある程度の会話ができる程度なら、相対性理論について理解していると思っている。

「人間がその環境に耐えられるかどうかという点は別にして、例えば、光速を越えるようなロケットに乗って宇宙に飛び出したとします」

「ええ」

「そのロケットは、一年後に一定の軌道を回って地球に帰ってくるものだとしますよね」

「ええ」

「キチンと地球に帰ってこれたとして、そこは自分たちのまったく知らない世界だった。つまりその時の地球は数百年が経過していたというオチです」

「確かに浦島太郎のお話に類似するところがありますね」

「ええ、これが相対性理論の発想で、光速で進むと、時間の進みが遅いという発想なんです。それを利用すると、タイムマシンの開発というのも可能なのかも知れないと思えてきますよね」

「でも、タイムマシンの開発はそれ以外にもいろいろな弊害があるって聞いていますけど?」

「ええ、パラドックスという発想ですね」

「パラドックス?」

「はい、よく聞くのが過去に行って、自分の親を殺してしまうという例え話ですね」

「というと?」

「過去に行って、自分の親を殺すとします。すると、親が死んだのだから、自分は生まれてきませんよね」

「ええ」

「だから、自分が過去に行くこともないので、親を殺すこともない。そうなれば、自分は生まれてくることになるわけですよね。でも、自分が生まれてくるという運命が選択されれば、自分はタイムマシンを作り、過去に行くという事実が成立するわけです。そうなると、やはり親を殺してしまうことになりますよね?」

「ええ、まるでタマゴが先かニワトリが先かという発想のようですね」

「そうなんですよ、ここで生まれてくるのが、『矛盾の無限ループ』という発想ではないかと思うんです。それをパラドックスと言えるのではないでしょうか」

「分かりました。それが四次元の世界の発想なんですね。そういえば、四次元の世界の象徴として描かれる『メビウスの輪』も、その矛盾から成り立っていますよね。つまりは、異次元というのは、矛盾の塊のようなものだともいえるんでしょうね」

「ええ、この異次元の世界への発想は誰が考えたのか分かりませんが、きっといろいろな人が自分独自に考えて、その矛盾に悩んだんだって思います。今皆が知っている異次元の世界というのは、そういう意味では、皆が皆同じ発想ではないはずなんです。むしろ、一人ひとりが違っているはずなんです。なぜなら、異次元の世界というものが証明されているわけではないので、いくらでも無限の発想ができるし、発想が無限であれば、それだけ矛盾も無限なのかも知れませんね」

 彼はそこまでいうと、目の前のコーヒーを喉を鳴らしながら一気に口の中に流し込んだ。それだけ喉がカラカラに渇いていた証拠であり、自分の発想を私と同じように誰にも言うことができず、悶々とした気持ちでいたのではないかと思えた。

「コーヒーもう一杯ください」

 と、彼がいうと、私も気持ちは同じで、

「あ、じゃあ、私もお願いします」

 と言って、二杯分を注文したのだった。

 お互いに喉が渇ききってしまうほどこんなに自分の意見を素直に話したことはなかったのだろう。相手には分かってもらえるだけではなく、自分の意見に対してれっきとした意見を持っている人でなければ話すことのできない話題だと思っていたことだった。そんな相手が見つかっただけでも、今日という日は、ずっと忘れることのできない日になるのではないかと思えた。

 コーヒーが来るまで、さすがに疲れたのか、お互いに何も話そうとはしなかった。

――話すエネルギーはまだまだ残っているわ――

 と私は感じた。

 逆にエネルギーがなくなってきたと思うことで、一気に疲れが押し寄せて、それまで感じなかった時間という感覚を、嫌というほど思い出さされるに違いないと感じた。

 彼はおかわりのコーヒーを飲んで落ち着いたのか、

「ところで、先輩は相対性理論や異次元の話になると、何となく上の空に感じるんですが、何か自分の考えていることと違っているんでしょうか?」

 その指摘はまさにその通りだった。

 しかし、どこがどのように違っているのかということを自分の中でハッキリとしなかった。それを核心を突くように彼が指摘してくれたことで、今まで漠然としていた思いが晴れてくるような気がした。

 すぐに回答できなかったが、それは、自分の頭も混乱していて、自分が何を言いたいのかがハッキリしていなかったからだ。しかし、それも歯車の噛み合わせであって、一つが噛み合うと、結構発想が豊かになってきたりするものである。

「私もあなたの言っていることに賛成はできると思うのですが、今まで私が感じていたこととは少し違っているんです」

 元々人と関わりを持つことを嫌っていた私にとって、誰かと意見を戦わせるなどという

ことはなかった。ただ、もし意見を戦わせる相手がいたとしても、相手の意見に飲まれてしまって、自分の意見を表に出すことはできなかっただろう。それだけ自分の意見は変わっていて、話すことすら恥ずかしいという思いを持っていたのだ。

「先輩らしいとは思いますが、僕も先輩と同じようなところがあります。だから先輩の気持ちも分かるので、余計に僕も意見を戦わせてみたいと思ったのだと感じています」

 彼はそう言って笑ったが、それが私を安心させた。勇気を持てなかったわけではなく、相手がいなかっただけだと思えたからだ。

「私は、人の意見をあまりまともに聞かないようにしているんです。それは相手が考えていることが分かる気がするからなのか分かりませんけど、結局は皆同じで、先駆者の誰かが唱えた説を、まるで自分の意見のように言う輩に対して嫌悪を感じるからなんですよ」

「それは僕だって同じことですよ」

「いいえ、あなたは違います。学説は学説として話をしてくれて、自分を表に出すのではなく、あなたの話は相手から話を引き出すようなやり方に見えるんです。一見、ずるくも思うんですが、でも相手も同じことを考えていれば、お互いに意見を引き出させることになって、建前ではない本当に考えている本音を引き出せるんですよ。それが僕には嬉しいんです」

「そう言ってくださると嬉しいです」

「ところで先輩は、さっき僕の話を聞きながら、どこか上の空に見えたと言ったでしょう?」

「ええ」

「それは僕には、あなたが僕の話を聞きながら、自分の中の本音を探していたように見えたんですが違いますか?」

「ええ、確かにそうかも知れません。でも、それを証明することは自分ではできない気がするんですよ」

「それはもっともなことですね。でも、今のあなたとの会話から、説明しなくても、僕に理解してもらいたいという気持ちが現れていることが分かるので、僕には十分に納得できますね」

 彼の話に次第に引き込まれていく自分を感じていた。

――人との会話がこんなに楽しいなんて――

 ひょっとすると、自分を否定するような言葉がそのうちに飛び出してくるかも知れないと感じた。今まではそんなことはなく、私の自尊心をくすぐるような心地よい会話だっただけに、怖くないといえばウソになるが、そこにドキドキする気持ちが含まれていることで、会話することに安心感を得られるということを知ったのだ。

「会話って怖くないんですね」

 というと、

「怖いですよ。自分の気持ちを見透かされるような気がするからですね。ところで先輩は、将棋で、一番隙のない布陣とはどんな布陣か、ご存知ですか?」

 いきなり妙なことを言い出した。何となく分かる気がしたが、それも漠然としていた。

「どうしてそう思うんですか?」

 と聞かれて、答えようがないと思った。答えられないくらいなら、最初から分からないと答えておく方がいいと感じた。

 すると、彼は満を持したかのように、

「それは、最初に並べた形なんですよ。一手指すごとにそこには隙が生まれる。将棋の世界というのは、そういう意味では減算方式の勝負なんじゃないかって思うんですよね」

 と言ったが、その表情にドヤ顔を感じさせるものはなかった。

「なるほど、そうなんですね。会話というのも、将棋のようなものなのかも知れませんね。自分が一言発することで、相手に弱みを見せているかのようにも感じられる。でもなるべくならそんな風には考えたくはないですよね。でも、そう思ってきたからこそ、私は今まであまり人と話をしなかったのかも知れません」

 そう言って、我を振り返っていた。

 その様子を見て、彼も何かを考えているようだったが、きっと同じような発想になっているのではないかと私は感じていた。

「あなたは、僕の考えていることが分かりますか?」

 と、直球で彼は聞いてきた。

「いいえ、そう簡単に人の心が分かれば苦労はしませんよ」

「そうでしょう。それは誰もがそう思っているはずなんですよ。でも、相手に見透かされているかも知れないと感じると、完全に相手に臆してしまう。それが会話の怖いところで、相手に劣等感を感じてしまうと、前を向いているはずの自分の頭が、どこを向いているのか分からなくなってしまうんでしょうね」

 と、彼は話した。

 彼の話を聞いていると、私が何を話したいのかということが見透かされているような気がして仕方がなかった。だが、こうやって直球で話をしていると、そんなことはどうでもいいような気がしてきて、逆に自分が考えていることを相手にも分かってほしいという思いに駆られるのだった。

――こんなことを誰かに感じたのは初めてだわ――

 こんな思いを一度でいいから味わってみたいと思っていたはずなのに、実際に味わってしまうと、

――こんなものなのか――

 という中途半端な気持ちになったのも事実だ。

「目標というものは、達成するためにあるわけではなく、目標を立てるということ自体が大切なんだよ」

 と言っていた人がいたが、その人の話を他の人は消極的に受け取って、

「達成することができない人の言い訳なんじゃないの?」

 と蔑んだような言い方をしている人もいた。

 実際に私も口に出すことはなかったが、似たような思いに駆られることもあった。それは自分がその人の意見を他人事のように聞いていたからだと思っていたが、今考えるとそうではなく、蔑んでいる人の話の方を、他人事のように聞いていたからだと思うのだった。

 蔑んでいる人に対して他人事のように思っているということは、その言葉を最初に発した人に対しても他人事のように思っているからではないだろうか。どうしても自分は他の人とは違うという信念を持っていることで、他人事に思うことが無意識になってしまっているように思うと、言葉の重みを感じなくなっていたのだった。

 だが、時々思い出すことがあった。今回のように一見関係のないような話の中で思い出すのだから、本来であれば、それだけ関心を持っていたということのはずなのに、それを認めたくない思いが強かった。

 今思い出したその時の話は、目標を立てることよりも達成することが大切だと思っていた時だった。それは、他の人も同じはずで、私もその話を聞いた時、言い訳という言葉が頭をよぎったに違いない。しかし、他の人が言葉に出したことで、頭によぎった発想を打ち消すことになった。

 学校ではいつも試験試験で試されているばかりで、こちらの目標は試験でしか図ることができなかった。それは人との競争であり、自分との戦いでもあった。どちらが強いかということで、その人の性格が分かるというもので、私の場合は自分との戦いだと思っていた。

 しかし、本来試験はどんなに点数をとっても、他の人が自分よりも勝っていれば、順位は下の方になる。進学するには学校に定数があり、決まった点数をクリアするというわけではなく、定数に入らなければいけないのだ。

 平均点でいくら八十点以上を取ったとしても、順位が定数を割れていれば、不合格で、平均点が六十点であっても順位が定数以内であれば、合格するのである。試験の難易度によって決まるのだが、どこか理不尽に感じられたのは私だけだったろうか。

 私は試験勉強をしている時は、何も考えないようにしていた。余計なことを考えてしまうと、勉強が上の空になるし、何よりも集中力に欠けてしまうからだと思っている。しかし、そんな時でも何かを考えていたのだろう。勉強に集中している時、時間はそれほど経ってはいなかった。私の場合、勉強以外で何かに集中している時は、時間があっという間に経ってしまう。きっとそれだけ勉強が嫌いなのだろう。

――勉強は自分だけがするものではなく、皆が同じ勉強をする。そして、試験でその青果が試される。それは皆平等な状態で試されるので、一番公平な手段と言っても過言ではないだろう――

 と、そんな風に考えていたが、実際には皆が同じで平等という時点で、私には自由というものがないと思わせた。

 つまりは、

――平等を取ると自由がなくなる。自由を取ると、平等ではなくなる――

 と思っていた。

 自由と平等を平行して謳っているのが今の世の中のように思っていたが、冷静に考えてみると、自由と平等を同じ土俵に上げてはいけないのではないかと思うようになっていった。

 この二つを同じ次元で考えると矛盾しているように思えてきた。そんな時からだっただろうか。私は気がつけばいつも同じことを考えるようになっていた。それは、別の次元の話であったり、別世界を思わせる発想であったりした。夢の世界の話もしかりであり、氷室の話を聞いていると、

――ひょっとして私が考えている中に、前世への思いも含まれていたのかも知れない――

 と感じるようになっていた。

 私は、時々我に返った時、何かを考えていたことに気づかされる。その時に考えていたことは、

――新しい世界――

 であった。

 それは違う次元の世界のようで、夢の世界にも思えたが違っていた。夢であれば、目が覚める時に次第に忘れていき、目が覚めた時に覚えている夢は、意外としばらくは覚えている。しかし、忘れてしまった夢を思い出すことはできず、

――夢を見た――

 という意識があるだけで、どんな夢なのか、まったく分からない。

 しかし、この新しい世界への発想は、我に返った時にハッキリと意識している。しかし、急に考えが変わってしまう自分に気づくと、考えていたことが煙のように消えてしまっていた。

 だが、思い出すことができないわけではない。何か頭の中のフラグにスイッチが入れば、すぐに思い出すことができる。そのフラグやスイッチはどこにあるのか自分でも分からない。ただ、フラグのスイッチという存在だけが頭の中に残っているのだ。

 私はそのことが頭によぎった。その時に急に氷室が口にしたのが、

「先輩も何か新しい世界を頭の中で作っているんじゃありませんか?」

 まさに見透かされているようで恐ろしくなり、声を発することがすぐにはできなかった。そんな私を見て、氷室はニッコリと笑ったが、その表情は初めて見るものではないと感じたことで、余計に氷室の顔を直視できなくなってしまっていた。

「実は僕も新しい世界を創造するのが、くせのようになっているんです。と言っても、いつもそれが夢であったり、幻の類であったりと、気がつけば自分の発想を否定していることが多いんですよね」

 氷室も同じだと思うと、次第に緊張がほぐれてきた。

「私は新しい世界への発想は、きっとあなたが考えているようなものとは違っているような気がするんです。きっとあなたは、それを前世の自分の記憶に重ね合わせているんじゃないかって思うんですよ。ひょっとすると、自分の発想をどこかで抑えるために、前世の記憶が残ってしまったのではないかとも思っているです。ちょっと飛躍しすぎかも知れませんが」

 と、彼の考えが自分とは違っていると私が感じていることを正直に話した。

「確かにそうかも知れません。発想なんていうものは、少しでも違えば、『違うもの』として考えられます。だから発想は無限であり、それは一人の発想でも無限なのだから、他の人も合わせると、さらに無限が広がってしまうんでしょうね」

「でも、その中には奇跡的にまったく同じ考えがないとは限りませんよね」

「そうかも知れません。ただ、それは同じ時代には存在しないことではないかと思うんです。時代が立体として積み重ねられると、無限はどうなってしまうんでしょうね。その中に同じ考えが存在しているとすると、それこそ、前世という発想に結びついてくるんじゃないでしょうか?」

「それがあなたの前世というものに対しての考え方なんですね?」

「そうですね。僕は過去に同じような発想をしたと感じたことが何度かあります。それを自分で納得させるには一番の発想は、前世という発想だったんです」

「なるほど、よく分かりました。私の場合は、そこまで感じたことはないんです。でも、時々、『前にどこかで感じたような』という発想になることはありましたが、それを私はデジャブとして片付けていました」

「ということは、デジャブを信じる人は、前世をデジャブと一緒くたにして考えるということなんでしょうか?」

「そうかも知れません。でも、デジャブと前世の発想が同じ人の中で存在することもありえることだと思うんですよ。それは最初にデジャブという発想を知るよりも前に、前世という発想を知ってしまった人なんだって思います。デジャブ現象を、前世の存在で自分を納得させようとするからなんでしょうね」

「でも、僕の前世の記憶があるというのは、デジャブとは別だと思っているんです。前世の記憶は自分で作ったものではなく、最初から存在していたものだと考えていると、どうしても堂々巡りを繰り返してしまっていました。でも、前世の記憶が自分の作ったものだと思うことで、何となく前世という世界が分かってきたような気がしてきました」

「前世なんだから、自分で作り出したという発想はおかしいんじゃないですか? 記憶というのは、自分が作ったものだとすると、ウソかも知れませんよね」

「ええ、だから僕はあなたの考え方を聞いてみたいと思うようになったんです」

「どうしてそこで私が出てくるの?」

 私には、彼の言っている意味がよく分からなかった。最初はもう少し分かっているつもりだったのに、次第に分からなくなってくる。これっておかしな気分になってきた証拠ではないだろうか。

「最近、僕の夢に一人の女性が出てくるようになったんです。その人は見たことのない人で、夢の中で何かの会話をしているようなんですが、どんな会話をしているのか覚えていないんですよ。今ここでしているような漠然とはしているんだけど、話をしているうちにお互いの相手が持っている疑問を知らず知らずに解消していくような感覚ですね。僕はそれを新鮮な気持ちで感じています。今感じているその新鮮な気持ちが、夢の中で残っている唯一の感覚だったんですよ」

「じゃあ、今日こうやって会ったというのは偶然ではないとおっしゃるんですか?」

「そうかも知れません。ハッキリと偶然ではないと僕の口からいうのは憚るんです。言葉にすると重さがなくなってくるのが分かりますからね」

「あなたの中の前世という発想と、私が考えている新しい世界というのはお話を聞いている限りでは違うもののように感じられるんですが」

「僕はそうは思いません」

「どうしてですか?」

「発想は確かに無限に存在しますが、巡り巡って、また同じところに帰ってくることがありますよね。それはどれだけの周期を描いているのかは分かりませんが、僕にはその二つが背中合わせでなければありえないことだと思っているんです」

「それは無限ループの終着点のような発想でいいんでしょうか?」

「あなたがそう思うのであれば、それは間違いではありません。発想が無限にあるように、回答であったり、終着点も無限にあると考えていいのではないでしょうか? そういう意味であなたの発想を、あなたの口からどんなものなのかを聞いてみたいという衝動に駆られているわけなんですよ」

「私の発想ですか?」

「ええ、あなたが思い描いている今この瞬間の発想で結構です」

「今の発想ですか?」

「ええ、今の発想はすぐに過去になります。そして未来が現在になるわけです。未来は永劫に続いていくし、過去も今まで積み重ねられた無限の力を秘めています。でも現在というのは、一定の長さしかありません。ただ、その長さの間に重みが違っていたりするんです。その瞬間の発想というのは、すぐに忘れてしまいますが、その人にとって、大切な蓄積になるんですよ」

 彼の話は、いちいちもっともだと思えた。

 自分が考えていることが今までのように薄っぺらいものから、次第に丈夫なものへと変化していっているように思えてならない。ただ、それをどこまで覚えていられるかといういことが一番の課題だと思っている。

 今こうやって話している内容だって、すぐに忘れていくに違いない。その証拠に、最初の頃にどんな話をしていたのかということが頭の中で消えているように思えてならなかった。ひょっとすると記憶の奥に封印されているのかも知れないと思ってはいるが、そう簡単に表に出すことはできないものだと思うのだった。

「私はあなたがさっき言ったように、新しい世界を創造することが結構多いと思っています。発想はするければ、いつもすぐに忘れてしまっているので、それだけ集中していたということを自分でも分かっていて、集中するには、自分にとって別の世界を形成しなければいけないということを考えています。ただ、この別の世界というのは、発想の中に出てきた新しい世界とは違います。新しい世界はあくまでも想像上の世界で、自分の頭の中だけで作り出したものなんですよ」

「でも、発想するための別の世界というのも、頭の中だけで作られたものなんじゃないですか?」

「そんなことはありません。発想するための世界を作るには、頭の中と同じくらいの大きさの器が必要なんじゃないかって思うんですよ。そうなると、他のものはどこに行ってしまうのか? ということになりますよね。それを説明できない限り、発想するための世界は頭の中とは違う世界ではないかって思うんですよ」

「それはきっと、他の人が考えていることと正反対なのかも知れませんね」

 彼は私にとって意外なことを口にした。

「そうなんですか? 私はあまり人と関わらないようにしてきたので、私独自の考えだけで今まできました。だから、他の人の常識はまったく分からないんですよ」

「実は私も同じように、他の人と関わりたくないという発想を心の中に持っています。でも、私の場合は、なぜか他の人がどのように考えているかということが分かる気がするんです。そこがあなたとは違うところなんじゃないでしょうか?」

「私の考える『新しい世界』のお話を聞いていただけますか?」

「ええ、もちろん。願ったり叶ったりですよ」

 と、彼の表情は嬉々として答えた。

 私はそんな彼を見て、

――きっと彼は私と違って、まわりの人の発想を他人事のようには感じていないのではないかしら?

 と感じていた。

「私は最初、新しい世界を頭の中で考えた時、いろいろな発想を思い浮かべたんです」

 というと、すぐに彼が聴き返してきた。

「えっ、新しい世界というのは、、他の発想から思い描いたことを最終的に新しい世界だって思ったわけではないんですか?」

「もちろん、最終的にはそう思ったわけなんですが、最初から私の頭の中には新しい世界という発想があったんです。それをどう自分で納得させるかということを考えた時、いろいろな発想が頭をよぎったという感じですね」

「一つ一つ聞いていきましょうか」

「ええ、まずは誰もが最初にそう感じると思うんですが、夢だという発想ですね。さっきから話しているように、夢の世界から戻ってくるという発想があると思うんですが、その時に、目が覚めるにしたがって忘れてくるものが夢だという思いとは違う意識が働いたんです。それで、新しい世界は夢の世界とは違っていると思ったんです」

「なるほど、それは分かりやすいかも知れませんね」

「その次に感じたのは、記憶喪失という発想だったんです:

「というと?」

 彼の目は好奇心に満ちているようだった。

「少しこのあたりから突飛な発想になるのかも知れませんが、新しい世界を創造した時に感じた思いとしては、何もないところに自分が勝手に作り出したもののはずなのに、何かの拍子に思い出した時、その思いを鮮明に思い出せるような気がしたんです。ただ、その時に前に感じたことがある思いだったのかどうかということを意識できるかを考えてみたんですが、どうしても予測がつきませんでした。そこで、記憶の奥に封印されていたものが急に出てくるという発想を抱いたんですが、その時にふいに感じたのが、記憶喪失という考え方だったんです」

「記憶喪失ということを自分では意識していないということですよね?」

「ええ、自分が記憶喪失であるということは、自分だけでは絶対に分かりません。少なくとも一人以上の誰かと関わることで、自分から、何かおかしいと感じることになるのか、それとも人との記憶が食い違っていたりすることで、自分が記憶を失っているということに気づかされるかのどちらかだと思うんです。つまりは無意識のうちに自分の記憶の奥に封印されたものが、喪失している記憶だと言えるんじゃないでしょうか」

「それはもっともですね」

「でも、私の創造する新しい世界は、人から指摘されたり、人と関わることで気づかされたりするものではない、自分の記憶の奥に封印されたものだと考えると、意識していない記憶喪失がそこに存在しているのだとも言えるような気がするんです。記憶喪失というのは、時系列の中で、それまで記憶していたことを忘れてしまい、それ以降の新しい記憶を一から積み重ねるものであって、まるで記憶できる場所が一杯になってしまったので、奥の倉庫に封印されたかのようなイメージを抱きました。でも、いつかは記憶が戻って、過去の記憶がよみがえってくると、今度は、最初に記憶を失ってから、一から今まで積み重ねてきた新しい記憶はどうなってしまうのかと考えた時、またいろいろな発想が頭に浮かんできます。あなたはそれについてどうお考えですか?」

 と、問いかけてみた。彼がどんな回答をするかということよりも、回答するまでどのような態度を取るかということに興味があったのだ。

 彼は、少し腕組みをして考えていたようだが、自分が思っていたよりもすぐに回答してくれた。

「まずですね。記憶喪失になったということを自分で意識してから、思い出そうとしても思い出せない状態になると、まず思い出そうという意識にはならないと思うんです。思い出したくない記憶だから思い出せないという思いを抱くんだと思うんですが、それを何も苦しんでまで思い出す必要はないですよね。それを思い出さなければいけないという雰囲気になるというのは、まわりの人が思い出させようとする、ある意味本人の意向を無視した勝手な行動ではないかと思うんです」

「確かにそうかも知れませんね。テレビドラマなどでは、まわりの人が親身になって記憶を失った人に対して、『無理しなくてもいいから、徐々に思い出していきましょうね』なんて言っているのを、親切からだって思って見ていましたけど、考えてみれば、本人の意思がハッキリしていないのをいいことに、思い出すことだけが正解のように思わせるような描き方が多いような気がします。確かにまわりの人は早く記憶を取り戻してくれた方が都合がいいですよね。知っている人が、まったく知らない人になってしまったことで、なまじ知っているだけに付き合わなければいけないという思いが、少なからずまわりの人にはあるのかも知れませんね」

「当然、そこには利害関係が結びついてきていますよね。肉親であっても、友達であっても、恋人であっても、感情以外のところでは利害関係があるわけですから、そう思うと、思い出させることがどれほど酷なことなのかということは、利害関係よりも優先順位からすれば下になるということなんでしょうね」

 それを聞いて私はふっとため息をついて、

「その通りなんでしょうね」

 と、やるせない気分になっていた。

「記憶喪失の人は、もし記憶が戻ったとしても、記憶を失ってからの記憶が消えるということはないような気がするんですよ」

「どうしてですか?」

「せっかく積み重ねた記憶を、わざわざ封印する必要性はないように思うからです」

「必要性の問題ですか?」

「言葉的にどう言っても、冷めた言い方になるのかも知れないですが、そもそも記憶喪失になる原因というのを考えてみるところからだと思うんですよ」

 と言われて、彼が論理立てて話をしてくれるのが分かった。

「原因というと、例えばどこかで頭を打ったり、精神的に思い出したくないものを見たり聞いたりしてしまって、精神的に追い詰められて、思い出したくない思いとして別の世界にその意識を追いやってしまうことなんでしょうね」

「その通りですね。自分の中で耐え難いと思えるような意識が自分で抑えきれなくなった時、意識を思い出したくない記憶として封印してしまうことを選んでしまうことがき多く喪失に繋がったりするんでしょう」

「ドラマなどで結構そういう話があったりしますよね。でも、それでもまわりは思い出させようとしている場面が多いですよね。ドラマの中ではなるべく記憶を失った人が苦しまないように演出しているようですが、実際にはそんなものではないのかも知れませんね」

「人によっては、気が狂ったように暴れたり、モノを投げたりすることもあるんじゃないでしょうか?」

「そんな場面もドラマや映画で見たりすることもありますが、それは、テーマの中にその人の記憶を取り戻させるという優先順位が高い時でしょうね。サスペンスなどで、記憶を取り戻すことが犯人逮捕のきっかけになったりする場合など、記憶が回復した場面を見せることなく、会話の中だけで収めてしまうこともあったりします。なるべく刺激的な場面を視聴者に与えないようにしようという配慮なんでしょうね」

「それはあるでしょうね。それにあまり刺激的なところを描くと、実際に記憶を失っている人からの反発もあるでしょうからね」

「でも、そこまでして思い出したくない記憶を持っていた人が、記憶を失って真っ白になってしまったとすれば、意識としては、まるで今生まれたかのような感覚なのかも知れませんね」

「条件反射や本能的なものは身体が覚えているので、精神的なことだけが、まるで赤ちゃんのような感じだっていうことでしょうか?」

 彼の質問にすぐには答えることができなかったが、少し間をおいて、考えながら話をした。

「赤ちゃんというのは少し違うかも知れません。本当にすべての記憶を失ったのだと私は思っていないんですよ」

「どういうことですか?」

「確かに自分の名前も分からなかったり、自分がどこにいたのかも分からなかったりはしているのかも知れないけど、たとえば、学校で勉強して身についた学力までなくなってしまっているわけではないですよね。自分に関わることがすべて意識から消えているようにまわりからは見えているんでしょうけど、実際には本当に思い出したくない記憶だけが封印されていて、本来であれば、その封印してしまった記憶の一部に、自分の意識をつかさどっていた部分が消えてしまったとすれば、まわりからはすべての記憶がなくなったように見えるんじゃないかって思うんです」

「ということは、あなたは意識というのは、中心をつかさどっている基幹部分があり、そして枝葉として放射状に意識が延びているとお考えなんですか?」

「ええ、その通りです。その向こうには記憶があり、その中に封印された記憶があると思っているんです」

「つまりは、誰もが封印される記憶の置き場を持っているということですか?」

「ええ、そして、皆が意識しているわけではないけども、誰もが一つや二つ、封印している記憶があると思っているんです。だから、人はすぐにいろいろなことを忘れていく。頭の中というのは大きく広がっているようで、すぐに限界が見える狭いスペースではないかと思っています」

 私がそこまでいうと、彼は少し話題を変えてきた。

 いや、話題が変わったというよりも、発展したと言ってもいいだろう。お互いに発想を膨らませていくことは願ったり叶ったりだと思えた。

「超能力というのは誰もが持っているというお話を聞いたことがありますか?」

「ええ、頭の中の一部しか使われていないけど、残りの大部分は、超能力と言われる力を発揮できるスペースだと言われていますよね」

「そう、今あなたが言ったような限界というのは、あくまでも頭の中すべてではなく、一般的な人が使える頭の中の中心部分だけだと言えるのではないでしょうか?」

「確かにそうかも知れません。でも、この限界というのは、私にとって、どうしても外せない発想になっているのも事実なんですよ」

 と私がいうと、彼はそのことに触れずに、

「少し話がそれてしまいましたね」

 と言って、敢えて話を逸らしたような気がした。私もこれ以上触れることはできないので黙っていると、彼がおもむろに話し始めた。

「もし、思い出したくない記憶が戻ってきたとしても、記憶を失った時とは環境も精神的な面でも大きく違っていますよね。だから、ショックは残るかも知れませんが、ゆっくりと療養すれば、すぐに元の生活に戻れます」

「でも、その時の元の生活って、どっちのですか?」

「それは本人が決めることなんじゃないでしょうか? 記憶が戻ったからと言って、記憶を失ってからの一から積み重ねた記憶が消えるわけではない。私だったら、記憶を失う前の生活に戻らずに、今までの生活を続けると思います」

「記憶を失う前にその人に関わっていた人にとってはショックでしょうね。もし婚約者などがいた場合、どんな気分になるんでしょうね?」

「たぶん、婚約者もそれはショックだと思いますよ。でも、記憶を失う前の生活に戻ったとしても、そこにいるのは自分の知っているその人ではないとそのうちに気づくのではないかと思うんです。だって、少なくとも空白の期間があって、その間には別の人が絡んでいるわけなので、元の生活に戻るなどということは土台無理なことではないかと思うんですよ」

「そうですね。私はそれは思います。でも、記憶を失ってからの生活にも同じことが言えるんじゃないでしょうか? 前の記憶が戻ったのだから、前の記憶の楽しかったことを思い出すと、同じ生活ができるとは限らない」

「でも、記憶を失っている人と付き合っている人は、その人が記憶がない時を知っているわけなので、それまでに付き合っていた人とは覚悟が違うはずですよね。それに記憶を失う前に一緒にいた人は、記憶を失ったその人を知らない。元のままのその人だと無意識に感じながら付き合っていくことになる。そこで二人の間に生じた溝が、次第に広がっていくかも知れませんからね」

「そうですね。でも、あなたの意見は当人がどうのというよりも、まわりから見たことが中心になっていますよね。それは無理もないことなんじゃないかって思うんですが、果たしてそれでいいんでしょうか?」

 私はそう言いながら、自分でもいろいろ考えていた。

 元々記憶喪失の失くしたはずの記憶が、自分の中で「新しい世界」を形成しているという話をしていたはずなのに、本来の記憶喪失の話に終始してしまっていたからだ。話の途中で、

――何となく戸惑いを感じるわ――

 と思っていたが、話が次第に逸れていくことが次第に意識の中で薄れていくことへの戸惑いだったのかも知れない。

 私は記憶喪失について、たまに意識していたように思う。

――ひょっとして私の記憶は、すべてに間違いはないんだろうか?

 つまりは、何かの記憶が欠如していることで、違った記憶に変化していないかということだった。

 記憶も時系列に並べることで歯車のように噛み合っているように思う。一つの記憶を思い出すことで、どんどんその前後の記憶もよみがえってくる。それはまさしく歯車の力によるものではないかという考え方だった。

 先ほど、自分の記憶や意識が放射状に延びていると言いましたが、その放射状こそ、

――意識や記憶を繋ぎとめておくための歯車――

 と言えるのではないだろうか。

 歯車が一つでも狂えば、記憶は堂々巡りを繰り返し、意識的に封印してしまうことだってあるかも知れない。意識がそのまま記憶されるとは限らないということも、私の気持ちとしては持っていたのである。

「私の次の意識としては、『他人の記憶』というものなんです」

 と私がいうと、

「えっ、それはどういうものなんです? 他人の記憶が自分の頭の中にあって、人と共有しているという意味なんですか?」

「私は共有という意識までは持っていませんでした。あくまでも、自分の中に他人の記憶が入ってくるという意味で、その人がそれを人の記憶だと理解しているかどうかも分からないと思っているんです」

「あなたは、誰かそんな人を知っているんですか?」

「ええ、中学生の頃のことなんですが、そんな話をしている人がそばにいたのを覚えているんです。どこかの喫茶店だったような気がするんですが、環境の記憶よりもその話の記憶の方が強かったんですね。それほど私にはセンセーショナルな話だったように思います」

「その人はどんな話をしていたんですか?」

「確か若い男女の話だったと思います。恋人同士だと思っていましたが、今思い出してみるとどこか秘密めいたところがあり、ひょっとすると不倫カップルだったんじゃないかって思います。話の内容は明らかに不倫のような話だったんですが、自分たちの話を公共の場所でするなんて信じられないと思っていたから、まさか自分たちの話だとは思ってもみませんでした。でも、今だったら言えます。あの話は自分たちが当事者でなければ分からないことが結構あったんだってですね」

「それはきっと、中学時代のあなたにとって、会話の中の世界は別世界のように思えていたことで、他人事のように聞いていたからなのかも知れませんね。それだけウブで純粋だったんだけども、好奇心はそれ以上だったということなんじゃないですか?」

 どうにも見透かされているようで、少したじろいでしまった。

「なかなか鋭いですね。そんなこと言われたこと、今までにありませんよ」

「それは、あなたが人と関わりたくないという意識の表れなんじゃないですか? まわりもなるべく関わりたくないという思いを抱いていたとしても、それは不思議のないことですからね」

「まったく仰るとおりです」

 私は認めざるおえなかった。

「その時の不倫カップルというのはどんな感じだったんですか?」

「そうですね。あの時は他人事のように聞いていたので、彼ら自体が他人の話をしていると思っていたので、記憶が錯綜するかも知れませんが、ただ、不思議な話をしていた部分だけは記憶に間違いはないと思います。かなり昔の記憶ではあるんですけどね」

「でも、あなたはその記憶を鮮明に覚えていると自分でも思っているんでしょう? そこから新しい世界を創造してみたくらいだから」

「そうですね。まず、二人は恋人同士だということはすぐに気づきました。やたらと身体を密着させるようにしていて、絶えず手を握っていましたからね。見ているこっちまで恥ずかしくなるほどでしたよ」

「それは大丈夫です。想像している私の方も恥ずかしく感じるほどですからね」

 そう言って彼は笑った。ある意味、ここが笑いどころとでも思ったのか、苦笑いではあったが、私に笑みを強要しているかのようにも感じた。私もそれに応じて微笑み返したは、決して普通の笑顔ではなかっただろう。顔が引きつっていたに違いない。

「店内のお客さんはそんなに少なくはなかったように思います。恋人同士の二人だったんですが、そんな中でヒソヒソ話をしていたので、完全に聞き取れたとは言い切れませんが、なぜか私にはまわりの喧騒を感じることなく、二人の話を聞けたような気がします」

「集中していると、そんなものかも知れません。特に気になる話であれば、無意識に聞き逃してはいけないという意識が働くはずだからですね。僕も経験ありますが、ヒソヒソ話ほど気になってしまうものはないですからね」

 私は話を続けた。

「その時の二人は、自分たちが付き合い始めた時のことを振り返っているようでした。楽しかった頃の話を懐かしそうに話していたんです。ヒソヒソ話であっても、微笑ましく感じたほどでした。でも、急にその女性が嗚咽を始めたんです。それを男性がまわりに気を遣いながら宥めているようだったんですが、そこに少し違和感があったというのがその時の気持ちでした」

「違和感?」

「ええ、違和感です。男性は宥めながら、さらに彼女を抱え込むようにして、守ろうとしているかのように最初は思ったんですが、それよりも、他の人に見せないようにしていたようなんです。恋人同士というのがどんなものなのかよく分かっていなかった私だったんですが、そこだけは違和感があったんです」

「でも、最初は楽しそうに話をしていたんでしょう?」

「ええ、でもそのうちに男の人の口から、『うちのやつが』という言葉が聞こえてきたんです。その時に、それが男の人の奥さんだって分かりました。でも、それでも私は二人が不倫の関係にあると思わなかったのは、それだけ不倫ということに実感がなかったのか、それとも、不倫の関係にある人を想像したことがなかったからなのかも知れません」

「中学生の女の子に不倫という意識を抱かせるのは無理がありますからね」

「ええ、私は親に対して不信感しかなかったんですが、でも、不倫という意識はまったくありませんでした。不信感が強かった分、不倫をしていると言われても別に何も感じなかったでしょうが、目に見えないショックが起こったかも知れないと思うと、不信感がどこから来ているのか、分からなくなってしまうと思っていました」

「なるほど、その思いが、その時にいた不倫カップルに対してもあったんでしょうね。だから、不倫カップルだとその時は感じなかったのかも知れません」

「ええ、その時嗚咽していた女性は、少し苛立っているように感じました。今から思えば相手の男性の口から出た『うちのやつ』という言葉に反応したのではないかと思います。まるでのろけられているように感じたのかも知れません」

「女性というのは不思議なものだって時々思います。自分は不倫をしているくせに、裏切られてるはずの相手の奥さんに対して、いまさら嫉妬心を抱くんですからね。奪われた方がどれほどのショックで痛手を負っているかということを、考えたこともないのかも知れません」

 本当なら、女性蔑視ともいえるような言葉を発した彼に怒りを覚えなければいけないのかも知れないが、私は不思議と怒りはなかった。きっとその時私は自分を女性として意識していなかったからだろう。

「それはあるかも知れません。でも私はそんなことを感じたことはありません。考えてみれば男性を意識した相手と二人きりで話をしたことなどなかったからですね」

――あなたが私にとって、最初の男性を意識した相手なのよ――

 と言っているのと同じであったが、彼はそれほど嬉しそうな顔はしなかった。

 私の気持ちを察することができなかったのか、それとも分かっていて敢えて自分の気持ちを表に出そうとしなかったのか。もし後者であれば、

――私は好かれているんだわ――

 と感じたことだろう。

 今のこの時点では、好意を持たれているのは当然として、好きになってもらっているという感覚は微妙だった。

「そのうちに、どうしてその女性が怒りに震えていたのか、分かった気がしたんです。理由はその時、その女性が口にした一言でした。『私、あなたの奥さんの記憶が私の中にあるようなんです』とですね」

「それって不気味ですよね。逆に言えば、彼女の方から別れたがっているのではないかと思わせるエピソードに感じますよ」

「そこまでは私も感じませんでした。さすが氷室君というところかな?」

「茶化さないでくださいよ」

 と言って、彼が微笑んだので、私も微笑み返した。

「確かにそう言われてみると、私もなんだかそんな気がしてくるから不思議ですわ。でも、その時の私は、『あなたの奥さんの記憶がある』っていう言葉に反応してしまったんですよ。ひょっとすると、その時に二人の間に微妙な温度差があったのかも知れないとも感じます」

「温度差というのはきっとあったんでしょうね。だからお互いになるべくくっつきたいという思いがあったんでしょう。男性の方が『うちのやつ』と言ったのも、その温度差を縮めたいが一心だったんじゃないですか?」

「そうでしょうね。でも、まわりのことよりも、実際の会話の内容はどうだったんですか?」

「女性の方がいうには、旦那、つまりあなたの浮気にはまったく気づいていないっていうんです。だから、それだけに奥さんに対しての後ろめたさが自分にはあって、『相手の気持ちが分かるということほど、感情が高ぶってくることはない』と言っていましたね。その感情は、相手の喜怒哀楽が自分の目の前にある鏡に写しだされていて、左右対称であるがごとく、相手が楽しければ、自分は苦しく、相手が幸せなら自分は不幸だ。そう思うと相手には辛く苦しい状態であってほしいと思うのは、その人の意識が考えることであって、決して無理をしたくないという思いからなのかも知れませんね」

「それは女性の嫉妬というものでしょうね」

「男性の嫉妬は違うんですか?」

「同じだとは思いますが、男性は女性ほど現実主義ではないので、嫉妬にもどこか違う考えがあると思うんです。そうですね。一刀両断にはできないものがあると思いますよ」

「それは女性にも言えると思うんですよ。嫉妬にいい悪いがあるとは思えませんが、その程度というものは、男性と女性では違いますよね。本当は、その人それぞれで違うので、男性と女性を垣根にしてしまっていいのかとは思いますよ」

「でも、その女性が言った奥さんの記憶というのはどういうものなんでしょうね?」

 と会話に一瞬の沈黙があり、その後に彼が聞いてきた。

「どうやらその女性にとっては、思い出したくもない記憶だったようです。それはそうでしょうね。なるべく隠したいと思っている相手の記憶を自分が持っているなんてですね」

「男性にとっても、不倫相手がそんなことを感じているというのは、心中穏やかではないはずですよ。彼にとっても奥さんは奥さん、不倫相手は不倫相手として割り切って付き合っているつもりなのに、不倫相手の中に奥さんがいるなんて事実、俄かには信じられずはずもなかったことでしょうね」

「ええ、もちろんそうですよ」

 と言ったが、話をしているうちに、

――お互いに自分と同性の肩を持っているように聞こえるわ――

 と感じた。

 だが、それは無理もないことだ。世の中には男か女の二種類しかいないのだ。本当に大雑把に二つに分けてしまうんだから、話をしながら無意識になっていたのも頷けるというものだ。

 私は、男性の気持ちを分かることができるとは思っていない。それは今だけに限らず、将来に渡っても、本当の男性の気持ちを分かることはできないと思っている。性別というのは口でいうよりも結構敷居の高いもので、だからこそ、

――世の中には男か女しかいないのだ――

 とも思っていた。

 女性の中にも男性の中にも、年齢の隔たり、お互いに育った環境などから、意気投合できる人もいれば、決して分かり合える相手ではないと思える人もいることだろう。人それぞれだということだ。

 男性、女性とそれぞれを考えているだけであれば分からないことでも、男性と女性を全体から見れば不思議に感じることもある。

 私が一番不思議に感じたのは、

――男女、少々の違いはあるかも知れないが、どこにいても、その人口比率はほとんど変わらないわね――

 ということだった。

 一組の男女から生まれるのが、男性に偏ったり女性に偏ったりすることはあっても、全世界的には辻褄が合っている。決して、男だけの国、女だけの国というのは存在しない。

――人間は、男と女からしか生まれないんだ――

 ということを考えると、うまく産み分けるのは、種の保存という観念から言っても至極当然な話である。

 ただ、それは人間だけに言えることではない。他の動物もしかりで、オスばかり、Mスばかりという種族はない。もっとも一夫多妻制のようなものがあるところは別だが、今の世の中ではそんなこともないだろう。

 そういう意味でも、本当であれば、相手である異性を大切にするということは種族の使命であるともいえるのではないだろうか。

 だが、人間というものは、それでは我慢できない動物なのか、不倫をしてしまう。結婚したその時はよかったのだが、

――隣の芝生は青い――

 と言われるように、目移りしてしまうのも、人間ならではなのだろうか。

 いや、他の種族も人間が知らないだけで、同じようなことが行われているのかも知れない。ひょっとすると、それが原因で殺し合いに発展することもあったりするだろうか。そう思うと、まだ理性のある人間の方がマシなのかも知れないと感じた。

 人間は理性を持っているが、ギリギリのところまでは我慢できるが、我慢を超えると自分でもどうなるか分からないと思っているところがある。ひどい時にはそれが殺人事件を引き起こしたりもしかねない。それを思うと、人間も野蛮な種族であるということに違いはなかった。

 特に女性の場合の方が、その考えに近いのではないだろうか。男女が別れる原因になることで、ギリギリまで我慢して結界が解けてしまうと、前後不覚に陥るくらい平常心を失う人もいる。

 それが悲劇に重なることもしばしばで、毎日新聞やワイドショーを賑わせている中に一つは存在しているように思えた。

「世の中、絶えず事件が起こっている。一度くらい暗いニュースのない一日を味わってみたい」

 と言っている人の話を聞いたことがあった。

 その時ふと何を思ったのか、

「前世のことを思い出すと、頭の中にオルゴールで聴いた『別れの曲』が頭の中を巡るような気がするんだ」

 と氷室が口にしたのを、私は聞き逃さなかった……。

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