ある日本人男性の一生 ~la vie d'un japonais~

森之熊惨

リョウの話

  生後

do.si.na.me.hi.chi...udoshi!karunamiN?hanoki...ガラガラ…ピロピロ…ギイーン…カメ…マド…イッパンテキニ、タイノウシャガ、サシオサエノキカン…もみのき、クリシュマシュ…リョウくん、おはな、きれい、だね…「リョウくん、まんまおいしい?」「おいちくない!ぷでぃんたべたい!」「ヘンショクがつよいのよね、リョウくん。」みんなリョウくん、リョウくん、と言う。誰のことだろう。


  自我の確立

 生まれたばかりのころ、世界はわけのわからない音であふれかえっていたな。あんなカオスの中からよくも見事に日本語を習得できたものだ。あのころの世界は幼い子供に特有の、乱高下するジェットコースターのようなスピードで動いていた。通り過ぎてゆく一分一秒はたくさんの未知の出来事が詰まった濃密な時間に感じられ、体感する一日や一年はものすごく長かった。

 母に言われるがまま、毎日便所の神様に見守られながら用を足し、おてんとさまに感謝しながら米の一粒一粒を食べた。雷が鳴ると、「シリコダマぬかれるよ!おへそ隠しなさい!」と母に言われて本気でビビっていた。


  少年時代

 僕はリョウだ。みんなそう呼ぶからそういう名前なのだろう。


 時の流れ方がようやく安定したころ、小学校に入学した。自販機にコインが吸い込まれるみたいに。

 ひらがなの”さ”と”ち”を混同し、連絡帳の宿題を書く欄に”計算クーワ”と書き、漢字の”疑”を「ヒヤマテイ」と暗記して、いろいろなことを学んだ。好きだった女の子に「ブス」とか「デブ」とか、本当にひどいことを言ったりもした。素直に好きだなんてとても言えなかった。かわいそうに、泣いていたな。もちろん女の子たちが先生にチクるので、僕は先生にビンタされた。あのころはそういう時代だったのだ。毎日が新しいことばかりで、飽きなかった。友達としょうもないことを言い合いながら僕は成長していった。

”たいく”の着替えのとき。「コウスケのズボン脱がそうぜ。チンコ丸見えにしてやろう。あいつはとろいからな、へへへ。」友達がトイレの個室に入っているとき、廊下に向かって叫ぶ。「タツヤがうんこしてるぞー!」プールの時間。「ゆりかオッパイでかいな。」「もうセイリ来てるんじゃね。」くだらないが男子なんて皆こんなものだろう。

 生まれてから13回目の春が来ようというときに、小学校を卒業した。ところてんが押し出されるみたいに。


  ニキビの時代

 中学校に入学した。最悪だった。先生にいじめられたし、方程式は分かんないし、おまけに授業中に屁をこいちゃうし。でも修学旅行の夜なんかは楽しかった。ハンドボール部の美人マネージャーの話で、興奮した一夜を過ごした。深夜テンションMAXの中学生たちのイカ臭い会話だ、何となく想像はつくだろう。「おい聞けよ、ななみ先輩セックスしたことあるらしいぞ。」「先輩彼氏いるの?」「高校生だってよ。」「ショジョじゃないんだな。ぐへへ。」

 15歳の少年なんてクリトリスとオーガズムとフェラチオのことで頭がいっぱい。だからあの日もスカートの短い女子高生に見とれて、自転車で電柱にぶつかって脳震盪になったんだ。うちに帰ると母は驚いて大声をあげた。「あんた、どうしたの⁉大丈夫かい⁉血まるけじゃないの!」「チャリで電柱にぶつかったんだ。そしたら目の前がくらくらして…」「あんた目はどこにいったのよ。ばかね。ほら病院に行くわよ。」母は優しかったが女子高生のふとももに見とれていたことは言えなかった。

 病院から帰ったその夜、自分の部屋のドアを閉め、包帯でぐるぐる巻きの頭で昼間の女子高生の短いスカートのことを思い出しながらせっせと右手を動かした。母の足音が階段を上ってくるのに気づき、急いでズボンを履いて机に向かったが、何もない机に向かっているという格好になってしまった。ドアが開いて、母は「頭は大丈夫?今日はよく休むんだよ。おやすみ。」と言ってくれて、僕も「おやすみ。」と言った。危ういところだった。右手にGPSがついていて数センチの間を行ったり来たりしてることが分かるとか?とにかく、やっとひとりになれた。


 中の上といったところの公立高校をなんとなく受験し、なんとなく合格してしまった。中学生は3年間で終わってしまった。当然といえば当然だ。中学校の卒業アルバムで、僕は一人だけピースサインをしなかった。何となくいやだったのだ、幸せを取り繕ってる感じがして。あのころは尖っていたな。セカオワが大好きで毎日「虹色の戦争」ばかり聞いていた。


  青春時代

 一人称が「俺」から「僕」になり、高校生活が始まった。高校生になっても相変わらず臭かった。イカではなくて栗の花の匂いに変わっただけだ。

 部活帰りの夕方、帰りの電車の車窓を眺めながら、少し前の父との会話を思い出す。「なあ、リョウ。父さんは自分の価値が分からないんだ。毎日職場と家を往復するだけで、それも早朝から深夜まで。職場に行くためだけに起きて、寝るためだけに家に帰る。母さんの話もリョウの話も聞けてないよな。こんな俺に価値があると思うかい?」普段あまり口をきかない僕らだけど、僕を信頼して父が弱みを見せてくれたような気がして、うれしかった。僕は少し考えてこう言った。「僕がいることがそもそも父さんが父さんたるゆえんだよ。逆に父さんが父さんであることが僕が僕であることのゆえんだともいえるけど。どちらにせよ父さんが母さんと出会って僕やカナやサナを産んだからこの家族があるんじゃないかな。父さんは職場に心の半分以上を置いてきてる。全部とは言わないまでももう少しこの家庭に持って帰ってきたらどうかな?」「ありがとう。リョウは考えがしっかりしてるな。確かにこの一家は父さん一人で作り上げた訳じゃないけど、間違いなく俺の血を引いたリョウがいるもんな。うん、明日は少し早く帰ってくるよ。職場に置き忘れたもう半分の心を持ってな、ははは。」


 高校二年生が終わった後の春休み。明日から三年生が始まるという晩。「ねえ、進学先のことだけど。北山大学に行かせてくれないかな?模試の結果が返ってきて、北山大ならA判定なんだよ。」「北山大だって?あんた下に二人の妹もいるのよ?ちょっとは家計のことを考えて!」母は叫ぶ。「待て待て、感情的になるな。感情で話しても伝わらないだろう。」父は言う。「頼む。私立はやめてくれ。名大に行けば年間60万で済むところをその倍も支払うことになる。お前の下の二人にも同じことはできないからな。」「そうそう、それが言いたかったのよ!」母はまたも叫ぶ。たまらなくなって思わず言った。「もういいさ!僕なんかに費やすお金は無いってんだろ!大学なんていかずに一生フリーターで生きてきゃいいのさ!」しまった、まただ。すぐ思ってもいないことを口にしてしまう。案の定二人から言われる。「あんた本気で言ってるの?できもしないことを言うんじゃないわ!」「おまえは社会というものを知らなさすぎる。社会に出て働いてから同じことを言え!」「名大なら応援するわよ。」そうだよな。東海三県じゃあ息子が名大に入学出来たら、両親は秀才の息子を持つキャリアウーマンの妻と大企業勤めの夫という、最強の夫婦になれるのだ。僕にしたってトヨタの営業部門に就職するというも夢じゃないかもしれない。

 その夜、歯を磨きながら、本気で名大を目指そうかと考えていた。面白いことに、世の中は”名”であふれてる。名大もあれば名医もいて、名刺に書かれる名前だってたくさんある。”名大を出た名医の名前が書かれた名刺”がこの世に”名詞”として存在したとしてもおかしくはないわけだ。「へへっ」思わず腹が震えた。


  青年時代

 生まれてから19回目の春、僕は関西のとある公立大学の入学式の会場にいた。どんな道を辿ってきたのかは覚えていない。高校を卒業してから1年間の間僕はどこにいた?

 とにかく新しい人生が始まった。大学ではいろいろなことがあった。宗教学の授業の後、メキシコからの留学生の男の子をひどく傷つけてしまったことがあった。その男の子の母親はギャングに銃殺されてしまっていた。昂った声で僕らは議論をしていた。神の存在について。「ならばおまえの母さんはなぜ殺された?神様がいたんなら銃弾の軌道をそらすことだ

ってできたんじゃないのか?でもおまえの母さんは死んだ。救わなかったんだ。母を失って泣いてるおまえもな。神様なんて時代遅れだ。」母へスースを失ったからこそ、神の無償の愛を心の支えにしていたメキシコ人のホセ・マルティネスにとって、この言葉は彼を怒り狂わせるのに十分だった。リョウを椅子で殴らせるのにも。

 彼は理性的全能感に侵されていた。信じて疑わなかった。神などいない、あるのは人間の理性のみと。でもあのメキシコ人の心をズタズタにしてしまってからは、考えを改めざるを得なかった。敬虔なカトリック信者である彼を本当に傷つけてしまったのだ。食事ものどを通らず、寝る前のお祈りもできないくらいに。


  ろうそくが短くなるまで

 大学を卒業したリョウは、ごく普通に就職し、家庭を持ち、子供をもうけ、老いたようだ。20代から60代の間彼は人生を生きるのに必死で、どの道をどちらの方角に向かって歩いたのかわかっていなかった。私ナレーターも語れない。なぜならそのナレーターとして三人称視点から語り続けているこの私こそ、ノザキ・リョウ本人だからだ。彼の人生が、つまらない出来事を少しと嫌な出来事をそこそこ、素晴らしい出来事をちょっぴり集めてきて、酸味と甘味をちょっぴり加えてごたまぜにしたような人生だったことは覚えている。とにかく70年という大いなる歳月は、一人の少年を一人の老人に変えてしまうには十分だった。


  燃え尽きる間際

 73歳のある朝、かつてリョウという少年だった老人は自宅の庭を散歩していた。顔には深いしわが刻まれ、瞳の奥には人生の達成感が満ち溢れていた。大きな時の流れは、彼を完成させていた。

 散歩を終えた老人は家の中へ入り、丁寧に戸を閉めた。居間のソファに深く座り、目を閉じて息をはく。しばらくじっとしていたが、静かに上下していた肩がガクッと下がった。一人の男の一生涯に幕が降ろされた。

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