第2話 温泉宿

 今年の秋はほとんどなかった。十月頃までは残暑が厳しく、十一月の後半近くになって、まるで冬の寒さを感じるようなそんな気候だった、会社でもウワサの中で、

「今年は秋がなかったので、季節感を感じることができない」

 という言葉がよく聞かれた。

 純也の会社は、雑誌社だった。その中でも旅行雑誌関係の部署なので、季節感に関しては気にしていなければいけない部署でもあった。ただ、今の時期を感じるのではなく、先を見据えての感情で、十一月の今であれば、すでに春先の話題に敏感でなければいけなかったのだ。

 今年の秋の特集は、すでに夏に完成していた。

 特に今年の秋は、世間の不況にあいまって、あまり贅沢を話題にすることはできない。そのため、近場の行楽地を中心にプランを立てていた。

 近くには秋になれば観光客がどっと押し寄せる行楽地があった。旅行雑誌社としては、例年であれば、他県の話題を取り上げて、紅葉だけではなく温泉の特集も組んでいたのだが、近くの行楽地には残念ながら温泉はなかった。

 そのため、温泉の代わりに、秋の味覚を取り上げての特集になったのだが、意外と社内では好評で、取材した純也も、上司から褒められたほどだった。

 写真も好評で、数年前に綺麗に色づいた時の景色を表紙に使ったのだが、雑誌の売れ行きは、まずまずだった。季節がこのまま秋を感じさせてくれればよかったのだが、そうも言ってはおられない。本当は数週間、秋の特集を組んでいたが、あっという間に冬が来てしまったことで、売上は、

「まずまずだ」

 という程度に収まっていた。

 とはいえ、実際に季節は動いている。今の時期では、そろそろ冬から春にかけての特集を考えなければいけないと思っていたところであったが、今年の十一月が、いきなり夏から秋を駆け抜けてしまったので、春への感覚がかなり鈍っていたのは事実だった。

 純也は、十一月の後半に、休暇を取っていた。

「少し、温泉にでも行こうと思ってね」

 学生時代から一人でいることが多かった純也だったが、出版社に入社し、最初は社会部などで忙しさのせいで、まわりが喧騒とした雰囲気になっていることにうんざりしていたが、途中から旅行雑誌の方へ回され、気楽に仕事ができるようになった。

 そんな中で気軽に話ができる人ばかりの部署であることが分かってくると、

――自分の孤独と、仕事の上での付き合いは別なんだな――

 ということが分かってきた。

 社会部にいた頃には分からなかったことだ。社会部にいる頃は、

――やっぱり孤独な方が何も考えずに仕事に打ち込める――

 と思っていたが、どうやら、自分が喧騒とした雰囲気には向いていないことに気づいていなかったようだ。

――旅行雑誌に回されたのは、今から思えばよかったのかも知れない――

 それは、純也にとって大きな転機になったようだ。

 旅行雑誌の方では、社会部から転属された人は純也だけではなかった。

「社会部の左遷先になっているのさ」

 と、先に配属された人は話していたが、

「悔しくないんですか?」

 社会部に未練があったわけではないが、それは自分だけだと思っていた純也には、他の人が何を考えているのか分からなかった。

 まだその頃は、自分が人と違うということで、

――他の人の気持ちなんか分かるはずなどない――

 と思っていた時期だった。

 純也がこの部署にやってきてから、皆が暖かく迎えてくれた。

――社会部では考えられないことだったのにな――

 と思っていると、

「お前が今考えていることは、俺が数年前に考えたことだ」

 と、三年前に社会部から転属させられて、今では編集長に昇進していた先輩の話だった。

「どうして分かるんですか?」

「俺も、社会部ではお荷物扱いされていて、いつ左遷させられるかということを気にしていたからな」

 と言っていたが、純也は違った。

「僕も社会部ではお荷物だったことは意識していましたけど、左遷させられるという意識はなかったんですよ」

 と言うと、

「今はそう感じているかも知れないけど、少し時間が経ってごらん。俺の言っている意味が分かってくるさ」

 と言われた。

 なるほど、確かに数ヶ月もすると、自分は意識していなかったが、左遷させられるのではないかということを、心のどこかで不安に思っていたようだ。当時は、言葉にできない言い知れぬ不安を抱えていたのを感じていたが、それが左遷に対しての不安だったということを、この部署にいることで思い出させられたような気がした。

「この部署は、他の部署から言わせると、『ぬるま湯に浸かっている部署だ』と思われているようだけど、そうではない。この部署ほど自分の可能性を活かせる部署はないと思うんだ」

 と、編集長に言われ、

「どうしてですか?」

 と聞くと、

「社会部というのは、忙しいだけで、自分で発想を活かすということはないだろう? 目の前にあることをこなしていくだけで、発想と言っても、スクープを追いかけるだけで、今から思えばずっと受身だったような気がするんだ。それを感じさせないのは忙しさにかまけていただけで、まさか忙しさというのが言い訳になるなんて、今まで気づきもしなかったのさ」

 と言われた。

「なるほど、そうかも知れませんね。旅行雑誌というのは、読む人に豊かな想像力を起こさせるには一番いいのかも知れませんね。社会部の記事は、事実だけではまかないきれないところを、スクープという色をつけることで、読者の関心を買うことになる。下手をすると、自分で自分を嫌になることだってあるんでしょうね」

 と言いながら、言葉にしていることに心の中で、その都度頷いている自分を感じていた。

 旅行雑誌の方に来てから、一年が経っていた。

 馴染みの喫茶店では、相変わらず社会部の書いた記事を読んでいた。

 読みながら、

――俺だったら、こんな書き方はしないのにな――

 と思いながら読んでいる。

 自分が旅行雑誌の人間として読んでいるから感じることだった。

 今回、十一月に行こうと思っている温泉地というのは、昨年自分がまだ新人の頃、先輩と一緒に組んで記事にした場所だった。二泊三日の取材旅行で出かけたが、まだまだ新人で何も分からない中での取材旅行だったので、温泉を味わうということはできなかった。

 いずれは一人で訪れたいとその時から思っていたので、今回の休暇での旅行先はすぐに決定した。

「一人で行くのかい?」

 編集長には、行き先は告げていた。

「ええ、去年取材で行った時から、次に行く時は一人でって思っていたんですよ」

「なるほど、君らしいな。お土産は期待しているよ」

 と言われ、苦笑いをしながら、

「任せてください」

 と言っておいた。

 通勤電車の中で、一人の女性を介抱することになったのは、休暇を取ることにして、行き先を編集長に話してから三日後のことだった。旅行までには、まだ一週間あったので、まだ休暇気分にはなっていなかったが、その日、女性を介抱した時から、何か自分の中で少しずつ変わり始めていることに、その時はまだ気づいていなかった。

「大丈夫ですか?」

 途中下車して彼女をベンチに座らせてそう言った時、まだ顔色が冴えない状態で見た彼女の顔はどこか印象的だった。

――どこかで見たことがあったのかな?

 と感じたので記憶を辿ってみたが、思い出せる顔ではなかった。

 あまり人の顔を覚えるのが得意ではない純也だったので、思い出せるとすれば、ごく最近に見た顔だけだと思ったが、どうやらそうでもないことに、その時気がついた。

 記憶を辿っていく中で頭をよぎる顔というのは、自分が学生時代の頃、何となく気になっていた女の子ばかりだった。彼女がほしいなどと思っていたはずではないのに、なぜいまさら頭をよぎるのか、訳が分からなかった。

――どういうことなんだろう?

 彼女の顔色は、話をしているうちに戻っていった。

――精神的なものなら、気を紛らわせてあげると、楽になるんじゃないか?

 と思ったから、なるべく話しかけてあげていたが、彼女もそれを分かっているのか、会話を続けるようにしているのが分かった。最初はぎこちなかったが、それでも途中からは話題がかみ合うようになり、顔色も息遣いも元に戻っているようだった。

 最初に見たのが苦しそうな表情だったからなのか、顔色が戻ってきて、笑顔の彼女を見ると、

――なんて可愛らしい女の子なんだ――

 と感じたが、次第に可愛い中に、どこかしっかりしたところが見え隠れしているのか、笑顔にキリッとしたものを感じ、急に言葉に詰まりそうになるのを感じた。

――初めて感じるタイプの女性だ――

 と感じたことで、その時から純也は彼女に心を奪われていたのかも知れない。

 それまで会社の恩の子と普通に話をしていたが、会話のほとんどは仕事の話で、お互いに異性として意識していなかったから、会話が弾んだのだと純也は思っていた。

 その思いは当たらずとも遠からじであり、相手を異性として意識してしまうと、いくら仕事の話だとはいえ、それまでとは違ってしまうような気がしていた。

 話し始めは相手を異性と感じようが感じまいが同じではないだろうか。しかし、一旦会話に詰まってしまうと、以西を意識している相手とは、会話が続かない気がしていた。一気に会話を成立させてしまわないと、気持ちにぶれが出てしまう。それが、相手を意識するということになるのだろう。

 会話の始まりは、ただ相手を異性だと思っているだけど、一旦詰まってしまうと、今度は、

――異性として対応している相手――

 という意識を持ってしまい、異性という不特定多数ではなく、相手本人を意識してしまうことになるからだ。

――僕が気になるのは、相手が異性だからではなく、異性としての相手として見てしまうからに違いない――

 それが恋というものだということに、考えれば分かるのだろうが、その時にならないと分からないのは、純也だけではないだろう。

 純也は、苦しんでいる彼女を助けて、一緒に電車を降りた。そこに下心がなかったのかと言われれば、

「なかった」

 とは言えない。

 ただ、それは、相手を自分の彼女にしたいなどという具体的な感情ではなく、ある意味、もっと浅ましい考えだった。

「よいことをしたんだ」

 という自己満足に浸りたかった。

 相手からお礼を言われることで、自尊心を高めたかったというのが一番の本音だったのだ。

 しかし、もし気分が悪くなった相手が男性だったら、その人を庇うようにして一緒に電車を降りるだろうか?

 いや、そこまではしなかっただろう。相手が女性だったからしただけだ。そこに自分では気づかない下心が潜んでいたのは間違いない。

 しかし、実際に最初は自分の彼女にしたいという意識だったり、女性の友達を作って、いずれは、そのツテを頼るようにして彼女を作りたいなどという考えまではなかった。その証拠にその時、彼女の連絡先を聞きたいとか思ってなかった。名前さえ聞かなかったくらいである。ただ、

――名前くらい聞いておけばよかった――

 と感じたのは確かで、後悔したとすれば、それくらいだっただろうか。

 彼女との会話はその時はなかった。その日、彼女はそのまま病院へ行ってから会社に出社すると言っていたが、純也と別れる時は、顔色はすっかりよくなっていた。

 ほとんど会話らしい会話があったわけではないので、時間はあっという間だったような気がしていたが、後で時計を見れば、数十分二人だけでいたことになっていた。

――そんなに時間が経っていたんだ――

 と感じたのだが、彼女の顔色がだいぶよくなっているのを思い出すと、それも無理もないことだと思えた。

 自分の感覚がマヒしていたのかと思ったが、雑誌の記事を書くのに集中している時は時間が経つのはあっという間だったりするので、別に感覚がマヒしているわけではないのだろう。そんな彼女とすぐに会えるような気がしたのは無理もないことだったが、まさか別の場所で遭うことになるとは思ってもいなかった……。

 彼女のことは数日ほど記憶に残っていたが、休暇で温泉に行く日が近づいてくるにしたがって、彼女への意識が薄れてきていた。すでにその頃には、人の顔を記憶することに掛けては苦手な純也は、彼女の顔を思い出せないところまで来ていたのだった。

 純也は意外にも一人で温泉に来るのは初めてだった。この会社の方針として、取材で行くのは二人で行動することになっていた。一人がカメラマンで、一人がライターである。いつも同じペアというわけではないが、ある程度ペアは決まっていた。そういう意味でも一人での温泉旅行は、実に新鮮な気分だった。

 取材で過ごす時間は、いつもあっという間だった。食事もおいしいことに変わりはないが、取材も兼ねているので、せっかくの食事もどこに入ったか分からないくらいになっていた。息抜きにやってきた温泉では、まず楽しみなのは一番に食事で、その次が温泉だと言っても過言ではないだろう。

 温泉までは、電車を乗り継いでいくことにした。取材では会社の車で行ったが、やはり旅の醍醐味は電車での旅だと思い、電車を乗り継いでいくことにした。

 場所は、新幹線で一時間ほど乗り、そこから海岸線を通るローカル線で二時間ほど、最後は海岸線から別れを告げて、山間に入り、いよいよ目的の温泉地の最寄り駅に到着するのだ。

 温泉自体は、山の中腹にある。車で赴いた時はずっと山間を通ってきたのであまり意識はなかったが、こんなに海が近いところにある山間だったとは、自分でもビックリしていた。

 実際に温泉は山に囲まれたところにあって、温泉から海が見えるわけではない。ピンと来ないのは無理もないことで、地図だけを見ていては分からないというのも、旅の醍醐味であった。

 最寄駅に着いて、改札を抜けると、小さなロータリーになっていた。駅前と言っても何かがあるわけではない。かろうじてバスが一本通っているだけで、それも近くの工場用に敷かれた路線だった。だが、その工場もすでに御用済みのようで、来年には閉鎖が決まっている。ますますここは寂れる条件が揃ってくるかのようだった。

 予約をした時、最寄り駅からマイクロバスで送迎してくれるということだった。ロータリーの奥の方に申し訳なさそうに止まっているマイクロバスを見つけたが、そこには予約した宿の名前が書かれている。さっそく近くまで歩くと、運転席から背の低そうなおじさんが一人降りてきて、低い背をさらに屈めて、深々と挨拶してくれた。

 取材に来た時にもいたのを覚えているが、相手は自分がその時の取材の人だと分かっているのだろうか?

「樋渡様ですね? ようこそ、佐渡谷温泉へ」

 と言われたので、

「お世話になります」

 と答えた。

 やはり腰の低さは田舎ならではの温泉であった。

 予約する時は、以前に取材で来たということは黙っていた。下手に話をして、仕事の話題を蒸し返されるのも嫌だったからで、純也としては、休暇で来ているので、仕事のことは忘れたかった。

 駅に着いたのは、昼の三時を過ぎた頃だった。駅から車で温泉宿までは約三十分くらいだと聞いていたので、宿について少しゆっくりしながら温泉にでも浸かっていれば、ちょうど夕食の時間くらいになると思っていた。

 最寄駅から少し走ると、

「右手を見てみてください。海が見えますよ」

「本当だ」

「電車は途中から山間を走るので、お客さんのほとんどは、海からかなり遠ざかったような気がしているようなんですが、実際には少し山間に入ったところから、海岸線とは平行に走っているんです。だから、場所によっては海が綺麗に見えるスポットもあったりするんですよ」

「なるほど、綺麗ですね」

 時間的にも日が西の空に傾き始める頃である。山の上から見る海に、西日が差し込んでいて、実に綺麗だった。

「気に入っていただけましたか?」

「ええ。本当に心が洗われるようですよ」

 と答えた。

 その言葉にウソはなかった。もし、取材で着ていれば、同行しているカメラマンは間違いなくシャッターチャンスを捉えていただろう。車を止めてもらって自分でポジションを確立してベストの場所を探すに違いない。しかし、今日は一人でリフレッシュに来ているのだ。もったいないと思ったが、

――この綺麗な景色も一瞬だから貴重なのだ――

 と考えた。

「少し止めましょうか?」

 おじさんは、そういって返事も聞かずに車を止めた。それはもったいないと思っていた純也にとって、願ってもないことでもあった。

「ここから眺める海が、この辺りでは一番綺麗なんですよ」

「そうですね。僕が知っている海の光景の中でも、イチニを争うほどの綺麗な景色だと思いますよ」

 というと、おじさんは昔話を始めた。

「ここにはですね。昔からいろいろな言い伝えがあるんですよ。いくつかの海にまつわるおとぎ話があるじゃないですか。それに類似した話がいくつも残っていて、まるで、おとぎ話の宝庫のようなところだっていうことで、大学から学者の先生が調査に来られたこともあったくらいなんですよ」

「それはすごいですね」

「でも、他の人たちは、いくつかの言い伝えはおとぎ話を模倣した盗作だって言う人もいたりして、綺麗なだけでは済まされないところもありました。世間というのは、どうして他人事だと思うと、こうも無責任なんでしょうね」

 と言ってため息をついていた。

 それを見て、無表情の純也を見たおじさんは、

「これは失敬。せっかくのお客さんに愚痴などをこぼしてしまって。誠に申し訳ないことです」

 と、恐縮していた。

「いえいえ、大丈夫ですよ。これだけ綺麗なところなんですから、他人事だと思っている人は無責任なことも言いますよ。それに関しては僕も苛立ちを覚えますよね」

 と、おじさんの肩を持つような言い方をした。

「ありがとうございます。やっぱり残していかなければいけないものっていうのはどこにでもあるもので、私はここの景色や自然を残すのが、自分たちの使命のようなものだって思います。少し格好のつけすぎですかね?」

 と言って苦笑いをした。

「そんなことはありませんよ」

「そうですか?」

「ええ」

 車を止めたところというのは、一番海に近いところだった。尖ったような場所の先端にある鋭利な場所に一本の松の木が植わっていた。

「あの木にも伝説があるんですよ」

「どんなですか?」

「いわゆる『羽衣伝説』ですね」

「というと、天女の羽衣ですか?」

「ええ、満月の夜になると、海に月の光が反射して、松の木をを照らすらしいんです。その時に、羽衣が光って見えるというのがその伝説なんですが、その羽衣を見た人は何人もいるらしいんですが、見たという根拠としては残っていないんです」

「どうしてなんですか?」

「それは羽衣を見た人がそのことを他の人に話すと、皆次の日には死んでしまったらしいからなんですよ。最初に見た人は一度話すと翌日には死んでいますので、その話を知っているのは聞いたその人だけなんですよ。だから、その人以外が次に羽衣を見ると、普通は黙っていられなくなって、また他の人に話すでしょう? そんなことが繰り返されて、どんどん人が死んでいった時期があったらしいんです。もちろん、おとぎ話なので、昔の話なんですけどね。そして、この話を聞いた人同士がいずれ話をするようになる。その時初めて、羽衣を見たと話をした人が次々に死んでいくというウワサが立ったんです。でも、その時から羽衣を見る人はいなくなり、おとぎ話になっていったんですよ」

「なるほどですね。でも、それって本当に最後誰も見なくなったんでしょうかね?」

「というと?」

「話すと死ぬということが分かってきたんだから、誰も話さなくなるじゃないですか。だから誰も知らないまま、ずっと口に戸を立てたまま、おとぎ話として語り継がれるだけだったのかも知れませんよ」

「それも一つの考え方ですね。いや、むしろその方が正論ですね。でも、おとぎ話になる話というのは、どこか教訓が含まれている。そういう意味では、最後に誰も何も言わないということが、一種の教訓だったとすれば、あなたの説はこの話がおとぎ話だということを裏付ける理屈になっていると言えますよね」

「ええ、私も今それを考えていました。何にしても、おとぎ話というのは、誰もが信じることのできるものであり、疑ってみてみるのも自由なんですよ。だから、長く言い伝えとして残っているのかも知れませんね」

「ここだけではなく、似たような話が全国にいくつもあるというのも、そういう理屈を考えてみると、納得がいく気がします。ただ、そこに人間以外の別の生命が関係しているのではないかと考えるのは、SFチックだったり、オカルトだったりするんでしょうね」

 二人はおとぎ話に対しての持論を戦わせていたが、西の空に傾きかけていた日差しが、本格的に西日としての威力を発揮していた。

「そろそろ参りましょうか?」

 おじさんとの話に夢中になって時間が経つのも忘れていた。

 あっという間だったという意識を持ちながら我に返ってみると、さっきまで感じなかった風の冷たさを感じた。

 さっきまで冷たさを感じなかったのは、話に夢中になっていたからなのか、それとも風が吹いていなかったからなのか、時間が過ぎてしまうと、まったく分からなくなっていたのだった。

 車に乗り込むと、おじさんは寡黙になっていた。無言のまま運転している人を気にしながら後部座席から車窓を眺めていると、次第に山深く入っていくようだった。

 おじさんの背中から漂ってくるものは、哀愁ではなかった。饒舌とまでは言わないが、さっきまではいろいろと教えてくれていた人が急に寡黙になると、哀愁を感じさせるものだと思っていたがそんなことはなかった。何かを考えているというわけではなさそうなので、ただ黙々とした雰囲気なだけである。

――ひょっとして、何かを隠しているんじゃないかな?

 と思わせるほどだった。

「そろそろ見えてきますよ」

 やっと口を開いたかと思うと、目の前に寂れかけてはいたが、昔からの情緒を感じさせる木造の佇まいが見えてきた。以前来た時にも感じたことだが、建物からは、暖かさが感じられなかった。

 それなのに、どうしてまた来てみようと思ったのだろう?

 取材で来た時は、あまり気にならなかったが、プライベートで来てみると、暖かさを感じない佇まいは、来たことを後悔させるほどだった。車が到着し玄関に入ると、見覚えのある女将さんが深々と頭を下げていた。

「いらっしゃいませ」

 この時に初めて純也は暖かさを感じた。

「お世話になります」

 挨拶だけで会話はなかった。女将の様子を見る限り、以前取材でここに来た人間であるということを分かっていないようだった。さらっとした挨拶をしただけですぐに奥に入り込み、後は仲居さんに任せていた。

「お部屋はこちらになります」

 案内してくれた部屋は、前に泊まった部屋よりも少し狭かったが、以前は二人で一部屋だったので、一人で占領できるのは嬉しかった。窓から見える景色は、絶景というわけではない。木が生い茂った森が見えているようだった。

 仲居さんと食事の時間を打ち合わせ、純也は早速温泉に入ることにした。

 ここの温泉は三種類あり、露天風呂が二つに、室内の風呂が一つだった。滞在は三日間にしていたので、ゆっくり温泉を堪能できる。ただ、今から思えば三日間は長すぎるのではないかと思った。それは、最初に感じた暖かさを感じなかった雰囲気を拭い去ることができなかったからだ。

 浴衣に着替え、露天風呂のあるところまでゆっくりと歩いていると、もう一人宿泊客がいるような気がしてきた。暖かさを感じなかったことで、てっきり最初は、

――宿泊客は自分ひとりだ――

 と思い込んでしまっていたが、どうやら違うようだった。

 その人がどんな人なのか見たわけではないので分からなかったが、何か女性の気配を感じた。それは、宿の人の雰囲気ではない。しいて言えば、都会の雰囲気を感じさせる匂いを持っている人のようだ。

――そのうちに会うことになるかも知れないな――

 という程度にしか感じていなかった。まずは、目的の温泉に浸かって、日頃の疲れを癒すことにした。

――温泉に浸かっていると、どうして眠くなってしまうのだろう?

 旅行雑誌の方に配属になって初めて感じたことだった。学生時代にも何度か温泉にやってきたことはあったが、その時は眠気を誘う雰囲気はなかった。

――このまま眠ってしまってもいいかも知れないな――

 溺れてしまうという意識はなぜかその時にはなかった。しかし、そんなことを考えていると、今度は眠気が冷めてしまった。

――勝手なものだな――

 考えているのは自分本人なのに、勝手なものだと感じるのは、この旅行を最初から他人事のように考えようという意識が働いていたからなのかも知れない。

 取材であれば、仕事になるので、ただ漠然と時間に流されるわけには行かない。だから絶えず何かを見つめ、何かを考えていた。しかし、プライベートな旅行なのだから、余計なことを考える必要などないのだ。

――普段感じることのない他人事の感覚を味わってみたい――

 と感じていた。

 普段であれば、他人事のように考えている人を見ると、苛立ちを感じていた。なぜなら、他人事のように振舞っている人は、本人の中で、他人事だと感じていることを表に出さないようにしているのを感じるからだ。

――最初から他人事のように思っているのなら、表に出せばいいものを――

 と感じるのは、純也だけだろうか。

 純也は他人事のように感じている時、まわりに悟られないようにしようなどと考えたことはなかった。だから、露骨にまわりから胡散臭そうな目で見られることもあった。

 だが、隠そうとしても分かる人には分かるのであって、どうしても他人事のように感じなければいけない場面に出くわせば、敢えて隠そうなどとしないようにしていた。

 それでまわりから胡散臭そうに見られるのであれば、それはそれで仕方がない。そう思いたい人には思わせておけばいいだけなのだ。

 温泉に浸かっていると、いろいろなことが走馬灯のように脳裏をよぎっていた。それはまるで夢を見ているのではないかと思うように、漠然としているものなのだが、なぜか頭では理屈を考えている。記憶が一瞬でも途切れた時、急に我に返って最初に感じるのは、

――一体何を考えていたんだろう?

 という思いだった。

 それは、ただ記憶の奥から醸し出される思い出を思い出そうとしているだけのはずなのに、何かを考えていたという思いが最初に頭をよぎる。自分の中で信憑性のあるものであり、理屈で何かを解明しようとしていたように思えてくるのだった。

 温泉に浸かりながら、最近のことを思い出していたが、その記憶は、電車の中で女の子が立ちくらみを起こし、介抱してあげた時のことだった。

 しかし、我に返って考えてみると、さっきまで思い出していた内容と、我に返ってからの記憶を比較すると、どこかが違っているように感じた。

 どこが違っているのか、すぐには分からない。このまま考えていても、結局見つからないかも知れない。それでも、一度我に返ってしまうと思い出さないわけにもいかない。

「もう一度、さっきと同じように他人事の気分になれば、同じ感覚になることができるだろうか?」

 と自分に言い聞かせるように言葉に出して言いながら、もう一度、肩までお湯に浸かってみた。

――他人事になれるだろうか?

 そう思ってもう一度瞑想していると、今度は違う場面が思い出された。

 それは、馴染みの店で、カウンターに座っている時、後ろにいた客のウワサ話だった。

 自分にはまったく関係のないことであり、完全に他人事だったはずだ。他人事という意識が強すぎて、違う「他人事」を思い出してしまったようだ。

 カップルのするウワサ話など、ただ興味を持つだけで、深くは考えたりはしていなかったはずなのに、なぜ今思い出してしまったのか、やはり、他人事という意識からだろうか?

 その時、純也は決して後ろを振り返ろうとはしなかった。声だけを聞いていたのだが、その声が少し掠れていたように感じられた。

――どうしてハスキーだったんだろう?

 最初は分からなかったが、今思い出してみると納得できる。普通の声のトーンに聞こえていたのは、話の内容に途中から興味を持ったからで、相手の顔を見ずに聞き耳を立てていたので、実際にはヒソヒソ声だったことで、声自体がハスキーだったのだ。そう思うとハスキーな声のトーンがストライクだった理由も分からなくもなかった。

 ただ、思い出してみると、話の内容は本当に自分にとってどうでもいいことだったはずだ。それなのに気になったというのは、何かこれから起こることを予感させる何かがあったのではないかと思わせた。

 その証拠に、実際にどういう話だったのかがおぼろげだ。ただ感じることとして、

――あの時の話は、これから自分のまわりに起こることを暗示していたような気がする――

 というものだった。

 しかし、直接自分に関係のあることではない。、あくまでも他人事である。ただ、事件に巻き込まれるかも知れない。その中途半端な意識が、温泉で他人事として思い出そうとすると、おぼろげにさせるのだろう。

 またしても、

――もう一度、思い出してみよう――

 と思い、さっきと同じように温泉に肩まで浸かってみた。

 夢を見ているように感じられたが、今度は何も意識するものはなかった。

「これじゃあ、本当に眠ってしまうじゃないか」

 苦笑いをしながら口に出して言ってみると、もう、温泉に浸かりながら他人事を感じることはできなくなっていた。

――このままではのぼせてしまう――

 さっきまでとは明らかに違う。これ以上温泉に浸かっているわけにもいかず、湯から上がって浴衣に着替えた。完全に身体は温まっていて、着替えるまでに寒さや冷たさを感じることはなかった。それが温泉の効用なのか、それとも浸かりすぎていたことを証明しているだけなのか分からなかった。

 部屋に帰って時計を見ると、一時間も経っていた。どちらかというと貧血気味のところがある純也なので、温泉に浸かれる時間は限られているはずだった。移動や服の脱着の時間を差し引いても、かなりの時間、温泉に浸かっていたことになる。自分でもビックリしていた。

 部屋まで帰ってきて、畳の上で大の字になって仰向けに横になっていた。目の前に見える天井を見ながらボーっとしていると、天井が落ちてきそうに感じられ、身体が反射的に反応し、ビクッとなったかと思うと、まるで金縛りに遭ったかのように、動けなくなっていた。

 手足の指先は痺れていた。痺れのせいか、指先の感覚がマヒしてしまい、自分の指ではないかのように感じられた。くっついてはいるが、本当に自分の指なのか、確認しようと頭を動かそうとしたが、首も回らなかった。

――これは真剣、動けないぞ――

 と、純也は落ちてきそうな錯覚を覚えている天井を見つめながら、身動きできない自分に苛立ちを覚えていた。

 金縛りに遭うことは、今までに何度もあった。

 金縛りに遭う時には、前兆があり、足のふくらはぎに違和感を感じた時、

――金縛りだ――

 と悟るのだった。

 足が攣ることも何度もあった。

 仕事で疲れている時、欝状態に陥ることを感じた時など、理由はハッキリとしていた。しかし、金縛りの場合は理由がハッキリしている時と、ハッキリしていない時の両方があり、今回はハッキリとしているわけではなかった。

 確かに温泉に浸かって、浸かりすぎたことで、身体の疲労が表に出てきたからだといえなくもないが、根拠としては微妙なところだ。

 理由がハッキリしている金縛りとしては、やはり欝状態への入り口を感じた時だろうか?

 金縛りから欝状態を見るのではなく、欝状態の自分が金縛りに遭っている自分を見つめているのを感じる。他人事というよりも、完全に他人としての目であった。

 そういえば、欝状態に陥る時にその前兆を感じるのは、

――自分を他人のように見てしまうからだ――

 と思ったことがあった。

 自分を他人としての目で表から見ていると、内側からでは見えなかったものが見えてくる。そういう意味では欝状態とは、自分にとって悲惨なことばかりではないと言えなくもない。

 人のウワサが気になってしまうのは、自分を自分として中から感じているからで、

――近い将来、自分にもありえることだ――

 と感じるからだろう。

 しかし、この間のカップルがしていたウワサ話は、純也にとって完全に他人事だったはずなのに、なぜか近い将来に自分に関わってくるような気がすると感じた。

 もちろん、根拠があるわけではない。今までになかったパターンなので、根拠などありえるはずがないのだ。

――ただの予感というだけなのか?

 とも思ったが、さっきの温泉に浸かった時に、二つの違う思い出を思い出したことで、この二つが、どこかで繋がっているように思えてならなかった。

 立ちくらみを起こした女性を助けたことが、ウワサ話とあいまって、どのように自分に影響を与えるというのか、迫ってくるように感じる天井を見つめながら、考えていた。

 以前、金縛りに遭った時も、

――目の前の天井が落ちてくるのではないか?

 と感じたのを思い出していた。

 あの時は、天井が落ちてくるという思いから目を瞑ったことで、反射的に身体が動き、金縛りが解けたのだった。

――今回も同じなのだろうか?

 気になっている天井は、今のところ一向に落ちて来る気配はない。まだもう少しこの状態が続くようである。

 純也は金縛りを感じながら、睡魔が襲ってくるのを感じた。普段金縛りに遭った時、睡魔が襲ってくるようなことはないのだが、よほど疲れているのか、それとも温泉でのぼせてしまっていたのか、このまま眠ってしまうのが分かっていた。

――今日は夢を見るかも知れないな――

 そう思いながら、睡魔に身を任せていると、本当に夢を見たようだ。

 夢の内容を覚えている時というのは、怖い夢を見た時がほとんどだ。楽しい夢を見た時というのは、なぜか覚えていない。

――世の中なかなかうまくいかないものだな――

 と思わせるような典型例で、

――覚えていた方が絶対楽しいのに――

 と思うことばかりを覚えていないものだ。

 目が覚めるまでにはかなりの時間が掛かる。まだまだ眠っていたいという意識が働くからなのか、それとも現実の世界に引き戻されるのを嫌っているからなのか、目覚めはあまりよくない方だった。

 しかし、怖い夢を見た時というのは、

――早く目が覚めてほしい――

 と思う時であり、本当はまだ目が覚めていないにも関わらず、目が覚めてしまったような気分になるから、そのまま夢を忘れずに覚えているのではないかと思っている。

 理屈ではそういって自分を納得させることができるが、実際にどうなのか、なかなかうまく説明がつかない。他の人に説明しても、

「お前は変わり者だな」

 と言われるのがオチなので、人には言わないようにしていた。

 ただ、人と話をしていて、夢の話になった時、

「怖い夢だけは、なぜか覚えているんだよね」

 というに違いなかった。

 その日の夢は怖い夢だったのか、楽しい夢だったのか分からなかった。目が覚めてからところどころは思い出せるのだが、肝心な部分が思い出せないため、ストーリーが一本にまとまらないのだ。

――ひょっとすると、一度の夢の中で、いくつかのストーリーが展開されたのかも知れない――

 今までそんなことを感じたことなどなかったのに、なぜ急にそんなことを感じたのかというと、目が覚めてすぐに目の前に飛び込んできたのは、天井の模様だった。木目調の天井を見ていると、

――前にも見たことがあったような――

 と感じた。

 それは、睡魔に陥る時に見たのを、

――前に見た――

 と感じているわけではない。明らかに、今日ではないが、少し前に見た記憶だったような気がしたのだ。

 それがどこだったのか、分からなかった。自分の部屋の天井は様式なので、木目調であるはずはない。友達の家にもほとんど行くことはないし、天井を眺めたという記憶すらないので、どこかの記憶と交錯しているのではないかと思えてならなかった。

 しばらくすると、意識もしっかりしてきていた。そのおかげで、思い出せそうだった夢を思い出すことはできなくなり、気にはなったが、それ以上気にする必要はなかった。

 夢の中で覚えていることとしては、誰かを見たはずなのだが、その人の存在を恐ろしいと思ったのだ。

 夢に出てきた人は二人で、一人は自分だったのではないだろうか?

 相手は男性だった。自分の記憶の中では今までに見たこともない人で、その人を見ていると、何かを口にすることがないように思えてならなかった。

 無口な性格というよりも、口を開いた姿を想像できないような相手だったからだ。口を真一文字に結び、決して開こうとしない。

 つまりは、表情に変化がまったく見られない、ポーカーフェイスの男性で、まるで能面のような冷たさを感じるのだった。

 鬼のような形相も怖いのだが、それ以上に、氷のように冷たい表情しか創造がつかない人間の方がどれほど恐ろしいか、純也は夢の中でその表情から視線を逸らすことができなかったのを思い出した。

――視線を逸らすことのできないのは、夢に出ている自分なんだるおか? それとも、夢を見ていたことを今感じている自分だったのか、それすら分からないでいた――

――どれくらい眠っていたのだろう?

 自分の感覚としては、二時間くらいは眠っていたような気がした。しかしテーブルの上にある時計を見ると、温泉から帰ってきてから、まだ一時間も経っていなかった。睡魔に陥ってからすぐに眠ってしまったとしても、実際に眠っていたのは、五十分くらいのものだったのではないだろうか。

 それでもこの五十分の間に眠っていたおかげで、金縛りはすっかり解けていた。起き上がって縁側にある椅子に腰掛けて表を見ていると、まだ半分頭がボーっとしているのを感じた。

 湯冷めしているわけでもなく、さっきまでぼ疲れはなくなっていた。こうなると、どちらかというと貧乏性なので、じっと座っていることは却って苦痛だった。

「ロビーにでも行ってみよう」

 それまでに誰かに出会うかも知れないし、誰もいなくても、宿の人と世間話をするくらい、別にバチは当たらないと思った。

 ここに着いてから、他の宿泊客の気配を感じることはなかった。

――やはり、今日は一人なのかな?

 と思い、こんなことなら最初にチェックインした時に聞いておけばよかったと少し後悔した。

 こういうことは、後になればなるほど聞きにくいもので、それでも、今日の純也なら、聞けなくもないような気がしていた。

 部屋を出てロビーに向かうと、さっき感じていたのが違っていたことに気づいた。

 ちょうど、自分がロビーへ向かう途中の通路から先を横切るように一組のカップルがあった。

――宿泊は僕一人だけではないんだ――

 と感じ、二人が横切った辺りまでやってきて、二人の後姿を見つめたが、二人は純也の視線に気づくことなく、物音一つ立てずに露天風呂の方へと、姿を消していった。

――変な二人だな――

 歩いているのだから、少しは頭が上下していいはずなのに、二人とも、頭の高さに変化はなかった。まるで足を使って歩いているわけではないような佇まいだ。足がない幽霊のようではないか。

 二人の歩いた後を見ていると、濡れているように見えた。二人はもう露天風呂の方に曲がってしまったので確認することはできなかったが、本当にスリッパを履いていたのだろうか。

――おかしな二人だな――

 もし、その時、通路が濡れているのを見なかったら、その後純也はロビーに行って、その二人のことを聞いていたかも知れない。そのことをしなかったのを後になって後悔することになるが、それはまさしく、

――後の祭り――

 だったのだ。

 純也は、三日間の間、二人の姿を一度も見ることはなかった。最初に見かけたあの時だけだったのだが、横顔をチラッと見ただけなのに、女性の方の顔をしっかりと正面から見たように顔かたちの記憶はハッキリしていた。

 しかし、男性に関してはまったく意識がない。思い出そうとしても、顔は浮かんでこない。まるでのっぺらぼうのようで、目も鼻も口も、何もなかった。体格からしか男性であるという意識はなく、体型は彼女の顔同様、忘れることはなかった。

 純也は、この三日間、温泉にも十分に浸かり、ゆっくりと静養ができた。

「三日間、お世話になりました」

「また、おいでくださいませ」

 チェックアウトの時は、来た時よりも、顔色はよかったのだろう。女将さんは笑顔で答えてくれた。

「ところで、この温泉宿の奥にある、昇竜の滝には行かれましたか?」

「いいえ、仲居さんからお話は聞いていたんですけど、そこまでは足を伸ばしていません。そんなにいいところなんですか?」

 というと、

「そういうわけではありませんが、そうですか、行かれてないのであれば、それでいいです」

 何となく歯に物が詰まったような言い方で、一瞬純也は不思議な気持ちになったが、すぐに気を取り直した。

「今度来た時、行ってみます」

「ええ、ぜひ」

 と、言葉少なくそう答えた。

 純也はそれからすぐに家に帰り、温泉宿のことはだいぶ忘れかけていた。

 切り替えが早いことは純也の長所であるが、そのために、ついさっきまでのことを忘れてしまうことも結構あった。

「長所は短所と紙一重だ」

 と言われるが、まさしくその通りであろう。

――明日から、またいつもの生活が始まるんだな――

 と思うと、その日だけは眠りに就くまでは、温泉宿の思い出に浸っていたいような気がしていた。

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