第2話 インタビューの女
未来に対しての研究をしていた大出つかさは、自分が生まれた時代をあまり意識したことはなかった。つかさが生まれたのは二○二五年、東京オリンピックが開催されて五年が経っていた。
オリンピック景気に湧いたのは、オリンピックの前年だけで、それ以降は、深刻な不況に喘いでいた。元々時代としては、バブルが弾けてから、一度も好景気と呼ばれる時代を迎えることなく、オリンピック景気と言ってもたったの一年、すぐにその時にストックした資金は、底を付いてしまっていた。
「こんなことならオリンピックなどしなければよかったのに」
そんなセリフがあちこちから聞かれる。愚痴になるからあまり口にする人がいないだけで、インタビューされたりしてマイクを向けられると、堰を切ったように不満をぶちまける人が多かった。
それは当たり前のことだった。普段から人と関わることを嫌っている人でも、さすがにマイクを向けられると何かを言わなければいけないと思う人もいるようで、そんな人に限って、口から出てくるのは愚痴ばかりである。マスコミもよく分かっているので、マイクを向けるとさまざまな愚痴を言ってくれる人に寄っていく。
「今の景気についてどう思われますか?」
「何を当たり前のことを聞いているんですか? ろくなことがないもは分かっていることじゃないですか。景気がよくなっているのならまだ分かるけど、景気をよくするという安易な考えだけでオリンピックなんてやるから、どんどんひどくなってしまう。オリンピックが終わってからの開催国がどうなったかを見てみれば一目瞭然じゃないですか」
「なるほど、確かにそうですね」
「国家自体が破産した国だってあったじゃないですか。そんな状況を政府は何も考えていないんですかね。オリンピック開催が決まってからもいろいろな問題があって、ギリギリまで問題が山済みだったじゃないですか。本当であれば、その時にできるだけ貯蓄をしておくべきなのに、問題のために、結局何も貯蓄もできなかった」
「開催を優先したために、置き去りにされてきたことも多いでしょうからね」
「それだけではないと思いますよ。オリンピック開催のための体裁作りとして、せっかく反映している業界の締め付けをしてしまったために、せっかくのドル箱産業を行き詰らせてしまった責任は大きいでしょうね。何とか黒字だった産業を締め付けて法で縛ったために、立ち行かなくなって瞑れたお店もたくさんありますよね。これって国家や開催都市自治の罪なんじゃないかって思います」
「そうかも知れませんね」
「今から五十年以上前にあった最初の東京オリンピックでは、戦後復興から、爆発的な景気の回復が後押しになったからこそ、そこまでの惨状にはならなかったんですよ。土台も何もない時代に、オリンピックをやろうなんて、考え方がめちゃくちゃなんだ」
意見はどんどんエスカレートしていく。
本当であれば、このあたりでインタビューを打ち切るべきなのかも知れないが、この時のレポーターは止めようとはしなかった。
「なるほど、過去のオリンピックとの比較ですね」
そういって、どんどん相手の意見を煽っていこうとしていた。
「オリンピックというと、派手で経済効果が確かに見込まれるとは思いますが、その影で消えていく産業だったり、開催前の反動が大きかったり、開催するために巨額の費用を拠出して作ったスタジアムなどの施設を、開催後は、誰も利用しようとはしない。大会中にあれだけ盛り上がった競技場も、オリンピックが終わって一年も経てば、フィールドには苔が生え放題なんてこと、普通にありましたからね」
「そうですよね。せっかく作った国際競技場も、中にはオリンピック開催後には一度も使用されることなく廃墟のようになっているところもあります。維持するための予算もなく、子供の遊び場としても開放されない。まるで墓場のように思えるのは私だけなんでしょうかね」
そこまで話してくると、隣にいた女性も会話に入ってくる。二人はデートの最中だったのだろうが、男性がデートを忘れて愚痴に走ってしまったことで、女性はしばし忘れられた存在になっていたが、このままではいけないと思ったのだろう。どうするかと思えば、何と会話に参加してきたのだ。
「子供のことを考えると、私も少し言いたいんですよ」
と言って、少し間を置いた。
すると、さっきまで興奮して愚痴をこぼしていた男性が急に落ち着きを取り戻して、口を開いた、
「彼女、元々保育士だったんです」
なるほど、保育士であれば、子供の話になってくると、口を挟みたくなるのも不思議ではない。
「ちょうどあの時、金森学園の問題が国会で問題になっていたではないですか。最初は、建設費の問題だけだったんですが、途中から教育方針のことが問題になったあの事件を覚えていますか?」
金森学園問題というと、最初は、国家の要職にある人が学園の階層日を巡って、値引をするしないの問題が国会で追及されていたが、まさにその時、街はオリンピック開催前で、景気は少し上向きだった。
景気が上向きだったということもあってか、国会で問題にはなっていたが、内閣が崩壊するほどの問題にまではなっていなかった。
しかし、実際にオリンピックが終わり、景気が頭打ちになってくると、再び金森学園問題が浮上してきた。
野党は、何とか与党を追い詰めようとしていたが、与党側は、
「すでに昨年、この問題は解決しておりまして……」
と、何とか野党の追及をかわそうとしていた。
これが、逆に墓穴を掘る結果になったのだが、値引問題などは、表面上の問題で、野党が別の筋から調査してみると、保育園の経営というよりも、園児への教育に宗教が関わっていて、そこにお金が絡んでいることが分かってきた。
問題の宗教団体と、総理大臣の癒着が問題になり、それまで磐石に思えた政権が、一挙に揺らぐ問題に発展していった。
しかも、その宗教団体は、子供といえども容赦なく、子供だからこそ分からないことであっても、処罰の対象にしてしまい、野党が調べたところでは、完全に人権問題にまでなってしまっていた。
国民の怒りはハンパではなかった。
まだ、談合や癒着程度であれば、ここまで大きな問題にはなっていなかっただろうし、国会で野党に追及されても、何とかごまかしてこれたが、今度は宗教が絡んでいて、しかも人権問題にまで発展していれば、一気に政権はピンチに陥った。
特に当時の政権与党は、人権問題や、子供の教育に対して、金銭的な援助や、人道的な支援などを公約にしていただけに、完全に国民は裏切られた結果になってしまった。
「一体、どうすればいいんだ」
オリンピック終了後であったこともあり、景気は頭打ち、そんな時に起こった政府の国民を裏切る行為。そうなると、現政権は風前の灯だった。
オリンピックを開催した政権が、オリンピック終了後に、オリンピック関係以外のことで破局を迎える。そうなってしまうと、景気の回復など、ありえるはずもなかった。
国民は、
「裏切られた」
という重いから、政府への憤慨しかなく、政権の放棄を求めた。
しかし、それが景気の回復を不可能にするための決定的な決断になってしまうことに気づいていなかった。
「あの時の国民は、自分たちで自分たちの首を絞めたんだ」
と考えていた政治評論家もいたが、そんなことを口にでもしたら最後、民衆から命を狙われる危険性もあった。下手なことは言わないに越したことはない。
その後を引き継いだ政権は、あっという間に分裂してしまった。
半年も持たずに衆議院は解散、総選挙となってしまった。
「どこが政権を取ったって一緒だよ」
誰もがそう思っていた。ただ、国民を裏切った政権にだけは投票したくないという思いもあったからか、投票率は最低だったが、政権としては、実に無難な党が政権を取ることになった。
政策面では、たいしたことを公約に上げているわけではなかった。ただ、クリーンな政治家が一番いそうなところだというだけで、別に目立ったところは一つもない。
「どうすればいいんだ?」
政権内で、そんな声も聞こえてきそうなくらいの頼りなさ、そんな政権に、景気を元に戻すことなでできるはずはない。
金森学園問題は政権が変わっても最初の方は少し問題になっていたが、忘れた頃には、本当に忘れられていて、誰も問題にする人はいなかった。政権がめまぐるしく変わる中で、本当に忘れられていたのかも知れない。
だが、一番深刻な経済面はどうしようもない。どうすればいいんだというのは、国民側のセリフだった。
政治はいくらクリーンであっても、実行能力や達成するだけの力がなければどうすることもできない。
あの時のインタビューで、女性の方が言っていたことが、そのまま事件となって現れた。その頃からインタビューしたレポーターは、
「俺の目に付いた人にインタビューすると、その予見が本当のことになるような気がするんだ」
と、嘯くようになっていたが、その言葉にウソはなかった。
彼の名前は岡崎という。
「岡崎さんは、どうしてそんなにインタビューする人が、将来を予見できると思うのですか?」
とカメラマンの人から聞かれた。
カメラマンの人は興味本位で聞いているだけだったが、的中していることで一番ビックリしているのは、当の岡崎だった。
「俺にも分からないんだ。だから、予見できたとしても、それを確定的な言い方にするようなことはできないんだ」
と答えた。
「でも、まるでカリスマインタビュアーのような言われ方をしていますよ」
「それは、本当に迷惑千万なことだ。俺には分かっているという自覚はあるんだけど、本当に当たっていた時、自分でもゾッとするんだよ。最初は当たったことを誇らしげに感じたものだけど、今はそれ以上に自分が怖い気がするんだ」
「やっぱり最初のきっかけは、あの時の金森学園をインタビューしたあの女性からなんですか?」
「ああ、そうなんだ。俺には彼女の存在が不思議に思えてならないんだ」
「どういうことなんですか?」
「最初は、まったく何も言わなかったのに、途中から入ってきただろう? その時は、『ほら来た』って思ったんだ。それまで言いたいことを我慢していたような様子が伺えたからね」
「私もそんな気がしていました」
「そうだろう? でも、話をしているうちに、俺が考えていることを、そのまま口にしているように思えて、それにビックリした。でもよくよく考えると、俺が考えたことではなく、彼女の雰囲気が俺に発想を抱かせていただけなんじゃないかって思うんだ」
「それって、まるでテレパシーのような感じですね」
「まさにその通り、俺はテレパシーなどということは、そう簡単に信じないんだが、その時は信じてもいいように思えてならなかった」
「信じたんですか?」
「ああ、信じたよ。信じなければいけない雰囲気だったからね」
「ひょっとして、その時、彼女と他の人には分からない会話のようなものがあって、その時に岡崎さんは、持っていなかったと思っていた能力が覚醒したのかも知れないと僕は思うんですよ」
「そんな考えもあるかも知れないな」
岡崎はカメラマンの言っていることにも一理あると思えてきた。
「岡崎さんは、その時の女性とそれから遭ったりしましたか?」
本当であれば、
「いや、ないよ」
と答えるべきなんだろうが、
「あれから別の場所でバッタリ遭って、それからたまに会うようにあったんだ」
と、正直に答えた。
きっと彼は好奇心から、いろいろと聞いてくるかと思ったが、
「そうなんですか」
と一言で終わった。
それ以上何を聞いても答えないと思ったからなのか、それとも、聞けたとしても、それは自分が考えていることと同じことだと思ったのか、岡崎はそれ以上何も言わなかったし、カメラマンも聞くことはなかった。
岡崎とその女性が再会した時、先に気づいたのは、彼女の方だった。最初はお互いに再会を驚いていたが、嬉しそうなのは愛梨の方だった。
「また会えて嬉しいわ」
というと、笑顔を向けてきたので、
「僕の馴染みのバーにでも行きましょう」
という岡崎の言葉に、断わる理由もなく、彼女はすぐに応じた。
彼女は名前を愛梨と言った。もうすぐ自分は死ぬんだという。
「どうしてそんなことを言うんだい?」
「おかしいですか?」
「ああ、おかしいよ」
と言いながら、岡崎は笑ってはいなかった。
――この人は真剣に聞いてくれている――
愛梨はそれが嬉しかった。
「でも、私、死ぬんだけど、すぐに生まれ変わるのよ」
「どういうことだい?」
「人は死んだらどうなると思いますか?」
「もう一度生まれ変わると言いたいけど、僕はそこで終わってほしいな」
「どうしてなんですか?」
「もし、何かのきっかけで、生まれ変わる前の記憶が戻ったりしたら、辛くなるような気がするんですよ。もし、人生を全うしていればいいんだけど、志半ばだったり、未練が残っていたりしたら、せっかく生まれ変わったのに、余計な思いがこみ上げてきて、余計な気苦労を背負うことになりかねないからね」
愛梨という女はその言葉を聞いて、何度か頷いた。
「じゃあ、あなたは、生まれ変わる前の記憶が絶対に戻らないとすれば、生まれ変わってもいいというの?」
「全面的に賛成かどうかと聞かれると答えに困る気がするけど、おおむね問題ないように思うんだけど?」
「私も最初はそう思っていたの。でも、何度も生まれ変わってみると、そんなこともないものよ。かつての記憶を持っていたとしても、すでに自分が知っている人はいないわけなので、過去の記憶に縛られるということはないわ」
「じゃあ、かなり時代を飛び越えて生まれ変わるということなのかい?」
「そうじゃないの、生まれ変わる時代が違っているわけではなくって、生まれ変わる次元が違うのよ。似ているような時代であっても、そこにいる人は皆違う人、いくら顔形が似ていても、まったく違う人なのよ。なぜなら、あなたのいうとおり、他の人は、かつての記憶を完全に失っているから、自分が生まれ変わっているという意識もないの。でも、心の中では誰もが、自分は生まれ変わっているんじゃないかって思っているのよね。あなただって、一度は生まれ変わっているんじゃないかって思ったことがあるんじゃなくって?」
愛梨の話にはかなりな飛躍があったが、何となく分からないでもなかった。
「愛梨さんは、どうして自分が生まれ変わっているんだって、ハッキリ分かるんですか?」
岡崎はそれが一番の疑問だった。
「私は、過去に戻る研究をしていたんだけど、研究をしている時にふと感じたの。『過去に戻るということは、過去のことを変えてはいけないということになるんじゃないか』ってね。いわゆるパラドックスの考え方なんだけど、過去を変えてしまうと、未来が変わってしまうでしょう? そうなると、今こうやって考えている私は過去に戻ることを考えていないかも知れない。だとすると、過去にも戻れないでしょう? そう考えると、過去に戻ることは不可能なんじゃないかって思うようになったの」
「それは、物理的にというよりも、理論的に無理だということなんだね?」
「ええ、そうなの。でも、私以外にも、過去に戻る研究をしている人って結構たくさんいるのよね。その人たちが皆そのことに気づいてくれればいいんだけど、そうじゃないかも知れない」
「それだったら、その人たちを見つけ出して、過去を変えるのを阻止しないといけないですね」
「でも、生きている今が本当の世界なのかって誰が分かるというんですか? 時間や時空には次元がいくつも存在していて、無数の可能性とともに無限の世界が広がっている。それがいわゆる『パラレルワールド』というものなのよ」
「じゃあ、今生きている自分のいるこの世界が本当の世界だと思って生きていくしかないんじゃないですか?」
「ええ、普通の人ならそれしかないでしょうね。でも私には生まれ変わる能力が備わっているので、この能力を使って、できるだけいくつものパラレルワールドを見ることができる。それが私にとっての生まれ変わりなのよ」
「一度死ななければいけないんですか?」
「ええ。でも、普通の死ではないの。苦しみもなければ、辛さもない。ただ、そのためには、その世界では家族を作ることはできない。父親もいなければ、母親もいない。いきなり大人の状態で生まれ変わる。いなかったはずの人が急に現れても矛盾のないように、まわりの人に自分の擬似記憶を植え付けることもできるのよ」
「じゃあ、僕にも擬似の記憶が?」
「あなたには擬似の記憶を植え付ける必要はないわ。私の正体を明かしているんですからね」
「どうして明かしてくれたんですか?」
「私が、その世界で生きていくには、誰か一人、私の理解者を作る必要があるの。この世界ではあなたがその白羽の矢に当たった形なの。協力してとは言わないけど、私の存在だけを知っておいてほしいの。あなたが私を忘れてしまったら、私はこの世界には二度と戻ってくることができない」
「忘れることはないと思うけどな」
「そんなことはないわ。私が一度死んで、他の次元に行った時、あなたの記憶から私は消えてしまうの。でも、また私が戻ってくる時、あなたの潜在意識の中に私がいれば、私はここに戻ってこれる」
「つまりは、君が生まれ変わる時、僕の潜在意識を通って戻ってくると考えればいいのかな?」
「それに近い形だと思ってくれていいと思います。きっと、あなたの頭の中には、私が不老不死を持った女性というイメージが残ると思うんです。私がこの次元にいない間、あなたはきっと私のことを夢に見るでしょう。でも、その夢は目が覚めると消えてしまっている。もし消えなかった時、その時は私がこの世界に戻ってきた証拠なのよ」
「そういえば、この間、浦島太郎になったような夢を見たんだ。その時に出てきた乙姫様が印象的だったんだけど、それが君だったということなのかな?」
「ええ、浦島太郎の乙姫様は、私のイメージにぴったりでしょう? あなたには信じられないかも知れないけど、私は人によって見えている姿が違っているの。人によっては、ぽっちゃりのおばさんに見えている人もいれば、まるで無垢な幼女に見えている人もいる。私がどのように見えるかというのがそのままその人の性格だといってもいいかも知れないわね」
「まるで、君は生きているのに、生きていないかのような雰囲気なんだね?」
「そうね。言い方を変えるとそんな感じにも受け取れるかも知れないわね。まるでカメレオンのように、相手によって姿を変える。だからこそ、生まれ変われるのかも知れない」
「愛梨さんは、自分が本当はどこの次元の人間だったのかって分かっているの?」
「私が元いた次元は、今はもうないの。だから、次元を飛び越えない限り、生きることができないのよ」
「それはどういうことなんだい? まるで核戦争でも起こって、世の中が滅んでしまったとでもいうのかい?」
「核戦争というわけではないわ。でも、発想とすれば核戦争という発想も無理ではないかも知れないわね。それよりももっと深刻かも知れないわ」
「どういうことなんだい?」
「次元を研究している博士がいて、その人の研究が、他の次元への通路をたくみに開くことができるというものだったんだけど、それに失敗して、結局は自分のいた次元に飲み込まれてしまったのね。宇宙の発想でいえば、ブラックホールのようなものだと言えばいいのかしら? 私は運よく吸い込まれるところを逆に弾き飛ばされて、気が付けばまったく知らない世界にいたのよ」
「それは、どこの世界だったんだい?」
「私たちが滅んでいなければ行きついたはずの未来だったのよ」
「えっ、それはおかしいんじゃない? さっきの説明と思い切り矛盾しているように聞こえるんだけど?」
「ええ、そうなの。過去が滅亡したのに、未来が残っているなんていうのは、パラドックスを否定しているのよね」
「うんうん」
「でもね、だからこそ、他の次元に行くことができるようになったの。なぜなら私が人間ではないからで、いわゆるあなたが言った擬似人間とでも言えばいいのかしら?」
「よく分からない」
「私たちの身体は、電磁波でできているのよ。その電磁波を使って、あなたたち人間に、テレパシーを送って、私たちの姿を認識させているのね。だから、見る人によって自分の姿を変えて見せることができるのよ」
「そんなことができるんだ」
「あなたたち人間だって、元々電磁波でできているのよ。もっと言えば、世の中にあると思われているものすべてが電磁波によるものなの。あなたたちは電磁波と言う言葉を一絡げで見ているから理解できないのかも知れないけど、動物一つ一つ、いや、生存しているもの一つ一つで電磁波が違っているの。だから、性別や身体の形、そして匂いや感覚も意識したとおりに五感を通して感じることができるのよね」
「確かにそうだ」
「でも、そのことに皆が慣れきってしまっていて、当たり前のように感じているから、電磁波と言われてもピンと来ないのよね。与えられるばかりの電磁波だという意識は、誰にもあるにも関わらず、それが表に出てこないのは、人間の驕りのようなものなんじゃないかって私は思うわ」
「君は、最初から擬似人間として生まれてきたのかい?」
「それが分からないの。ここだけは自分たちだけでは分かる範囲のものではなく、理解できないようになっているらしいの。そうじゃないと、今みたいに時空を彷徨っていることに納得できないからだって私は理解しているわ」
「それでいいのかい?」
「ええ、私はそれでいいと思っている。だから死ぬことも生きることも、生まれ変わることにも必要以上の意識を持たないようにしているの」
「ひょっとすると、君たちは今の自分の使命を全うすることができると、元々いた世界に戻って、もう一度やり直せるかも知れないと思っているんじゃないのかな?」
「私もそう思ったことはありました。でも、前にいた世界にまた戻りたいとは思わないんですよ」
「どうしてですか?」
「正直、鬱陶しいと感じるんですよ。今の皆さんのように人間だった頃というと、家族があって、まわりの人と助け合って生きていく。それが鬱陶しいんです。一匹狼だと思っていると気も楽だし、自分があわりを助けているんだという自負が生きがいのようでもあり、そこに人を介することが後々自分の中で余計な感情を生むような気がするからですね」
「じゃあ、僕に対してはどうなんです? ただのこの次元での協力者というだけですか?」
「そうですね。私は他の次元にもあなたのような協力者を持っています。あなたのように聡明な方もおられますし、まったく余計なことを考えない、猪突猛進のような人もいます。でも私にとって、皆さんは純粋な人ばかりに思えるんですよ。だから、逆に私が感情を持ってしまうと、せっかく純粋に私に協力してくれている関係が崩れてしまう。もし、それでも私に感情を抱いてくれる人がいると私はこう言うんですよ。『ここで感情に走ってしまうと、私は二度とこの世界に入り込むことができなくなります』ってね」
「皆さんは、それにちゃんと従っていますか?」
「ええ、したがってくれます。したがってくれないと困るし、さっきも言ったように、この世界に戻ってくることができないというのは事実なんですからね。だからあなたも、私に必要以上に興味を持たないでくださいね」
「そうなんですか? 僕には他の世界で、あなたの言うことに全面的にしたがっている人ばかりではないように思えるんですよ。中にはあなたに対して恋心を抱いていて、苦しんでいる人もいるような気がするし、あなたが、生まれ変わるために死んでしまって、二度と会えないのではないかと、本気で心配しているように思えるんです」
「私がその世界で協力者に選んだのは、肉親が死んでも悲しいと思わないような人ばかりなんですよ。岡崎さん、あなたもそうじゃないんですか?」
岡崎にとって、胸を刺されたような気がした。まさしくその通りだったからである。
「どうしてそこまで……」
「私には、これでも使命があるんです。そのためには次の次元で選ぶ協力者には、かなりの時間を掛けて調査します。言っておきますが、私たちは次元の狭間では時間を自由に操れるんです。だから、かなりの時間を費やしても、それは、次の次元に入り込む時に時間を遡ればいいだけのこと。だから、時間が経っていないのと同じことなんですよ」
「でも、それって過去に戻ることでは?」
「そうですよ。ただ、過去に戻るといっても、自分に関係のある過去ではないので、そこに問題はありません」
岡崎は愛梨の話を聞いていて、自分の頭がどうかしてしまったのではないかと思うようになっていた。
岡崎は、しばらく愛梨を自分の下に置いておくことにした。
岡崎はそれからも、インタビュアーとしてのカリスマ性を前面に出していた。しかしそれは岡崎が望んだことではない。
「どうして、僕にこんな特殊能力が備わってしまったんだろう?」
愛梨に聞いてみたが、
「それは私にも分からない。きっと岡崎さんには最初から備わっていたものなんじゃないかしら?」
という答えしか返ってこなかったが、愛梨の様子を見ていると、
――何かを知っている――
という予感があったが、それ以上追求する気にはならなかった。
岡崎は、愛梨と一緒にいればいるほど、彼女が擬似人間だなんて信じられない。彼女の触ることもできるし、食事も人間と同じようにできる。
セックスだって……。
岡崎は愛梨という女性が次第に好きになっていった。
最初は同情のようなものからだったかも知れない。今まで孤独ばかりを感じていて、人と関わることがまるで罪悪のように思ってきた岡崎にとっては、一種の初恋なのかも知れない。
いや、本当の初恋は大学時代にしていたはずだ。その時のことを思い出していた。
彼女は、明らかに岡崎のことを好きだったのだろうと思っている。それは別れてから余計に感じるようになったのだが、なぜか別れたことをもったいないとは思わない。
「別れるべくして別れたんだ」
と自分に言い聞かせてきたが、それ以上でもそれ以下でもない。
出会いは大学時代だった。
中学高校と男子校だったこともあって、女性と関わることはなかった。しかし、女性を意識しなかったわけではない。いや、むしろ高校生になった頃は、女性への思いはひとしおだった。
ただそれは歪んだ感情だったのかも知れない。得られる情報は、アダルトビデオであったり、成人雑誌。他の友達なら、一人ではとても入れないような大人のお店に平気で出入りしていた。さすがに最初は緊張したが、一度入ってしまうと、
「何だ、こんなものか」
と、別にまわりの目を気にするわけではないので、背徳感はなかった。
ただ、自分以外の人が、恥ずかしくもなくビデオに出ているのだと思うと、興奮する。
――お金のためだけなんだろうか?
いろいろな妄想が頭に浮かんでくる。
きっと、自分が人と関わらないので知らないだけで、人と関わっていればそれは別に特別なことではないと思うかも知れないと感じると、おかしな気分になった。
だからといって、他の人のように他人に関わろうとは思わない。却って、分からない方が神秘的な気がして興奮を誘うというものだ。
岡崎は、そんな自分を変態だと思っていた。オタクだったり、変質者の類と変わらない自分を想像してみたが、想像できるものではなかった。人と関わらないこと自体、自分の中では変態だと思っていたのかも知れない。
高校時代は、受験勉強の合間に、一人ビデオを見て、自分を慰めていた。そんな毎日だったが、虚しいとは思っていなかった。
自分以外の人は、皆群れを作ってつるんでいる。会話の内容を聞いていると、実につまらないものだ。アニメやゲームの話題か、女の話題で、好きな女性を物色しているように聞こえた。それこそ、自分に対して感じた変態とどこが違うというのだ。
――どうせ、自分だけの気持ちの中で、相手の女性を蹂躙しているに違いないんだ――
と思い込んでいたからだ。
やつらの表情を見ている限りでは、大きく外れているようには思えなかった。誰もが抱く妄想は、一人であっても、皆と一緒であっても、大差ないということだろう。
「岡崎って、変態なんだってな」
というウワサガ、クラス中に広まって、次第に学年へと広まってくる。
「あいつはいつも一人で、何を考えているのか分からない」
という思いから派生したもののようだ。
しかし、その言葉に間違いはない。もし間違っていたとしても、必死になって訂正をする気はなかった。下手に必死になれば、相手を面白がらせるだけだということが分かっているからだった。
ただ、そんな中で一人だけ、岡崎のことを機にしている女性がいた。
彼女もいつも一人でいる女性で、岡崎は彼女のことを意識すらしていなかった。
一言で言えば、
「路傍の石」
気にするはずもない相手であり、見えていても、見えていないかのように感じるという不思議な存在だったことは間違いない。
彼女の視線は、他の人が見ても分かるのに、分かっていないのは、視線を浴びせられた本人だけだった。
「あいつら、変態同士でお似合いだな」
と、密かに噂になっていたが、岡崎の耳には届いていない。
渦中の女性の方は分かっていたようだ。
彼女は、岡崎と違って、耳は聡い方だった。
人のウワサには敏感で、岡崎のことを気にするようになったのも、皆が岡崎のことを変態だとウワサし始めたからだった。
――岡崎さんって、どんな人なのかしら?
そう思ったのが最初だった。
彼女の視線を思い出していると、そこには、
――以前にも感じたことがある――
と思えるようなものだった。
それがいつのことだったのか、分かるはずもない。その思いは一瞬だけだったからだ。その時はすぐに忘れてしまったが、時々、思い出すことがあった。本当は女性の視線に気づいている自分を、もう一人の自分が否定していることで、視線に気づいていないのに、以前にも感じたことがあるという思いを抱くのだった。
プロセスが抜けているので、自分に理解できるはずもない。ただ、その頃から岡崎は、自分の中に、
――もう一人の自分がいるのではないか?
という思いを抱くようになり、自分の意思ではない意思が、働いているように思えていたのだった。
高校を卒業するまでに、彼女のことを意識することはなかった。結局、彼女は就職し、岡崎は大学に進学した。二人は離れ離れになってしまったが、大学に入っても、何か以前に感じたことを感じるという感覚は相変わらず残っていたのだ。
大学に入ると、数人の友達ができた。
彼らも高校時代、誰とも関わることなく孤独を貫いてきた連中だった。大学の講義でたまたま隣り合わせになり、どちらからともなく話しかけたことから、気持ちが通じ合える相手だということに気づいたのだ。
「類は友を呼ぶというけど、本当なんだな」
岡崎がそういうと、相手も嬉々として、
「そうそう、大学に入ってすぐに君のような友達に出会えるとは思ってもいなかったよ」
と言ってくれた。
そんな友達が、夏休みまでに、五人ほどできた。岡崎にとっては、まるで奇跡のように感じられたが、他の皆もきっと奇跡だと思っているに違いなかった。
そんな時、夏休みが終わって少ししてから、友達のうちの一人が、
「俺、好きな人ができたんだ」
と言って、皆に相談してきた。
皆は口を揃えて、
「それはよかったじゃないか、おめでとう」
と言った。
岡崎もその時は、偽りなしにそう感じ、心から、
「おめでとう」
と言っていたが、その気持ちはすぐに消えていた。
友達が好きになったという女性を見た時、岡崎は自分もその人のことを好きになったと感じた。
もちろん、最初に好きになった友達にそんなことを言えるわけもない。岡崎の中に、
――最初に言い出したものには適うわけはないんだ――
という気持ちがあった。
それは、岡崎がずっと自分の中で決めていたルールのようなもので、それを否定すれば、今までの自分を否定すると思った。だから、否定することはできない。
しかし、好きになってしまったものもいまさら収めるわけにもいかない。
「僕はどうすればいいんだ」
と、言い聞かせてみたが、結論が出るわけもない。
――やっぱり、僕が人と関わるなんて、間違いだったんだ――
と感じた。
好きになった彼女に、誰も付き合っている人がいないのであれば、それでいい。もし誰かと付き合ったとしても、それが自分に何ら関係のない人であれば、諦めると同時に忘れることだってできるだろう。
しかし、相手が自分の知っている人であり、深く関わっている人であると分かると、どうすればいいのか分からない。こうなれば、深い関わりを解消するのが一番である。
「何、元に戻るだけさ」
と自分に言い聞かせる。
そう思うと、他の友達とも疎遠になった。
「どうしたんだ? あいつ」
事情を知らない連中は、そうは言ったが、元々気持ちが分かる連中だ。放っておくのが一番だとよく分かっている。
岡崎も放って置かれるのがよかった。下手に絡まれると、億劫なだけだ。秋風が吹く頃には、一人になっていた岡崎だった。
初めて好きになったその女性は、男性から人気があった。しかし、誰とも付き合っているというウワサを聞くことはない。ただ、逆に決まった人がいないだけで、適当に男をとっかえひっかえして遊んでいるだけだというウワサも流れてきた。
――そんな女だったんだ――
という思いと、
――しょせんはただのウワサ――
という思いが交錯していたが、交錯すればするほど、次第に彼女に対しての思いは冷めてくるのだった。
それからというもの、やはりずっと一人だった。
勉強はそこそこしたので、放送局へ就職できた。アナウンサーや番組制作のような派手な仕事ではないが、裏方として地味に仕事をしていたが、ある日レポーターが急病になり、代役で、岡崎が数分のカットをやってみると、案外うまく行ったことで、レポーターへ抜擢されることになった。
――僕は人と関わりたくないのに――
と思っていたが、やってみると面白かった。
台本はあったが、
「お前は適当にアドリブを入れてもいいぞ」
と言われた。
本当は、
「アドリブでも入れないと面白くない」
ということなのだが、岡崎にはそこまで頭が回らなかった。
ただ、アドリブをしてみると、結構さまになっていた。人気もそこそこ出てきたので、レポーターとしての生活が始まった。そんな時に出会ったのが、愛梨だったのだ。
それにしても、岡崎がレポートした相手の言ったことが、将来現実になるという状況がまわりに把握されるまでには、少し時間が掛かった。何しろ、結果が将来現れなければ実証できないからだ。だが、実証されればこれ以上の鉄板はない。誰が何と言おうとも、岡崎は、
「カリスマレポーター」
として、一世を風靡するようになり、時の人として話題になったのだ。
岡崎自身がレポートされることもあった。
「どうして、そんなに的中するんですか?」
と聞かれて、
「僕にも分かりません。考えてもみてください。僕が予見しているのであれば、まだ立証できるかも知れないんですが、僕がその時の気分でインタビューした人の話が本当のことになるんですよ。それを僕に分かるはずもないじゃないですか」
と答えた。
当たり前の回答なのだが、それではレポートとして面白いはずもない。
「あいつはカリスマとか言われているけど、運がいいだけさ。自分がインタビューされた時のあの回答、どう見たって素人だよな。あれじゃあ、どこがカリスマなんだか、分かったものじゃない」
と言われた。
「やっぱり、アドリブを入れないと面白くないというのは、そういうところなんだろうな。それにしても、局のお偉いさんも、どうしてあいつを使うのかね?」
そんな話も出ている。
人から陰口を叩かれるのは慣れている。むしろ、陰口を叩かれるくらいの方がいいと思っている。人と関わらないとはいえ、ウワサすらなければ、ただの空気と同じようなものだと思っていた。
つまりは、表に出ている自分は、本当の自分だとはまったく思っていないのだった。
丘崎は、愛梨が自分に影響を与えたと思いたくない。
――自分は誰からも影響を与えられることはないんだ――
と思って今まで生きてきたが、それが思い過ごしであったことを愛梨によって思い知らされた。
確かに誰の影響も受けずに生きてくるなど、不可能なことだ。特に子供の頃からの自分を思い起こせば、確かに誰かの影響を受けてきたのだろう。誰かを尊敬していたというわけではないが、気が付けば、その人の模倣をしていたように思えてくる人がいないわけではない。
――あんな感じの人になりたい――
などという思いがあったわけではない。むしろ、相手が自分に近づいたのではないかと思ったほどだ。
子供の頃に、どこかで明らかに自分が変わったということを意識していた。いつから変わったのかというのは自分でもハッキリとしなかったが、今では分かるような気がする。それは、
「憧れの対象が大人から、同世代の友達に変わった頃だ」
と言える時であろう。
子供から見て、最初に憧れるのは大人であろう。一番近い存在といえば両親に当たる。小学生の頃は父親の背中を見て育ったと言ってもいいほど、父親を意識していた。しかし、遠い存在であることは確かで、それだけに、近づきがたい存在でもあり、まともに顔も見ることができないほどだったのを覚えている。
そんな相手を尊敬し、憧れるのだから、その思いは虚空のものに近い。
岡崎の子供の頃は、父親から叱られたイメージしか残っていない。後から思えば、
――どうしてそんな相手を尊敬できたんだろう?
という思いに駆られるが、正直、父親以外の大人を、意識できなかった。
それだけ父親の存在が大きかったと言えるのだろうが、それ以外には大人との間に自分でも気づかない間に結界のようなものを作っていた。学校の先生に対しても、父親と同じことを言われても、説得力には欠けていた。
――しょせん、二番煎じだ――
という程度にしか感じておらず、そう思うと、父親以外の大人のセリフは、当たり前のことを当たり前に言うだけの、まるでロボットのような存在にしか感じていなかった。
ロボットというのは、当たり前のことを当たり前にしかしないという意味であり、精密機械という意味ではない。融通の利かないという意味だけで、
――血が通っていない冷めた相手の言うことなんか、誰が聞くものか――
と思っていた。
小学生でも高学年に入ってくると、それまでと少し感覚が変わってきた。
父親は相変わらず余計なことは言わない。それを威厳だと思っていたのだが、次第に家に帰ってくる時間も遅くなり、それを忙しいからだと思っていた。
しかし、父が帰ってくるのが遅くなり、そのうちに帰ってこない日もあったりするようになると、母親が次第にイライラし始める。
それまでの母親は、父親に逆らうこともなく、忠実に尽くしてきていた。余計なことを口にすることはなく、黙々と家庭のことをこなし、昼間はパートにも出かけ、後から思えば、本当にどこにでもいる主婦だった。
母親がイライラし始めると、一気に家での自分の居場所が狭まってしまったと感じるようになった岡崎は、自分の部屋に籠るようになった。
元々、母親と会話があったわけではない。パートが夕方まであり、週に二度ほど、夜も主婦友のお願いもあって、スナックでアルバイトをしていた。そのため、学校から帰ると、食事の準備だけされていて、一人寂しい夕食になっていたが、それでも、家の中で自分の居場所を確保でき、息苦しさなど感じたことがなかった。
それなのに、一旦母がイライラし始めると、今までのように母親がいなくても、家の中の自分の居場所にまで、いない母親が侵入してきているようで、息苦しさを感じるようになった。
リビングで食事をする気にもなれず、自分の部屋で食事をし、誰もいない間も、ほとんど自分の部屋から出ることがなくなった。
この時の心境は、後になっても思い出すことができる。しかし、それを言葉にして表現するのは難しく、説明しろと言われると、無理だと答えることしかできないだろう。
岡崎にとって、自分の部屋は、「逃げ場」でもあったのだ。
母親のイライラの原因がどこにあるのか分かるまでには、かなり時間が掛かった。まず、父がほとんど家に帰ってこなくなったからだ。
――そんなに仕事が忙しいんだ――
と、母の苛立ちと父親の帰ってこないことは、その理由がまったく違うところにあると思っていた。
いや、後から思えば、そう思いたかっただけだった。父が帰ってこなかった理由を、本当に仕事が忙しいからだと感じていたのは、もっと前までだったからである。
大体、父が帰ってきても、母との会話があるわけではない。父が帰ってきた時のことは、岡崎は自分の部屋に引きこもっていたので、分かるはずはない。それなのに想像できるというのは、想像力が豊かなのだと思っていた。冷静にその状況を自分が判断できるからだとは思っていなかった。
「岡崎君は、判断力には長けたものがあると先生は思うよ」
と、中学時代に担任の先生に言われたことがあったが、その言葉の意味が分かっていなかった。
――何を言っているんだ?
という程度にしか思っていなかったくらいで、素直にその言葉を信じることはできなかった。
それだけ、大人の言葉を真っ向から信じてはいけないと思っていたからで、その原因を作ったのは両親だと思うと、不思議な気がしていた。
岡崎が小学生の五年生の頃、両親は離婚した。
その原因は、父親の不倫が原因だった。父親が家に帰ってこなかったのも、母親がイライラし始めたのもすべてそのせいで、父の不倫に気づきながら、追及することができない母親は、その苛立ちを誰にぶつけていいのか迷っているうちに、自分では意識することなく苛立っていたのだ。
だから、母親には、どうして岡崎が引きこもってしまったのか、その理由が分からない。その思いも、父親への苛立ちと一緒になって、苛立ちに拍車をかけたのだ。
完全に家族の歯車は狂ってしまった。
両親を見ていて、
――結局、大人は自分のことしか考えていないんだ――
と思うようになった。
母親はある日、意を決したかのように父親を糾弾した。父親は、バレていることを知らなかったのか、少し戸惑いを感じてしまい、最初は臆していたようだが、そのうちに開き直って、反論し始めた。
開き直りの反論など、理屈に適っているわけもない。そんなわけで二人の喧嘩はまるで子供の喧嘩のように、泥仕合を演じることになっていた。
聞いていて、それまで抱いていた父親へのイメージは一気にトーンダウンしてしまい、
――大人なんて信じられない――
と思うようになり、子供がそばにいるのに、そんなことはおかまいなし、ただ、喧嘩の端々で、
「子供のために」
という言葉が発せられたのを聞いて、
――僕を喧嘩の出しに使うのはやめてくれー―
と言いたかった。
それを聞くと、やはり、大人は自分のことだけしか考えていないという結論に達し、誰の言うことも信用できなくなっていた。当たり前のことを当たり前にしか言わないロボットは、両親だったのだ。
岡崎は、それまで、
――孤独は寂しいということであり、寂しいということを、孤独だというのだ――
と思っていた。
しかし、孤独と寂しさが本当は別物だと思うようになると、
――孤独であっても、寂しくなんかない――
と感じるようになった。
「寂しいなんて思わない」
これが、これから自分が感じている感情なのだと思うようになった。そして、その思いが、自分が大人、つまりは両親に感じた、
――当たり前のことを当たり前にしか言わないロボットだ――
と感じていることと同じなのだった。
――自分は、人の影響を受けない、ウケたくない――
と思うようになった。
ただ、思春期になると、身体がムズムズしてくる。それがどこからくる感情なのか分からなかった。
学校に行くと、普段から軽蔑したくなるような連中に、女の子が寄り添っているように見える。
それまでであれば、
――軽蔑している連中が、傷の舐めあいをしているだけではないか――
と感じたのだろうが、その時に感じた女の子の目線に、ドキッとしてしまっている自分がいた。
――羨ましい? そんなバカな――
どうして羨ましいと感じたのか自分でも分からない。
今までの感覚であれば、羨ましいなどという感覚が浮かんでくるはずもなかった。それなのに最初に羨ましいと感じたことで、どうしてそんな思いを抱いたのか、不思議でならなかった。
――羨ましいと思うのは、自分の心があさましいからだ――
と感じていた。
しかし、あさましいというのは、どういうことなのだろう? あさましいというのは、自分の立場で求めてはいけないものを、求めようとしている行為をまわりから見た時に感じるもので、本人が感じることではないと思っていた。だから、自分に対してあさましいという感情が浮かぶなどないと思っていたのだ。
岡崎は離婚した両親の話し合いで、母親方で育てられることになった。父と離婚した母は、それまでの鬱憤が吹っ切れたように、イライラはなくなっていたが、生活面での後ろ盾を失ったことで、マジでの生活を考えなければいけなくなったことで、子供に構っている場合ではなくなっていた。
岡崎も、それは仕方のないことだと割り切っていた。イライラして、自分の居場所がなくなるほどの息苦しさがない分、かなりマシだと思ったからである。
結局、母との二人暮らしになっても、岡崎は相変わらず自分の部屋に引きこもっていた。それが一番安心するからであり、今さら表に出てくる気にもならなかったからだ。
そんな岡崎は、中学に入り、思春期を迎えた。
どこか、毎日が違っているようには感じていた。
――昨日と今日とでは、同じ一日でもどこかが違う。今日と昨日が違うのだから、明日はもっと違っているはずだ――
と感じるようになった。
ただ、それが思春期を迎えたからだということには気づかなかった。思春期という言葉は知っていたが、自分にも他の人と同じように訪れるとは思っていなかった。
――僕は他の連中とは違うんだ――
という思いは親が離婚した時に決定的なものになり、その頃から、
――他の人皆に訪れることが自分に訪れてたまるものか――
と思うようになっていた。
それは、逆に言えば、
――大人になんかなりたくない――
という思いを反映していた。
人と同じでは嫌だと思うことが大人になりたくないと思うと感じると、
――大人になりたくないから、人と同じでは嫌だと思うのか、人と同じでは嫌だと思うから大人になんかなりたくないと思うのか――
まるで、卵とニワトリの、どちらが先かというたとえ話と同じように思えるが、それでもどこかが違っている。
岡崎は、自分がどこに向かっているのか分からなかった。
それを最初に感じたのが、クラスで自分が嫌っている連中に群がっている女性のその視線を見て、
――羨ましい――
と感じたことだ。
――僕は一体どうしたというんだ?
という思いを感じると、それまでの孤独を寂しいと思わない感覚が、錯覚ではないのかと思うようになった。
岡崎の思春期は、そんな思いが支配した時代だった。
――僕は女性を好きになったりなんかしない。人から影響を受けたくないんだ――
と思っていたのに、好きになる人が出てきた時には、本当に自分がどうしてしまったのか分からなくなってしまった。
その思いがハッキリしたのは、自分の気になっている人が、岡崎を意識しているように感じた時だった。
――僕は誰の影響も受けない――
と思えば思うほど、自分への意識を感じる。
いや、感じさせられるのだ。
自分の感覚ではないと思うと気が楽になるはずなのに、それが相手の影響を受けているということで、自分では認めたくない。いわゆる自分の感覚の中での矛盾が作られることになったのである。
そんな岡崎は、人を好きになるという感覚は、人を羨む気持ちからしか生まれないものだと思っていた。しかし、大学に入って友達ができるようになると、そんな思いが次第に変わってくるのを感じた。
それは、
「人を羨む気持ちからでは、一目惚れなどというのは、存在しない」
と思っていたからである。
つまり、一目惚れをしたという話を聞いても、その人は本当にその人を好きになったわけではなく、好きになったと勘違いをしているか、その気持ちを自分に納得させるため、好きになったのだと自分に言い聞かせているに違いないと思っていた。
しかし、岡崎は一目惚れをする女性に出会ってしまった。
その女性は、岡崎にはとても優しく、痒いところに手が届くような女性であることに気が付いた。
今までに優しそうにしてくれる人もいるにはいたが、そんな女性のほとんどは、彼氏のいる人だったのだ。
「何だよ。自分に彼氏がいるという余裕から、彼女のいない男性に対して優しくしているだけではないか」
と思うと、見せかけだけの優しさの裏には、余裕という名の、上から目線が潜んでいることを感じた。
岡崎は、騙された感を拭うことはできなかったが、恨むことはできなかった。なぜなら、もし自分が同じ立場なら、余裕を見せることで、まわりに優位性を保とうと図るに違いないと思ったからだ。
それに、人を羨むことで苛立ちを覚えてしまったことが、自分の中に女性を好きになるきっかけを与えられたことに憤りを感じているのに、いまさら優しくされた裏に潜む余裕に対して羨ましく思うなど、愚の骨頂だと思ったのだ。
だが、その女性は違った。
岡崎に対してだけ優しさを見せていた。ただその優しさは彼氏がいる上から目線の女性たちのあからさまな優しさなどではない。岡崎の感じた優しさは、
――他の人には見せないその人の本性のようなものを自分だけに見せてくるつところだ――
と感じたことだった。
それを優しさという言葉で表現するのは少し違っているのかも知れない。しかし、岡崎にはそれを優しさ以外の言葉で表現することはできなかった。その人には彼氏がいるわけではない。まわりから見ても目立つタイプではないし、パッと見で、一目惚れしてしまうようなタイプではなかった。
むしろ自分以外の男性に対してはドライであった。何かを聞かれても、いつもオドオドしていて、怯えのようなものが見え隠れしている。
――過去に何かあったのだろうか?
という意識が頭をもたげ、その思いがなければ、岡崎も気にするほどの相手ではなかっただろう。
岡崎が意識し始めたと同時くらいに、彼女の視線を感じるようになったのも、彼女に対して思い入れるようになった一因であった。正確には一目惚れというほど一瞬で恋に堕ちたわけではないが、彼女の視線を感じるようになった時、
――これって運命なのか?
と思ったのも事実。
その時は意識はしていなかったが、後から思えば好きになった瞬間がいつかと聞かれると、
「運命を感じた時だ」
と答えるだろう。
そう、運命を感じたその時が好きになった瞬間であるならば、岡崎が一目惚れだと感じているのも無理もないことであった。
その女性は、他の人と明らかに違っていた。それを見た時、
――僕と同じように、他の人と同じでは嫌な人なんだろうな――
と感じた。
一目惚れに輪をかけたのがその時で、その時を一目惚れだと思わなかったのは、もしその時が一目惚れだとすれば岡崎にとっては矛盾だった。
同類で傷をなめ合うようなマネはしたくはない。それなのに、彼女のことが気になってしまっていて、元に戻れなかったのは、好きになってしまっていた証拠ではないか。その時に好きになったとハッキリと分かった。だが、どの瞬間に好きになったのかというと、自分でも分からなかった。一目惚れという感覚を信じるのであれば、やはり過去に何かあったのではないかと思ったあの時だろう。
岡崎は彼女に直接聞いてみた。
「あなたは、過去に何か男性で嫌な思いをしたことがあったんですか?」
と聞くと、
「私、男性が怖いんです」
「というと?」
「母は、私が子供の頃から苦労をしているのを分かっているつもりだったんです。その母が私に対して、『男性の言葉には気を付けなさい』っていつも言っていたんですが、子供の私には、そんなことは分かりませんでした」
「それはそうでしょうね」
子供に分かるはずもない話をして、
――余計な不安を煽るようなことをする母親って、どんな母親何だろう?
と感じた。
しかし、考えてみれば、いくら何でも、それくらいのことは分かりそうなものだ。それでも話をし続けるというのは、何かの意図があるのではないかと思えた。
「もちろん、私は分からないので、きょとんとしていたんだけど、母はそれに対して何も言わないんです。『どうして分からないの?』って、言い聞かせているつもりだったら、それくらいのことは言うはずですよね?」
「ええ、そうでしょうね。いうだけで相手が理解していないのであれば、それほど中途半端なことはありませんからね」
「僕もそう思います」
「でも、今は母の言いたいことが少し分かってきたような気がするんです。何度も言われ続けると、嫌でも頭の片隅に置かれているでしょう? 後になって、そのことに関係するようなことが起これば、思い出すこともあるでしょう。その時にお母さんの顔が浮かんでくる。それを狙ったんじゃないかって思ったんです」
「そうでしょうね」
「それにね。言うだけ言って、私が理解していないのも百も承知。だからと言って、その時に無理に言い聞かせようとすると、相手が身構えてしまって、聞く耳を持たなくなってしまっては元も子もないでしょう? 相手に言い聞かせるには無理を通すわけではなく、何度も同じことを言い聞かせるのが一番だということを母は分かっていたんでしょうね」
――なるほどーー
と岡崎は思った。
自分に対して母親が何かを言い聞かせようとしているのに、分かっていないかも知れないことを、無理に押し付けようとはしない。人によっては考えてしまう人もいるだろうし、考え込まなくても、頭の片隅に置いておけば、後で思い出すことで、その人の役に立つことになるだろう。それを狙ったのだとすれば、彼女の母親はなかなかの心理に対しての手練れだと言えるのではないだろうか。
彼女はそこまで言うと、ニコリと笑った。
「私のお母さん、どこか岡崎さんに似ているところがあるような気がするんです。岡崎さんも人に何かを言う時、言い聞かせようとはしても、無理に説得しようとはしないのではないかと思ってね」
「確かにそうかも知れないね」
中途半端にしか答えなかったが、岡崎は頭の中でいろいろと考えていた。
確かに人に無理強いをすることはないが、それは、自分が言っても説得力に欠けると思っているからだ。そもそも自分の性格が人と関わりたくないという思いが根本にあるので、理解できない人にまで分かってもらおうとは思っていない。むしろ無理に分からせたとしても、どこかで歪んだ発想になってしまうと、何かの判断を行う時、同じ考えだと思っている相手に、
「何だよ。お前なら賛成してくれると思ったのにな」
と言われるのがオチだ。
お互いに仲間意識を持ってしまうと、その一言が気持ちが離れる前の前兆になっているとすれば、岡崎にとっては、辛いだけでしかない。
――結局、人と関わってはいけないんだ――
という思いを裏付ける結果にしかならないだけだからだ。
岡崎は、彼女の母親に会ってみたくなった。
「君のお母さんに会ってみたい気がするな」
というと、彼女は少し寂しそうな顔になった。
「お母さん、去年交通事故で亡くなっちゃったの」
というではないか。
――なんてことを言ってしまったんだ――
と思った岡崎は何と言っていいのか分からずに言葉を失っていると、
「いいのよ。岡崎さん。無理に何かを言おうとしなくても、言葉が出てこないのが岡崎さんなの。下手に何かを言わないといけないと思うと、しょせんありきたりのことしか言葉としては出てこない。そんな言葉、期待している人なんて誰もいないんじゃないかしら?」
岡崎は、ハッとした。
――なるほど、何も言わない方がいいのか――
と思うと、自分が彼女の立場になった時のことを考えてみた。
――余計なことは言われたくないだろうな――
と感じた。
岡崎は、彼女と話をするようになってから、
――自分が相手の立場になって考えることができる人間だんだ――
と感じた。
本当はもっと前から感じていたはずなのに、自分の中で否定しているところがあった。なぜ否定しているのか分からなかったが、岡崎の性格の中で、自分の感情や感覚を、自分自身で否定していることが多いことを悟った。そのことを教えてくれたことで、さらに彼女のことを好きになったのだが、岡崎が彼女のことを好きになった一番のピークがその時だったのだ。
岡崎は、彼女のことが好きだった。彼女も岡崎のことが好きだったはずだ。それなのに別れは突然訪れた。
いや、正確には付き合っていなかったのだから、別れが訪れたというのもおかしな話である。岡崎が彼女のことを好きだと感じるようになった時、お互いに急にぎこちなくなった。そのうちに、
「二人だけで会うのはやめにしましょう」
と彼女から言われた。
いきなりのことだったのでビックリしたが、心のどこかで何となく分かっていたような気がした。その証拠に、
「ホッとした気がする」
と、答えてしまった。
それに対して彼女は何もリアクションを起こさなかったが、どう思ったのだろう?
――負け惜しみに聞こえたのだろうか? それとも、付き合ってもいないのに、付き合っていると勘違いしていなんじゃないかって相手に思われていたと感じたからなのだろうか?
というどちらかではないかと思った。
岡崎としては、そのどちらも半々くらいの思いだった。
正直、負け惜しみだと言われても言い返すことはできない。もし、反論して、言い合いになってしまっては、勝ち目がないことが分かっていたからだ。彼女が何も言わなかったことは却って、
――助かった――
と感じたのだ。
ただ、助かったと思ったのは彼女の方も同じだった。岡崎にいろいろ言われ、未練がましいことを言われてしまうと、何と言っていいのか分からないと思っていたからだ。だが、彼女の中で、
――今の岡崎さんなら、何も言い返してはこないわ――
と思っていたのも事実で、もし、これ以上付き合いが深くなり、ぎこちなさが増してしまっていると、男性の中の妄想がどんどんエスカレートしてしまうだろうと思ったのだった。
岡崎は、そこまで妄想する男性ではなかったが、岡崎と違って彼女の方は結構妄想する方だったので、どうしても自分の立場からの発想になると、妄想が激しくなることを嫌ったのである。
――妄想なんてするものではないわ――
と、彼女はその時本気で感じていた。
岡崎も、彼女の妄想癖は分かっていたが、何を考えているか分からないところがあることでそのことに気が付いた。しかし、別れの際にそのことを気にしていたなど、思ってもいなかった。岡崎というのは、そういう男だったのだ。
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