第23話

 日曜日 体力的にも精神的にも疲労が激しかったのか、目覚めたときに陽菜は熱があると感じた。躰もどこか気怠い。つま先あたりが痛むのはきっと自分が風邪を引きかけているのだろう、体温計で熱を測ると思っていた通りの結果がデジタル数字に表示された。どこにも出掛ける予定もなかったし、このまま市販薬を飲んで一日中眠っていれば回復するだろう、完全な独り暮らしならば食料や医薬品の心配もしなければいけないけれど 自分にはクマという同居人がいる、という安心感が大きい。


 ドアがノックされた。

 やや掠れた声で はい、と短く返事をする。寝起き直後と思われそうな声だった。間違ってはいないのだけれど油断した声を思われるのが少し恥ずかしかった。

 枕もとのスマホが鳴る。

 【出掛けてきます。】

 クマからだった。

 「こんな早くに?」

 陽菜は時計を見る。目覚まし時計は六時半を回ったところだった。

 【うん。】

 【ちょっと遠出。】

 「そう。」

 返事をしたタイミングで咳が出た。

 【風邪?】

 「そうかもしれない。最近、いろいろとあったから………。」

 【心細い?】

 「子供じゃないから平気。」

 陽菜は笑う。

 「ただ帰りに何か飲み物は買ってきてもらえるとありがたいかも。」

 【ポカリ派? アクエリ派?】

 「断然、ポカリ。」

 【了解。】

 【でも時間がいつになるか、】

 【わからないのだけれど?】

 「あ、うん。それは大丈夫。」

 【戸締りは、】

 【きちんとしておくから、】

 【誰か来ても、】

 【出ちゃ駄目だよ。】 

 「七匹の子ヤギみたいだね。」

 母ヤギが出掛けている間に狼がやってきて騙されて扉を開けてしまった子ヤギの兄弟たちは狼に食べられていくのだけれど柱時計に隠れた末っ子の子ヤギだけは助かり、帰ってきた母親と協力して狼の腹から兄弟を助け出すという話を陽菜は思い出した。もちろん不用心に扉を開けることはしないけれど自分にとって狼という存在だった慶悟はもうこの世の中にはおらず それほど心配することでもないのにな、と心配性なクマが少しおかしく思えた。


 【いってきます。】

 そう言い残してクマは出掛けていった。きっと中身の姿をして出かけたのだろう。ちょっと遠出という曖昧な言い方をしたのが気にはなった。ルームシェアを始めたときからクマは出掛ける時には必ず場所と何時ごろには戻ってくるのかを伝えてくれていた。今までとは違う彼のその態度に違和感を覚える。


 市販薬の効果からか、結局、十五時近くまで陽菜はうたた寝と少しの覚醒を繰り返した。お腹が空いてリビングに行くと当然のように誰もいなかった。時計の秒針が刻む音だけが聞こえる。冷蔵庫を開けて買い置きをしていたヨーグルトで空腹を満たす。流石にこれ以上はもう眠れなくてソファに躰を投げ出すように座るとテレビを点けた。バラエティ番組の企画内で長年付き合っていたカップルの男性が番組の協力のもとで交際相手の女性にプロポーズをするようだ。記憶には残る演出だろうな、と陽菜は冷めた視線で見ていた。恋愛中というのはとにかく周りが見えなくなることが多い、恋は盲目とは巧く言った言葉だと思う。相手を喜ばせたい自分が好きで相手のことを考えずに行動する典型的な例ではないだろうか、とテレビの中の彼を見て思った。きっと彼氏は記憶に残るような素敵なプロポーズを彼女にしたかったのだろう、でもそれは本当にテレビ番組の協力を得なければ出来ないことなのだろうか、自分がこの人の相手ならば きっと嫌だろうな、と思う。一生の思い出を公に晒される不快感をどうして彼は分かって上げられないのだろう。押し付けがましい独り善がりにしか思えなかった。そんな批判的な視聴者がいることも知らずに番組は進んでいき、いよいよ男性が正装をして彼女の前に現れ、跪いてリングケースを開いて見せた。驚いた彼女は目に涙を浮かべてプロポーズを受け入れる。出来レースもいいところではないか、陽菜は思う。


 テレビを消す。室内にまた静寂が戻った。ベランダから見える空はまだ明るいけれどクマはまだ帰ってこない。もしかしたらこのまま帰ってこないのでは、という不安が頭に過る。慶悟の死をきっかけにクマは同居生活を解消しようとしていた。それを一旦は引き留めることは出来たが 彼の気がまた変わったという可能性はあった。しかし、そうだとしてもこういう別れ方はちょっと嫌だな、とそうだと決まってもいない悪い想像を思いつくのはきっと体調がよくないからなのだろう。しかしクマの言うようにいつまでもこんな生活が出来るわけはない。一体、自分はこの先、どうしたいんだろう。


 電気ケトルで沸したお湯がこぽこぽと音を立てていた。

 マグカップにお湯を注ぎながら漠然とした未来を考える。水面をティーパックがくるくると回る。にじみ出た紅茶が湯の中に広がっていく。

 いつかは自分も恋人が出来るのだろう、そうなると流石にクマと同居しているのは相手に余計な心配を掛けることになる。いくら二人に男女としての関係性が無いと言葉を尽くして説明したところで理解できる人などいない。クマだってそうだ、彼が彼女を作ってこの部屋を出ていくこともあるかもしれない。この生活が続くとしたらお互いに独身を決め込むか、もしくは自分とクマが付き合うしかないだろう。


 クマと付き合う………、陽菜は充分に役目を果たしたティーパックを流し台に捨てて熱い紅茶に息を吹きかけた。悪くはない、と思う。彼との生活はお互いを束縛することもないので居心地が良い。自分が留守中に掃除はしてくれるし、料理だって得意のようだ。それはもちろん彼が自宅の主である陽菜に気を使ってのことかもしれないけれど それを差し引いても交際相手として不満はないだろう。依然として彼の素顔を見たことがない、という点がなければ………。もちろん彼だってずっとクマの着ぐるみを着ているわけではない。着ているのは陽菜と一緒に自宅で過ごすときだけだ。日中、陽菜が仕事をしている時は着ぐるみを着てはいないだろう。元交際相手は彼の素顔を知っている、もちろん名前だって………、けれど自分は彼について何もしらない。一緒に過ごすようになって二週間近く経つのにクマのことで知っていることは両手で数えても余るくらいだ。もしかしたら自分が思っているよりもクマは自分に心を開いてくれていないのではないだろうか、陽菜は思った。


 ちらりと玄関の方向を見た。クマが帰ってくる様子はまだない。

 飲みかけのカップを置いて陽菜はソファから立ち上がる。

 彼の使っている部屋を見れば何か彼についてもっとわかることがあるのかもしれない、陽菜はクマの部屋の前に立った。ドアノブに手を掛ける。各部屋の扉には鍵はついていない。握っている手を少しひねれば扉は簡単に開くだろう。あるのは心の中の抵抗だけ。いくら家主であるといっても今、この部屋はクマが使用している。彼の留守中に勝手に部屋を調べることは正しいことなのだろうか、という気持ちと どうしても彼のことをもっと知りたくなっている自分が耳元で同時に囁いていた。

 左手の中でスマホが震えた。そのタイミングの悪さに陽菜は短い悲鳴をあげた。相手はクマだった。

 【これから帰ります。】

 【帰宅は十九時を少し回ると思います。】

 帰宅までに三時間の猶予があった。大丈夫、そっと扉を開いて中を見るだけ、陽菜は自分に言い訳するようにクマの部屋を開いた。

 薄暗い部屋の中、視界に飛び込んできたのはクマだった。


 人は本当に驚いたときは悲鳴すら上げられない。

 「違うっ!」

 何が違うというのだろう、陽菜は自分でも下手な言い訳をしているのがわかった。しかし目の前のクマはいつものクマと違い頭は被り物として大きいままだったけれど躰は敷物みたいに寝そべったままだった。

 「そうだ、着て出かけていないんだ………。」

 恐怖と驚きから背中に汗を搔いているのがわかった。まだ心臓がバクバクとしている。

 クマが使用している部屋はもともと陽菜が持て余している部屋だった。家具類は基本的に何も置いておらず 収納に引っ越してきたままの荷物を押し込んでいるためだけの部屋で彼が使用するようになってからもそれは変わらない。クマはレンタル倉庫を借りているために基本的な私物以外ここにはなく 陽菜が貸した来客用のための布団が綺麗に折り畳まれて部屋の隅に置かれていた。小さく丸い天板のローテーブルの上にはクマのノートパソコンとスケッチブックが重ねるように置かれている。


 自分が借りている部屋なのにまるで他人の家に忍び込んでいるような緊張感に包まれながら陽菜はクマの部屋に踏み込む。真っすぐにテーブルに近づいた。ノートパソコンを開く。電源は入っておらず パスワードが分からなければ中を確認することも出来ないので諦めてパソコンは閉じる。カーキ色の表紙のスケッチブックを持ち上げる。その拍子に間に挟んであった二つ折りの便箋がするりと落ちた。陽菜は便箋を拾い上げてパソコンの上に置いた。スケッチブックを開く。鉛筆で書かれた下書きのようなものが何枚かあった。どこかご当地ゆるキャラを連想させるようなイラストばかりだった。次に制作をする着ぐるみのデザイン画なのだろうか、下書きは最初の四、五枚目までであとはずっと白紙だった。自分の着ぐるみを使った仕事が出来れば良い、とクマが話していたことを思い出す。将来的にキャラクタデザインか、製作メインの会社で働くのか、そういう将来的な話を一つもしていない。陽菜が仕事で家を留守にしている間、クマはクマの恰好でイベントのバイトなどをしているらしいことは知っている。せめてやりたい仕事が軌道に乗るまではここにいてもいいのにな、帰ってきたらそういう話をしてみようか、とも思った。

 スケッチブックから抜け落ちた便箋を間に挟む際に何気なく仕事をしている時と同じ感覚で広げて中身を確認してしまった。

 「なに………、これ…………。」

 陽菜はそこに書かれてあった文面を見て絶句する。そこには短い文章だったけれど陽菜の目を疑うようなことが書かれてあった。


 オマエハ ヒトゴロシ

 オレハ スベテ シッテイル

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

着ぐるみにペニスはいらない。 @Bonjour-710h

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ