第21話

 嶋田が出勤してきた時、事務所内に緊張感が走った。部下の雰囲気を察してか、デスクにつき鞄を置くなり彼は聞こえよがしに 参ったよ、と努めて明るく言った。嶋田のデスクの近くにいた上田佳代子がどう答えて良いものかわからずに曖昧な笑みを浮かべたのが印象的で嶋田は聞かれてもいないのに警察の取り調べがしつこいだの、自分はきっちりとしたアリバイがあったので容疑の対象から外れただのと一方的に報告をした。おそらく黙っていて部下の間で妙な噂を立てられるのを危惧したからだろう、と陽菜は思った。


 昼休みに嶋田からランチに誘われた。おそらく二階堂の事件について何か話したいことがあるのだろうと察したので付き合いに応じる。彼に連れてこられたのは特別なことが無い限り自分ではランチには使用しないだろうイタリアンの店だった。二階堂とも来たことがあるのだろうか、と余計なことを考える。

 「どうして私をランチに誘っていただいたんでしょうか?」

 オーダーを受けた店員が去った頃合いで陽菜は嶋田の意図を尋ねる。

 「迷惑だったかな?」

 嶋田は疲れたように微笑む。グラスの水を一口飲んだ。

 「いえ、ただ課のみんなに他言しないようにという約束ならば私は守っていますので。」

 陽菜は身の潔白を伝える。もちろん証拠など何一つなかった。

 「ああ、うん、そうだね………、君じゃないとは思っていたよ。」

 嶋田は溜息をつく。彼が警察に連行されていったという噂は瞬く間に会計課内だけではなく地区事務所全体に広まった。あの時、ロビーにいた他の誰かが情報源であることは確かだが嶋田としては虱潰しに犯人と特定したかったのだろう。 

 「誰だと思う?」

 「二階堂さんを殺害した人物ですか?」

 「まあ、うん………、そうかな………。確かにそっちの方が重要だな。」

 二階堂は苦笑する。彼は自分の噂を広めた犯人捜しをしたかったのだろう。

 「少なくとも僕ではないよ。」

 嶋田は自らの潔白を宣言するかのように片手を挙げた。

 「僕にはアリバイがあった。彼女が殺された時間帯にね、確固たるアリバイというものが証明されたんだよ。」

 「どちらにいらっしゃったんですか?」

 「妻と買い物にね。」

 「奥様と一緒ならば完璧なアリバイですね。」

 陽菜は言う。しかし、昔得た知識では身内の証言は参考にならないと聞いたことがあった。嶋田はそれを知らないのだろうか、それともそう言うことで夫婦の絆、もしくは愛は揺るいでいないということを主張したかったのだろうか、陽菜は勘繰ってしまう。

 「まあ、でも警察というのは酷い奴らの集まりだね。取調室に入れられてからは ずっと同じ質問を繰り返すわけさ。それで少しでもニュアンスが違うとそこの違いをネチネチと責めてくるんだ。おおよそ正義の味方とは思えなかったね。まるで犯人扱いだよ。」

 「疑うのが警察の仕事というのを聞いたことがあります。」

 陽菜は言う。ランチのサラダが運ばれてきた。嶋田がフォークを手に取るのを見て陽菜も食べ始める。

 「そりゃあわかるけれどね、きちんと人を見てもらいたいよね。妻に確認を取ったはずなのにしつこく取り調べは続いたからね。」

 「大変でしたね。」

 「うん、本当に大変だったよ。」

 しみじみと嶋田は頷いた。

 「結局、解放されたのは日付が変わってからだったよ。どうやら別の容疑者の存在が浮上してきたらしくてね。そんなことを刑事の一人が言っていたよ。」

 おそらく慶悟のことなのだろう、陽菜は思った。

 「亡くなった人のことをこういう風に言うのはどうなんだろう、って思うけれどね。あまりね、迷惑はかけてもらいたくなかったなって思うよ。やっと警察から解放されたと思ったら今度は妻から容赦ない詰問を受けてね………、正直参っている。」

 「警察の人は課長と先輩がお付き合いしているということを言っていましたけれど。」

 陽菜は言う。


 「とんだ誤解だよ。」

 「誤解………ですか?」

 「そう、困るよね、警察も。あることないこと周りに吹き込んでさ。そのおかげで火を消して回らなきゃいけない。僕はね、二階堂くんと交際なんかしていないよ。第一、僕には妻も子供だっているんだからね。」

 グラスの水を浴びせてやろうかと陽菜は思った。今、嶋田がしていることは相手が反論出来ないことを良いことに自分の都合のよいことだけを言って回る卑怯な行為だ。きっと保身に走っている。このランチも目の前で警察に連れていかれたことを今後も誰にも話すなよ、といういわば口止め料なのだろう。彼に対して別に憧れを抱いていたことはなかったけれど幻滅していた。

 「マッチングアプリで不特定多数の男を引っかけていたらしいね………。おおかたその中の誰かに恨まれるようなことをしたんじゃないか?」

 「二階堂さんは恨まれるような人じゃないですよ………。」

 まさか自分の元カレのせいだとは言うことも出来ず、陽菜はジレンマに陥っていた。結局、保身に走っているのは自分も同じだ。その点においては嶋田を責める権利など自分にはない。出来ることと言えばやんわりとした否定だけだった。運ばれてきた食事も美味しいはずなのに全く味がしなかった。きっとここにはどれだけ時間が経ったとしても来ることは出来ないのだろうな、とも思った。

 食事の合間にも嶋田はずっと自分の保身だけを考えている発言が目立った。釘を刺されるというのはおそらくこの状況のことを言うのだろう、陽菜はたまに相槌を打つだけしか出来なかった。

 「もし誰かが………。」

 エスプレッソの入ったデミカップに指を掛けながら嶋田が言う。

 「僕と二階堂君の話をしているのを耳にしたら それとなく否定をしておいてくれないか?」

 「誰もしないと思いますけど。」

 陽菜は言う。

 「そうかもしれない、でもそうでないのかもしれない。生まれた噂っていうのは一人歩きしていくものだからね。」


 元々、火が無ければ煙など立たないのだから すべては貴方のせいでしょう、と喉まで出掛かった言葉を苦いエスプレッソを流し込むことで陽菜は抑える。

 「ただでさえ今回のことで上には睨まれたのだからね、これ以上、騒ぎを大きくしたくはないんだ。四井のこともあったし。」

 「はい………。」

 四井の名前は陽菜にとって決定的だった。四井への書き込みの件を陽菜は二階堂には喋ってしまった。もしかすると彼女からその話を聞いているのかもしれないな、と勘繰ってしまう。

 「立て続けにこういうことが起きたもので そろそろ真剣にお祓いにいかないといけないな、と思うよ。」

 嶋田は自嘲気味に笑った。

 陽菜もつられて愛想笑いを浮かべるしかなかった。今なら嶋田と二人でいるところを慶悟が目撃してくれていてもいいな、と思った。


 ランチを終えて事務所に戻る途中の横断歩道、信号待ちをする向こう側に顔見知りである濱崎刑事と志村刑事の姿があった。志村がこちらを指差していたのが見えたので自分に気づいたのだろう、と陽菜は思った。信号が青に変わっても二人は道路を横断しない。陽菜が接近してくるのを待っていた。

 「こんにちは。」

 濱崎刑事が硬い表情のまま言った。

 「こんにちは。」

 「お昼ですか?」

 志村がちらりと嶋田の方を見た。

 「はい。」

 「県警の志村と濱崎です。」

 志村が嶋田に警察手帳を見せた。

 「警察? まだ何かあるんですか? 僕の疑いなら晴れたはずでしょう?」

 嶋田はうんざりとして言った。

 志村と濱崎は顔を見合わせる。

 「課長の嶋田です。二階堂さんの事件で………。」

 陽菜は二人の刑事に伝わるように簡潔に言った。

 「ああ、ガイシャと不倫していた課長さんか。」

 志村が不快感を露わにしながら聞こえよがしに言った。

 「ちょ、止めてください、名誉棄損ですよ?」

 周りの歩く人の耳を気にしながら嶋田が言った。

 「すみません、思っていたことが口に出てしまいました。他意はないので許してください。」

 志村は言葉とは裏腹に悪びれずに言う。

 「今日、我々は吉岡さんを伺いにきました。」

 濱崎刑事が嶋田を見た。

 「吉岡君に?」

 目的が自分ではなく陽菜だったことを意外そうに嶋田が指差した。

 「お話をしたいので少しだけお時間頂いても構いませんか?」

 「ああ、もちろんですよ。事件の早期解決のためなら協力は惜しみません。ただ業務は立て込んでいるので何時間も、というわけにはいきませんけれどね。」

 嶋田は余裕を見せながら言った。

 「ありがとうございます。」

 濱崎が頭を下げる。

 「すぐに戻りますので。」

 陽菜は足早に去っていく嶋田に声を掛けた。何度かちらちらとこちらを振り返りながら嶋田は事務所の入っているビルへと消えた。

 「今日、伺ったのは平田慶悟のことです。」

 濱崎が言う。

 「捕まったのですか?」

 陽菜は驚きながら尋ねた。

 「いえ、今朝未明に平田らしき人物の遺体が見つかりました。」

 「え………?」

 陽菜は耳を疑った。慶悟が死んだ? 濱崎の言葉を頭の中で繰り返し再生する。

 「それは本当ですか?」

 「それがまだはっきりとはしません。遺体の損壊が激しいために状況からあくまでも平田らしき人物である、ということだけなのです。」

 濱崎が言う。

 「掻い摘んで言いますとね。」

 志村が右手を首の後ろにあてながら面倒くさそうに口を開いた。

 「遺体は真っ黒こげなんですわ。かろうじてそれが男性の焼死体であることがわかるくらいでね。解剖に回しても平田個人と特定出来るかどうか、というところなんですよ。」

 「真っ黒こげということは火事ですか?」

 陽菜は胸に手を当てて早くなる動悸を抑えようとした。

 「いえ、焼身自殺のようです。現場にはガソリンの携行缶が残されていました。そこから平田の指紋が出たのと遺書が遺されていまして。平田の可能性が高いのではないかと。」

 「自分がやったことに怖気づいて 逃げられないことを悟った上での自殺ではないか、ということです。」

 志村は言う。

 「遺書は二通あって一通は自殺を図った理由などがしたためられていました。もう一通は吉岡さん宛です。一応、個人宛なのですが捜査の関係上、我々が先に確認させてもらっていますし、こちらはコピーになります。本物は今、筆跡鑑定にも回していますので。」

 三つ折りになった手紙を濱崎は鞄の中から取り出した。

 受け取ろうと陽菜は手紙を掴むが濱崎が手放さなかった。

 「正直に言うと今でも吉岡さんにこの手紙を見せるべきかどうか悩んでいます。」

 「どういう意味ですか?」

 陽菜は小首を傾げた。

 「不幸の手紙ってあるでしょう? 貰ったら同じ文面で何人かの人間に送らなきゃいけない手の込んだ面倒くさい悪戯。あれですよ。」

 志村が言う。

 「そうなんですか?」

 陽菜は濱崎に確認した。

 「受け取り方の問題だとは思いますけど 薄気味悪いという点では正しいと思います。」

 「読みます。」

 陽菜は真っすぐ濱崎を見つめて言った。その覚悟に濱崎は折れて手を放した。

 遺書というのだから 長々と自分がいかに迷惑を掛けたか、など謝罪の言葉が並べられているのかと思いきや、慶悟から陽菜に宛てた遺書にはたった一言だけ書かれてあった。

 

 【ずっと君を見ている。      慶悟】

 

 手書きで書かれた遺書にはたったそれだけが書かれてあった。

 ぞくりと背筋に冷たいものが走る感覚がした。

 陽菜は周囲を見渡す。しかし、当然どこにも慶悟らしき姿は見えない。

 「慶悟は………、亡くなったんですよね?」

 「断定は出来ませんがその可能性は極めて高いと思いますよ。」

 志村が言う。

 「死んでもなお貴女に執着しようとする怨念のようなものを感じますね。」

 「怨念………。」

 陽菜は身震いした。あれだけ自分に付きまとっていたのだ、志村の言うように死んでもなお付き纏わられそうで怖かった。

 「志村さん、吉岡さんを怖がらせないでください。」

 濱崎がきつく先輩刑事に言った。

 「すみませんね、そういうつもりで言ったわけではないです。」

 そういうつもり以外でどういう意味があったのだろう、陽菜は悪びれずに形ばかりの謝罪の言葉を口にする志村に腹が立った。

 「なんにせよ、被疑者がこうして亡くなってしまった以上、貴女に対する傷害事件の捜査は近日中にも打ち切りになると思います。」

 「二階堂さんの事件もですか?」

 陽菜は問う。

 「おそらくはね………。もう一枚の遺書には二階堂さんを殺害したことを仄めかす文言があったので このまま被疑者死亡で近日中にも捜査班は解散すると思います。」

 志村はバツが悪そうに答えた。

 「平田のことで一つお聞きしたいことがあるのですけどかまいませんか?」

 濱崎が申し訳なさそうに言った。

 「私に答えられることでしたら。」

 慶悟との交際期間は二ヵ月ほどで知っていることよりも知らないことの方が多い。彼の手書き文字ですら今日初めてみたのだ。そんな自分に慶悟の何を質問しようというのだろう。

 「この場所なのですけれど。」

 濱崎はスマホの画面を陽菜に向けた。それは周囲を木々に囲まれたコンクリート造の建物で手入れが行き届いていないことからみてもすでに廃墟となっている旅館のようだった。

 「六甲山にある以前はどこかの企業の保養所として使われていたみたいなのですけど 今は個人の所有物にはなっているのですが修繕するわけでもなく廃墟同然になっている建物です。」

 「ここが何か?」

 「平田はここに潜伏していたようでして焼死体もここの一室で発見されました。この場所について彼から何か聞いたことはありませんか?」

 「いえ、全然。」

 「心霊スポットとして有名みたいで彼がそういう場所を訪ねるような趣味があったとかは?」

 「聞いたことがありません。」

 「そうですか。」

 「ここで亡くなったんですか?」

 今度は陽菜が聞いた。

 濱崎が頷く。

 「数週間前にも若い男が出入りしていたことがあって警戒していた近所の住人が気付いて通報を。ただ現場はなにぶん廃墟でしたので火元を確認してもすぐに消火活動は行えず 結局、消防と救急が現場に到着した時には損壊は激しかったそうです。」

 「ちなみに吉岡さんは車を運転できますか?」

 志村が横やりを入れるように言った。

 「運転免許は持っていますけど普段は乗りません。実家に帰ったときにするくらいですね。」

 陽菜は正直に答える。大学生のころ、仲の良かった友人と運転免許合宿に行って取得した。取り立てのころはレンタカーを借りてドライブにも行ったが社会人になるとほとんどその機会は失われた。珠に乗るのは助手席だけだった。

 「なるほど。」

 志村は涼しい顔をして頷く。

 「それが何か?」

 「いえ、気になっただけですよ。最近の若い世代は車に乗らないっていうのも多いと聞きましたからね。」

 嘘だ、陽菜は志村の言葉を信じていなかった。彼はきっとまだどこかで慶悟の死を自殺ではなく他殺と疑っていて その容疑者として自分を見ているのだと思った。

 まあ確かに現状で慶悟に殺意を抱きそうなのは自分だな、と陽菜は否定もしなかった。

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