第20話

 自宅に帰り着いたとき陽菜はスーツ姿のまま一旦、ベッドに倒れ込んだ。枕に顏を埋めながら疲れた、と声を漏らす。嶋田が連行されてから事務所は文字通りバタバタとした。興味本位で何が起きたのか聞き出そうとする同僚たちに自分もよくわからない、などと曖昧な返事で逃げて業務が終わり次第、飛び出すように事務所を出た。彼女たちに捕まってしまっては面倒な質問攻めに遭うことは予想できたからだ。嶋田に義理立てた為になぜ自分がこんなにも苦労しなければいけないのだろうか、とも考えたが事務所内で噂が広まれば確実に自分の仕業になる為、誰にも話せなかった。まるで王様の耳がロバの耳であることを知ってしまった床屋の気分だった。こんなにも精神的に消耗したのは久しぶりのことではないだろうか、このまま食事もせずお風呂にも入らず眠ってしまおうか、と考えていたら部屋のドアがノックされた。


 「はい。」

 【大丈夫?】

 【何かあった?】 

 クマがドアの向こうで心配しているようだった。ベッドから這い上がるように立ち上がって陽菜はクマの前に姿を現す。

 「大丈夫じゃないよ………。」

 そのままクマの胸に倒れ込んだ。彼はそっと両腕で陽菜を抱くように支えた。質問しようにもLINEが打てずただおろおろとするクマが少し可愛く思えた。

 陽菜は顔を上げる。

 「職場の先輩が亡くなったの。」

 クマはゆっくりと頷く。

 「事件に巻き込まれたらしいんだ。」

 「事件って?」

 自分の中のルールを破ってクマが言った。両手が塞がっているので仕方なく発声してしまったのだろう、陽菜は思った。

 「殺人事件。その被害者だったの。」

 クマがゆっくりと腕を放した。


 【どこで?】

 「先輩の家の近くの河川敷って聞いた。どうして?」

 【ううん、別に。】

 【ショックだろうね。】

 「ショックなんてものじゃないよ………、今、頭の中はめちゃくちゃ混乱しているんだから。本当なら悲しいはずなのに 今でも現実が受け入れられていないのか泣くことも出来ないんだよ………。」

 【悲しみは、】

 【遅れてやってくるものだよ。】

 「たぶんね。」

 陽菜の職場は離職率が高く、年間で入れ代わり立ち代わり誰かが入ってきては誰かが出ていく。寿退社もあれば 転職もあるし、なかにはそのまま黙って退職する者もなかにはいる。ただ不慮の事故で亡くなるというパターンは初めてのことで自分の感情がまだ出来事に対して追い付いていないイメージがあった。

 二人でリビングに移動する。ダイニングテーブルに向かい合うように二人は座った。

 【仲が良い人だった?】

 「うん。仕事終わりに飲みに行っていた人。」

 【二階堂さん?】

 「そう。あの二階堂さん。」

 先日、帰宅が遅くなる時にクマには二階堂の名前を出して説明をしていた。

 【どうして殺されたの? まさか通り魔的な?】

 「それはまだわからないけれど たぶん男女関係のもつれが原因だろうって警察は思っているみたい。」

 【彼氏が犯人?】

 「候補は多すぎるけれどね………。」

 陽菜は溜息をつく。

 「会社の上司が警察に連行されていったんだ。」

 【君の上司でもある人?】

 「そう、前から噂はあったんだよ。二人が付き合っているって。」

 【職場恋愛禁止?】 

 「いや、そんなルールはなかったと思う。先輩たちはほとんど職場恋愛だったし。けど上司は既婚者だからね。」

 【あ、察し。】

 「うん、よくある不倫関係だよね。それが理由で警察も上司を怪しんでいるって感じ。」

 【候補が多すぎるっていうのは?】

 「先輩はマッチングアプリの利用者だったからね。上司以外にも何人か男友達がいたって。これは本人から直接聞いた。」

 【ちなみ何人くらい?】

 【参考までに】

 「七人って言っていたと思う。」

 【その全員が彼氏?】 

 「ううん、違う。あくまでも彼氏候補。」

 【じゃあ男友達ってこと?】

 「いや男友達よりは恋愛対象に近い存在………かな?」

 【どう違うわけ?】

 「友達は友達じゃない? そりゃあ何かの弾みで彼氏に昇格することはあるかもしれないけれど基本的に友達は友達のままだと思うよ。女友達と同じくらい気兼ねなく遊んだりする関係。同じ部屋には泊まれるけれど一線は絶対に超えない存在が友達。対して彼氏候補は二人きりで遊びにいけるし もちろんセックスだって時と場合には出来る存在。」

 【じゃあ女の子に友達って認定されてしまったら?】

 【それ以上は脈無し?】

 「基本的にはね。まったくの別物だもの」

 【くわーっ。】

 「なに? くわーって?」

 【心の叫び。】

 【その栄えある彼氏候補が全員容疑者?】

 「そういう可能性だってあるよね。みんな男は自分一人だけと勘違いしてしまって振るいに掛けられていることを知らないんだよ。マッチングアプリってそういうものなんだって。私の意見ではなく、亡くなった先輩の受け売りだけれど。」

 【原因は嫉妬か………。】

 「犯人はよっぽど怒っていたんだと思う。」

 【どうしてそう思うの?】

 「メッセージが残されていたんだって。」

 【メッセージ? 犯人から?】

 「うん、害虫駆除って、失礼な言い方じゃない?」

 【害虫駆除?】 

 「うん、そう。そりゃあ七股とか褒められたことではないよ? でもさ、パートナ選びに失敗したくない気持ちってわかるでしょう? しないよ? しないけれど競馬だって一点買いよりも 複数頭買っていた方が当たるって言うし。恋に一生懸命になりたいから慎重に相見積もりするのは間違ったことではないと思うんだよね。それを害虫だなんて。」

 【今日ね、】

 【ポストに同じ文面の手紙が入っていたんだ。】

 【害虫駆除って。】

 「業者の広告ではなくて?」

 【うん、パソコンで打った手紙だった。】


 クマは立ち上がると自分の部屋に向かっていった。一分も掛からずに戻ってきた彼の手には三つ折りにされた紙面があった。クマはそれを開いてテーブルの上に置く。手紙には明朝体で紙面の丁度真ん中に 害虫駆除 とだけ書かれてあった。

 「なんで?」

 陽菜は文面を見ながら寒気を憶えた。

 【君の話を聞いたうえで】

 【僕が思うに。】

 「聞きたくない。」

 陽菜は叫ぶように言う。おそらく思い浮かんだ想像と彼の言おうとしていることは一致しているはずだ。

 慶悟の仕業だ………、陽菜は自分でも気が付かなかったが震えていた。

 【ダイレクトメールの類は処分しておいてって、】

 【頼まれていたから、】

 【ゴミ箱に捨てていたのだけれど、】

 【君の話を聞く限りでは、】

 【この手紙の差出人は、】

 「わかっているから それ以上は言わないで。」

 陽菜は頭を抱えた。慶悟がどういうつもりで二階堂を殺害したのかはわからない。文面から察するにおそらくではあるけれど彼女が陽菜にとって悪影響を及ぼす人物だと判断したのかもしれない。人はこんなにも容易く一線を越えられるのか、と怖くなった。

 【投函されたダイレクトメール類の一番上にあったから。】

 【これが最近になって投函されたものだとはわかるけれど。】

 【いつ投函されたのかは、】

 【はっきりとしないね。】

 「うん。」

 【管理人さんに頼んで、】

 【エントランスの防犯カメラを、】

 【調べてもらえば、】

 【わかるとは思うけれど………。】

 「私たちには教えてくれないよね………、プライバシィの問題があるって言われるに決まっているから。」

 【そうだね。】

 【警察に頼むしかない。】

 【人を殺してしまった人間は、】

 【どんな理由があるにしろ、】

 【きちんと裁かれないとダメだから。】

 「うん、そうだね………。」


 陽菜は濱崎刑事に電話をした。二階堂が殺されたこと その現場に害虫駆除というメッセージが残されていたこと それと同じものがマンションのポストにも投函されていたことから犯人は慶悟の仕業ではないかということを話した。比較的落ち着いて電話が出来たのはすぐ傍にクマがいてくれたからだと彼女は思った。濱崎はわざわざ今から投函されていた手紙を取りに来てくれると言った。流石に時間も遅いし申し訳ないと一旦は断ったものの事件早期解決の為ですから、と言われて陽菜は納得する。

 三十分ほどして訪問者を告げるチャイムが鳴った。モニタに濱崎と志村の姿が映った。

 クマと相談して彼らに対応している間、クマはぬいぐるみとして自分の部屋でじっとしているということになった。クマの部屋のドアは閉めているとはいえ 二人が部屋の前を通るとき陽菜は妙な緊張感に包まれた。

 「これです。」

 陽菜は二人の刑事に 害虫駆除と書かれた手紙を置いた。

 「お預かりします。」

 濱崎は丁重に受け取ると証拠品を入れる透明な袋に手紙を仕舞った。

 「平田は必ず捕まえますから。」

 濱崎が苦渋に満ちた顔で宣言した。自分たちがもっと本腰を入れて慶悟逮捕に動いていればきっと今回の事件は起きなかったはずだ、と思っているのだ、と陽菜は考えた。

 「おそらく合同の捜査本部が立ち上がると思います。」

 志村が他人事のように言う。

 「平田は傷害未遂から殺人事件の容疑者になったわけですからね。逮捕も時間の問題です。」

 「お願いします。」

 陽菜は頭を下げる。結局、自分の訴えでは動いてくれず、被害者が出てから重い腰を動かすのだな、と落胆の色は隠せなかった。

 「充分に気を付けてください。」

 濱崎が言った。

 「しばらくの間だけでもご家族の方に傍にいてもらうとか、された方が良いと思います。」

 「彼氏とかね。」

 無神経なことを言う志村の視線がキッチンの方を見ていた。

 すみません、濱崎の目がそう言っているように陽菜には見えた。

 証拠品である手紙を回収して二人の刑事はわずか五分足らずで帰っていく。去り際にマンションの防犯カメラの映像は明日にでも管理会社を通じて調べるとだけ濱崎が言っていた。

 二人がエレベータに乗り込むのを見送ってから陽菜はドアを閉じる。

 深い息を吐いた。何一つ自分にはやましいことなどないのに警察の人間と対峙することはこんなにも疲れるのか、と思った。

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