第17話
月曜日の午前中、会計課は文字通り戦場と化す。週末に溜まった二日分の会計帳票を処理するために朝礼が終わると皆が黙々と会計データをチェックしていく。担当店舗からのメールボックスが送られてきて 提出された公共料金支払票に店舗印の不備がないか、送られてきた枚数が正しいのか、などをつぶさに調べていく。午前中はほぼほぼ誰も無駄口を叩かずモニタと睨めっこをして 気が付けばお昼を回っていることが恒例だった。
内線が鳴って応対したのは会計課の中でも若手の東堀佳央莉だった。受話器を握った彼女の顔が段々強張っていくのが陽菜の席から見えた。何事だろう、陽菜は思った。フランチャイズ店の経営者たちは基本的には優しい人が多いが なかには本部社員である陽菜たち会計課の人間を目の敵にしている人も中にはいる。つい最近も言葉遣いがなっていないと谷川が長々とどこかの店の店長に説教をくらったばかりだった。
東堀がプッシュボタンを操作して内線で重本という四井たちの直属の上司に来客の旨を伝えた。どうやら最初の内線は受付からだったらしい。
「トラブル?」
陽菜は受話器を置いた東堀に聞く。
「よくわからないんですけど 宝塚南店のオーナーさんが来られたそうです。しかも滅茶苦茶怒っているって。」
「どうして?」
「わかんないですよ。受付の子もちょっと声が震えていましたもん。」
東堀は首をふるふると左右に動かした。
動揺が広がる中で何もわからないまま仕事を続ける。八階のエレベータホールに悲壮な顔をした重本と明らかに機嫌を悪くしたオーナー夫妻が現れてそのまま隣の会議室へと入っていく。重本は目隠しをするように会議室のロールカーテンを閉めた。
昼休みの時間になって外に食べに出掛けようとエレベータに乗り込んだ時、二階堂が慌てて走り込んできた。
「わかった。」
エレベータ内には二人しかいなかったが彼女は声を潜めるようにして言った。
「わかった、ってさっきの件ですか?」
「うん。」
「原因は四井だった。」
「四井さん?」
「宝塚南店の従業員に手を出したらしいよ、あの人。しかも相手は高校生。」
「四井さんって今、幾つでしたっけ?」
「今年三十って言っていたような気がする。」
「相手が高校生。」
陽菜は頭の中で年齢差を計算した。相手の年齢が分からないのではっきりとしないけれど十三から十五くらいの年齢差だろう。
「しかも妊娠させたって。」
二階堂は鼻筋に皺を寄せて嫌悪感を露わにしてみせた。
「不祥事の役満だね。」
彼女のため息の重さがエレベータを降下させているのではないかと思うくらいスムーズに一階フロアに到着する。
「でもどうしてオーナーさんたちが?」
「ネットに書き込みがあったんだって。しかも四井のことばかり。」
「書き込んだ人は個人的な恨みを持っているんですかね、四井さんに。」
「人は裏で何をしているかわからないからね。もしかしたら弄ばれて捨てられた女の仕返しじゃないかって私は勝手に思っている。」
二階堂が見せてくれたのは宝塚南店の口コミだった。そこに四井の女性関係やSNSでの少し過激な発言が貼られてあった。
「ああ、これは燃えますね。」
陽菜は口コミ欄に投稿された誹謗中傷のさわりだけを一読してから呟いた。
「燃え広がって本部にまで苦情がばんばんらしいよ。」
「まあ一番の被害はお店さんだよ………。電話が鳴りやまなくて仕事にならないらしいから………。」
「だからですか?」
陽菜はエレベータの天井を見上げた。
「すでに四井の正体は特定されているみたいだし、面白がって燃料を追加で投稿する人間もいるらしいから担当店とか被害は広がるだろうね。」
二階堂は溜息をつく。
「この世の地獄ですね。」
「まあうちの電話番号は知られていないから掛かってはこないだろうけれどね。それでもどこから漏れるかわからないじゃん?」
「どうなるんですかね………?」
「さあ、まあ四井はFCではいられないだろうね………、ほとぼりが冷めるまでは内勤にでもなるんじゃない? 下手したら………。」
二階堂は右手で自らの首をちょんと叩いた。
昼休みから戻ると社内はまだ騒然としていた。重本に呼び戻された四井が会議室に入っていったらしい。防音になっているにも関わらず男性の怒鳴るような声が聞こえた。そんなことがあっても仕事は待ってはくれない。午後からもひたすらモニタの前で会計データの処理を行う。十四時を回ったころオーナー夫妻が重本に送り出されて帰っていった。下まで送ろうとする彼を突き放すようにして夫妻だけでエレベータに乗っていくのを陽菜はたまたま目撃した。ここから今後を重本と四井の二人で話し合うのだろう。身から出た錆とはいえ 少し可哀そうな気もした。
終業時刻間際に内線が鳴って 東堀が出た。また受付かららしい、今度はどこのオーナーが苦情を言いに来たのだろう、と思っていると訪問者は陽菜を訪ねてきたらしい。一瞬にして鳥肌が立った。二階堂と目が合った。まさか慶悟が乗り込んできたのだろうか、そんな悪い想像が浮かんだが 訪問者は濱崎刑事だった。嶋田に断りを入れてから席を外して一階ロビーへと向かう。壁面に掛けられたキャンパスを興味深そうに眺めている濱崎がいた。
「お仕事中にすみません、何度か電話をしたのですけれど繋がらなくて訪ねてきてしまいました。」
濱崎は頭を下げる。
「こちらこそすみません。携帯はロッカーに仕舞っておくのがルールとなっていて休み時間にしか確認できないんです。もしかして捕まったんですか?」
陽菜は尋ねる。濱崎が自分を訪ねてくるとしたら用件は慶悟のことだけだ。しかし彼女の問いかけに濱崎の表情はどこか冴えなかった。それだけで まだ逮捕に至っていないことは察しがついた。
「すみません、身柄の確保まではまだ。」
「そうですか………。」
予想が出来ていたことで落胆はない。ただ濱崎が自分を訪ねてきたことには何かしらの意味があるのだろう、連絡が取れなかったことを心配してただ現れただけではないのだろう、と好意的に解釈した。
「ただ大阪市内のネットカフェに一昨日の晩、潜伏していたことはわかっています。」
「ネットカフェに?」
「はい。支払いにクレジットカードを使ったのでわかったのですが急行した時にはすでにもぬけの殻でした。それ以降は………。」
濱崎は首を振る。
「すみません。」
彼女は申し訳なさそうに言った。
「平田がネットカフェのパソコンからSNSやサイトに書き込みをしていたことは判明しています。」
「書き込みですか?」
自分の個人情報でも拡散されているのではないかと陽菜は不安になった。
「ええ、ある特定の人物への書き込みなのですが 四井耕太という方はお知り合いですか?」
「四井さん………、はい知っていますけど。四井さんが何か?」
「平田はその四井さんへの中傷をそのネットカフェからしていたみたいです。」
「じゃあもしかして………。」
陽菜は心の声をつい漏らしてしまった。
「心当たりあるんですか?」
「今朝から四井さんのことでトラブルがありました。」
「主に女性関係についてですね?」
「はい。担当店の口コミに四井さんを名指しで批判するコメントがあって それが原因でその店のオーナーさんに被害が。それの原因が平田の残したコメントなんですね?」
「そのようです。平田と四井さんに何かトラブルのようなものがあったのでしょうか?」
「多分、私への嫌がらせなのだと思います。私が四井さんに近づいたから。」
「嫉妬ですか?」
「そうかもしれません。」
「ではその誹謗中傷は平田の捏造?」
濱崎が言う。
「いえ事実無根というわけではないみたいです。その件で朝からオーナーさんたちを交えて四井の上司が対応をしていましたので。」
「あなたに近づく男を排除しようと調べ上げたというわけですね?」
「たぶんですけど………。」
陽菜は溜息をつく。
「平田はまだあなたに執着していることは間違いないようですね………。」
濱崎は苦い顔をして言った。
はやく逮捕してください、と喉元まで出かかった言葉を陽菜は飲み込む。目の前にいる濱崎刑事は自分のことのように親身になって捜査を続けてくれている。その人に対して言える言葉ではないな、と思った。
濱崎をロビーで見送って陽菜は事務所へと戻る。エレベータが開いたところで目の前に四井が立っていた。いつもの彼らしくない憔悴しきった表情で人懐っこさは完全に消えていて陽菜と目を合わせようともしなかった。軽く会釈だけをして入れ違う。
デスクに戻ると二階堂が近づいてきた。
「処分が出るまで自宅謹慎になったみたいだよ。」
四井が消えたエレベータホールを見て陽菜は小さく頷いた。
「四井さんの噂の情報源、私の元カレみたいです。」
陽菜は濱崎から聞いたばかりの話を二階堂に吐露する。四井がこんなことになったのも 自分が慶悟のことを有耶無耶にしていたからだ。自分と関わり合いになんてならなければ 彼の嫉妬の対象にならなければ四井が自宅謹慎になることはなかったのかもしれない。罪悪感に押しつぶされそうな気持を少しでも楽にしたかった。
「じゃあ吉岡と四井の仲を勘繰った、ってこと?」
「たぶん そうじゃないかと。」
「怖いね………。」
「はい。怖いと思います。それに巻き込んでしまって四井さんにはどうやって謝ればいいのかって………、さっきもそこですれ違ったんですけど結局、何も言えませんでした。」
「いや、そこは謝る必要はないでしょ。」
二階堂はばっさりと切り捨てるように言った。
「確かに吉岡の元カレが情報源なのかもしれないけれど それって嘘なわけではないでしょう? 四井がやったことは事実だし、もとはと言えばあいつのだらしなさが原因じゃん?いつかは発覚することだったんだよ。だからそこは考える必要なし。」
彼女は吉岡の右肩に手を置いた。
「そう………なんですかね?」
「そうだよ、他の子も何人か手を出されていたみたいだし、あいつの評判はもう最悪なところまで落ちてる。遅かれ早かれ こうなる運命だったんだよ。」
二階堂はそう言うと仕事に戻った。
職場は誰も口にはしないけれどどこかそわそわとした落ち着きのない雰囲気に包まれていた。
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