第16話
意外にも灰島ノドカは有名だったらしい、二階堂が飲み会の席で四井に陽菜が以前、着ぐるみのクマに助けてもらったことがあるという話をすると彼が灰島ノドカの作品展に言ったことがあると自分のスマホに保存されている写真を見せながら言った。
正体不明のアーティスト、灰島ノドカは人間的には変わり者と評されるものの作風は淡い色彩の幻想的な作品や、黒を基調とした描き込みの多い骨太な作品と幅広く、とりわけ灰島ノドカの描く女性が可愛いと評判なのだという。四井は少し照れながら お尻がやたらとリアルなんですよ、と言うと グラスに残っていたハイボールをぐっと飲みほした。
「四井君もお尻星人なんだね。」
二階堂が猫のように目を細めながら言う。
「外国人はお尻派多いらしいですよ。」
四井は肯定するように追加で雑学を放り込んできた。誰がとった統計なのだろう、と陽菜は疑問に思う。
「あら、どうして?」
枝豆を口に運びながら二階堂が聞く。
「胸は豊胸とかお金を掛ければいくらでも美しさを保てるらしいのですけど お尻は基本的に鍛えなければダメなんですって。」
「つまりお尻には自然美が詰まっているということね?」
「努力の結晶が引き締まったヒップになるわけですよ。」
「お尻には嘘偽りのないその人の人生が出るというわけか………。」
二階堂はお尻を片方椅子から浮かして触っていた。
「話をもとに戻したいんですけど。」
陽菜は優等生のように片手を挙げた。
「灰島ノドカの話に。」
「ああ、はいはい、そうでしたね。実はね、ちょっと前に灰島ノドカの作品展で盗難事件があった話は知っている?」
「知っています。確か、初恋ってタイトルの作品ですよね。」
陽菜は以前に調べた記憶を呼び起こして答えた。
「そう。僕はね、灰島ノドカのかなりファンが犯人だと思っているんだよ。」
「盗んでまで欲しい人っていうのは大抵の場合、ファンだよ、四井くん。」
二階堂が人差し指を振った。
「それか転売目的の人。嫌な世の中になったよねぇ、私、フリマサイトとかは好きだけれどさ、行き過ぎたユーザーって好きじゃないんだよね。あくまでも自分にとって必要なくなった物を売買する場所でしょう? 自分は興味がないけれど 儲かるから仕入れて売っていますって本当に意味わからない。」
「そういうのって昔はコンサートチケットとかが主流でしたね。」
四井が懐かしそうに言った。
「そのころのイメージがあるから転売屋イコール競争率を上げる天敵みたいなイメージがファンの中にあって フリマサイトで急激に増えた転売屋が嫌われるって感じですね。」
「そうそう、で その怒りの持っていき場がないから苦情が全部プロモーターとかアーティストに向かっていって大騒動になるんだよ。お前らが対策を立てないからだ、ってね。今、電子チケットが主流になってきているけれど 通信障害が起きてチケットが提示出来ない大騒動あったばかりだもんね。」
二階堂は肩を竦めた。
「それで犯人がファンってどうしてそう思うんですか?」
二階堂の愚痴の合間を縫って陽菜は四井に質問をぶつけた。
「初恋ってね、作品集には掲載されていない幻の作品なんだよ。いや、実際にはあるから幻ではないのだけどね。灰島ノドカが世の中に出るきっかけとなった作品なのだけれど なぜだか作品集には掲載されず 今回の作品展でしか見ることが出来なかったんだ。」
「だから盗んで自分のものにしようとした?」
陽菜は言う。
「うん、けれど自分のしたことの重大さに気が付いて犯人は怖くなったんだろうね。作品自体は無造作に捨てられていたらしいよ。」
「それってファンがすることでしょうか?」
陽菜は疑問を口にした。
「もちろんきちんと元の場所に返すことが当然なのだろうけれど理由が理由だし、そんなことをしたら自分の犯罪を告白しているのと同じだから捕まってしまう。流石に馬鹿正直に返却は出来なかったんだろうね。」
「うちの近所の公園だったらしいですよ。」
「へえ、それはなんというかドラマティックだね。」
四井は口笛を吹く。
「作品は見つかったのに 今度はその作者が行方不明だなんてね。」
二階堂はそう言うと空になったグラスを通りかかった店員に見せておかわりを注文した。
「元々、正体不明のアーティストですからね。本当に行方不明なのかわからないけれど。今、そういう噂でもちきりなのはファンの間では有名だね。」
四井は言った。
「どうして行方不明説が流れているんですか?」
「本人のSNSの更新が一か月以上止まっている、というのが一つと もう一つは宿泊先のホテルの従業員が呟いちゃったことが原因だね。灰島ノドカの仮初の姿であるクマが部屋に置きっぱなしになっていたって。」
「脱ぎ捨てていったんですか?」
陽菜は驚く。だとしたら自分が出会ったクマは灰島ノドカとは別人ということになると考えたが そもそも一着だけとは限らない。別のところに別の動物の着ぐるみを用意していたという可能性だって考えられる。
「うん。呟いた本人は守秘義務を守れない奴として叩かれて以来、鍵掛けて逃亡しているけれどね。」
「なんで逃げたんだろうね………。」
店員が運んできたおかわりのハイボールをちびりと飲んで二階堂は呟くように言った。
「クリエイターには本人にしかわからない悩みみたいなものがあるんですよ、きっと。産みの苦しみってやつですね。本当は作品展にはそれように新作も用意する予定だったみたいですけど 結局、間に合わなくて 今回は幻の初恋を展示することになったみたいですし。」
「内幕に詳しくない?」
二階堂は陽菜に同意を求めてきた。
「そりゃあ僕は灰島ノドカファンですからね。そういうコミュニティに参加しているので知らない人よりは詳しいですよ。」
「間に合わせられない上に 渋々、作品集にも載せない幻の作品を展示したことでプライドが傷ついたってことね。」
「そうかもしれませんね。」
二階堂の説に四井は大きく頷く。
「それよりもですね、僕が気になるのは吉岡さんを助けたという着ぐるみのクマの存在ですよ。実際に会話としたんですか?」
「いえ、筆談ですね。」
陽菜は答える。聞いた声が男性であったことは内緒にしておいた。二階堂も察してくれたのか無表情でハイボールを飲んでいた。
「目の前で見た印象ってどうでしたか? 思った以上に大きいとか小柄だったとか、良い匂いがしたとかなんでもいいんですけど。」
「めちゃくちゃ質問するね。そんなに灰島ノドカのことが好きなの?」
二階堂がからかうように言った。
「当たり前じゃないですか、年齢はおろか性別だってわからない謎の人物なんですよ。知っているのは関係者の限られた一部くらいと言われているし そんな人と接触した人がいるのなら聞くのはファンとして当然ですよ。」
四井が力説した。
「それは失礼しました。」
彼の迫力に押されて二階堂が肩を軽く竦める。ちらりとこちらを見た彼女と視線があった。陽菜は苦笑する。
「それがご期待に添えなくて申し訳ないんですけど何もわからないんです。会話は私が話したことに対してリアクションとか筆談しただけなので。」
「ああ、なるほど徹底しているんだ、流石だなぁ。」
四井は感心したように言う。
「着ぐるみの上から腕を触ったとかもないんですか?」
「そうですね。」
陽菜は慶悟に襲われた晩に怖くなって抱き着いたことを思い出しながら答えた。
「連絡先を交換したとか、そういうこともないですよね?」
「ええ。」
陽菜は頷く。
テーブルの上の四井のスマホが震えた。LINEの通知バナーということだけはわかった。彼の隣に座っていた二階堂の目が獲物を見つけた猛禽類のように光ったように見えた。
「失礼。」
彼はスマホを手に取ってフリック操作をする。
「担当店のオーナーさんからでした。ちょっと電話をしてきます。」
四井はそう言うと席を立ってお手洗いの方へ歩いて行った。
「嘘だね。」
去っていった方に視線を向けて二階堂が面白くなさそうに言った。
「嘘?」
「女の名前だった。ミカって名前が見えたもん。」
「LINEだってことはわかりましたけど よく見えましたね。」
陽菜は感心しながら言った。コンタクトレンズを入れていて視力は矯正されているもののあの一瞬で覗き見ることが出来るのは職人芸だと思う。
「卓球部だったからね。動体視力は良いの。」
二階堂が左右の人差し指で自分の瞳を指差す。いつもよりも黒目が大きいような気がした。
「卓球部だったんですか?」
「うん、典型的な幽霊部員だったけれど。」
「動体視力と卓球部だったこと関係ないじゃないですか。」
陽菜は呆れたように言う。
「女いるのかぁ………。くそ騙されたなぁ………。」
「まだ彼女と決まったわけではないんじゃないですか?」
「吉岡は甘い。女からLINEが入って 担当店から電話だなんてわざわざ嘘をついて席を立ったんだよ。やましさがあるからに決まっているじゃん。」
「やましいって………。」
陽菜は苦笑する。
「彼女かどうかも怪しいね。ただの遊び相手っていう可能性もある。」
「ご家族かも? ほら妹さんという可能性だって。」
「だったら尚更、担当店からとは言いません。」
「そうですね………。」
何を言っても二階堂に勝てそうな気がしなくて陽菜は四井の弁護を諦めた。おそらく二階堂の言うことが正しいのだろうと思う。
彼が離席している間に それぞれもう一杯ずつ飲んで今日は解散しようということを二階堂に提案されて陽菜は同意する。異論はなかった。彼女がどういうつもりでこの席を設けたのかはわからないけれど 自分は付き合いでこの場にいるだけなのだ。四井と親密になりたいと思ってもいなかった。収穫と言えば灰島ノドカの話を聞けたということくらいだろう。
テーブルに最後の一杯が運ばれてから五分して四井が申し訳なさそうに戻ってきた。
「すいません、話の長いオーナーさんで。」
「いいえ、どういたしまして。」
二階堂はにこりと笑った。
「どうしますか? この後、もう一軒、店を変えて飲みますか?」
「いえ、今日はもうこの辺りで解散しようって話になりました。」
「そう………ですか………。」
四井は戸惑いながらも頷く。さっきまで弾んでいたはずの会話が急に空気の抜けたバレーボールのように弾まなくなったことを不思議に思っているようだった。
「吉岡さん、また機会があれば一緒に灰島ノドカの作品展行きませんか?」
「そうですね、機会があれば。」
陽菜は二階堂ほど切り捨てるような対応が出来ずに社交辞令として返事をしておく。今の段階ではもちろん四井と作品展に行くことはないのだろうけれど それでも人生とは一寸先に何が起きるかわからない。二人で出掛ける可能性も生きている限りはゼロではないだろう。だが社交辞令として交わした約束は週明けの月曜日、四井が懲戒解雇をされて果たされることが完全になくなることを陽菜も四井本人もこの時は当然としてまだ知らなかった。
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