第18話
灰島ノドカというアーティストが行方不明であるというネットニュースは二週間以上前にアップされていたものの最新の情報はなく一昨日の晩に調べたものと変化はなかった。本人が見つかったのか、それとも依然として行方不明のままなのか、それ以上は知る術もなく、陽菜はモニタのウィンドウを閉じて溜息を一つついた。
もしかすると同じ屋根の下に暮らしているクマがその灰島ノドカなのかもしれないという芽生えた疑問を陽菜はまだクマ本人に確認できないでいる。四井からは聞いていたけれどいざ自分で調べてみても灰島ノドカは一切のプロフィールを公表しておらず その全てが謎に包まれている人物だった。ホームページは開設されているものの そこにあるものは灰島ノドカが過去に発表した作品が掲載されているだけで その正体を推察できるものは何一つなかった。ただそのホームページ上のギャラリィにも 初恋 というタイトルの作品はアップされていなかった。ネットの掲示板には灰島ノドカの正体を考察するものもあったりして 一応、覗いてみたけれど有益な情報は何一つなく その間、モニタをずっと見続けていたのでただ眼が疲れただけだった。
【何を真剣に調べているの?】
手元のスマホが震えた。はっとして顔を上げた。
クマがそっと淹れたてのコーヒーを差し出してくれる。砂糖無しの陽菜好みのカフェラテだった。何も悪いことなどしていないのに見咎められているような気分だった。
「灰島ノドカって知っている?」
思い切って核心をついてみた。被り物をしているのでその表情を伺い知ることは出来ないし、その名前を聞いても彼が動揺しているようには見えなかった。すぐに彼の指がスマホを操作する。
【知っているよ。】
【あまり聞きたくない名前。】
「聞きたくない名前って?」
【同じ大学の同期生。】
「じゃあ灰島ノドカと知り合いってこと?」
【うん。】
【逆に尋ねるけれど どうして灰島ノドカなの?】
「知り合いでファンの人がいて その人から灰島ノドカは正体不明で公の場では着ぐるみを着ているって聞いたから。」
【もしかして僕が灰島ノドカだと思った?】
「うん、なかなかいないでしょう? 着ぐるみを着ている人って。」
【増えていけばいいな、とは思うけれど。】
【残念ながら多くはないね。】
クマは頭を振った。
【僕が灰島ノドカだとしたら、】
【君はどうする?】
「別にどうもしないよ。」
陽菜は答える。クマの中身が誰であろうと問題はなかった。自分にとってクマはぬいぐるみの一つであり、その中身は駅から自宅に帰るまでの間のボディガードみたいな存在なだけだ。欲を言えば非常事態に助けてもらえるくらいの力があればベストだろうけれど アーティストというのはどれくらい体力があるものなのだろう、陽菜はその点だけを考える。
「君が灰島ノドカであろうと、それ以外の誰であろうと私は別にどちらでもかまわない。」
【包容力の塊みたいな人だね。】
【www】
「答は? どっち? あなたは灰島ノドカ?」
【灰島ノドカではない。】
【ただし証明は出来ないけれど。】
「ああ、そうか本人自体が謎なのだものね。」
コーヒーを飲んだおかげで少しだけ頭が冴えたような気になった。
【そういうこと。】
【仮に僕が素顔を見せても、】
【灰島ノドカかどうかはわからないよね。】
これ以上、この質疑応答は無駄だと陽菜は思った。彼が認めても、そうでなくても、そのどちらも証明してみせることは不可能だからだ。
「灰島ノドカって男性なの? それとも女性?」
【それは教えられない。】
【一応、正体不明を売りにしているからね。】
【そこはかつての友人として売ることはできない。】
「義理堅いんだ?」
【ただ一つ教えてあげられることはね。】
【名前も本名ではないということだけだね】
「つまり大学に問い合わせても一人一人調べないことにはわからないってことか。」
【そういうこと。】
「ちょっと前に作品展で盗難事件があったニュースは知っている?」
【灰島の?】
「うん。私ね、その関係で警察の人に話を聞かれたんだよ。」
【へえ、初耳。】
【盗まれるくらい有名になったってことか………。】
「同じクリエイターとして嫉妬する?」
【まあ少しね。】
【ただ灰島は学生のときから頭一つ抜けていたからね。】
「天才だったってこと?」
【いや、天才というよりはむしろストイック。】
【ずっと絵を描いていたよ。】
【その時から絵で食べていくことを】
【誰よりも考えていたんだと思う。】
「アーティストにとって処女作ってやっぱり特別?」
【そうだね。】
【自分がその世界に初めて足を踏み入れたものだからね。】
【アームストロングも言ったでしょう?】
【小さな一歩だけれど 大きな飛躍だって。】
「外国人に知り合いがいないからわからない。」
陽菜は首を振る。アームストロングとは誰なのだろう、有名な芸術家なのだろうか、しかし芸術家といえばピカソとかゴッホくらいしか名前は聞いたこともなくて 代表作を言えとクイズで出題されても一つとして答えられない自信がある。
「デビュー作って価値があるんだね?」
【そうだね。】
【まだ荒々しかったり どこか拙かったりするけれど、】
【本人にもファンにも、】
【価値はあるものじゃないかな。】
「じゃあやっぱり犯人は熱狂的なファンというわけか。」
陽菜は呟くように言う。四井の指摘していることは正しいのかもしれない。
【盗まれたのは】
【デビュー作?】
「そうそう初恋っていうタイトルの作品だって。画集にも収録されていない作品展に足を運ばないと観ることの出来ないやつなんだって。」
陽菜の言葉にクマがぴたりと動きを止めた。LINEを暫く返そうともしなかった。
「どうしたの?」
電池の切れたオモチャのように動かなくなったクマを心配して陽菜は声を掛ける。
自分は動けるのだと今、思い出したかのようにクマは手を動かした。
【ごめん、ちょっと考え事していた。】
「灰島ノドカのこと?」
【うん。】
【もしかしたらね、】
【その初恋を盗んだ犯人は、】
【灰島本人かもしれない。】
「どういうこと? 自分で自分の作品を作品展の会場から盗むの? どうして?」
陽菜は理解できないでいた。第一、それは盗みになるのだろうか、という疑問すら頭に過る。本人のものなのだ、本人がどうしようと自由のはずだ。
【灰島にとって 初恋は嫌いな作品なんだよ。】
「いや、デビュー作って作家にとっては大事なものなのでしょう? さっきと言っていることが全然違うじゃない。」
【うん。】
【けれど初恋だけは違う。】
「どうして? それって画集とかに収録されていないことに関係あるの?」
【うん。】
【でも、この話はもうおしまい。】
【これ以上は何も言えない。】
クマはそう言うと立ち上がって陽菜に頭を下げた。そしてこれ以上の追求を避けるようにして そのまま自分の部屋へと引き上げていく。
初恋は嫌いな作品、クマの何かを知っているような言葉がずっと陽菜の頭の中で何度も何度もリピートされていた。
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