第14話

 乗り換えの電車に乗る前に陽菜はクマにLINEを入れる。この駅から十分くらいで自宅最寄り駅に着くので この時点で連絡しておけばクマが駅まで迎えにきてくれる手筈になっていた。基本的にクマは陽菜が仕事で出ている昼間に着ぐるみを脱いでいることが多いらしい。つまり人間体での活動を行うのだと彼本人が言っていた。頼んだわけではないけれど寝る場所と風呂を提供する代わりに掃除全般を申し出たのはクマからだった。もちろんこの申し出は陽菜にとっては有難いものだったが共有スペースだけに留めてもらっている。一応、食事は別々ということにもなっているのだけれど クマが晩御飯を作ってくれていることがほとんどだった。ハンバーグとパスタを振舞ってもらったが どちらも陽菜が自分で作るよりは美味しかった。クマいわくファミレスのキッチンで調理のバイトをしていた経験があるらしい。賄いが出るので学生だったころは魅力的な職場だったそうだ。パスタが得意料理なのか、三日続いた日もあったけれど 作ってもらっているので文句が言える立場ではない。彼からのLINEの返事で今日はカレーを作っています、と報告があった。駅のコンビニでお弁当を買おうとしていた陽菜にとっては嬉しい情報だった。自炊するようになるとカレーを一度は作る。しかし作り過ぎてしまうので何日も続くのだ。だから一人暮らしにカレーは向かない。食べたいときはだいたいレトルトを頼ることになる。二人だったら作ってもすぐに消費できるだろう、陽菜は思う。


 最寄り駅で電車を降りて改札を抜ける。階段を下りてバスロータリーのある北側出口へ向かう。バス待ちの列を避けて陽菜は角の喫茶店の前に立った。握っていたスマホからLINEの通知音が鳴った。ポップアップを見る、差出人はクマだった。

 【これより尾行を始めます。】

 クマは陽菜を駅まで迎えに来るとき着ぐるみを着てこない。それは職務質問を避けるためだった。一日や二日なら店の宣伝を兼ねたキャラクタに思われなくもないけれど連日連夜、駅前にクマの着ぐるみが現れて 周辺住人から不審人物と通報されると余計なトラブルを招くことになる。だから迎えにくるとき クマは着ぐるみを脱いでいる。そして正体がばれないように陽菜のすぐ隣を歩くのではなく数メートル離れて彼女を尾行するように護衛しているのだった。


 月が隠れている夜空の下、川沿いの道を陽菜は一人で歩く。いつもと同じ帰り道なのだけれど近くに知り合いがいるというのに何も会話が出来ない状況というのが少し寂しくは思えた。立ち止まり振り返る。人の気配はなかった。クマの中身らしい人間の姿などどこにも見えなかった。本当に尾行してくれているのか、と心配になる。

 陽菜のスマホが鳴った。LINEのトークではなく、通話の着信音だった。誰だろう、もしかして慶悟だろうか、ドキリとする。クマからだった。

 「どうかしたの?」

 きちんと聞くクマの地声だった。

 「ううん、なんでも………。」

 まさか人恋しくなって話し相手になってくれないかと思ったなんて言えなかった。あくまでもクマは慶悟の襲撃に備えて迎えにきてくれているだけだ。

 「っていうか、喋っていいの? 喋らない設定だったんじゃない?」

 陽菜は驚きながら聞いた。

 「今はクマの姿じゃないから話せるよ。」

 クマが問題なさそうに答えた。

 「あ、そうなんだ………。」

 消防車がサイレンを鳴らして数台、マンションの方へと走っていく。

 「今、どこにいるの? 私からは姿が見えないのだけれど………、きちんと尾行してくれているんですか?」

 クマのスマホからもサイレンの音が聞こえた。近くにいることは間違いないらしいことは陽菜にも分かった。

 「なるほどつまり僕が仕事をサボっていないかチェックしたわけだね?」

 「うーん、まあそうかな。」

 陽菜は笑って誤魔化した。

 「きちんと尾行しているよ。言っていなかったっけ? ちょっとだけ私立探偵のアシスタント的な仕事もバイトでしていたことがあるんだ。だから尾行は割と得意。」

 「初耳ですけど。」

 私立探偵という職業が実際に存在するというのも驚きだった。冒険家という職業と同じくらいフィクションだと思っていたからだ。

 「なんでもいいから動いてみて。」

 クマから指令が出る。

 「手を動かすでも Y字バランスでも その場でバク宙でも良いよ。」

 「Y字もバク宙も出来ません。」

 陽菜は言う。自分の運動神経に期待はしていなかった。もしかしたら母親の胎内に忘れてきてしまったのかもしれない。結局、陽菜は左手を上げただけだった。

 「左手を上げた。」

 クマが言う。やはりどこかでクマは見てくれているのだとわかった。

 「疑ってごめん。」

 陽菜はすぐに謝る。

 「大丈夫、謝られるほどのことでもないから。」

 電話口でクマが笑う。二十メートルほど離れた電信柱の陰に人影が見えた。おそらくそれがクマなのだろう。月明りもなく街灯の光を避けるようにいるのでその姿ははっきりと見えない。

 「帰ろう。天気予報じゃこの後、雨が降るらしいよ。それに………。」

 「それに?」

 「特製カレーが待っている。」

 「楽しみ。」

 「うん。」

 「ありがとう。お腹ぺこぺこ。」

 こんな単純なやり取りが嬉しくて陽菜は再び歩き出す。我ながらお気楽な性格をしているんだな、と自分に呆れた。


 「今日、良いことと悪いことがあったんだ。」

 自分の機嫌が良くなっていることに調子づいて陽菜は昼に起きたちょっとした事件を話し始める。

 「良いことと悪いこと?」

 「順番的にはね、悪いことが起きた後で良いことが起きたのだけれど。聞きたい?」

 「この場合、聞かないという選択肢はまずないね。」

 「うん。実はお昼、ランチに入った店でね、鞄を置き忘れたんだ。」

 「ああ、それは大変だね。」

 クマは心配そうな声で言った。

 「でもね、わざわざ会社まで届けてくれた人がいるんだよ。」

 「へえ、同じ会社の人じゃなくて?」

 「うん。そうそう。全然、知らない人みたい。」

 「みたい? 直接、返してもらったわけじゃないの?」

 「うん、私の代わりに同僚がね、その人経由で私のもとへ無事にカムバック。バッグだけに。」

 世の中、まだまだ本当に捨てたものじゃない、陽菜は普段言わないような冗談を言った。

 「そもそもなのだけれど どうして届けてくれた人は君の勤めている場所がわかったんだろう?」

 「社員証を見たんだと思うよ。」

 「ああ、社員証か………、あのドラマとかでよくあるピッて、かざすやつ?」

 「そうそうピッて、かざすやつ。」

 カードリーダにタッチするだけでドアがロックされる仕組みになっているので社員証がなければ基本的に事務所への立ち入りが出来ない。平日はまだ同僚に内側から開けてもらう手もあるけれど 土曜日などは休日出勤している人間が一人になるため紛失すると大変なことになる。


 「それがどうかした?」

 「そういうのって持ったことがないから憧れではあるよね。せいぜい電子マネーカードくらいが僕には限界。」

 「その気持ちは少しだけわかるよ、私も社員証を手にしたときはわくわくしたもの。」

 陽菜は入社したての初々しかった気持ちを思い出しながら言った。

 「あのさ、変なこと言うけれど良い?」

 「何、急に? どうしたの?」

 クマの声のトーンが明らかに変わったのが分かる。まさか慶悟が傍にいるのだろうか、陽菜は周囲を見た。

 「とりあえず歩こう。」

 クマに電話で促されて陽菜は歩き始める。

 「鞄を拾ってくれた人、どうしてわかったの?」

 「いや、だから社員証を見てわざわざ事務所の入っているビルまで届けてくれたんだよ、さっきも言わなかったっけ?」

 「うん、それは聞いた。社員証には事務所の住所も記載されているだろうから そこまでなら納得できる。僕が言いたいのは ビル前で同僚の人が受け取ったって話なんだ。なんで拾った人は 手渡した人が君の仕事仲間だってわかったんだろうってことなんだよ。」

 「あ………。」

 言われてみて陽菜はその不自然さに唖然とした。陽菜の働く会計事務所は基本的にフォーマルな恰好が義務付けられているが 制服は貸与されない。だから見た目で同じ会社の人間とはわからない。それに加えて社員証は社内にいるときはネックホルダーに入れてぶら下げているが 外へ出るときは外すように指導されている。これは小学生が登下校時に名札をつけないのと同じ防犯上の理由だった。だからビル内に入るまでは社員証は鞄の中か、ポケットの中なのだ。それなのに拾い主は四井を陽菜の仕事仲間だと認識した上で陽菜の鞄を彼に預けたことになる。なぜ拾い主は四井を陽菜の同僚と見抜いたのだろうか………。

 「四井さんを知っていた………。」

 「その四井って人だけじゃなく 君のことも知っていたって可能性が高いね。」

 「それって………。」

 陽菜は自分自身の想像で身の毛がよだつのが分かった。

 「元カレなんじゃない? 君の鞄を拾ったのって。」

 「変なこと言わないでくれる………。」

 傍にクマがいてくれていると思っていても不安に襲われる。

 「ごめんね、別に脅かすつもりじゃないんだ。ただ少し出来過ぎているなって思ったから。」

 「警察に追われている人が呑気に街中をうろうろはしないでしょう?」

 陽菜は言う。

 「発想が逆だと思うよ。」

 クマが言った。

 「木を隠すなら森って言葉があるでしょう?」

 「聞いたことないけど 諺か何か?」

 「うん。田舎とかは逆に目立ちやすいんだよ。余所者には敏感だからね。でも街は他人に興味が無い人の集まりだし、人が多いから目立たない。同じマンションの住人でもフロアが違えばどんな人が住んでいるのかなんてわからないでしょう?」

 「言われてみればそうかも。」

 「捕まるまでは警戒だけはしておいた方がいいよ。無事に鞄が返ってきたって言っていたけれど盗まれてものとか本当にない?」

 「財布もスマホも鍵も無事だったよ?」

 「お金もそうだけれど スマホはそれ自体が無事でも大事なのは中身だったりするからね。」

 「パスコード掛けているもん。」

 陽菜は言う。

 「元カレと別れてから機種変ってした?」

 「ううん、そんなに頻繁には機種変なんて出来ないよ? 高いんだよ、スマホって。まだ分割だって終わっていないんだから。」

 「彼って君のスマホを触っていたことあるの?」

 「ある、知らない間にGPSアプリを入れられていたことあった。」

 「それってどうしたの?」

 「もちろん消去したよ。」

 陽菜は言った。

 「それにね、スマホは鞄の中には入れていなかったから それ自体を操作されたかもっていう心配はないと思う。」

 「そう………。」

 まだ心配なのかクマの声はうかない。ここまで真剣に心配してくれるというのは逆に有難いことだな、と陽菜は思う。

 「何も盗られていないけれど 知らないものは増えたってパターンは無い?」

 「どういうこと?」

 「スマホにGPSアプリを入れなくても 居場所を常に知ることが出来るアイテムがあるのって知っている?」

 「そんなのがあるの?」

 「うん、財布とか鍵とかよく無くすものに忍ばせておいて いざってときにスマホで居場所がわかるんだけれど 手のひらに隠れるくらいの小さなサイズなんだ。形状はいろいろだけれど鞄のポケットとか確認した方がいいかもね。」

 確かに手元に鞄が戻ってきたとき、陽菜は無くなっているものがないか、を確認したけれど増えたかもしれないものはノーマークだった。鞄のサイドポケットなどに普段は何も入れていないのでわざわざ確認はしていない。

 陽菜は通話状態のまま鞄のポケットに手を入れた。指先に感じたことのない感触があった。

 まさかな、と思いながら指と指で挟んでその触れ慣れないものを引き抜く。現れたのはプラスティック製の薄い円形状のタグだった。

 「あった………。」

 「ビンゴ。」

 クマが言う。縦も斜めも揃っていないのに嬉しくないビンゴってあるんだな、と陽菜は鳥肌を立たせながら思った。

 「捨てたほうが良い?」

 陽菜はタグを握りしめながら聞く。こんな気味の悪いもの持っているのも汚らわしいと思った。慶悟がタグの位置情報を確認してニヤニヤとしていると思うと腹も立ってくる。

 「いや、そのままとりあえず持って帰ろう。」

 「なんで?」

 捨てることに同意してくれると思っていたのにクマの答が予想に反していたため陽菜はつい詰問するような口調になっていた。

 「油断させることが出来るでしょう? 君の行動を把握している、って思わせておいた方が相手も無茶はしないと思うし。」

 「でも気味が悪い。」

 「あくまでもざっくりとした居場所だけだから。それに………。」

 「それに?」

 「自宅の場所はすでに知られているわけだし 彼の目的はあくまでも仕事の時以外の君の行動なのだと思う。対策は出来ると思うよ。」

 結局、クマの意見に従うかたちで陽菜はGPSタグを捨てないでそのまま鞄のサイドポケットに戻した。

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