第13話

 会社帰り、駅のホームで電車を待っていると先に事務所を出たはずの二階堂が階段を上がってくるのが見えた。二階堂も陽菜に気が付くと一旦、手を振ってから階段を上り切って陽菜の傍に近づいてくる。彼女の手には駅前のデパートの小さな紙袋がぶら下がっていた。

 「お疲れ様。」

 「お疲れ様です。」

 特にそれ以上の会話もなく二人はホームでそれぞれスマホを確認していた。

 間もなく電車がホームに入ってくるアナウンスが流れて二人の前に特急電車が停車する。幸運にも並んで座ることが出来た。


 「鞄、良かったね。」

 電車が動き出してから二階堂がぽつりと呟くように言った。手にしていたスマホを光沢のある赤い鞄の中へ彼女は投げ入れた。

 「吉岡がそんなミスをするなんて珍しいけれど。」

 「久しぶりに焦りました。」

 陽菜は言う。ただ元カレに殺されそうになった時ほどではないけれど、と皮肉めいたことが頭に浮かんだが それは口には出さなかった。

 「私もさ、昔、財布をタクシーに忘れたことがあったよ。」

 「大変じゃないですか。」

 「それもフランス旅行中に。」

 失敗談なのにどこか自慢げに聞こえるのはどうしてだろう、と陽菜は思う。

 「どうなったんですか?」

 「それがさぁ海外で物を無くすと諦めるしかないじゃん? でもね、そのタクシーの運転手さんがわざわざ駅で途方にくれている私に届けてくれたんだよぅ。すごくない?」

 「信じられません。」

 陽菜は大げさに驚く。

 「フランス人って親日家が多かったりするでしょう? 私も語学留学兼ねていたから少しは話すことも出来たし、それで印象が良かったんだと思う。もちろんお礼にチップは多めに渡したけれどね。」

 二階堂は懐かしそうに眼を細めた。

 「でもね、日本はダメ。」

 「逆にですか? 日本が一番、落とし物が無事に帰ってくる確率が高いって聞きますけど。」

 「うん、何年か前にコンビニで財布を置き忘れたことがあって その時も普通に返ってきたけれどさ。拾ってくれたコンビニの店員が後日、普通に自宅近くで声を掛けてきたときはやばかったね。多分、免許証とかの住所を控えていたんだと思う。」

 「ああ………。」

 そういう話はネット上のサイトで見たことがあった。二階堂の話を聞いて本当にあるんだな、という感想を抱く。


 「吉岡も気を付けた方がいいよ。表面上は無事に帰ってきたとしても実は、ってことがあるんだから………。」

 「脅かさないでくださいよ。」

 陽菜は笑って言ったものの かつて慶悟も自分のスマホに位置確認アプリを無断でダウンロードしてきたことがあったな、と思い出す。

 「ちなみにそのコンビニ店員はどうしたんですか? 警察に?」

 「ううん、普通に二か月くらい付き合ったよ。」

 二階堂はあっけらかんとして言う。

 「え?」

 「イケメンだったからね。」 

 陽菜は唖然として息が詰まりそうになった。

 「何が出会いのきっかけになるかわからない世の中だからね。そういうのって大事なわけよ。本屋で偶然、手を伸ばした本を同時に相手も手を伸ばすなんていうシチュエーションは 夜空を駆けるペガサスくらいファンタジーだからね。」

 「じゃあ結果オーライってことですか?」

 「その時はね。」

 二階堂はかつてに思いをはせて三度頷いた。

 「結局、一緒にいても面白いと思えなかったからバイバイしたけど。」

 「あぁ………。」

 二の句を継げない陽菜は言葉にもならない言葉を吐いた息と一緒に出した。それと同時に二階堂の逞しさみたいなものを垣間見た気がした。


 「あ? 軽い女だって思ったでしょう?」

 二階堂が目を細めて陽菜を見た後で微笑んだ。

 「いえ、けしてそんなことは全然。」

 「まあわかるよ、その気持ちは。」

 二階堂は視線を網棚の方へ向けた。

 「誰だって最初の恋がいつだって最後の恋にしたいと思っているもん。でもさ、そんなに上手くはいかないんだよなぁ………。良いな、って思って付き合ってみても やっぱり最初はお互いに本性を隠しているじゃん? 付き合う時間が長くなるにつれて見えてくるんだよ、そういう隠しているところ。もちろん許容範囲なところもあるよ、でもさ ここは多分、一生許せないだろうな、ってことが見えてしまうともうダメだね。」

 「先輩の相手の許せないところって何ですか?」

 「食べ方。くちゃくちゃ音を立てるのはもっての他だし、箸使いとかがもう許せない。変わっているでしょう? あと歯並びかな。」

 「口周りばかりですね。」

 陽菜は苦笑する。

 「大事だよ、そういう基本的なところ。まかり間違って結婚なんかしてみ、ずっとそれに耐えなきゃいけないんだよ?」

 「確かに。」

 「今は私らの親の時代と違って離婚なんて割とポップに出来るけれど やっぱりしたくはないよ。だからこそ拘るところは拘らないと。最初で最後の恋は素晴らしいけれどさ、世間体とか気にすることもない今のうちにね、頑張らないと。パートナ探しってさ、服を選ぶのと同じ感覚くらいじゃないとダメだと思うわけ。」

 二階堂の言っていることももっともだと思った。陽菜はかつて彼氏たちと付き合った時、自分にとって これが最後の恋になるだろう、とばかり思っていた。でも実際は価値観の違いであったり、嫉妬であったり、束縛が強すぎるなどの理由で結局は今も独りでいる。失敗を繰り返すごとに自分は慎重になりすぎているのだろうか、少しだけ考えさせられた。


 「結婚なんて誰だって一生に一度だけにしておきたいもの。相手選びは吟味に吟味を重ねるのは当たり前のことだと私は思うよ。」

 「でも付き合うと情が絶対に湧くと思うんですよね。そうなると簡単に別れられるかっていう問題がありませんか?」

 陽菜は経験談をもとに言う。慶悟の本性を知ったとき、別れようとした結果が今なのだ。二階堂のように洋服感覚で相手を変えていたら それこそトラブルに巻き込まれないだろうか、と心配になる。それが陽菜には面倒に思うのだ。

 「だからこそのマッチングアプリなんじゃないの? 後腐れなく相手を選べるという点では最強だと思うよ。吉岡が失敗したのは一撃必中の精神を持ってしまったからだと私は分析するね。もっと気軽にいろんな人と会ってみないと。」

 二階堂はスマホを取り出した。

 「私、常時七人くらいとはマッチしているからね。」

 「忙しくないですか?」

 「余裕も余裕。今でこそ七人に絞ったけれど 以前はこれ以上の数と連絡は取り合っていたからね。」

 陽菜は苦笑いしかできなかった。

 「そういえばあれから元カレはどうなったの? 捕まった?」

 「いえ、そういう連絡は入ってきていないですね。」

 「一週間は経つよね? 逃げ回っているのかな?」

 「かもしれませんね。」

 「意外と知らない間に私とマッチしていたりしてね。」

 「それ、ちょっとしたホラーですからね。」

 「駅から一人なのでしょう?」

 「ええ、まあ………。」

 陽菜は言葉を濁した。同棲をしていることを隠してクマに迎えをお願いしていることを話しても良かったのだけれど なんとなく言い出しにくかったのは乗り換えの駅が近づいていたからか、それとも単にもう少し秘密にすることでスリリングさを味わいたかったのか、そのどちらもなのだろう、と自分で思う。


 濱崎刑事からは慶悟を捕まえたという連絡はまだない。クマがいることで彼のことを時々、忘れそうになっていたが こうしてたまに思い出すことがあるとやはり頭の隅の方に黒いモヤとして引っ掛かるのは不安だからなのだろう。

 「でもまあ普通なら警察に追われているってわかっているだろうから もう二度と現れないんじゃないかな。美容整形とかしない限り。」

 「わざわざ私の前に姿を現すのにお金をかけて整形までしますかね?」

 「私ならしないな。別の男にいく。」

 二階堂は自慢げにそういうと立ち上がった。電車が彼女の降りる駅に到着したからだ。

 「とりあえず気を付けてね。何があるかわからないのが世の中だから。」

 小さく手を振ると二階堂は近いドアから降りて行った。話し相手が降りていったことで車内が急に静かに感じられる。空席もちらほらとあった。上を向いて口を開けたまま疲れ果てて眠る同年代のスーツの男や スマホを横向きにしてゲームをしている学生や 動画を閲覧している女性など 陽菜のように顔を上げて周りを見ている者はいなかった。観察した限りでは同じ車両に 慶悟の姿はなく、陽菜は通勤時に読んでいた文庫本を取り出して中断していた箇所から読み始めた。それは奇しくも自分と同じようにストーカーとなった元交際相手に悩まされる女性が主人公の話だった。共感できることもあったが あからさまに主人公の彼女が他人の忠告にも聞く耳を持たず浅はかな行動をするところが自分とは違うな、とも思った。自分なら夜分にチャイムが鳴っても絶対にドアの外は確認しない、気が付けば乗換駅に到着していた。


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