第12話
陽菜にとって着ぐるみを着ていて かつルームシェアという今時の言葉に逃げているとはいえ父親以外の男性と一緒に暮らすというのは初めてのことだった。初日、二日と相手の目を意識することもあったけれど 一週間経った頃にはもうすでにクマは陽菜の中で自立歩行して会話も出来るぬいぐるみという存在になっていた。何よりも家を出るときに見送ってもらえる事と駅まで迎えに来てもらえることが新鮮だった。こういう生活も悪くはないとさえ思う。クマと一緒に暮らしているということは誰にも打ち明けなかったことも単調な生活をしている彼女にとってカルボナーラに軽く振られている黒胡椒のようにスパイシィで その背徳感を楽しんでいる自分がスリリングで面白かった。
ただ慶悟が捕まったという知らせが警察から入らないのが悩みといえば悩みだったが幸いにもあれから慶悟が陽菜の目の前に現れることはなかった。未遂とはいえ元恋人を殺そうとしたのだから おそらくもう二度と現れることはないのだろう、と油断にも似た安心感を憶えたのは きっと一人で帰っていた夜道をクマがしっかりとサポートしてくれているからだ。早く事件が解決して欲しいと思う反面で そうなるとクマとの生活もどこかで区切りをつけなくてはいけないのだろうか、と思うこともあった。自分としては今の生活を続けてもいいと思うのだけれど クマはどうなのだろうか、彼は一応親切心から陽菜の身を案じて一緒に暮らしているだけだ。慶悟という脅威がないのなら 彼は陽菜の傍にいる理由は自然となくなる。勢いで始めた同棲だったけれど 終わらせ方までは決めていなかった。
そんなことばかり仕事の合間で考えていたからなのか、一人で入ったランチタイムの店で珍しく鞄を置き忘れてしまった。事務所まであともう少しという場所から慌てて店まで戻る。
店のドアを開けると気の良さそうな女性店員が笑顔を向けてきた。陽菜が先ほどまで食事をしていた客だと気付くと彼女はどうして陽菜が戻ってきたのかを察したようだった。
「鞄、忘れていったのよね?」
「はい。」
「さっき同僚って人が渡すって持っていってくれたわよ。」
「え?」
「え?」
女性店員が陽菜の反応を見てしまったという顔をした。
「もしかして入れ違い?」
「女性ですか? 男性ですか?」
陽菜はその同僚に心当たりがなかった。店内はカウンタだけの小さな店だ。顔見知りがいれば絶対に気が付く。自分がランチを食べている時に顔見知りは一人もいなかったと記憶していた。もちろん断言はできない。
「男性の方。眼鏡を掛けて色白で 背は貴女よりも少し大きいくらいの。帽子を被って隣に座っていた人。」
「たぶん同僚じゃないです………。」
陽菜は目の前が真っ暗になった。鞄の中には財布が入っていた。もちろん財布の中には現金のほかにクレジットカードや免許証などもあった。最悪、現金は盗まれても構わないけれどクレジットカードや免許証などは無事であって欲しいし、何より鞄は母が就職祝いに買ってくれた大切なものだった。それも出来るなら無傷であって欲しいと思う。
「その人、どっちに行きました?」
陽菜は無駄を承知で聞く。今更、足取りを追ったところで肝心の相手が誰かわからない状況で追跡しようがない。それでも何とかしなければと必死で考えた末の質問だった。
「ごめんね、そこまでは見ていないのよ。」
昼時の飲食店、ランチタイムの忙しさで店を出た客を行く先を憶えていろ、というのが無理な話なのだ。
どうして確認もせずに鞄を渡してしまったのだろう、と彼女に文句の一つも言いたかったけれど 結局のところ原因は自分であるので陽菜はそれ以上、何も言えなかった。
「探してみます………。」
力のない強がりを言いながら陽菜は店を出た。まさか自分が置き引きの被害に遭うとは夢にも思わなかった。各種のカードの手続きなどやらなくてはいけないことと昼休みの終了時間が刻一刻と迫っていることに焦りを感じる。とりあえず一旦、仕事場に戻って嶋田に相談しようと決めた。地区事務所の入っているビルの手前で四井と偶然に会った。火曜日以外の日にFCと会うことが驚きだったが それ以上に彼の手に見慣れた鞄があるのに驚いた。ぶら下がっているマスコットキーホルダーからもそれがついさっき置き引きにあった自分の鞄だとわかる。
「ああ、吉岡さん、丁度良かった。」
四井が爽やかな笑顔で言った。
「これ君の鞄でしょう?」
「ええ………。」
陽菜は戸惑いながらも差し出された自分の鞄を受け取る。
「でも、どうして四井さんが?」
彼も同じ店にいたのだろうか、陽菜はその時のことを思い出そうとしていた。
「いや、ついさっきそこで渡されたんだよ。ここの人の鞄じゃないですかって。それで中身を確認させてもらったら 財布に君の免許証があったからね。」
「その持ってきてくれた人って?」
陽菜は周辺を見まわす。駅前に近いこととお昼時もあってたくさんの人が行き交っていた。
「男の人。たぶん僕らと同世代か、少し若いかな。」
そんな人間は周辺にたくさんいる。そのヒントだけで探し当てるのはほぼほぼ不可能だ。
「気を付けたほうがいいよ。今回みたいなことはレアだと思うよ。」
「そうですね………。」
陽菜は鞄の中を確認した。財布、キーケース、ポケットティッシュにちょっとした小袋菓子と無くなっているものはなかった。
「財布の中、現金とかカード類はどう?」
四井が心配して聞く。
目の前で財布を開いて中身が無事なことも確認した。現金が数千円しか入っていないことを四井に見られたのは少し恥ずかしかったが それよりも鞄が無事に帰ってきたことの方が素直に嬉しい。
「大丈夫そうです、全部あります。」
陽菜は返事をする。
「でもどうして私がここの人間だってわかったんでしょうか?」
普通、落とし物を拾った場合は交番に届けるだろう、それをわざわざ職場まで持ってきてくれるのは親切の度を通り越しているように思えた。
「社員証じゃないかな?」
四井は言う。
「ああ、なるほど………。」
「僕もね、店勤務の時に落とし物とかよく交番に届けたんだけれど 手続きが本当にもう面倒くさいんだよね。こっちは親切心で届けているのに どこでどのように落ちていたんだって、ちょっとした犯人扱いでさ。」
彼は苦笑いを浮かべる。
二人でビル内に入ってエレベータに乗り込む。昼休みが終わるまで残り五分を切っていた。
「一度、親切心から財布にあったキャッシュカード経由で本人に預かっていますって連絡しようとしたときなんかは 銀行側の対応が最悪だったね。あいつらは余計な仕事を増やしたくないんだ。困っているだろう顧客のことなんかまず考えない。電話を一本入れるだけで人助けという良いことが出来るのにね。」
四井が苦々しく言った。
エレベータの扉が七階で開いた。
「吉岡さんは本当にラッキーだと思うよ。世の中、まだまだ捨てたものじゃないな。」
彼はそういうとエレベータを降りた。一人残された陽菜はそのまま八階まで上がってなんとか昼休みが終わるまでには業務に戻ることが出来た。
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