第10話
「じゃあまだ捕まっていないの?」
二階堂がおにぎりを手に持ったまま驚きの声を上げた。
「はい、そうみたいです。」
驚く彼女をしり目に返事をしながら陽菜も陳列棚からおにぎりを手にとった。紀州梅のおにぎりだった。
「超やばいじゃん。警察は何しているの?」
二階堂はあたかも自分が狙われているかのように周囲を警戒し始める。流石に慶悟だって白昼堂々と職場近くのコンビニで しかも再び狙ってくるとは考えられなかった。
「まあ、もともと私がその場で通報しなかったのが悪いんで 警察は何も悪くはないですよ………。」
お弁当の棚前から今度はインスタント食品の前へと移動しながら言う。目的の春雨ヌードルはラスト一つだった。
「逃亡中ってことでしょう?」
「逃亡中なのか、たまたま警察が訪ねて行った時に留守で入れ違いだったのかはわかりませんけれどね。」
「なんでそんなに他人事のように言えるわけ? 怖くないの?」
「そりゃあ怖いですよ。帰り道にいたらどうしようとか思いますよ。」
「絶対に暗いところなんか歩いちゃだめだよ?」
二階堂が心配してくれた。
「駅からうちまでで少し暗いところはあるんですよね………。」
タクシーを駅から使って帰る方法もあるが、流石に毎日となると生活費を圧迫する。自分が石油王なら経済を回す上でもそうするのだけれど 掘り当てられるのはせいぜい大きめの石くらいだろう。第二候補として自転車を買うという方法も考えていた。自転車ならばきっと追いかけられた時に逃げるのも最適だ。電動アシスト付ならば坂道になれば圧倒的に差をつけられるはずだし、そろそろ買おうかとも悩んでいたところだった。
「やっぱり送り迎えしてくれる彼氏を作ろうよ。」
「そうなると近所の人限定になりませんか?」
「なんで?」
「だって私が悩んでいるのは夜間の駅から自宅までの間ですよ? そうなると送り迎えは必然的に 今、私の住んでいる地域の人が彼氏候補ってことになります。」
「三宮からでも良いじゃん。」
「職場まで迎えに来てもらって帰るんですか? それも毎日? それは流石に悪いです。こっちが気を使います。」
レジに並びながら二階堂に言う。レジの店員が二階堂を呼んだ。
基本的に彼氏であっても適度な距離感を持ちたい陽菜にしては全面的に頼るのは抵抗があった。隣のレジが空いて陽菜が呼ばれる。先に会計を終えた二階堂が店の外で待っているのが見えた。その彼女に薄い紺色のスーツを着た若い男が近づいていた。ナンパか知り合いの二択、そんなことを考えながらレジにお金を入れる。店から出て二階堂に合流し、改めて顔を見るとそれが四井であることが分かった。
「こんにちは。」
四井が陽菜に挨拶をした。地区会計事務所と基本的に担当店舗周りのFC(フィールドカウンセラ)が顔を合わせることは珍しい。週に一度、FCたちが事務所に集まって会議をするくらいで その時もフロアが違うので会うことも少ない。
「こんにちは。」
陽菜は返事をしながら今日が火曜日だということを思い出した。火曜日は毎週、FC会議が行われる日だった。
「四井さんもこれからお昼なんだって。」
二階堂が陽気に言う。
「ここで会うことが分かっていればランチを奢ってもらえるチャンスだったのになぁ。」
「やめてくださいよ、ただでさえ給料少ないんだから。」
四井は笑いながら満更でもない顔で言った。
「そうだ四井さん。」
二階堂が小さく音を立てて両手を合わせた。
「今度、この三人で飲みに行きません?」
陽菜の意見などお構いなしに彼女は提案をする。
「いいですね。最近、忙しくて飲みに行くこともないですからね。あ、でも基本的に土曜日か日曜日くらいしか時間はないですけれど。」
「もちろんそれで大丈夫ですよ、吉岡も大丈夫だよね?」
「ええ、まあ。」
曖昧な笑顔を浮かべて陽菜は頷く。
「じゃあまた都合の良い日、連絡しますよ。」
四井は爽やかに言うと陽菜たちと入れ違いにコンビニへと入っていった。
「二階堂さん………。」
事務所まで歩いて帰る途中で陽菜は抗議するように言った。
「何? どうした? 二人きりの方がよかった?」
「そうじゃなくて。」
陽菜は伝わらないことがもどかしくて首を振る。確かに夜道に一人で帰るのが怖いとは言った。けれどそれと彼氏が欲しいはイコールとして成り立たないのだ。
「四井さん、あまり好みのタイプじゃない?」
「好みとか好みじゃない、とかそういうことではないです。ただ、今は誰とも付き合う気はないというか、そういう気分的なものです。」
「それはダメだよ、吉岡。」
二階堂は真顔で言う。
「その考えは絶対にダメ。危険。」
彼女は念を押すように顔を近づけていった。
「何が危険なんですか?」
「吉岡はヌイペニって知っている?」
「ヌイペニ?」
聞きなれない言葉に陽菜は頭の中で文字変換を試みた。
「ヌイグルミにペニスが生えていたら嫌でしょう?」
「ギャップが気持ち悪いですね………。」
「ぬいぐるみみたいにしか思えない仲の良い男友達から異性として意識された瞬間に嫌悪感を抱いてしまうことを ぬいぐるみにペニスはいらない、って言うらしいよ。まあ逆立ちしても異性として意識出来ない人はいるけれど 向けられた好意に対してあからさまに拒絶反応を示すのはどうかと思うわけ。まあ一生独身を貫くっていうのなら使ってもいい言葉だとは思うけれど 大抵の場合は違うでしょう?」
「まあ、そうですよね………。」
二階堂が言いたいことはわかるような気がした。最初からノーを突きつけるのではなくて少しは理解に努めよ、ということだと陽菜は思う。
「優良物件だよ、四井さん。」
「良い人だとは思いますよ。」
「自分にはちょっと合わないな、っていう感覚は相手のことをよく知らないからであって知ってしまえば その感覚が間違っていることなんて多々あるものだよ。」
「それはわかっているつもりですよ。」
「公務員試験じゃないからね、恋愛にも結婚にも年齢制限なんてのはないよ、ないけれどさ、自分よりも若い子たちからの突き上げは月日を重ねるごとに強くなるんだからね。」
二階堂は事務所の食堂に戻るまでの間、ずっと恋人の重要性を語っていた。もちろん忠告は有難いし、心配してくれるのは嬉しいのだけれど エレベータを降りる頃には陽菜はただ絶妙なタイミングで相槌だけを打つロボットのようになっていた。
「私ね、吉岡には幸せになってもらいたいんだよ。」
「ありがとうございます。」
には、という言葉が陽菜の心に引っ掛かる。二階堂は幸せになりたくないのだろうか。
「元カレなんかに殺されるなんて絶対にダメだからね。」
「殺されませんよ………、殺され掛けましたけれど………。」
陽菜は苦笑しながら言った。そうだ、あの時、クマに助けてもらわなければ自分は今、ここにいることもなかった。あんなラッキーがいつも起こるとは限らない。
「彼氏をまだ作りたくないって言うのだったらさ。」
「せめてボディガードくらいは用意した方がいいよ、絶対に。」
「そんな大げさな。だいたいああいう人って要人とかにつくものでしょう?」
「民間の警護会社だってあるはずだよ。」
「そんなお金ありませんよ、私の給料がどれくらいか先輩だって知っているでしょう?」
「じゃあ大型犬は?」
二階堂は真顔で言った。
「しかも飛び切り狂暴な奴。」
「それって私も危険ですよね? 誰かに殺される前にその大型犬に殺されませんか?それにうちのマンション、ペット禁止ですから。」
「じゃあ男友達とか?」
「火に油を注ぎかねませんかね? それに第一、躰を張って警護してくれる男の人っているのかなぁ………。」
「候補はいるんだ?」
食堂の座席に座りながら二階堂は言った。
「すみません、見栄を張りました。」
陽菜は謝る。
「男友達なんて高校の同級生くらいしかいません。」
第一、彼らはすでに自分と同じ社会人で家庭を持っている人もすでにいる。同級生の為にボディガードを買って出てくれる人はまずいないし、こちらからも頼みにくい。
「じゃあ あの着ぐるみ君は? この間もそのクマに助けてもらったのでしょう?」
「ああ………。」
陽菜は三秒ほど考えた。確かに彼は決まった仕事をしていないようなので融通が利いて駅からの送り迎えくらいなら ある程度の報酬を払えばしてくれるのかもしれない。ただ着ぐるみのクマが駅に迎え来るのはかなり注目を集めてしまうだろう。それは彼として望むことなのだろうか、陽菜自身は少し恥かしいような気がした。
「その感じだと悪くはないよね?」
二階堂はにやりと笑った。
「まあ悪い人ではないと思いますよ。一晩、過ごしましたけど何もされませんでしたし。」
陽菜の言葉に二階堂が口に含んでいたお茶を零しそうになった。
「ちょ、それって問題発言だよぅ。」
「あ、いや先輩が思うようなことはありませんでしたよ。ただ慶悟に………、犯人に襲われて家まで送り届けてもらった時に 丁度、雨が降ってきたので雨宿りがてら朝まで過ごしてもらっただけです。」
「吉岡………、あんたって子は………。」
二階堂は呆れた口ぶりだった。
「もうちょっと警戒心を持った方がいいよ。」
「着ぐるみを着ている相手ですよ?」
「ああ、そうか、着ぐるみを着ていたら………、ああそうか………。」
二階堂は一人合点した。
「そこまで吉岡が信頼しているのだったらお願いしてみたら? 連絡は取れるの?」
「取れます。会話は基本的に筆談なので。」
「筆談?」
「ええ ああいうキャラクタは身振り手振りが基本だと思っているみたいです。」
「たまに話すゆるキャラもいるよね。」
「いますね。私もそっちの方が楽といえば楽ですけど 筆談は相手側だけなので私としては面倒くさくないんですよ。」
「じゃあ完全に正体はわからないんだ? 顔だけじゃなく声も聞いたことないならどれくらいの年齢かも不明でしょう?」
「声は聞いたことありますよ。感じから思うに同年代とかそれくらいじゃないですかね。」
「イケメンだったらどうする? おとぎ話とかでよくあるでしょう? 魔法で醜い姿に変えられた王子様がプリンセスのキスで魔法が解けるってやつ。」
「彼は彼の意志で着ていますからね。魔法でも呪いでもないと思います。食事の際は脱ぎ着をしているみたいですし。」
「現実的だなぁ………。」
「まぎれもない現実ですからね。」
陽菜は春雨ヌードルのスープを啜った。
興味が無いわけではない。でも世の中には知らなくていいこともたくさんあるのだ。旧家に代々受け継がれてきた 開かずの金庫の中身などが良い例だ、と陽菜は思う。
「でもまあ他に頼る人がいないのでお願いしようかな、とは思いました。」
「うんうん。恋に発展するフラグだね。」
二階堂は楽しそうに言った。
フラグの意味がよくわからなかったけれど二階堂に楽しそうな話題を提供出来てランチが滞らず済んでよかったと陽菜は思った。
【今日、会えますか?】
陽菜は昼休み終わりにLINEをクマに打った。基本的に仕事中にスマホを触ることは出来ないのでチェックは退勤してからになる。こちらから質問を投げかけておいて相手の回答を無視したままは気が引けたのでトイレに立つ振りをしてスマホをチェックしにロッカールームに入った。クマからの返事が入っていた。一時間前に届いたメッセージだった。
【折り入って相談があります。】
【仕事中につき 次の返信は18時頃になります】
とだけ打って陽菜は仕事に戻る。
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