第9話

 最寄りの警察署の地域課を訪れると対応してくれたのは陽菜の父親と同じ五十代くらいの志村という男性刑事と 陽菜と同年代の濱崎という女性刑事だった。ソファのある一画に案内されて そこで二人と向かい合って座る。

 「つきまといの被害に遭っている、とお伺いしましたが間違っていませんか?」

 濱崎が穏やかに言った。

 志村は黙ったままじっと陽菜を見ていた。聞き役に徹しているのだろうか、ただ睨みつけるような目が少し怖かった。

 「はい。」

 「相手はお知り合いでしょうか?」

 「元カ………、元交際相手です。」

 陽菜は答える。

 「被害はいつからですか?」

 「別れてからすぐだと思います。気づいたときには毎日、尾行されていたのでいつから始まったのかは正確にはわからないんですけれど。」

 「別れたのはいつでしょうか?」

 「二か月前です。正確な日数が必要なら計算しますけど。」

 「二か月。それからずっと?」

 「多分、仕事終わりにはずっと家まで尾行されていました。」 

 「毎日ですか?」

 濱崎が目を少し見開いた。

 「私、土曜日と日曜日は会社が休みなので自宅からあまり出ることもないのでわかりませんけれど 平日は毎日だと思います。」

 「それは怖いですね………。」

 濱崎が頷いた。

 「別れ話がもつれたのでしょうか?」

 「どうなんでしょう、私は一応、誠意をもって直接会って面と向かって別れを告げたのですけれど………。」

 「相手は納得しなかった?」

 ここで初めて志村が口を開いた。

 「はい。」

 「二人が別れた理由は?」

 志村が不愛想に質問を続けた。

 「相手の束縛が私には少し耐えられなかった、からです。」

 「束縛ね………。」

 「いますね、そういう人。独占欲が強いというよりは自分に自信が無い人という印象が私にはあります。」

 濱崎が理解を示した。

 「今のところ被害はつきまといだけですか?」

 「いえ、昨日、襲われかけました。危ないところを通りかかった男性に助けてもらったのでケガくらいで済みましたけれど。」

 「どこをケガしたのですか?」

 濱崎が心配そうに言った。

 「膝をすりむきました。壁に押さえつけられたときにケガをしたんだと思います。」

 陽菜はスカートのすそを持ち上げて膝を露わにした。絆創膏、一枚で済むくらいの傷だが慶悟さえあの場面に現れなければ負うことのなかった傷だ。


 「その交際相手の名前は? 住んでいる場所、あとは仕事場、わかりますか?」

 志村が矢継ぎ早に質問を続けた。

 陽菜は慶悟の情報をゆっくりと思い出しながら丁寧に答えていく。

 「襲われかけた、と言っていたけれど具体的に話せますか?」

 「ナイフを持っていました。私を殺して自分も死ぬと言っていました。」

 淡々と説明をする。

 「怖い思いをしましたね………。」

 陽菜の右腕にそっと触れながら濱崎が言った。

 「大丈夫ですよ。その平田という男は必ず私たちが捕まえますから。」

 「ありがとうございます。」

 陽菜は言う。

 「平田の顔写真を持っていますか?」

 志村が言った。

 「別れたときにスマホに残っていた写真は全部捨ててしまったんですけど。」

 「クラウドに残ってはいるんじゃありませんか?」

 年配の男性からあまり聞かないような言葉を耳にして陽菜は少しだけ彼を見直した。

 「たぶんあると思います。」

 「犯人の早期逮捕のためにそれを提供していただけるとありがたいですね。」

 志村はにこりともしないで言った。

 「わかりました。」

 陽菜はスマホを操作してクラウドにログインした。別れる何週間か前に二人で京都に出掛けたときに撮影した写真だった。人力車に乗って移動している間に撮影したツーショット写真だった。この時はまだ幸せだった、と陽菜は笑顔で写る二人を見て思った。


 「しかしどうして平田は昨日になって突然、貴女を襲ったのでしょうか? それまではただ尾行を毎日繰り返していただけなのですよね?」

 志村が慶悟の写真を見ながら聞く。

 「私が会社の先輩に誘われて飲み会に行ったからだと思います。」

 「飲み会………、その場に男性もいたのですか? そもそもその先輩が男性とか?」

 濱崎が聞く。

 「先輩は女性です。でも、そうです、その場に先輩の紹介してもらった男性が二人、同席していました。たぶんそれもどこかで見ていたんだと思います。」

 陽菜は説明する。あまり思い出したくもない飲み会だった。

 「嫉妬をしたんですかね?」

 「そうだと思います。」

 陽菜は頷いた。


 「危ないところを通りかかった男性に助けてもらった、と言われていましたよね?」

 志村が言った。

 「はい。」

 「その方の名前とか連絡先は聞いていますか?」

 「あ、いえ………、気が動転していたので………。」

 陽菜は咄嗟に嘘をついた。クマのことを話せば良いだけの話なのにLINEのIDは知ってはいるけれど名前も電話番号を知らない着ぐるみを着た男性に助けてもらったと言って彼に迷惑を掛けるのが忍びなかったからだ。

 「必要なことですか?」

 「そうですね。その時の詳しい状況を知る上でも関係者の話は聞く必要があります。」

 志村は言う。口ぶりこそ丁寧だったが 嘘をついた負い目のある陽菜にとって彼の話し方は判決を言い渡す裁判官のように事務的かつ冷淡に聞こえた。

 「お知り合いですか?」

 「いえ………、会ったこともない人です。」

 「そう………ですか………。」

 志村が鼻から息を漏らした。


 「一つ気になることを聞いても構いませんか?」

 「はい………。」

 陽菜は緊張した。悪いことなど自分はしていないのに まるで被疑者にでもなったような気持ちだ。これがベテラン刑事の圧なのだろうか。

 「貴女が元交際相手に襲われたのは昨晩でしたよね? そこをたまたま通りかかった人に助けてもらった。」

 「はい。」 

 陽菜は頷く。自分の説明した通りを志村は復唱しただけだ。そこにどんな疑問があるのだろう。

 「なぜその場で警察に通報しなかったのですか? 殺されかけたんでしょう?」

 「確かにそうですよね………。」

 陽菜は指摘されて思う。あの時、知っている人間に助けてもらった安堵が大きかったのではないだろうか、と自分で今更ながら分析した。


 投げかけた質問に対する陽菜の反応が意外だったのか志村が一瞬だけ呆気に取られたように見えた。

 「冷静でいられる人の方が少ないと思いますよ。」

 濱崎が助け船を出してくれた。

 「夜も遅かったし、疲れていたし、それに誰か知らない人なら別ですけど犯人はわかっていたので油断をしていたのだと思います。」

 「そうですか。」

 志村はそれ以上何も言わなかった。危機意識の低さを呆れているのかもしれない。

 被害届の提出を終えて警察署を後にする。地図で具体的に襲われた場所を説明させられたり、普段の行動パターンを説明したりといろいろと細かな説明を念入りにして結局、二時間近くは警察署に滞在していた。志村と濱崎はすぐにでも慶悟を確保して逮捕に動いてくれるらしい、それだけで肩の荷が少し降りたような気がした。


 安心するとお腹が空く。駅の近くのマクドナルドに入ってランチを済ませた。食べながらクマにLINEを送っておく。

 【警察に被害届を提出しました。】

 【長かった。】 

 【同じことを何度も説明させられるのって苦痛】

 すぐに既読はつかなかったけれど マクドナルドを出るころに返事があった。

 【お疲れ様です。】

 【僕も何度か職務質問を受けたけれど、】 

 【確かにしつこい。】

 【お茶碗についた納豆のネバネバくらいしつこい。】

 納豆のネバネバがどれくらい洗い物の時に大変なのかはわからないけれどクマなりに笑わせてくれようといているのだけはわかった。

 【仕事だから仕方がないのはわかるけれどね】

 【まるでこっちが嘘をついている】

 【と思っていたみたい】

 濱崎は心配をしてくれていたみたいだったが 志村はどちらかというと陽菜の話を鵜呑みしようとはしていないみたいだった。痴漢被害のでっち上げのような事件も最近は多いそうなので慎重になるのはわかるけれど 正直、感じは悪かった。

 【それが仕事だから。】

 そうクマから返事があっただけでそれ以降、彼から返信はなかった。もしかしたら仕事中なのかもしれないな、と陽菜は思う。


 昼ごはんを済ませて この後の予定を思いつかないまま町を山の方から縦に流れる川沿いを散歩して神社に立ち寄った。幼稚園が隣接する小さな神社だ。お迎えの時間が近いらしく園児の母親たちの姿が見える。

 石造りの鳥居を一礼してから潜り抜けて参道を歩く。中央を歩くのではなく端の方を歩く豆知識はテレビで得たものだった。参道を左に曲がると正面に拝殿が構えていた。お賽銭を財布から取り出して賽銭箱へとゆっくりと入れる。鈴を鳴らして 二礼をした後で柏手を二回打つ。目を閉じて住所氏名を胸の内で呟き、平穏に暮らせますように、とだけ願いを掛けた。

 夜になって自宅で簡単な食事を済ませて動画チャンネルをザッピングしていると 知らない番号から着信があった。電話に出ると相手は濱崎刑事からだった。

 「もしもし、夜分にすみません。」

 電話口の濱崎の声はどこか神妙なもので陽菜に悪い想像をさせるには充分だった。

 「平田なのですが行方をくらましているのか自宅にはおらずまだ逮捕も出来ていません。」

 「そう………ですか………。」

 慶悟が逃げた………、想像は出来たことだった。

 「必ず平田は確保します。でも私たちが平田を捕まえるまでは なるべく夜分、外を歩く際は警戒しておいてください。それだけをお伝えしたかったので電話しました。」

 「ありがとうございます。」

 陽菜は電話を置くと玄関までいき、ドアスコープから外の様子を覗いた。ドア越しに慶悟が立っていて 向こうもこちら側を覗いていたらどうしようかと怖い想像をしたけれど 見えたのは誰もいない青白い廊下だけだった。

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