第8話
目覚めたとき、自分はいつも通り寝室にいた。スマホのアラームがいつもと同じ時間に鳴って陽菜は瞼がいつもよりも重いことを自覚した。たぶん顔が浮腫んでいるのだろう。
驚いたことに服装は昨日のままだった。
そうか、あのまま寝てしまったのだな、と思い出す。着替えを済ませてリビングに行くとソファの上で足を投げ出してテディベアのように座るクマがいた。傍目からではただ座っているのか、眠っているのかの区別は難しいけれど きっと眠っているのだろう、陽菜は思う。彼を起こさないようにキッチンに行き、コーヒーを入れるためにお湯を沸かす。電気ケトルの中で弾けるお湯の音でクマが頭を動かした。
「おはよう。」
陽菜はクマに言う。
クマは頭を一度だけ大きく頷かせた。
「ずっとその姿勢で眠っていたの?」
クマがまた頷く。
「逆に疲れない?」
彼は首を左右に振った。
「コーヒーを淹れるけれど飲む? あ、でも流石にホットはストローで飲めないか………。」
自分で提案をしておいて陽菜は自分で否定する。
LINEが鳴った。
【ありがとう、いただきます。】
【顔をずらせば飲めます。】
【あと勝手に充電をさせてもらいました。】
「どうぞ、どうぞ。」
陽菜はテレビをつけた。いつもの情報番組が流れる。
昨晩遅く降り始めた雨は勢いを増し、帰ろうとするクマを引き留めて自宅に泊まらせた。自分でも驚くほど大胆なことをしたものだと陽菜は思う。テレビの占いランキングで陽菜の蟹座は七位だった。吉凶混合な一日、だそうだ。確かに頭の芯が痛い。ずきずきというよりはずんずんというパンクバンドのライブを最前列で観ているかのような重低音が脳内に響く。完全な二日酔い。コーヒーの苦味で少しはマシになるかと思ったけれどカフェインは効かなかったようだ。
職場に電話しないといけないな………、陽菜は時計を見て思う。時間は七時を少し回ったところ。まだ職場には誰もいないが 上司である嶋田に直接報告すれば問題はない。嶋田に電話を掛ける。
「はい、もしもし。」
三回目のコールの後で嶋田が電話口に出た。艶のある声だ。
「吉岡君から電話は珍しいね。」
「すみません、朝早くから。」
「いや大丈夫。」
嶋田の背後から子供の声が聞こえた。
「どうしたの? 体調でもすぐれない?」
「ええ、はい。少し熱があるようで。突然ですが本日はお休みを頂いてもよろしいでしょうか?」
「もちろん。病気っていうのは大抵の場合が突然だからね。予定立ててなるものじゃないでしょう。大丈夫、ゆっくり休んで。」
嶋田は陽菜の言葉に幾分の疑いも持たずあっさりと欠勤を認めてくれた。この聞き分けの良さが職場で人気の所以なのだろう。
「すみません、明日には必ず。」
「無理はしないで良いよ。こういう時はお互い様だし、吉岡君には日頃から助けられてばかりだからね。」
「ありがとうございます。」
「お大事に。」
嶋田は最後まで優しい言葉で電話を切った。
嘘をついたことに陽菜は少しだけ罪の意識を持った。
【良い上司だね。】
クマがLINEをしてくる。
「うん、優しい人だと思う。」
【人気者?】
「女子受けは良いんじゃないかな。」
まあ良い人であることには変わりはないのだろうな、陽菜は思った。
【休みがもらえてよかったね。】
「うん。」
【じゃあそろそろ僕はおいとまします。】
【ありがとう。】
【おかげで雨の中、野宿しなくて済みました。】
クマは立ち上がりぺこりと頭を下げた。
「もう行くの?」
【うん。そろそろ行かないとマンションの人たちに見つかっちゃう。】
【流石に頭を外さないと不審者確定だよね。】
「ああ、じゃあお見送りはしない方がいいんだよね?」
【うん。その方がありがたいです。】
陽気に手を振ってクマはリビングを出ていく。ドアが開く音とゆっくり閉められる音が聞こえて 陽菜は一人になった。静かになった部屋にテレビの音声だけが流れる。
「さて………。」
陽菜は一人呟いてから ゆっくりとお風呂場へと向かった。とりあえず熱いシャワーを浴びて今度こそアルコールを抜こうと思った。
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