第5話

 一言でその日の合コンを誰かに語るのなら きっと最悪だった、と答えるだろう、と陽菜は思う。いや、店は良かった。噂に違わぬ美味しい料理に舌鼓を打った。もう一度、今度は気の置けない友達と来ようと思ったくらいだ。最悪なのは一緒に過ごしたメンバだった。店の前で待ち合わせをしたときはまだスマートな、紳士然した態度だった彼らだったが スパークリングワインで乾杯、その後 赤ワイン、赤ワイン、赤ワイン、白ワインと飲むにつれて露骨に酒癖が悪くなり、接客してくれている店員への態度は目に見えて横柄になるし、皿は不注意で割るし、その落とした皿に残っていたソースがまだ数回しか着ていない陽菜の白いシャツに飛ぶし、挙句の果て 肩を組んできて至近距離で酒臭い息を吐きながら 近くのホテルに部屋を取っているからそこで飲みなおそうとか言われた時には背筋に寒いものが走った。親が五月蠅いからというそれっぽい理由で一次会だけで帰ろうとしたときに たまたま通りがかった大学生グループに絡んでトラブルにまで発展したことは もはや語り継がれる伝説でも作ろうとしているのかと陽菜は思ったほどだ。騒ぎを聞きつけた巡回中の警官二名に制止されている間に 二階堂が手を取ってその場から逃げ出してくれたので 終電前には電車に乗ることが出来た。


 「本当に最低な奴らだったねぇ………。」

 電車のドアが閉まるときのエアが二階堂のため息のようにも聞こえた。

 「放ってきて大丈夫だったんですかね?」

 「大丈夫、大丈夫。なんでたった数時間一緒に飲んだだけの奴らのトラブルに私たちまで巻き込まれないといけないの? 放っておきゃいいんだって。」

 「そう………ですよね。」

 確かにそうかもしれない。店を出た時点でもはや赤の他人なのだ。店外で彼らが起こした騒動に付き合う義理はないし、それに連絡先すら交換をしていなかったのだ。後々になって恨み言を言われる可能性は陽菜にはない。

 「でも二階堂さんは大丈夫ですか?」

 「ああ、そうかなんか言われるかもだねぇ、とりあえずブロックしておくわ。」

 二階堂はスマホを取り出して操作をする。そして赤いハンドバッグにスマホを仕舞うと正面を見ながら彼女はまた溜息をついた。

 「世の中にはさ、そりゃあ半々ってわけにはいかないだろうけれど男も女もいるわけじゃん? それなのになんでさ、わたしには素敵な恋人が出来ないんだろうね………。」

 陽菜はじっと二階堂の横顔を見た。

 そもそも何をもって素敵な、と形容するのだろう。結局、その尺度は二階堂自身にしかないので本人ではない陽菜にはわからない。

 「わたしね、優しさを売りにするのって駄目だと思うんだよね。」

 「じゃあ優しくない人が好きなんですか?」

 陽菜は尋ねる。

 二階堂は人差し指をメトロノームのように右、左、右と動かした。

 「そもそもが間違いなんだよなぁ………。優しくない人が好きな女性なんて世の中には一人もいないよ? わたしが言いたいのはね、優しさなんて付いていて当たり前の装備なんだよ。ユーザーオプションではないの。買ったパソコンにOSがついていますっていうくらい当たり前なんだよ。だから優しさだけを売りにするのって違うんだよね。」

 「ああ、なるほど。」

 確かにそうかもしれない、と陽菜は思った。それと同時に嶋田は優しいのだろうか、という疑問も頭に過った。

 「じゃあそれを踏まえた上で 二階堂さんの理想の素敵な人ってどういう人なんですか?」

 「いいね、吉岡。女子会みたいになってきた。」

 二階堂は笑う。

 「まあ、普通に仕事をしている人は大前提だよね。固定給がある、あと変な宗教に本人や家族が嵌まっていない、これも必須。あとはきちんとコミュニケーションが取れることかな。顔や学歴が良くても会話がきちんとできないのはNGだし、不潔なのもダメ。」

 「足が速いっていうのは?」

 陽菜は言う。

 「小学生女子か、わたし。」

 二階堂はお酒も入っているせいが段々と笑い声が大きくなる。終電も近いためか車内に人はまばらだったが それでも何人かが何事かとこちらを見ていた。反対側の座席の端、対角線上に座っていた四十代らしき酔ったサラリーマンが迷惑そうにこちらを睨んで、また眠りに入った。

 「相手が陸上選手ならそれも一つのポイントかもしれないけれどさ、残念ながらわたし陸上選手とはまだ付き合ったことないや。吉岡の元彼って陸上をしていたの?」

 「いえ、誰もいませんね。」

 陽菜は首を振った。

 

 慶悟ともあまり学生時代の話をしたことはなかった。交際期間はわずか三か月だったけれど知っていることは少ない。彼は部活をそもそもしていたのだろうか。面倒くさい性格をしているとわかった時点で別れようとしていた陽菜は彼のことを知ろうとしなかった。

 「あ、あとメンタルね。強すぎるっていうのも考えものだけれど 弱すぎる人はダメだな。」

 「それはわかるかもしれません。」

 陽菜の脳裏にまた慶悟の顔がちらつく。きっと彼は自分に自信がなくて いつ陽菜が自分に愛想をつかして離れていくか心配だったのだろう、だからあれだけ束縛をしてきたのかもしれない。付き合いたての頃ならば許せる軽度の束縛も 時が経てばパーティクラッカから飛び出した紙テープのように煩わしく思うものだ。

 「人によっては一喜二憂にも三憂にもなる人っているでしょう? やっぱりバランスが大事なのよ、バランスが。」

 二階堂の言葉に陽菜は頷いた。

 「ということでわたしの理想の男性は全てにおいてバランスが優れている人だな、吉岡は?」

 「正直言うと考えたことありませんね………。」

 陽菜は答える。理想を突き詰めたところで結局は理想であってジグソーパズルのピースのようにぴったりと合う人などいないのだ。いたとしても近いというだけ。そんな幻想を抱くだけ無駄なような気がする。自分がどれだけその相手に対して折り合いをつけていけるか、距離を限りなく近づけるか、ということがポイントなのだと思う。

 「とりあえず健康であれば。」

 「もしかして吉岡、還暦過ぎている?」

 二階堂は笑った。

 陽菜もつられて笑う。

 「健康といえば あの人どう?」

 「あの人って?」

 「四井さん。」

 「四井ってFCの?」

 FCというのはフィールドカウンセラの略で担当地区のフランチャイズ店をサポートする社員である。陽菜たちは彼らと週に一度や二度、地区事務所で顔を合わすことがある。四井は三年前に阪神地区に異動してきたFCで はつらつとした挨拶で会計課のスタッフからも割と評判の良い男性だった。独身で恋人はいないという話は本人からも聞いたことがあった。どこか上司の嶋田を彷彿させる容姿をしている。

 「うん。良くない?」

 「総合的な判断で、ですか?」

 「そう。誠実そうでしょう?」

 「仕事でしかあまり会話したことがありませんからね。良いも悪いも判断は出来ないと思いますけれど。」

 「人は見た目が八割だよ。クジャクだってそれが分かっているから羽を広げるでしょう? 蛍だって光るじゃん。」

 「そうなんですけど それで私、何回か失敗してきているので見た目よりはやっぱり中身が大事かなって思うんですよね。」

 陽菜は言う。

 「四井さん、中身も男前だと思うよ。吉岡さえよかったら今度、食事会セッティングするけれど?」

 「うーん、そうですねぇ………。」

 「煮え切らないなぁ………。」

 二階堂は呆れたように言った。

 「そんなのだから いつまで経っても元カレが寄りを戻せるのじゃないかって付きまとうんだよ。ここは一回、自分の殻を破ると思って誰かと付き合った方がいいって。」

 乗り換えの駅について陽菜は席を立つ。

 

 「とりあえずこっちで手筈は整えておくから。」

 「わかりました。お任せします。」

 そう言って陽菜はまだ電車を降りた後で彼女に手を振った。階段を上がり、七番線のホームへと向かう。電車はすでにホームに待機していて 最寄り駅の階段近くに停車する車両へと乗った。両手で頬をおさえる。顔が熱かった。きっと酔っているのだ。出発までまだ四分ほどの時間があった。空いている座席へと座る。二階堂に言われた言葉を思い出していた。彼女の言葉はまさに自分が思っていたことと同じだった。やはり現状を変えるのは自分次第なのだ。今まで意思表示をしてきたつもりだったけれど 新しい恋を始めることで慶悟に最後通牒を突き付けてやるべきなのだろうな、そんなことを考えながら知らないうちにうとうとと眠ってしまっていた。

 

 ふいに誰かに肩を叩かれた気がして気が付いた時にはすでに降りる駅についていた。慌てて電車から飛び降りる。良かった、これで寝過ごしていたら終点からタクシーで帰らなければいけない羽目になるところだった。階段を上がり、改札を抜けてロータリ方面の北口へと出た。同じ駅で降りた人を迎えにきている車が何台かあった。

 小さな橋を渡って自宅へと向かう。もはや駅前の店はすべて営業を終了していていつもの帰り道よりも暗い。蒸し暑さを我慢しながらただひたすらに自宅へと向かう。天気が悪いのだろうか、雲の隙間からわずかに月が顔を覗かしているだけだった。こつこつとヒールの音が通りに響く。買ったけれどあまり履く機会のなかったエナメルのヒールが今はすごく煩わしく思う。背後を振り返る、誰もいない。そうだ、今日は日曜日なのだからそもそも慶悟が私に付きまとっているわけはない、と陽菜は思う。そしてまた歩き出そうとしたとき、曲がり角から不意に…………。

 「はるちゃん。」

 聞き覚えのある慶悟の声に陽菜は悲鳴をあげそうになった。暗がりの中からぬっと彼の右手が伸びて陽菜の左手首を掴む。

 「慶………悟。」

 掴まれた手を振りほどこうと腕を動かす。簡単に振りほどけたが掴まれた箇所が熱を帯びているのがわかった。

 「何のようですか?」

 陽菜は相手を刺激しないように極力落ち着いた口調で尋ねる。別れてから初めての接触にどんな思惑があるのか考えた。

 「あいつら何?」

 「あいつらって………?」

 「さっき一緒に飲んでいた奴らのことだよ。」

 「会社の先輩の知り合いですけど………。」

 「あんな奴らはダメだ。」

 「そういうのは平田さんが決めることじゃありません。」

 陽菜は言う。

 「まさかあいつらみたいな男が良いなんて言っているんじゃないだろう?」

 「別に良いとも言っていません。ただ貴方に私と一緒に飲んでいた相手のことを悪く言われる筋合いはない、というだけです。」

 「そんなの間違っているッ。」

 慶悟が吼えた。まるで駄々っ子のようにその場で地団太を踏んだ。

 「間違っている? こうやって毎日、私のことをずっと尾行している人の方が間違っていると思いますけど?」

 「君が心配なんだよ。」

 慶悟が陽菜の両肩を勢いよく掴んだ。

 「痛いっ。」

 「どうしてそれをわかってくれない?」

 「貴方に心配される筋合いはありません。私たち別れましたよね? きちんと話し合ったはずです。」

 「君が一方的に別れ話をしただけだ。僕は納得なんてしていない。」

 陽菜は首を振った。

 「僕は君が好きなんだよ。」

 慶悟は肩を揺さぶる。その慶悟の手に陽菜は手を添えるようにして肩から手を離させた。

 「私はもう貴方のことをもうなんとも思ってもいません。」

 「嘘だ。誰かに、そうだ、今日一緒にいたあの女に言わされているんだろう?」

 「聞いてください。」

 陽菜は聞き分けのない子供を諭すように言った。

 「私は貴方が毎晩のように私のあとをつけていたことに気づいていました。それは貴方も知っていますよね? それを敢えて注意もせず無視していたのは 貴方には貴方の権利があるからだと思っていたからです。でも、それって生産的なことですか? 今、仕事をされていますか? 去った女の影を追うのは貴方の自由ですけれど そんなことをしても貴方と私が寄りを戻すことはありませんよ。それならば仕事を頑張りながら 次のチャンスを待つべきなのではありませんか? いつまでもこんな生活は出来ませんよ。」

 「前の仕事なら辞めたよ………。」

 慶悟は苦しそうに言った。

 「呆れた………。」

 陽菜は溜息を吐く。

 「僕にはもう君しかいない。」

 言葉を失う、というのはこういう状況を差すのだろうな、陽菜は思う。仕事というのは生活の基盤だ。収入がなければ人間は住むところもなくなるし、食べてもいけなくなる。彼がこれまででどれほどの貯蓄をしているのかわからないけれど こんな生活をずっと続けていけるわけはないだろう。今あるものもいずれは無くなる。得られるものはなく、ただ失うだけの生活。きっとそこには幸せなどないだろう。

 「ごめんなさい。私にはあなた以外もあります。」

 陽菜は慶悟の顔を見つめて言った。

 「そんなこと言わないで………、そうだ、憶えている?」

 彼はポケットからしわくちゃになった小さな紙包みを取り出す。左手に載せたそれを丁寧に開いてみせると現れたのは 包装もされていない裸のクッキーだった。陽菜にはそれに見覚えがあった。慶悟と交際していた当時、彼のリクエストに応えて作ったものだった。

 「君が初めて僕のために作ってくれたクッキーだ。他のものは食べてしまったけれど最後の一つだけはどうしても勿体なくて食べられなかった。ずっと大事に持っているんだ。これを見ても君はなんとも思わない?」

 「怖いです………、普通に。」

 陽菜は自分の顔が強張っているのが分かった。

 「なんで?」

 慶悟は叫ぶ。

 「僕にとってこれは君からもらった初めてのプレゼントなんだよ? それを宝物のように大事にしていることってそんなにダメなことか? それだけ君のことを大事に思っているんだよ、どうしてそれをわかってくれないんだよッ。」

 興奮した彼が左手を固く握って大事にしていたはずのクッキーが粉々になった。

 陽菜は躰を壁に押し付けられる。

 「痛い………。」

 「もういい………。」

 慶悟の左手で陽菜の口元を塞いだ。潰れたクッキーの微かな匂いが鼻孔をくすぐる。長い前髪の隙間から怒っているとも泣いているともわからない彼の目が見えた。小刻みに震えているのが口元を塞いでいる手から伝わった。

 「もう元に戻らない世界なら生きていてもしょうがない………。」

 慶悟の声が震えていた。

 

 生きていてもしょうがない………、たった今、聞いた彼の言葉を陽菜は反芻していた。生きていてもしょうがない………、彼は死ぬつもりなのだ、しかも自分も道連れにして。その結論に至るまでに時間は数秒もかからなかった。

 慶悟の右手がボディバッグを漁り始める。

 抵抗しようとするが恐怖で躰が上手く動かせない。悲鳴をあげようにも彼の左手が顔を押し付けていて言葉は潰される。

 こんなことになるのなら本当に警察に相談しておくべきだった、陽菜は自分の甘さを呪った。振られてしまったことの気持ちを整理出来ないでいる彼に少し同情をして放っておいた自分が馬鹿だった。きっと心のどこかで慶悟はそんな大胆なことを出来る人間ではないと決めつけていた。その結果がこれだ。

 彼の右手に鈍く光るものが見えた。

 「大丈夫、一人にはしないよ。僕もすぐに追うから。」 

 囁くように言う彼の声にもうさっきまでの怖れはなかった。それが逆に陽菜には怖かった。

 誰か………、声にならない声で陽菜は助けを求める。頭に浮かんだのは昨日会った神座という女刑事だった。怖い思いをしたのなら電話を掛けてきて、と言ってくれた彼女のことを思い出したが この状況で助けを求めたところできっと間に合わない。

 「愛しているよ、陽菜。」

 ナイフを握った慶悟の右手がゆっくりと陽菜の首元に近づいてくるのが見えた。

 誰か………、誰か助けて、掠れる声で陽菜は叫ぶ。

 その時だった、押さえつけられていた陽菜の顔も躰も急に軽くなる。気が付くと慶悟が後ろに飛んでいた。代わりに目の前にぬっと大きなシルエットが立っていた。大きな丸い頭には二つの丸い耳。あのクマだった。

 クマはゆっくりと両手を挙げると慶悟を威嚇する。その迫力に圧倒されてか、アスファルトに尻餅をついていた慶悟は慌てふためいて逃げだした。

 「危機一髪だったね。」

 くもぐった声だった。クマの大きな頭を被っているので地声が聞き取りにくい。ただ不思議と安心できる声だった。

 「私………、殺されるところだった………。」

 陽菜は助かった安堵からかクマに抱き着く。張りつめていた緊張の糸が解けて陽菜は膝からその場に崩れた。

 「怖かった………、怖かったよぉ………。」

 子供みたいに陽菜は泣く。

 大の大人がわんわんと泣いたのだ、クマは扱いに困ってただ泣きじゃくる陽菜の頭を優しくクマなのに人のような手で優しく撫でるだけだった。

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