第6話

 気分が落ち着いたころには日付はとっくに変わっていた。横隔膜に泣き癖がついたのでしばらくしゃっくりが止まらなかった。飲み物を買ってくるとクマは言ってくれたけれど 夜の公園に一人で残されるのが怖くて陽菜は首を振って彼を引き留めた。

 LINEの通知音が鳴る。

 【さっきのは彼氏?】

 LINEの相手はクマだった。見るといつの間にか彼はスマホを右手に持っていた。バックライトに照らされたクマの顔が少し怖く見える。

 「うん。二、三ヵ月前に別れたけれど。」

 【寄りを戻そうって?】 

 「最初はそうだったんだろうけれど 私にその気がなかったから こんなことをしたんだと思う………。」

 【警察に通報した方が良いね。】

 「うん。そうするつもり。これは流石にキツイね………。」

 命を奪われそうになったのだ。今までとは格段に被害のレベルが違う。自分の思い通りにならないなら殺そうという短絡的な考え方はけして許される話ではない。慶悟はおそらく自分を悲劇の主人公か何かと思い込んでいるのだ。


 【今から呼ぶ?】 

 「ううん、今日は遅いから明日にする。」

 【そう、助かった。】

 「助かった? どういう意味?」

 【今日はここで寝泊まりしようとしていたから。】

【警察が近くで捜査し始めると】

【真っ先に僕が職務質問の対象になる。】 

クマはそういうと両手首をくっつけた。

そういう自覚はあるんだ、と思うと陽菜はあんなことがあった後なのにくすりと笑えた。

「泊まるところ無いの?」

【泊まるところはある。けど………。】

「けど?」 

【そこに屋根と壁があることは稀。】

クマは躰を縦に揺するように動いた。

「それを世間では泊まるところがない、っていうんだよ。」

【見解の相違。】

【街中でソロキャンプしているだけ。】

「ポジティブ過ぎない?」

【強がりともいう。】

「強がっているんだ?」

【不便なこともあるからね。】

「トイレとか?」

クマは首を横に振った。

【そこは問題じゃないよ。】

【コンビニがあるから。】

「ああ、そうか………。」

陽菜は納得する。

「でもその恰好では入れないでしょう?」

【もちろん脱ぐよ。】

【トイレだってそうしないと出来ないから。】

「そうか、そうだよね。」

【お風呂】

【ずっと着ていると汗臭いからね。】

【出来ることなら毎日入りたい。】 

【でもお金が………。】

「ずっと入っていないの?」

【そこまで不衛生じゃないよ怒】

【銭湯にしろ、ネカフェにしろ、お金掛かるから】

【贅沢は敵。】

「良かったらお風呂使う?」

陽菜は言った。

クマが両手を頬にあてる動きを見せた。

【嬉しいけれど それって大丈夫なの?】

【家族の人とか驚かない?】

【突然、クマを連れてくるんだよ?】

「それは大丈夫。私、独りだし。あ、もちろん家族は別に住んでいるよ、今は一人暮らしっていう意味。」 

【それはわかるよ。】

【でも怒るんじゃない?】

「誰が?」

【さっきの元カレ。】

「嫉妬で気が狂うかもね。」

陽菜は笑う。

「でもとっくに別れた人に気を遣う必要ある? 私が誰と何をしようと関係ないでしょう? 男を連れ込もうが、クマを連れ込もうが。それにもうあんなことをしたんだし、現れないでしょ。」

【確かに。明日、警察に通報したら彼は逮捕されるだろうからね。】

「そういうこと。」 

陽菜は笑う。そうだ、自分が明日、警察に今日のことを通報したら慶悟は警察に逮捕されて もう二度と私の前に姿を現すことはないだろう。これでやっとさようならが出来る。

「貴方には助けてもらった恩があるし、シャワーくらい貸すよ。」

【ありがとう。】

【でも………。】

【お願いがあるんだ。】

「お願いって?」

【僕がこれを脱いでいる時】

【けして覗かないって約束してくれる?】

似たような昔話を聞いたことがあるな、陽菜は思った。

「見られたくないんだね?」

【そういうこと。】

【着ぐるみの中に人はいないんだ。】

「でもさっき話さなかった? 貴方の声を聞いたけれど?」

【出血大サービス】

「わあ嬉しい。」

陽菜は抑揚のない口調で感情も込めず ただ突如舞台に上がらされて無理矢理芝居に参加させられた人のように棒読みで言った。

【じゃあお言葉に甘えて】

【シャワー借りてもいいですか?】 

「もちろん。」

陽菜はそういうとベンチから立ち上がってクマの手を引きながら歩き出した。夜の住宅街を着ぐるみのクマの手を引き歩く、そんな様子を他人が見ると絶対に奇異と思われるだろうな、とも思ったけれど誰かと歩く夜の道、今は全く怖くもなかった。

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