第2話 都市伝説

 なつみは、スナックで聞いた話をしばらく忘れることができなかった。忘れることができなかったことが、聞いた話の中に出てくる神社を発見することができた理由だと思って疑わなかったのは、意識はしていても、時間の経過には勝つことができず、あと少しで、神社の話を忘れてしまうのではないかと思うようになった時期を迎えた時のことだった。

 あれはママさんの使いで、ホテルのロビーに出かけた時のことだった。常連客の一人が駅前にある大きなビジネスホテルで働いていたが、ママさんからの言伝を持ってフロントに声を掛けた。九時すぎに行けば、出社していると思って出かけたのだが、

「彼なら、本日は十時からの出勤となっております」

 と言われた。

「そうですか。せっかく来たんですが」

「何かお届け物でしたら、お預かりすることもできますが」

 と言われ、しばし悩んだが、せっかくママから言われてきたのだから、少しくらい待つのは問題ないと思っていた。それに、十時から出勤で、十時ギリギリに出社してくる人もいないだろうと思ったからだ。

 その客を思い浮かべてみると、なるほどホテルマンをしているというだけに、実に紳士的な振る舞いが目立つ人だった。きっと勤務態度もよく、出社時間ギリギリに来るようなことのない人なのだろうと思われた。

 店ではあまり目立つ方ではなかった。しかし、話題性の豊富さ、そして時折見せる紳士的な振る舞いを思えば、ホテルマンだと言われて納得する部分は多かった。あまり客の仕事のことやプライベートは、本人が話そうとしない限り聞いてはいけないものだという認識があったので、目立たないわりに気になる人だったので、余計にホテルマンと言われてすぐに頷けたのだ。

 その人は名前を清水さんという。

 彼のどこに惹かれたのか、なつみは、彼のいうことは、どんなことでも信用できるような気がしていた。惹かれたとすれば、話題性の豊富さと、紳士的な振る舞いにであろう。

 惹かれたというよりも、慕う気持ちが強くなってきたのは、紳士的な雰囲気によるところが大きいのだろうが、慕う気持ちとは別にもう一つ何かがあると思っていたが、それが頼りがいだと感じたのは、やはり、彼の話題性の豊富さを感じているからに違いない。

 お店に顔を見せる時は、ラフな服装ばかりだった。ホテルマンだと聞いて、制服姿を思い浮かべようとするが、なかなか思い浮かんでこない。ラフな服装から見せる紳士的な雰囲気と話題性の豊富さは、彼の中にある余裕というものを醸し出しているように思えてくる。

 そういえば話し方も実に穏やかだった。目立たないのも、話し方に棘がなく、穏やかだからなのかも知れない。

 どうしても常連が多いと、会話も熱くなることが多い。そんな中で一人落ち着いた雰囲気だと、誰にも意識されることはない。自分から積極的に会話に参加しなければ、全体の雰囲気から取り残されてしまう。

 それでも、清水さんの雰囲気に変わりはない。絶えず自分のペースで話をする。最初こそ皆から無視されているように感じられたが、いつの間にか清水さんが口を開いた時、誰もそれを遮る人はいなくなっていた。やはりこういう輪の中で、一人は清水さんのような人がいるかいないかで、輪全体の大きさが変わってくるように思える。清水さんの存在は、まわりに大きく見せるためには欠かせないものだったのだ。

 なつみはそのことを意識していたが、他の客はどうであろうか?

 清水さんの存在が、皆それぞれの中で一目置かれるような存在になってきたというのは分かっているのだが、そのことが自分の目でまわりを見た時に、どのような反応に見えるというのだろう?

――清水さんに対して、誰もが一目置いている――

 という意識を持っているのだろうか。

 もし、自分だけが清水さんに特別な印象を持っていると感じているのであれば、ある意味すごいことのように思える。そこに清水さんの作為が含まれているように思えるからだ。しかし、清水さんにそこまでの考えがあるとは思えない。なつみの取り越し苦労であり、買いかぶりすぎなのかも知れないと感じるのだった。

 この日、ママさんはなつみを使いに出したのは、何か考えがあってのことだったのだろうか? ママさんは、なつみが前の会社を辞めた理由を知っている。元々、話をするつもりはなかったのだが、勤め始めてから、二か月が経ったある日、

「なつみちゃんがお仕事を辞めた理由は、男関係が原因なのね?」

 それまで、ママさんがなつみに対して、過去のことを聞くなどなかったことだったが、その時はまるで意を決したかのように真剣な目で訊ねた。そんな視線を帯せられて、今さらウソをつけるはずもないと思ったなつみは、

「はい、そうです」

 と、ゆっくりと白状していったのだ。

 ホテルのロビーは、広すぎず狭すぎず、広さのわりに、乾いた靴音が響くのは、壁が大理石でできているのを感じたからだった。美術館なdのロビーを彷彿させるスペースは、今まであまり馴染みのなかった美術館に、今度行ってみたいと思わせるものだった。

 さらにここのホテルのロビーで気に入ったのは、全体的に香ってくる花の香りのような甘い匂いを感じたことだった。香水の匂いとも違うこの感覚は、

――香水と言えば柑橘系――

 という印象で、普段なら花の香り以外から甘い香りがしてくるのは、あまり好きではないのだが、その時は嫌な感じがまったくしなかった。むしろ、

「この匂い、今までにも嗅いだことがあるような気がする」

 と思わせ、懐かしさを感じさせるものだった。それは半分は思い出したくない記憶、そんなに古いものではないはずなのに懐かしいと感じるのは、会社を辞めてからの自分が、生まれ変わったように思えたからだ。

 不倫が原因で会社を辞めることになったが、不倫が終わってしまったことよりも、会社を辞める決心をした時の方が、印象に深く残っている。今までなら不倫の清算の方がイメージとして深く残っているものだと思っていたが、思い出すこととすれば、会社を辞めることになった時の方が辛い感じがした。それだけ、会社を辞める時の自分が、

――すべてを失くしてしまった――

 と感じた時だったに違いない。

 不倫の清算は転落のまだ途中であり、会社や仕事が自分の帰る場所のように思っていたとすると、最後の砦である会社や仕事を失ったことで、自分が完全にとどめを刺されてしまったのだということを自覚したのだろう。

 だが、この懐かしいという感覚は、そんな最近のことではない。会社に入る前の記憶ではないだろうか。しかし、懐かしいというだけで、それ以上のことは思い出せない。思い出そうとすると、激しい頭痛に襲われそうな気がしたからだ。

――記憶喪失になった人が、思い出そうとしてもどうしても思い出せない時、頭を抱えて激しい頭痛に襲われているのを耐えている姿が思い浮かぶが、まさにそんな状況になりそうで、怖かったのだ。

 これは最近感じるようになったことであるが、なつみには、卒業から就職までの間の記憶が欠落しているところがあった。それがどんな記憶なのか、ハッキリとしない。楽しい記憶なのか、それとも、思い出したくもないような記憶なのかも分からない。記憶が欠落しているということに気づいたのもごく最近で、ふとしたことからだった。

 スナックに勤め始めて一か月くらい経った頃のことであろうか。扉を開けてから中に入って急に、

――あれ? どこかが違う――

 と感じた。

 急にスペースが狭くなったような気がしたのだ。なぜそう感じたのかすぐには分からなかったが、実際に何かが増えたから狭く感じるというのでは理屈は分かる。しかし、実際に増えたものはない。逆に何かがなくなったのだ。何かがなくなったという意識はあるのだが、それがどこにあったものなのかも分からない。ただ漠然と、

――何かが足りない――

 と感じたのだ。

 何かが足りないということであれば、スペースに広さを感じるのであれば分かるが、狭く感じたというのは合点がいかない。合点がいくことではなかったことが、違和感があるにも関わらず、何がどう変わったのか、すぐに分からなかった理由であった。

 なつみは違和感があることをママに言わなかった。聞けばすぐに分かることなのだろうが、簡単に聞くことはしなかった。聞いてしまえば簡単なのに聞かなかったということは、自力で思い出すことで、他に忘れてしまったことがあれば、思い出せるのではないかと感じた。

 その時に、自分の中に記憶が欠落している部分があることを知った。何か過去に物足りなさを感じていたが、その原因が分からなかった。この部屋に感じた広さのように、記憶が欠落しているからといって、その記憶が戻ってきても、すべての線がつながるとは思っていなかった。線が集合して面を構成しているのであれば、今のなつみには、線と面とがつながっていない。欠落した記憶の中に、その答えが隠されているような気がする。

 もちろん思い出したいと思うのだが、思い出すことが恐怖にも繋がっていた。もう少しはっきりとした部分が見えてこないと、思い出すべきではないのだと感じていた。

 そんなことを思い出していたのも、ロビー内に香っている甘い香りによるものだった。そして次に感じたのは、

「何だか、眠たくなってきた」

 という思いだった。

 元々美術館のようなところで、乾いた靴の音や、必要以上の喧騒な雰囲気を感じた時、急に睡魔が襲ってくることがあった。そんな時は、眠くならないように耐えていたが、それも次第に快感のようになっていき、いつの間にか、今自分がいるところが、現実なのか夢の中なのか分からなくなることがあった。

 気が付けば眠ってしまっていて、目が覚めた時の記憶しか残っていない。そのため、夢うつつに感じた時間も、

――後から、自分の中で捏造したものではないか?

 と感じるようになっていた。

――記憶というものは、元々自分だけにしかないものなので、いくらでも捏造できるのかも知れない――

 と感じた。

 それが自分にウソをつくことになったとしても、自分のためになると思うことであれば、それが無意識であっても、否定することなどできるはずもない。それが、記憶を一部欠落させる要因になったのではないかと感じたことがあったが、当たっていないにしても、それほど的外れでもないように思えていた。

 ロビーでうとうとしていた時間がどれくらいだったのか、やはり、眠ってしまっていたようだ。

「もしもし?」

 と揺さぶるように起こそうとしている人がいる。眠りが浅かったはずなのに、瞼は想像以上に重たく、目を完全に開けることができない。揺さぶられても、眠い自分を起こそうとしているこの人に、怒りを覚えることはなかった。むしろ起こそうとしてくれていることに感謝の念を覚えるくらいだ。

――それにしても誰なのかしら?

 探している相手である清水さんではないようだ。

 清水さんよりも少し年配ではないかと思ったのは、見えないにも関わらず、その人に落ち着きを感じたからだ。自分の知り合いの中にどれほどそんな人がいたのかを思い起こしてみたが、記憶を掘り起こしてみた中には、どうやらいないようだ。確かめるためにも何とか目を覚まさないといけないと思いながらも、なかなか目が覚めないのは、睡魔だけが原因ではないように思えてならなかった。

「う~ん」

 それでも何とか眠い目をこすりながら、目を覚まそうとしていた。

――こんな顔、本当なら見せられない――

 と思うほど、女の子なら恥かしく感じるほどのものだった。

 身体を伸ばしきることができたことで、何とか目を覚ましたが、目の前にいる人の顔を見ても、どこの誰だか分からなかった。

「あの、すみません。私をご存じなんですか?」

 と声を掛けると、相手の人はきょとんとしていたが、

「ええ、この間、あなたがお友達と?んでいるところにお邪魔したものですよ」

 一緒に呑みに行く友達といえば、スナックのママくらいだろう。ママの年齢はママとしては若いとはいえ、三十歳半ばを超えている。友達に見えるというのも不思議なものだ。

 何となく言われてみれば、見覚えのある顔に見えてきた。一度、前後不覚になるくらいに酔い瞑れたことがあり、その時、誰か他の客と呑んだ記憶も残っている。しかし、それがどこの誰なのかという記憶はなかった。相手は名乗ったのかも知れないが、なつみには意識はなかった。

 ただ、その日、どうして前後不覚になるほど?んでしまったのか、意識はない。たまに酔い瞑れることのあるなつみは、それが定期的なものに思えていた。急に感情の中にふっとかすめるように流れていく風を感じた時、無性に寂しさが襲ってきて、呑まずにはいられないのだ。その寂しさがどこに起因しているのか分からない。起因していると考える方が無理があるような気がして、

――寂しければ、誰かと一緒に呑みにいけばいい――

 と、簡単に考える方が精神的に楽だった。

 寂しい時は誰に気兼ねすることもなく、思った通りにしていればいい。下手に自分を抑えようとすると、ロクなことを考えない。それならば、無理をしないように何をすればいいのか、その時々で自分に正直な気持ちに身を任せればいいだけのことだった。その結論が今までは、

――寂しい時は、誰かを伴って呑みにいけばいいんだ――

 と思うことだったのだ。

 会社勤めする頃は、たくさん一緒に呑みにいく相手はいた。グループで呑みに行くこともあれば、その中の一人と呑みに行くこともあった。しかし、二人で呑みにいく時の相手はほとんど決まっていて、よほど気心が知れた相手でないと一緒に呑みに行くことはない。

 学生時代に、一緒に呑みにいく相手を選ばなかったばっかりに、あまり気心の知れていない人と呑みにいって、うっかり自分の胸にだけしまっていたことを喋ってしまったことがあった。

 呑んでいる時は気持ちが大きくなって、喋ってしまう。それは、相手を信じ込んでしまうからであって、自分の中の弱さ、あるいは、寂しさから来るものではないだろうか。寂しさというものは、その人の弱さから来るものもあるだろうが、その人の弱さがそのまますべて寒しさにつながるものではないと思っている。だからこそ、自分の中の弱さを表に出さないようにすれば、寂しさに圧し潰されることはないと思うようになった。

 ただ、呑んでいる時になかなか自分の弱さを表に出さないようにするのは難しい。それなら、よほど気心の知れた相手でなければいけないだろう。お互いに腹を割って話せる相手であれば、お互いに持っている傷を曝け出して話せる相手、そんな相手が一人いれば十分だった。

 今のなつみには、それがママだった。

「私もなつみちゃんくらいの頃には、不倫の経験があるのよ」

 となつみが前の会社を辞めた理由を話した時に、そう言っていた。

「不倫なんて、百害あって一利なしだって思っていたけど、実際に自分がその立場に入ってみると、まるで悲劇のヒロインになったような気持ちになったの。しかも、自分が他の人と違うところをいつも探しているようなところがあったので、余計にまわりの人に秘密を持てたことが嬉しくて、相手云々よりも、自分の気持ちに正直に生きているつもりになれたことが嬉しかったの」

 ママにはどこか子供のようなところがあると思っていたが、この話を聞いて、

――このあたりがママの子供に見えるゆえんなのかも知れない――

 と感じた。

 この時に浮かべた笑みは照れ笑いを感じさせ、あどけなささえ彷彿させた。ただ、子供というよりも、小悪魔っぽいところがあるのが、水商売のオンナを感じさせるのだ。

 だが、なつみはこの時のママが見せたあどけなさで、今まで寂しさからしがみついていた不倫というものに対し、急に冷めてきた自分を感じた。

――ひょっとしてママは私に不倫に対して冷めた気持ちにさせるために、わざとこんな言い方をしたのかしら?

 と感じさせたが、

――まさかね――

 と、すぐに打ち消している自分がいた。

 確かに買いかぶりすぎなのかも知れないが、最後に見せたママの笑顔が、

――私は何でもお見通しよ――

 と、言わんばかりの様子に、自分の直感だけで相手を見てはいけないと思わせるものがあった。

――やっぱりママは百戦錬磨なんだわ――

 と思うと、過去の不倫経験を曝け出すだけの今の自分に自信があるかも知れないと思った。しかし、いつも謙虚な姿勢を忘れないママを見ていると、なつみに自分の過去を話すということは、自信があるというよりも、戒めとしての気持ちも含まれているのではないかと思った。

 なつみが急に不倫していた自分に冷めた気持ちになったのは、そんな戒めを感じたからで、冷めることができた原因に、

――自分を客観的に見ることができたからだ――

 と感じたのも、その時だった。

 自分を客観的に見るのは、別に逃げているからではない。学生時代までは、自分を客観的に見ることと、まるで他人事のように感じることをまったく同じことだと思っていたが、今では、逃げの気持ちのあるなしが、二つを決定的に分けているのだと思うようになっていた。

 そんなママと一緒に呑んでいるところを眺めていたというこの男、前にどこかで会ったことがあるように思えたが、気のせいだろうか。ただ、この人とどこで会ったのかというのを思い出すことはできるのだが、その意識にどうにも信憑性を感じない。

――まるで夢の中で出会ったとしか思えないほど、意識してしまうと、却って思い出せない相手に思えてきた――

 と感じていた。

 意識していないつもりだが、どこか意識している自分を感じる。それは、自分から意識するものではなく、見えない力に意識させられているという感覚だった。

 なつみは、目の前にいるこの男性と、

――これから私たちはどうなっていくんだろう?

 という思いに駆られていた。いくら以前、一緒に呑んだことがあると言っても、その時の記憶が鮮明に残っているわけではない。ただ、思い出そうとするとその時のことを思い出すことはできないのに、違う場面での記憶が思い出された。

「あの、すみません。あなたとお会いしたのは、その時だけの一度きりだったんですよね?」

 自分でもおかしな聞き方をしているとは思いながら、相手の様子を伺った。今度は彼がキョトンとした様子を一瞬浮かべたが、先ほど同じようにキョトンとした態度を取った自分に比べると、あっという間だった。もし彼の顔から少しでも視線を背けていたら、キョトンとした表情の彼を見ることはなかっただろう。これはもっと後になって感じたことだが、それ以降、彼のキョトンとした表情を見ることはなかった。それだけ彼がしっかりとした性格なのかも知れないが、ある瞬間に、彼がキョトンとした顔を思い浮かべようとする時が来るということに、その時のなつみは想像していなかったことだろう。

「ええ、そうですよ。どこかですれ違ったことはあるかも知れませんが、面と向かうのは、その時以来二度目になります」

 そう言われて、なつみは、以前一緒に呑んだという時の記憶を思い出そうとするが、どうにも思い出せない。しかし、それ以外の記憶の中に、彼との記憶が渦巻いていたのを思い出していた。

「藤原さん?」

 となつみは呟いた。

「えっ?」

 今度は、目の前の男が驚く番だった。

「ええ、確かに私は藤原ですが、私はお名前をお教えしたという意識はないのですが……」

 と言って、なつみの前で初めて訝しそうな表情をした。

「なぜか、お顔を拝見していると、その名前が頭に浮かんだんです。あなたに似た雰囲気の人で藤原さんという人を知っていたから、勝手に想像してしまったんでしょうね。失礼しました」

 と、取ってつけた言い訳だったが、目の前にいる藤原が、そのことに気付いたかどうか、今の様子からは分からない。

 しかし、取ってつけた言い訳ではあったが、なまじウソというわけではない。確かに似たような雰囲気の男性は、前に勤めていた会社にもいた。その人の名前が確かに藤原だったのだ。

 そういう意味では、なつみの言葉は何もないところから生まれた「真っ赤なウソ」ではなかった。

――そういえば、藤原さんお元気かしら?

 藤原というのは、初老の男性だった。

 目の前にいる藤原は、そこまで年を取っているようには見えない。だが、最初に見たイメージが少しずつ変わって行っている。なつみは元々年上が好きで、

――中年男性の落ち着いた雰囲気は、自分が同じくらいになるまで、好きでいるに違いない――

 と思っていた。

 会社にいる頃、藤原という男性には、かなりの好意を抱いていた。ひょっとすると、社会人になって最初に意識した男性だったのかも知れない。

 しかし、彼はいつも一人でいて、相手が男性であれ、女性であれ、近づこうとすると、バリケードを自分で張っているかのように、自らを閉ざしているかのように思えた。

 そんな雰囲気だからこそ気になったのかも知れない。学生の頃から、誰からも好かれるような男性よりも、少し影のあるような人を好きになる傾向のあったなつみにとって、藤原という名前の男性は、気になってしまうほどだったのだ。

 同じような雰囲気の男性は、それから何度か見たことはあったが、藤原さんと頭の中で重ねてしまうような人は一人もいなかった。この時初めて感じたのだが、最初に思い出さなかったのは、頭の中で重ねることができて初めて藤原さんのイメージがよみがえるのだ。寝ぼけた状態で思い出すことができるほど、藤原さんへの意識は記憶の浅いところにあったわけではない。それをいきなり引き出させた目の前の男性は、なつみにとって、

――ただものではない――

 という意識にさせるだけの十分なものがあった。

 さらに、

「ええ、私は藤原と言います」

 と、言われてしまっては、しばしの間、過去と現在を意識が勝手に行き来しているような感覚に陥ったとしても、それは無理もないことだったに違いない。

「ここのロビーの奥に喫茶店があるので、そちらに行きませんか?」

 そう言われて、なつみは改めてそこがホテルのロビーの奥に置いてあるソファーであることに気が付いた。

――眠くなるのも仕方のないことなんだわ――

 と感じた。

 藤原さんにそう言われて、彼のいう方を見ると確かに喫茶店があった。

 だが、今日来たのは、清水さんに用事があったからではないか?

――最初は十時までどうやって時間を潰そうかと思っていたけど、考えてみれば、十時を過ぎたとしても、何んら問題はないんだわ。清水さんがここにいることに変わりはないんだから――

 となつみは感じ、時計を見た。

 このホテルに来たのは、九時少し前だった。あれからフロントに顔を出し、このソファーで睡魔に襲われ、夢を見てしまっていた。そこへ藤原さんが現れ、私を起こしてくれた。実際に目が覚めるまでには数分は掛かったことだろう。なつみの感覚としては、

――九時二十分くらいではないだろうか?

 という思いが頭にあった。

 しかし、実際に時計を見ていると、時刻の表示は、まだ九時を少し回ったくらいだった。思ったよりもその日は時間の経過が想像以上に遅かったようだ。

 今までのなつみは、時間の感覚にさほど違いを感じたことはない。今回のように、倍近くの時間の違いをこんなに短時間で感じたというのは、本当に稀であった。

――まだ、ハッキリと目が覚めていないのかしら?

 と思ったが、なるべく目を覚まさなければと思い、目の前の喫茶店の入り口を凝視していた。

 フロアの端から端なので、少し距離はあるようだった。ロビーの奥の方に座っていたことで、少し暗めの雰囲気に慣れていたが、相対している喫茶店は、窓が広いようで、その向こうから差し込んでくる日差しに眩しさを感じていた。中で慌ただしく立ち回っているスタッフの女の子がシルエットに浮かんでいるようで、実際に大きく感じられるように見えた。

 なつみが凝視しているのに気が付いたのか、藤原はしばらく声を掛けなかった。

 その間、なつみは自分でも微動だにしていないように感じていたが、その様子は藤原にも分かっていたようだ。

 なつみの肩が震えた。それは意識してではなく、たぶん、金縛りに遭っていた身体が、解き放たれた時に感じる反動のようなものだったに違いない。

 立ち上がろうとしてすぐに立ち上がれなかったさっきの自分とは違い、肩が震えたのを感じたなつみは、急に身体が軽くなったのが分かった。まったく動かしていなかったのだから、身体が軽いか重たいかということはすぐには分からないはずなのに、その時にはすぐにピンと来たのだ。

 バネが利いているかのように、一気に身体を起こしたなつみは、まるでロボットのような滑稽な動きになってしまった自分を一瞬恥かしいと感じた。だが、身体が軽いことで、勝手に自分の身体が動き出したような気がしてきたなつみは、藤原に勧められるまま、足は喫茶店に向かっていた。すぐ横のフロントを見ようと思っても、首が動かない。頭は正面だけを向いていたので、フロントを見ようとすると、視線だけを横に向けて、横目になるしかなかった。

 フロントの人たちがそのことに気付いたかどうか分からない。ホテルのフロントで働いている人が、お客さんの態度に一喜一憂することは失礼に当たることは十分承知していることだろう。何かを感じたとしても、それを表情に出すことはないに違いない。

 それだけに、恥かしさが急に大きくなっていた。

――一刻も早く、ここから歩き去りたい――

 という思いを抱き、なるべく早歩きをしようとするが、すぐにその思いを打ち消した。

――早歩きをしてしまうと、さっきのロボットのようなギクシャクした動きになってしまうに違いない――

 と感じたからだ。

 その思いに間違いはなく、今でも少し早歩きをしているので、どうしてもギクシャクした歩きになっている。なるべく目立たないようにしようとすればするほど、その思いは空回りしているようだった。

「いらっしゃいませ」

 喫茶店のスタッフは、まだ早い時間ということもあってか、一人の女の子だけだった。さっきまで慌ただしく立ち振る舞っていたにも関わらず、今は落ち着いて、レジのところに立っていた。時計が間違っているとは言わないが、このフロアの空間だけ、時間的には短いのに、その間にいろいろなことが展開しているかのようだった。

 白いカッターに紺色のスーツを着て、紺色のスカートという、いかにもホテルのスタッフという雰囲気で、地味ではあったが、お店に似合った高級感が感じられ、なつみは新鮮な感じを受けた。

 その女の子は他に客もいなかったが、忙しく立ち振る舞っていた。開店準備が完全ではなかったのか、じっと見ていると、余裕がないように見えた。

 要領が悪いのかしら?

 と勝手に想像していたが、水を持ってきてくれた時には、慌ただしい様子は一切見せなかった。

 一番奥の席に向かって一目散の藤原は、どうやら勝手知ったるようだった。忙しそうに立ち回っている女の子を見ながら、暖かさそうな表情を浮かべて見つめていたからだ。

「いやぁ、急に誘っちゃって悪かったかな?」

 と、席に座ると、頭を掻きながら、今さらながら自分の行為に厚かましさがあったかのようにそう言った。まさしく今さらながらなのだが、そのはにかんでいるかのような雰囲気を見せられると、何も言えなくなってしまったなつみだったが、それでも何も言わないと却って相手をその場に置き去りにしてしまいそうで、何かを口にしないといけないと思った。

「いえ、私がついてきたんだから、気にしないでください」

 差し障りがないギリギリの答えだった。あまり相手に譲歩してしまうと、誘えばいつでもついてくる女に思われるのがシャクだったからだ。

「実はね。僕はもう一度なつみさんと会えるような気がしたんだ」

「どうしてですか?」

「何と言えばいいんだろうか? なつみちゃんにもきっと僕の気持ちが分かってくれていると思うんだけど」

 と、言われたが、この言葉だけで、彼の何を判れというのだろうか?

 そんななつみの思いを見越したのか。

「今はまだ分かっていないようだけど、きっとすぐに分かってくると思うよ。こうやってお話しているうちに、いろいろ分かってくるはずだからね。それになつみちゃんは、勘がいい娘のように思えるからね」

 藤原さんを、

――人生の先輩――

 というイメージで見ていた。ついさっきまではただのおじさんとしてしか見ていなかったはずなのに、急に見え方が変わっていたのだ。それも無意識のことにであり、この分だと藤原さんの言うとおり、この人の気持ちや考え方が次第に分かっているようになるということが信じられそうだった。

「僕が最近考えていることを、なつみちゃんも考えているんじゃないかって思ってね。ハッキリした根拠はないんだけど、頭の中に残っている女の子が、同じことを考えているというそんな夢を見たんだ。夢の内容はハッキリとは覚えていないんだけど、印象的な場面だけ思い出されるんだ」

「それはどのような場面なんですか?」

「それまで明るい場所にいたと思ったんだけど、急に何もかもが真っ暗になり、闇の中に消えてしまったんだ。その瞬間、これが夢だって思ったんだけど、それも珍しいことで、夢を見ている時すぐに夢だって感じることはないはずだったんだけどね」

「本当は、夢の最初の部分を覚えていないだけで、実際には突然夢に入ったわけではないんじゃないですか?」

「なるほど、やっぱりなつみちゃんは僕と考え方が似ているんだね。僕も目が覚めてから同じことを思ったんだ。もっとも目が覚めてしまうと、夢の内容もほとんど覚えていなかったんだけどね」

「じゃあ、どうして、私が同じことを考えていると思ったんですか?」

「それは、なつみちゃんを見かけた時、忘れていたはずの夢の一部を思い出したからさ。思い出した中には、あまり感情は含まれていない。客観的に感じたことが、まるで走馬灯のように繰り返されているだけなんだ」

 なつみは一瞬言葉が出なかったが、それはこれ以上この話を引っ張っても堂々巡りを繰り返すだけだと思ったからだ。

 夢の話というのは掴みどころのないもので、会話の一言一言で、考え方や思い出し方までもが、変わってしまっているのではないかと感じたのだ。

「で、それからどうなったですか?」

 と冷静に、それでいて真剣な眼差しになっていたであろう自分を感じながら、聞いてみた。

「ああ、続きだね」

 一瞬、あっけにとられたが、なつみの真剣な眼差しに感化されたのか、戸惑いを見せたが、それも一瞬だった。

「真っ暗な中に、赤いものを感じたのが最初だったかな? 何しろ黒しかない世界に赤い色が飛び込んできたんだ。どんなに明るい色でも、まわりが黒なら黒ずんで見えてくるというものだよ」

 なつみも想像してみたが、光と影があってこその今いる世界。そこから光がなくなったらという発想は、どこまで行っても限りなく近くはならないと思っていた。

「想像できませんね」

 そのセリフを待ち構えていたように、

「そうなんだ。僕も思い出そうとしても、半分しか思い出すことができない。半分しか思い出せないものを他の人に説明なんてできるはずはない。だから、僕がイメージしていることを同じようにイメージできるような人ではないと話をしても、この話は無駄な時間を使っただけで終わってしまうんだ」

「その相手が私だと?」

「そうなんです」

「どうして私だと思ったんですか?」

「それは後ほど話すとして、まずは、その赤い色のモノが何なのか、それが問題だったんですよね」

「ええ、そうですね」

 赤いものをいろいろ思い出していたが、なつみの中には、

――ほぼほぼこれ以外にはないーー

 と思い抱いているものがあった。

「それは、実際に見ると、朱色に光沢を感じさせるものなんじゃないですか?」

 となつみが言うと、

「ご名答。どうやらやっぱりなつみちゃんには分かっているようだね」

「ええ、その下には、石段のような道が繋がっているような気がするんですよ」

「やはり分かっているようだね。そうなんだ、僕が見た夢に出てきたその赤いものというのは神社とかにある鳥居だったんだよ」

「大きなものだったんですか?」

「いや、観光地にあるような大きな神社ではなく、どこの街にも一つはあるような神社で、いや神社というよりも、鎮守様と言った方がいいような場所だね」

 なつみは境内の横で子供たちが遊んでいる姿が思い浮かんだ。なつみが子供の頃にはほとんど見かけられなかったはずなのに、思い出すというのはどういうことなのだろう?」

――ここ最近は、記憶にあるかどうかギリギリのラインの記憶を敢えて思い出しているような気がする――

 それは一歩間違えれば、一つ思い出せばすべてを思い出せるというラインと、一つを思い出すことができなければ、まったく他のことも思い出せないというラインを行き来しているように思えた。

――私って、記憶をそんな集団で考えるような意識を持っていたのかしら?

 と、考えていた。

 そんな思いを抱いていた時間があっという間だったというこは、次の藤原さんの言葉を聞いてからだった。

 その言葉を聞いてハッとしたのだが、

「小さな鳥居が一つではなく、三つあるのが見えたんだ。なつみちゃんは、初詣には行く方かい?」

「学生の頃はよく友達と行っていましたが、社会人になると、ほとんど行かなくなりましたね」

 それは本当だった。学生時代には集合を掛ける人がいたので、行きたいという思いよりも、誘われるから赴くというのが、本音だった。初詣にそんな不謹慎な考えでいいのかという思いもあったが、人ごみは大嫌いだったのと、集団であれば、楽しく時間を過ごせるという思いがあることで、

――自分がまわりを利用している――

 と思うことで、思い腰が上がるのなら、それでいいと思っていた。

 一緒に初詣に出掛けたメンバーは大体が五人だった。

――そういえば、偶数ということはなかったわ――

 と今さらながらに感じた。

――そんなことを考えたこともなかったはずなのに、何を今さらそんなことを考えるのだろう?

 と感じた。

 その答えをすぐに藤原さんが出してくれたが、それは逆にこの会話に一石を投じるものとなったのは、皮肉なことだった。

「初詣に行く時、三社参りというのを聞いたことがあるかい?」

「ええ、確か偶数だと縁起が悪いので、奇数にしなければいけないという話を聞いたことがあります。だから三社なんだって私は思っていました」

「その通りですね。お参りは奇数というお話をよく聞きますね」

「だから、夢の中で見た鳥居も三つだったんですか?」

「そうだと思います。夢の中で鳥居を見た時も、三つだと思ったから三つだったのかも知れませんが、三社参りという言葉が頭を過ぎったからなのかも知れませんね」

 そこまで話をしてくると、次の言葉は自分でも想像できるかも知れないと思ったものだった。そう思うと、今まで忘れていたものを一気に思い出せそうな気がしてくるから不思議だった。

「それでね。僕が見た鳥居の前に一人の女性が立っていたんだ。まるで天女か乙姫様のような透き通ったベールのような羽衣を見にまとっていたんだ」

「何とも、メルヘンのようなお話ですね」

 他の人が相手であれば、

「バカにしてるのか?」

 と言われて怒られそうなのだが、その時は逆にそう言ってあげた方がいいような気がした。藤原さんの話は放っておくと自分の世界に入りこみ、入りこんだ世界で勝手にいろいろ想像して、果てしない妄想に繋がりそうな気がしたからだった。

 藤原さんは別に怒っている様子もなく、自分の話を真剣に聞いてくれているなつみに敬意を表していたくらいだった。

「なつみちゃんは、『願いが叶う神社』というのを聞いたことがあるかい?」

 なつみはハッとして、

――これだったんだ――

 と思った。

 願いが叶う神社というのは、ちょうど思い浮かべていたばかりではないか。その時に感じた思いが極端にしぼむこともなく、意識の中に形として残っている数少ない思いだったのだ。

 前の会社を辞めてから、捜し求めていた時期があった。しかし、あれは半分自暴自棄になっていた時期でもあったので、今から思えばその頃の記憶が薄れてきたというよりも、正直、

――まるで夢を見ていたようだ――

 と、夢と現実の間で、意識が揺れ動いているという、そんな感覚だった。

 そんななつみの表情を見て、藤原はどう感じただろう? 少なくともハッとしたのは自分でも分かっている。なつみを凝視している藤原にその思いが見えないわけはないだろうと思われた。

 だが、藤原には他のことはお構いなしだったのか、途中で話を止める様子はなかった。なつみの返事を待たずに、

「その神社は、どこにあるか分からないんだけど、三社あると言われているんだよ。そのうちに一社に参ると、そこで残りの二社にも参らなければいけないという思いに駆られるらしく、初詣で参った人は、その日に一気に三社を回ってしまうという話なんだ」

「でも、それが普通じゃないんですか?」

「ええ、他の神社ならそれが当たり前のことなんですけど、願いが叶う神社というのは、そんな単純なものではないらしいんです」

 なつみも、都市伝説的なものはいくつか知っているつもりだった。その多くは単純なものではなく、してはいけない法度のようなものがいくつもあり、それが複雑に入り繰っていることで、分かりにくいものになっていて、それがなかなか一般の人に受け入れられないものとなっているのだろう。

――だから伝説なんだ――

 と思わせるのだ。

「やっぱり他の都市伝説のように、いろいろな戒めや、言い伝えがあるんですか?」

 と聞いてみると、

「都市伝説? う~ん、確かに都市伝説と言えば都市伝説なのだろうが、都市伝説にはいろいろな通説があると思うんだ。たとえば地域によって話が違っているとかね。でも、このお話は、ある程度全国共通と言ってもいい。だけど、他の都市伝説のように書物が残っているわけではないので、人それぞれの意識が言い伝えになっているんだね。それだけに、全国共通の認識があるというのはすごいだろう? 人それぞれに考え方があるのだから、受け取り方で違っているはずなんだけど、それがほぼ違いがないということは、何か意味があると思う」

「……」

「それは夢の世界に似ているのかも知れないね。というより、夢の中の世界と混乱しているのかも知れない。だから、目が覚めるにしたがって意識が薄れて行って、夢を完全に忘れてしまう。だけど忘れているわけではなく、意識の奥に封印されているんだろう。夢が封印される場所があると思うんだ。そういう意味では、誰もが同じ認識で意識が残っているということは、夢とは違い、さらに現実に近いところにあるものではないだろうか。だけど、それを認めるのが怖くて、誰もが無意識にその話を強力な意識で封印させているのかも知れない」

 藤原さんは難しい理詰めで話をしてくるので、ついすべてを信じてしまいそうになる。

――迂闊に信じてはいけないわ――

 と自分に言い聞かせたが、そのためには、余計な質問はできなくなる。しかし、質問ができないと、話が進展しない。そんな矛盾になつみは、以前から気付いていたのかも知れないと思っていた。

 矛盾というのは、自分の意識の中でたくさん渦巻いているものだが、矛盾というものも、多数あれば、それが真実になってしまうこともある。数の魔力というべきか、集団意識とでも言うべきか。今まで集団意識というものに悪い印象しか持っていなかったが、矛盾を乗り越えるには集団意識は避けて通れるものではない。同じ否定するなら、否定する納得の行く考えがなければ、先に進まないのだ。

 なつみは、藤原という人間を見ていると、

――彼も矛盾だらけの人間なのではないか?

 と感じるようになったが、それだけではない。今まで自分が知りたいと思っていたが、寸でのところで納得のいく答えが見つからず、さらに余計なことを考えてしまい、見失ってしまった真実まで、自分を導いてくれるのではないかと思うようになっていた。

 また、藤原さんの話を聞いていると、時間の感覚がなくなってしまう。

 なつみは、学生時代に一時期絵を嗜んでいた時期があったが、その頃がどんなに長い時間描いていたとしても、感覚的には数十分くらいのものだった。それも感じる時間はいつも同じ、自分が感じた一定の時間に我に返るのだが、気が付いた時に経っている時間は、その時々でまちまちだった。

「なつみちゃんは、三社参りをした時、どの神社に強い願いを掛けていた?」

 と、藤原さんは聞いてきた。

「私はどの神社にもあまり区別なく、祈願していたと思いますが?」

 おかしなことを聞いてくると思いながら答えていたが、

「本当にそうかな? いや、その言葉にウソがないということは、普通、最初の神社に一番願いを強く持っているよね。そして最後の神社では、それまでの移動の疲れや、これで最後だという安心感から、言い方は悪いけど、惰性になっていたんじゃないかな?」

 さすがに惰性と言われて少しムッとしてしまったが、その言葉にウソはなかった。言い返すことなどできるはずもない。もしその場で何か言ったとすれば、それはすべて言い訳にしかならないからだ。

「確かにそうかも知れませんね」

 せめて、最後は何とか煙に巻くしかないだろう。もちろん、

――言い訳などできるはずもない――

 と、藤原さんの方でも思いながら質問しているのだろうから、相手もそれ以上深くは聞いてこない。苦笑いを浮かべたまま、どこか勝ち誇ったような表情がシャクに障ってしまった。

「いや、言いにくいことを質問してしまったようだね。でもね、私が問題にしたいのは最初と最後の神社ではなく、二番目の神社のことなんだ」

 またおかしなことを言い始めた。

「二番目……ですか?」

「ええ、そうなんですよ。最初と最後に挟まれて、一番影が薄い存在になっていませんか?」

「ええ、確かにそうですね。やっぱり中途半端な考えがいけないということなんでしょうか?」

「いえ、そういうことではないんですよ。実は二番目の神社が一番重要な意味を持っているんですよ」

「二番目に何か意味があるんですか?」

 三つあって、二番目というと、あまり印象深いものではない。たとえば三兄弟でも、次男というと、どうも影が薄いような気がするのは気のせいであろうか?

「三兄弟の次男を思い浮かべたりしたでしょう?」

「えっ、どうして分かるの?」

「なつみちゃんを見ていると分かってくることが結構あるんだよ。なつみちゃんは自分が考えているよりも分かりやすい雰囲気なので、気を付けた方がいいかも知れない」

「そうなんですか?」

 少しショックでもあったが、ウスウス自分でも分かっていたし、学生時代に言われたこともあったので、

――やっぱり治っていないんだ――

 と、就職して仕事するようになれば、そんな性格も変わると思っていただけに、ショックだった。

「普通、三社参りなら、一日に一気に三つの神社を参らなければならない。そう言われていると思うんだけど、それも実は地域によって言われ方がバラバラなんだよ。それがいわゆる『都市伝説』と言われるゆえんなんだと思う。全国に広がった内容を都市伝説とは言わないからね。でもこの話には続きがある。それはその地域それぞれにあるものなんだけど、それでもやっぱり最後には同じところに辿り着くことになっているんだよ。本当の都市伝説というのは、案外そういうものなのかも知れないね」

「それってもはや都市伝説とは言わないじゃないですか?」

「そうだね。君たちが知っている都市伝説とは主旨が違っているからね。そういう意味では、これは『都市伝説の発展形』と言ってもいいかも知れないね」

「それは、ごれくらいの単位で違っているんですか? たとえば地域の単位なのか、県の単位なのか、それとも市町村の単位なのか」

「厳密に分けることができないけど、市町村と言ってもいいくらいに細かいものだと思うよ」

「でも、そんな全国の市町村の単位ほど、種類ってありますか?」

「なかなか鋭いところをつくね。確かにその通り、微妙なところで違っていたり、中にはかなり遠くの関係のない町同士のところで、まったく同じ内容だったりするんだよ」

「それも何となく不思議な感覚を持ちますね」

 というと、またしても、勝ち誇ったような表情で、藤原は話し始めた。

――分かりやすい性格って私のことを言ったけど、藤原さんだって私に見抜かれるなんて、私に負けず劣らずなのかも知れないわ――

 と、苦笑してしまった。だが、それも藤原さんの言い分によって苦笑は打ち消された。またしても、唸るような回答をされたのだ。

「そうかい? そんなことはないでしょう。だって、人間一人一人性格が違うんじゃないかな? 似たり寄ったりの人はいるだろうけど、指紋が人それぞれ同じ人がいないように、見ているように見えて、実は微妙なところで違っているんだよ。何十億という人が世界に生きているのにだよ」

「確かにそうですね、指紋という例を出してくださって、私にも理解できたような気がします。でも、指紋というのはすごいですよね。パッと見、まったく同じように見えて、一人一人同じ人が皆無なんですからね」

「そもそも、指紋が皆違うというのは、人間を作った神様のどんな意図が働いているというんでしょうね。そっちの方が興味がありますよ」

 まるで、犯罪捜査のためだけに、その人を特定するものとして今は利用されている。現在進行形で、銀行などでは本人認識のために指紋を利用している。今後は、指紋だけで住民登録が行われ、それが社会的にすべて通る世の中がやってくるのかも知れない。

「でも、指紋だって、いつまったく同じ人が現れないとも限らない。私はそんな気がしているんですよ」

「それこそ、突然変異のように扱われるけど、それが本来なら自然な姿なのかも知れませんね」

「時代を遡れば同じ人がいるかも知れない。タイムマシンの開発がうまくいかないのは、こんな細かいところの問題解決も行われないと、着手できないんじゃないかな?」

 そこまで言うと、どうやら自分がかなり脱線した話をしていることに藤原さんは気が付いた。

「えっと、どこまで話したんだっけ?」

「都市伝説がかなり細かいところで分かれているというところですね」

「ああ、そうだったね。元々一つだった伝説が、伝わっていく間に少しずつ変化していった。尾ひれが付いたと言ってもいいかも知れないね。確かに、分類すると種類的には分けるためには限界がある。でも、これだって指紋のように一つとして同じものはない。そこに私は、何か作為的なものを感じるんですよ」

「指紋と一緒に考えるから、作為的に感じるんじゃないですか?」

「そうなのかも知れないけど、たとえば動物の鳴き声だって、同じ動物なら同じようにしか聞こえないでしょう? でも、彼らはあれで会話しているんですよ。もし、人間よりも高等な動物がいたとして、彼らは私たち人間の会話をまったく同じように聞こえてしまうのかも知れませんね。それは客観的に見るからではないかな? 他人事のように見えているというかだね」

 話は脱線しながらではあるが、

――行きつく先は同じ場所なのではないか?

 と、なつみは思うようになっていた。

「私の知っている都市伝説でも、願いが叶う神社という話がいくつか存在するんだ。似ているようでそれぞれ微妙に違っているんだけど、私が聞いた話の中で一番気になっている話というのが、二番目の神社というのが、一番気を付けないといけないということなんだよ」

「詳しくはどういうことなんですか?」

「実は私はこの神社に参ったおかげで、成功を収めたんだが、二つ目の神社には行かなかった。本当は三社回るつもりだったんだけど、一社だけだったのでどうなるかと思っていると、願いは瞬く間に叶い。私はそれがこの神社のおかげだということで、お礼参りに来たんだよ」

「それで?」

「その時に、同じようにお礼参りに来ていた人と話す機会があって聞いた話だったんだけど、その時、三社参らなくてよかったと言われたんだ。その理由については話してくれなかったんだけど、それは、話をしてしまうと、せっかく手に入れた幸運を手放すことになるからだというんだ。だから他言してはいけないってね」

「でも、その人はそこまでは話してくれたんでしょう? しかも、今藤原さんも私にそのことを話している。話しちゃっていいんですか?」

 なつみの疑問も、もっともである。話だけを聞いていると、不思議な世界に連れていかれて、感覚がマヒしてしまうように思えるが、ふと立ち止まって考えると、ところどころに疑問があるような気がしてくるのだった。

「それは大丈夫なんだ。むしろ、そこまでは話しておかないといけないらしい。都市伝説というものは、いろいろな地方で微妙に違うが、えてして、いろいろな縛りがある。どこまではしなければいけない、どこからはしてはいけないなどの伝説が入り組んで、都市伝説になっているんだよ。そういう意味でも、あまり都市伝説に関わるということはよくない。だが、一旦関わってしまうと、その『掟』に逆らわないようにうまく立ち振る舞わなければいけない。そういうものなんだよ」

「結構、面倒臭いんですね?」

「それを面倒臭いと思うのか、それとも他の考え方をするのかによって、都市伝説と受け入れるか受け入れないかということが変わってくる。逆に一度足を踏み入れてしまったら、ある程度の覚悟を決めて、しっかりと立ち振る舞う必要があるんだ」

「じゃあ、私はもう、都市伝説に足を踏み入れてしまったということなんですか?」

「ええ、私には、『願いが叶う神社』に関した都市伝説に関わった人を見分けることができる。そしてその人に対して、先の道に導いてあげる義務のようなものがあるんですよ。義務というよりも、導いてあげないと、自分の身が危なくなるんですね」

「それで私にこの話を?」

「そうです」

「確かに私は、似たようなお話を他で聞きました。そして、一時期、そんな神社があるならと思って旅行に出かけては、探してみたりしましたが、探せば探すほど気持ちが冷めていって、結局は中途半端に終わってしまったんですよ」

「このお話を聞いた人のほとんどがそうだと思います。でも、一度は探してみようと思ったのなら、その時点で、すでに都市伝説に関わってしまったということになり、知らず知らずに枠の中に取りこまれているんですね。ほとんど影響のない人もいますが、少なくとも、その都市伝説のせいで、その人の人生が微妙に変わっているんですよ。もちろん、その人には自分に分岐点があったことは自覚することができたとしても、その分岐点が都市伝説によるものだとは、誰も思わないでしょうね」

「それほど難しいものなんですか?」

「そうですね。誰もが人生の分岐点を持っていて、その意識もある。だけど、都市伝説を信じている人はほとんどいないと思われている。だから、分岐点と一緒には考えられないんですよ」

「分かります」

「でも、都市伝説を意識している人は、皆が考えているほど少ないわけではないんですよ」

「そんなにたくさんいるんですか?」

「もちろん、自分が感じていることが都市伝説だとは思っていないでしょうが、あなたにも、自分が考えていることで、他の人は想像もしていないと思っていることが、結構あるでしょう?」

「ええ、あります」

「でも、そのうちのいくつかは、他の人も考えていることが多いんですよ。それが都市伝説だったりします」

「じゃあ、私はどうすればいいんですか?」

 だんだん不安になってきた。その元を作った目の前にいる藤原と名乗る男性が憎らしく思うほどだった。しかし、もし彼が言っていることが本当であれば、自分はこの都市伝説にすでに足を踏み入れている。何とかしないといけないことだった。

「願いが叶う神社を探して、そこでお参りをすればいいんですよ。ただし、私は教えてはいけない。と言っても、あなたにとっての願いが叶う神社は、あなたにしか見つけることはできません。人それぞれで違うんですよ」

「そんなにたくさん、その神社はあるということですか?」

「いくつかはあるでしょうが、そんなにはないと思いますよ。それにこの都市伝説に関わる人も限られているので、そこまでたくさんはないと思います」

「といううことは、人によっては他の人と同じ場所だったりもするということでしょうか?」

「そういうこともあるでしょうね? でも、あなたと私とでは違うことは分かっています。あなたにとっての願いが叶う神社は、身近にあると思います。もし、あなたがよければそのお手伝いを私にさせてください」

 思わぬお申し入れだった。

「どうしてですか?」

「いくら私が告げなければいけなかったこととはいえ、あなたにとって聞きたくもないはずのことを話してしまった私にとって、せめてもの償いのようなものだと思っていただければいいと思います」

 普段なら、

「いえ、結構です」

 と言って、話の内容も無視するところだが、笑って無視できるないようではないことを重々承知していたので、

「少し考えさせてください」

 と、即答は避けた。

「そうですか。いや、それもごもっとも、いきなり話しかけられてすぐに、『はい、そうですか』とも行かないですよね。それでも何となく気になっていることで、すぐに断ることもできない。その考え、私もよく分かります。ゆっくりお考えください。私も納得いただけると思っておりますよ」

 それにしても、

――藤原さんが気にしている「二番目の神社」というのは、どういう意味があるのだろう? そして、それが私にどういう関係があるというのだろう?

 と、いろいろな疑問を残したまま、我に返って時計を見ると、午前十時をまわっていた。清水さんに会う時間だった。

 ちょうど清水さんは出社していて、出会うことができた。ママの言伝を伝えると、清水さんはニッコリと笑顔で、

「ありがとう」

 という一言を言ってくれた。このたった一言が、なつみには癒しになった。

 それにしても、藤原という男性には、なつみが考えていることが分かっているようで気持ち悪かったが、それよりも、自分も藤原という男性の考えていることが分かっているような気がした。そちらの方がなつみにとっては気持ち悪い。

――お互いに分かり合っているくせに、そこに私は感情がついていかない。一緒にいる時は信頼しているつもりになっているが、ひとたび別れると、急に気持ちが分からなくなる――

 なつみにはその思いが気になっていた。そういう意味でも、

「手伝ってあげましょう」

 と言った彼の言葉を頼もしく思い、断ってしまうことは、自分にとって不安を募るばかりになることは分かっていた。

 ただそれでも、初めて会った人に頼るというのは、厚かましいという思いや、怖いという思いからではなく、控えたいという思いがあった。その奥には、

――本当に信憑性があるお話なんだろうか?

 という思いがあり、本当は自分に関係のない話だったものを、信じてしまうことで、自ら不幸を背負いこんでしまうのではないかという思いがこみ上げてくるのが怖かったのだ。信憑性に関しては疑問があるが、自分に関わってくるかどうか、話を聞いたことで引きこんでしまいそうで恐ろしかった。

 その日、なつみは清水さんと少し話をして、午前中にホテルを後にした。

 自分が会社を辞めてから少しの間だけ探してみた、

「願いが叶う神社」

 その時は半信半疑で探していた。不倫の精算を精神的に片づけるためにも、それまでの自分とまったく違う生活をしたいという思いと、どこかこれからの生活が神頼みになってしまうのではないかと感じたからだ。

 半信半疑ではありながら、他の人よりも信憑性が高かったと思う。それまでのなつみは迷信のようなものを信じる傾向にあった。あまり人と関わることが好きではなく、人ごみを歩くのも嫌だったなつみは、自分で思っているよりも、人嫌いだったのかも知れない。

 不倫をしたのも、幸せそうな人とでは仲良くなれないという思いがあったからで、不倫相手のように、家庭に不満を持っていて、その拠り所に自分を求めてくれる相手を、無意識に探していた。

――私は不倫を悪いことだと思っていなかったんだわ――

 今から思えばそうなのだが、どこか悪いことだと思っていることの方が自分に合っているという意識があった。

――願いが叶う神社なんて、見つけられるはずもないわ――

 と、途中から思うようになった。

 考えてみれば当たり前のことである。

 願いが叶うというが、一体いつ叶うのか分からない。考えてみれば、死ぬまでに願いが叶ってしまえば、それは叶ったことになる。つまり、いつまで結論を待てばいいのか、実に曖昧なのだ。

 それを叶うと言いきるのだから、短期間で叶わなければ、

「願いが叶う」

 とは言い難いだろう。

 それに時間が経てば経つほど、可能性は高くなる。それは、末広がりにモノを見るからであって、本当にそうなのか、疑問に感じたことがあった。

 だが、逆に未来、つまり叶った時から見れば、そこから末広がりで見ることもできる。自分がいつ、その願いをしたのかということも曖昧になっていて、それだけ過去に向かっても広がっているものなのだ。

 その時に、どの神社でお参りした願いが叶ったのか、分かるはずもない。つまりは最初から、

――ここが願いの叶うところだ――

 と焦点を合わせ、その願いが叶うまで、願い事をしないようにしなければならない。どうしても、検証するならば、それくらいの覚悟がいるというものだ。

 なつみは軽い気持ちで探し始めたのだから、そのことに気が付いた時、それほど大きなショックはなかった。最初から深刻な気持ちで差がしていたら、きっとショックを受けたに違いない。一人で考えていると、大きなショックも受けないが、信じていたかも知れないことでも、すべて最初から意識していなかったのだと思うことだろう。

 スナックに勤めるようになってからは、自分が、

「願いが叶う神社」

 を捜し求めていたということも忘れていた。完全に忘れたわけではないが、

――人から言われないと、思い出すことはなかっただろう――

 と思うほどだったのだ。

 ふと思い出すことは何度もあったが、思い出したとしても、それを心に留めるようなことはなかった。すぐに忘れてしまうことで、自分が、

――何を思い出したんだろう?

 と感じるほど、意識が薄れていた。

 それはまるで、

――目が覚めてから、夢の内容を忘れていくような感じかしら――

 という思いに似ている。夢のように寝ている時にはハッキリとしている意識も、目が覚めると忘れてしまうそんな世界が、夢以外にもあるように思えてならなかった。

 今ではすっかり忘れてしまっていると思っていた、

「願いが叶う神社」

 を最近特に思い出すようになったということを、藤原さんが自分の前に現れて、その話をしてくれたことで思い出した。

 一つのことを意識させられるということは、それに付随したことを思い出すということでもあり、

――思い出すことがこんなにもたくさんあるのだ――

 ということを思わせるのも、自分だけで意識していたのでは、到底適うものではないだろう。

 それにしても、眠っていて気が付けば声を掛けられていた。まるで夢のような話を聞かされて、後から思うと、

――やはり夢だったのではないか?

 と思う。

 しかし、藤原と名乗る男性は、三社参りにこだわり、二番目がキーとなると言っていた。なつみの中に意識として夢に見るような覚えはまったくない。火のないところに煙が立ったような感覚だ。

 なつみはその時、藤原と名乗る男性とは、その日限りで、会うことはないだろうと思っていた。それは同じ夢をもう一度見ようと思っても見ることはできないようなものだと思った。

――もう一度、願いが叶う神社を探してみようかしら?

 藤原の話を聞いて、願いが叶う神社というのは、案外たくさんあるように思えた。ただ、それが自分にとっての願いが叶うところなのかどうか、問題である。

 さらに問題なのは、

――私の願いって何なのかしら?

 探してみるのはいいが、いざ見つかった時にどのようなお願いをすればいいのか、その方が問題である。

――願いというのは、その時々で変化しているものではないか?

 叶った夢もあるだろうし、その時の考えが変動することもある、まわりの影響もあるからだろう。

――まわりの影響は受けていない――

 と思っていても、そう思っている時点で、まわりを意識している証拠である。そう思うと、余計に願いというものが流動的なものに思えてくるから不思議だった。

 なつみは、一つのことを願うと、複数のことを願いたくなってくる。最初に願ったことの派生になるのだが、複数の願いが叶うとは思えないので、初詣などのお参りでは、そのうちの一つに絞るようにしている。

――次に来た時に、別のお願いをしよう――

 と思っているのだが、なかなか神社に立ち寄ることはなかった。

 神社の近くを通りかかって、神社があることを意識しても、そのままお参りしようという気にはならない。

 別に面倒臭いなどという物ぐさな思いではなく、初詣などのように、特別な時にしかお参りしようとは思わないのだ。ご利益がないとでも思っているのだろうか?

――初詣以外でもお参りしようという意識が生まれた時、願いが叶う神社というのを見つけることができるのかも知れない――

 と感じるようになっていた。

 そのきっかけとして、藤原という男性と知り合ったのだとすれば、そう遠くない将来、願いが叶う神社を見つけることができるのではないだろうか? その時には何をお願いするかということも明確になっていることだろう。

 なつみは、自分がその時、ポジティブになっているのを感じた。

 そして、その時、藤原さんとまた近い将来、出会うことになるだろうと、信じて疑わなかったのだ……。

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