セカンダリー・プレイス

森本 晃次

第1話 神社

――私の人生って一体何なんだろう?

 日立なつみが、そんなことを感じるようになってどれくらいの日が続いているのだろう? 大学を卒業して志望の会社に入社できた時までは、自分でも有頂天に感じられるほど、毎日が楽しいはずだった。

 毎日が楽しいというのは、決して平凡な毎日を過ごしていたのでは感じることはできない。その時のなつみは、

――その日が終わってから、昨日よりも今日の方がよかった――

 と感じることができれば、毎日が楽しいと思えるのだと信じ込んでいた。毎日のように、昨日よりも楽しかったと思えるようにすることだけを目指していたといっても過言ではないだろう。

 新入社員の時、あれだけ覚えることが多かったにも関わらず、この思いだけは持ち続けていた。いや、持ち続けることができたから、覚えなければいけないことも、漏らさずに覚えていることができたのかも知れない。

――私は中途半端な気持ちだと、何もできないのかも知れないわ――

 学生時代から感じていたことだったが、就職して新入社員の時には特にこの思いが強かった。ピークだったといってもいいくらいだ。

 新入社員というのは、覚えることもたくさんあったが、捨てなければいけないものもたくさんあった。それは、学生時代の頃の甘えであり、会社では学生時代の甘えは通用しなかった。

 しかし、考えてみれば誰もが大人なのである。紳士であり淑女に見えた。

――こちらが誠意を持って接すれば、相手も誠意を持って返してくれる――

 この思いが次第になつみを包むようになってきた。

 なつみの考えに間違いはないのだが、どこの世界にも例外となる人はいるものだ。被害妄想や嫉妬の固まりのような人も中にはいた。なつみも、自分のまわりの人が全員、紳士であり、淑女だとは思っていなかったが、比較的なつみのまわりに例外となる人がいなかったのも事実だった。

 会社には人事異動もあれば、新卒だけではない新入社員も入ってくる。その中に例外に当たる人もいたりした。

――人が百人いれば、その性格は百通りになるんだ――

 という当たり前のことをなつみは今さらながらに思い出した。

 今まで頭の中で分かっていても実感が湧かなかったのは、百通りの中に、例外と言えるほとの人がいなかったというだけで、ある意味、

「幸運だっただけ」

 と言えるのではないだろうか。

 例外と言える人が少しずつ増えてはきていたが、自分が悩みに落ち込んでしまうほどのことは起こるはずはないと思っていた。

 頭の中に、

――しょせん、他人は他人――

 という思いがあった。その思いは決して投げやりな気持ちからではない。自分の中での取捨選択がキチンとできていれば、それでいいだけのことだった。実際に人間付き合いの上での「優先順位」に狂いが生じたことはなかった。その「優先順位」は次第に、自分の中での段落分けに繋がっていた。

 段落分けという言い方を敢えてしたのは、ランク分けにしてしまうと、相手のことだけに終始してしまいそうだが、ここで「段落分け」という言葉を使うことで、

――相手が自分にどのような影響を及ぼすかということを踏まえた上での考え――

 として自分に納得させることができるからだった。

 段落分けをするメリットは、自分への影響を考えて深く相手を見ることができることに尽きるが、デメリットとしては、深く入り込み過ぎたがゆえに、相手に感情移入してしまい、相手から離れなければいけない状況に陥った時、タイミングよく離れることができるかどうかが問題だからだ。

 なつみにとって、

――離れなければいけない相手――

 は、ずっと現れなかった。入社して数年というもの、何事もなく過ごしてきた。

 さすがに順風満帆というわけにはいかなかったが、問題がなかったことも事実だった。それが自分の役得だと思っていたのも、思い込みというのが怖いということの証拠ではなかっただろうか。

――余計なことを考えなくてよかった時代――

 として、今となってみれば、つい最近のことであっても、ずっと昔のように感じてしまうのも、おかしなものであったのだ。

 なつみは、自分が寂しいと思う時期を入社してから感じることはなかった。

 入社してすぐに、

――私は五月病に罹るのではないだろうか?

 という危惧があった。五月病というのは、どんなに回避しようとしても、罹ってしまうものだと思っていたからだ。誰にでも罹る可能性があり、仕事に燃えていたり、学生時代の甘えは消したと思っていても、そんな本人の気持ちをあざ笑うかのように襲ってくるのが五月病だと思っていた。

 五月病を恐れるというのは、怖いという思いよりも不安になることが怖かった。その理由は、

――恐怖であれば、ほとぼりが冷めると消えていくものだが、不安というものは、一度味わってしまうと、なかなか抜けることはない――

 と感じたからだった。

 不安というものは、感じるというよりも、身についてしまうことであり、その原因が曖昧であれば、余計になかなか抜けないものである。特に五月病なる、

――不特定多数の人間に、襲ってくるもの――

 としては、防ぎようがないと思っていた。それは、子供の頃に罹る伝染病の「はしか」のようなものであり、しかも、決定的なワクチンや治療法もなく、後遺症が残ってしまうのと同じではないだろうか。その思いが恐怖から不安げと駆り立てる。そういう意味では、五月病に対しての予備知識など、最初からなかった方がよかったという思いに駆られたとしても、仕方のないことだろう。

 確かに、

――これが五月病なのか?

 と思えるような不安に駆られた時期があった。しかし、そこに恐怖心が襲ってくるわけではなく、気が付けばそんな気持ちも覚えなければ多いことから、意識としては実に薄いものだった。

 五月病に対しての不安が取り越し苦労だと感じるまでにしばらく掛かった。

――いや、まだまだ油断はできないわ――

 抜けてしまったと思って安心することで気が緩んでしまった瞬間に襲ってこられては、対処のしようがないと思ったからで、もし、油断が招いた五月病であれば、きっと自分に対して自信喪失も一緒に招くだろうと思っている。

――しまった――

 と感じても後の祭りである。この時に襲ってくる後悔は、普段感じる後悔とはレベルが違う。

――あれだけ精神的に用意周到で待ち構えていたはずなのに、その間隙を縫うかのように潜入されてしまっては、後悔などという言葉でいくら言い表されても、自信喪失が招く自己嫌悪を拭い去ることなど出来はしない――

 と思っていたのだ。

 そんな思いが功を奏したのだろうか、五月病に襲われるという思いは、取り越し苦労に終わってくれたのだった。

 肩透かしを食らったという思いは確かにあった。しかし、実際に五月病に罹ることはなかったのだから、取り越し苦労だったことは明白だった。後になって人に聞いてみると、

「五月病というのは、罹る人と罹らない人がいるみたいよ」

 という話を聞いた。別に罹らなかったからと言って気にすることはない。そう思うと、気分的にも幾分か楽になった。楽になってしまうと、それまでの取り越し苦労がウソのように、最初から余計なことを考えたということすら、ウソに思えてくるから不思議であった。

 五月病というのは、段階を踏んで社会人として歩んでくる中での、

「特異な存在」

 だった。

 入社式での上司の言葉を聞いた時、最初にそのことを感じた。

「会社というものに慣れるまでは、最初にまず三日辛抱できるかということを考える。そして、三日もてば、三か月もつだろうと考える。そして、三か月もてば今度は三年を目標に頑張ることができる。そうやって、段階を踏んで慣れてくるものだと私は思っています」

 という総務部長の話だった。

 目からウロコが落ちたと言えば、少し大げさなのかも知れないが、その話を新鮮に聞くことができたのは、やがて襲ってくるはずだと思っている五月病に備えるための心構えとして大切なことだと思ったからだ。それだけなつみは、五月病というものを恐れていた。言葉では聞いているが、それがどれほどの規模で自分に襲い掛かってくるものなのか、まったくの未知数だったからだ。何よりも、

――絶対に襲ってくるもので、避けることはできないんだ――

 と思い込んでいたのが、大きな問題だったのだ。

 しかし、五月病に罹ることもなく、ホッと胸を撫で下ろしたが、実際には、そこから不安が燻っていったことに、なつみは気づいていなかったのだ。

 仕事の慣れは、時間の感覚をマヒさせるもののようだ。

 根本的には、平穏な毎日を送っているつもりだったが、その日一日を思い返してみると、不安に感じていた一日が存在していたことも否めない。その思いが取り越し苦労であることに違いない。

――私は本当に取り越し苦労ばかりしている――

 と思っていたが、実際にはそれほどたくさんの取り越し苦労があったわけではない。たくさんあったと思うのは、自分が過去を思い出した時に、燻っていた五月病への不安が取り越し苦労に終わったということで、新たな不安を生んだのではないかという思いがあったからだ。

 入社二年目、三年目と進むうちに、三年目で、総務部長の言葉をふと思い出した時があった。

 その時は、

――やっと三年目だわ――

 と感じたのだが、ここでのやっとというのは、

――三か月から、結構長かったわ――

 という思いと、

――三年以上については部長は何も言っていなかったけど、ここからは、私にとって未知数だわ――

 という思いとが混在していた。

 だが、前者の方の思いの方が強かった。後者への思いは、その答えがおぼろげながらに分かっていたからである。

――三年以上を言わなかったのは、そこまでくれば、その人次第ということなんだと思うわ――

 という思いであった。

 つまり、それ以上先は、その人それぞれの性格もあるだろうが、会社にいた三年間である程度その人の会社での立場が決まってくるという意味ではないかということだった。なつみはその思いを噛み締めていると、自分の中にその時はおろか、これから先も、よほどのことがない限り、会社を辞めようなどと思わないと感じていた。

「辞めてどうする?」

 という思いがあるのも事実だし、それまでの三年間は、なつみにとって不安よりも自身の方が強いことを感じさせるようにしてくれた期間だと思っている。

「今の私は、仕事が楽しいの」

 まわりの仕事に対して愚痴を零している人たちに対して、心の中でそう呟いていた。そして、

「仕事が嫌なら、辞めればいいんだわ」

 と心の中で叫んでいたが、それが完全なる上から目線であるということに、自分では気づいていなかった。

 それでも、それは自分にい自信が持てたからであり、総務部長の言葉に三年以上がなかったのは、自分以外の考えもあるだろうが、少なくとも三年経てば、自分の会社での身の振り方がある程度分かってくるという意味だろう。愚痴を零している人であっても、その人たちにはその人たちなりの考えがあるのだろう。上から目線で見さえしなければ、その気持ちも分かるというものだ。

――愚痴を零しているのを見るのも嫌だわ――

 という思いがあったからだが、それは自分に自信がない時に、その言葉に自分の気持ちが揺るがされてしまうことで、

――余計なことを聞いてしまった――

 という後悔の念に襲われるからだった。

 三年が経ってからというもの、時間に対しての目標はなくなった。最初は三日、そして三か月、そして、三年の月日を意識していたが、ここから先は、辞めるまでが次の目標になる。

 いつ辞めるかを考えることなどありえない。辞め時というのは時間ではなく、タイミングだ。女性なのだから、辞めるとすれば一番最初に頭に来るのは、結婚である。しかし、三年目のなつみに、結婚などという二文字は、頭にちらつくこともなかった。そのまま結婚を考えることもなく、そして辞めるなどということを考えることもなく、気が付けば二十八歳になっていた。

 結婚も考えない。会社を辞めようとも思わない。以前までは、

「今は仕事が楽しいの」

 などと呟いていたが、今はそれも昔、二十八歳になったことに気がついたというほど、時間に対しての感覚はマヒしていて、毎日が何事もなく平凡に過ぎていた。

――私の人生、これでいいのかしら?

 仕事が楽しかった時期から今までの間に、仕事が楽しいと思わなくなるような出来事があったのだとすれば、まだ会社を辞めるという選択肢を考えることもあっただろう。

 しかし、会社を辞めたいと思うほどの出来事が何かあったわけでもないのに、いつの間にか、仕事が楽しいと思わなくなっていたのである。

 何もなかったことで、それまで自分が何も考えずに流されるように生きてきたことに気が付いた。考えてみれば、仕事が楽しいと思っていた時期でも、ただ楽しいと思っているだけで、具体的にどのように楽しかったのかということを考えたこともなかった。今では仕事が楽しかった時の心境すら思い出すことができない。思い出すことができないから、具体的なことを何も考えたことがなかったことに、初めて気が付いたのだった。

 その頃のなつみは、

――何かにすがりたい――

 という思いがあったのだろう。

 毎日を平凡に過ごしながら、平凡の中に寂しさを感じ、寂しさを埋めるには、何かにすがりつきたいという思いに駆られたとしても、無理もないことだっただろう。

 しかし、ただ平凡に過ごしてきたなつみには、最初何も見えてこなかった。見えないまま、すがりつくことに執着しないようになれればよかったのだが、しばらくしてくると、実際に見えていたものと違った光景が目の前に広がってくることに初めて気が付いた。

 そこには誘惑がいっぱいあり、誘惑であることを分かっていながら、のめり込んでしまうという設定を頭に思い浮かべながら、それを悪いことだとして、拭い去ることはできなかった。それだけ寂しさがこみ上げていたのだろうが、いつの間にか、

――誰でもやっていることだわ――

 という言い訳を思いついてしまったことも、なつみがのめり込んでしまう大きな理由だったのだ。

 言い訳だということも分かっていたはずだ。この頃のなつみは、悪いことだと思っていても、寂しさを紛らわすためには、少々のことは許されるという思いが強かった。きっと、今まで生きてきた中で通ったことのない道が目の前に広がっていて、曖昧な人生の中に、明らかな道しるべを見つけてしまったのかも知れない。それが誘惑であり、悪いことだというのを意識しながらであった。

 少々のことなら許されるという思いがあったが、では、その少々というのがどういうことなのかというのを、考えたことはなかった。少々のことを曖昧に考えていたのだ。

 寂しさに対しても、かなり曖昧な気分だった。

――心の寂しさを埋めてくれる人がいれば――

 という思いから始まったはずなのに、身体の寂しさを一緒に考えなかったことから、出会った相手が不倫であることを知りながら、のめり込んでしまう自分を抑えることができなかった。

「君の気持ち、よく分かるよ」

 と言われて、

「私の気持ちのどのあたりが?」

 と聞けるだけの精神的な余裕がなつみの中にあれば、のめり込んでしまうこともなかったかも知れない。

 相手の「気持ち」という言葉の意味の中に、身体まで含まれているということに本当は気づいていたのかも知れないが、心のどこかで、

――それでもいい――

 と思っていたに違いない。

 心と身体を切り離して考える必要はない。だが、それも相手が身体を求めてくるにしても、

――心ありき――

 であるかどうかが問題だった。

 確かに普段は、気持ちを大切にしてくれる相手であったが、身体を求めてくる時に、心を見ることをしない彼に、なつみは気づいていなかった。もし気づいていたのなら、簡単に身体を開いたりはしなかったからだ。普段の彼から身体を求めてくる彼を想像してしまっていたのだろう。なつみにとっても、身体を重ねている間、絶頂に達するまで、それ以外のことはすべて、

――余計な事――

 として、頭の中が空になってしまっていたのだ。

――身体を絶頂にもっていくためには、余計なことを考えてはいけない――

 というのは、自分の本能だとなつみは思っていたが、それは自分だけではなく、誰もが同じだと思っていた。それだけに大好きな人から身体を求められると有頂天になり、それ以外のことは頭に入ってこなかったのだ。

 それが男の計算ずくであるなど、毛頭考えてはいない。しかし、傷つくのは女性であり、相手が不倫であれば、最後には家庭に戻ってしまうという選択が一番自然であり、可能性としては高いことを考えようとはしなかった。

 身体を求められ、絶頂に達する自分をいとおしいと思っている以上、なつみはそれを、

「甘い蜜の罠」

 として認識してはいても、そこから逃れることはもはやできないと思い込んでしまっているのだ。

 自分を美化することで、悪いことを正当化しようとするのは不倫をしている人の常套手段と言えるだろう。不倫という言葉を聞いて、

「浅ましい。惨めだ。情けない……」

 などと、愚劣な言葉がいくらでも浮かんできたはずなのに、そんな愚劣な言葉を正当化しようとする自分、そこには自分を美化するという発想が含まれていることで、次第に自分を綺麗に見せようとすることを嫌うようになっていたのだ。

 不倫をしているのに、本当は相手に、

「綺麗だよ」

 と言ってほしいにもかかわらず、なつみは、家を出る時、それまでしていた化粧を施さなくなった。最低限の身だしなみだけはするのだが、自分を綺麗に着飾ったりすることはなくなっていた。

 それは自分を美化しようと言い訳をする自分に対しての細やかな抵抗だったのだろう。

 それでも不倫相手の男性は絶えず、

「綺麗だよ」

 という言葉を連発していた。

 それは見た目を口にしているわけではなく、そう口走ることで、何かの暗号をなつみに送っているのではないかと思えた。

――他の誰にも知られることのない二人だけの暗号――

 それが二人の間に横たわっている以上、なつみは、やはり彼から離れられないと思うのだった。

 彼の名前は村山敏郎という。最初はなつみも、

「敏郎さん」

 と呼んでいたが、途中から、

「その呼び方はやめてくれ」

 と言われ、

「村山さん」

 と言い直すようになった。

――奥さんから、そう言われているのかしら?

 となつみは思ったが、これが勘違いだと気づいたのは、かなり後になってからのことだった。

「今さら、そんなことはどうでもいいわ」

 と呟くほどの時期で、それよりも、

――そんなことに気づかなかったなんて、よほど私はおめでたいというか、感覚がマヒしていたのかも知れないわ――

 と思ったことに悔しさを感じたのだ。

 感覚がマヒしていたのは、あまりにも現実離れした、いや、浮世離れした生活を送っていたことが原因だったように思う。まずは、自分が不倫にのめり込むこと自体が現実離れしていたことであるし、相手はすでに五十歳を超えていて、自分の父親よりも年齢が上だったということも、後から思えば浮世離れしていたのだった。

 だが、付き合っている間は、そんなことにはまったくお構いなしだった。むしろ、同い年の男の子たちは頼りなく感じられ、

「自分の理想は、自分よりも十歳以上年上の男性だ」

 と、学生時代には公言していたくらいだった。

 学生時代の友達の中には、同じように年上好みの女の子もいて、話が合った。年上が好きだという理由も似ているところがあったが、ファザコンだと公言していた友達とは違い、さすがにそこだけは歩み寄ることができなかったが、それは自分がそこまで寂しさを感じていなかったからだと今では思う。

「人生には、どんなことをしても逃れられないアリ地獄のような寂しさがこみ上げてくる時期がきっとあるのよ――

 友達はそう言っていたが、曖昧に返事だけして、本当の意味を分かろうとしなかったなつみだが、どうしても頭の中に残っていた。その言葉の意味が村山と知り合った時、初めて分かったのだ。

――寂しさとはどういうものなのか――

 それは、寂しさが通り過ぎて分かった。

――通り抜けて、一人でも決して寂しくないと言い切れるようになった時、その時期が彼女の言っていた逃れられないアリ地獄のような寂しさだったのだと、初めて分かることができた――

 と感じた時だった。

 村山がなつみの身体を求めるようになったのは、最初からではなかった。彼はあくまでも紳士的で、身体の関係を求めるくるなど、想像もしていなかった。

 しかし、実際に身体を求められると、拒否する気はなつみにはなかった。

――心のどこかで待ち望んでいたのかも知れない――

 と思っていたほど、彼がなつみの心の中に侵入してきたのは新鮮だった。

 体の相性も悪くはなかった。むしろ、今まで付き合ったことのある男性に比べて、昭空に違っていた。

 彼は優しいだけではなく厳しさもあった。それは、なつみを導いてくれる優しさであり、厳しさが優しさの裏返しであることを、思い知った瞬間だった。

 導いてくれるのは、何も表面上の優しさだけではない、厳しさの中に、戒めもあった。元々不倫という禁断の中、後ろめたさが不安に繋がるのも無理のないことだった。

 彼の優しさは、厳しさを伴うことで、なつみを支配しようという意識があった。なつみも支配されることが自分に心地よさを生み、さらには、後ろめたさを少しでも解消させてくれるものだと思っていた。二人の身体の関係は、アブノーマルなものになっていた。村山の自然なタッチがなつみを天国に導いてくれ、知らず知らずのうちに、感覚をマヒさせられていたのだった。

 次第になつみは、

「不倫は悪いことではない」

 と思うようになり、

「バレなければ、何ら問題ない」

 とまで思うようになっていた。それは、村山の巧みな操縦術だったのだが、不倫以上不倫以下ではない関係に、アブノーマルというエッセンスが加わることで、どこまで行っても見えない出口を意識することをなくそうというものだった。

 しかし、なつみが考えていたほど、世の中は甘くなかった。バレなければいいと思っていたはずなのに、村山の奥さんにバレてしまったのだ。

「バレるはずはないと思っていたんだが」

 と村山は言ったが、どうやら、奥さん以外の女性に対してはいろいろ気が付くし、気を遣うことができるのに、肝心の奥さんに対しては、その「神通力」は通用しなかった。

 それまで、自分のことを一番よく分かってくれている村山に全幅の信頼をおいていたのだが、

――私のことは、奥さんに対してよりもよく分かってくれている――

 と思っていた気持ちに間違いはなかったが、

――実際は奥さんのことを分かっていなかっただけなんだわ――

 と思うと、それまでの自分を冷めた目でしか見ることができなくなっていた。

 冷静になって考えると、村山と二人でいる時、奥さんの話をしなかったことに感激した自分がいた。不倫相手に、奥さんの話題を出されることほど情けないものはないと思っていただけに、なつみはわざと奥さんのことを話題にしない村山が、いとおしいと思うようになったとしても、無理もないことだった。

――二人の世界は、誰にも侵すことのできない領域――

 という思いを抱いていて、その思いが不倫という後ろめたさを感じさせないものにしていたのだ。

 二人だけの世界を作っているのは、自分ではなく、村山だと思うことで、奥さんに対しての後ろめたさが消えている。しかし、村山の方は、二人だけの世界を作っているのはなつみだと思っていた。

 こちらも奥さんに対しての後ろめたさを消すためであり、同じ思いであっても、まったく違ったものだったのだ。

 なつみの方では、メルヘンチックな思いを抱き、二人だけの世界を妄想の世界に抱き上げ、悲劇のヒロインを想像していた。しかし、村山の方はもっと現実的であり、奥さんへの不満や家庭のストレスを二人だけの時間をなつみが作ってくれたと思うことで、発散させていたに違いない。そういう意味では、村山の方が感情的になりやすいが、冷めてしまった時は、あっさりとしたものだったに違いない。

 お互いの感情を一言でいうなら、なつみの場合は、メルヘン世界への逃避行のようなものであり、村山は不満やストレスからの現実逃避と言えるだろう。

 そんな感情の行き違いが、いつまでも続くわけもない。どちらかというと、現実的な村山の方から崩れてくるものだ。

 なつみの方も、メルヘンの世界への逃避行を続けているとはいえ、いつまでも夢見る少女というわけではない。村山の態度にまったく変化がなければ、このまま不倫は続いていたのだろうが、村山に落ち着きがなくなってくると、さすがになつみも自分の置かれている立場に気が付いて、冷めてくる自分にビックリしていた。

 最初こそビックリしたものの、冷静になって考えれば、どんなに綺麗なお題目を上げようとも、不倫に変わりはない。そう思うと、なつみは村山という男の本性を知るようになってきた。

 それまで身体の関係においては、主従関係の様相を呈していた。村山の望むことであれば、何でもしてきたし、これからもずっと慕っていけばいいと思っていたが、等身大の村山を見てしまうと、村山の気持ちがすでに、

――心ここにあらず――

 のように思えてきた。

 村山は会社の上司、このまま会社に一緒にいることはできないと思った。その気持ちは逃げ出したいという気持ちではあったが、まわりの目に耐えられないから会社を辞めるというものではなかった。

――もうここには自分の居場所はないんだ――

 と感じたのが一番の理由である。

 会社を辞める理由は、きっと会社の誰も知らないだろうと思っていたが、噂というものは、なつみが考えているよりも世渡りに敏感だった。いつの間にか給湯室での話題が、なつみと村山の話になっていることに、なつみは気づいていなかったのだ。もっとも、火のないところに煙が立つわけもない。やはり話題の出所は村山だった。

 村山の奥さんが、ひそかに会社で夫のことを「嗅ぎまわって」いたのだ。村山の奥さんの顔を知っている人はほとんどいなかったが、不審な行動というのは組織の中では微妙な存在は目立つもの。しかも、その人が組織の外の人間であればなおのこと、

――知らぬは当事者ばかりなり――

 だった。

 まさか、村山も自分の奥さんが嗅ぎまわっているなど、思ってもみなかった。一番ありえないと思っている人間には別世界の動きだったのだ。

 なつみも、自分のまわりを探偵のように嗅ぎまわっているなど思いもしない。ただ、奥さんに対しての後ろめたさがあっただけだ。

――まさか、そんなテレビドラマのような――

 最初、自分のことを社内の人が噂していることを知ったなつみも、その理由が自分たちのことを探っていた奥さんにあるなどと、想像もしていなかった。それこそ、テレビドラマの世界であり、自分がその立場になろうなど、思ってもいなかった。

 だが、なつみはそのことを知った瞬間、

――自分が奥さんの立場だったら、どうするだろう?

 と思った。

 夫に浮気された奥さんの心境を思い図るなど、土台無理なことだと思うのだが、想像せずにはいられなかった。できないとしても想像してみることが大切だった。何も考えなければ、先には進めない気がしたからだ。

 なつみにとって、奥さんはまったく知らない人だった。

 村山は奥さんの話をなつみの前では絶対にしなかった。なつみが嫌がるのを思ってのことだとは理解できたが、こうなってしまうと、

「どうしてしてくれなかったの?」

 と、文句の一言でも言いたいくらいだった。

 相手がどんな人なのかも分からず、ただ嫉妬に怒り狂った相手しか目に映らないのだ。どう考えても、贔屓目に見ることなどできるはずもなかった。

 なつみが頼れるのは村山だけになってしまったが、頼みの村山はすでに気持ちが萎えていた。それはなつみに対してではなく、奥さんに対してのことで、それまで慕っていた相手とは思えないほど、自信喪失が甚だしかった。

 相手の情けなさを見ると、怒る気も失せてきた。

――こんな人だったんだ――

 自分の見る目の浅はかさに、思わず苦笑を漏らすしかなかったが、ここまで来るとある程度開き直れるというものだ。

――会社を辞めることなんて、大したことじゃないわ――

 ただ、逃げ出すと思われるのが嫌なだけだった。

 しかし、もうこの会社に自分の居場所のないことをいち早く悟ったなつみは、未練も何もなかった。さっさと辞表を課長の机の上に叩きつけ、一刻も早く、この場から立ち去りたかった。いればいるほど惨めになることが分かっていたからだ。

 引き留める人がいるわけでもない。肝心の村山も、

「あの女が自分から辞めてくれて助かった」

 というくらいにしか思っていないことだろう。

 その思いは当たらずとも遠からじ、しょせん、それだけの男でしかなかったのだ。

 会社を辞めて、しばらくはゆっくりしていた。パートなどはしていたが、正社員で働こうという意思はなく、気が付けば、三十歳を超えていた。

 その間に付き合った男性はいない。

「もう男なんてまっぴらごめん」

 と、口では言っていたが、本当は好きになれる相手が見つからなかっただけだ。今でも同い年くらいの男性には興味が湧かず、どうしても年上にばかり目が行ってしまう。

――また、同じことを繰り返してしまうかも知れないわ――

 と思っていたが、考えてみれば、村山とのことは、相手が悪かっただけだと思えなくもない。

 なつみは、いくつ目かのアルバイトで、スナックに勤めた。水商売というものに抵抗があったわけではないが、それほどアルコールが強くない自分に務まるかどうか、それが心配だった。

 アルバイトと言っても、店のママさんは自分のおばさんに当たる人だった。おばさんがスナックのママをしていることは知っていたが、今まで行ったこともなかった。急に思い立って行ってみた時も、

――まさか、自分がアルバイトをしようなど、思ってもみなかったわ――

 と感じていた。

 しかし、やってみると、案外楽しいものだった。

 店の客はほとんどが常連さんで、ママと誼の深い人たちばかり、なつみに対しても決して無理なことをせず、会話も普通に弾んでいた。そのうちになつみを目当てに来る客も増えたが、皆紳士であり、今まで会社勤めをしていて、毎日気ばかり張っていた自分とは違う自分がそこにいることが何やらおかしくて、そんななつみの気持ちが分かっているのか、客も皆、なつみに対して一目置いていたくらいだった。

――元々会社勤めをしていたことが、皆には言わなくても、雰囲気で分かっているのかも知れないわ――

 なつみの前で仕事の話を誰もしなかった。なつみが以前会社勤めをしていたことは誰にも言っていないし、ママも話していないという。ママは、従業員の過去を話すことを嫌う人なので、話をするはずもない。そう思うと、この店の客層は決して悪いわけではないことは間違いないようだ。

 なつみがこのお店でアルバイトをし始めたというのは、元々ピンチヒッターのようなものだった。一人女の子が妊娠してお店に出ることができなくなったため、ちょうど職もなくフラフラしているなつみに声が掛かったのだ。

 ちょうどなつみもこの店に客として来ることがたまにあった。その時は常連さんと話をすることもなく、話をするとすればママと話すくらいだった。ママも心得ていて、なつみに他の客が話しかけないようにしていたが、客の中にはなつみのことを気にしている人もいたようだ。

「変なお客さんなら、あなたに声を掛けたりしませんよ」

 とママがいうように、紳士的な常連さんが、ママと親しくしているなつみのことを気にしていた。なつみもその人のことは意識していて、別に嫌いなタイプの客ではなかったので、なつみもまんざらでもない気分になっていた。

 しかし、村山とのこともあったので、なかなか男性と話をするには、まだまだ免疫ができていない。なつみも少し迷っていた。

「大丈夫よ。ここのお客さんで、なつみちゃんのためにならない人はいないと思うわ。もちろん、なつみちゃんが自分の目で確かめてからお返事をくれればいいからね」

 ということで、数日ほど、客として店を眺めていたが、確かにママの言う通り、お客さんはいい人ばかりだったので、

「じゃあ、よろしくお願いします」

 ということで、とりあえずは、見習いのような形で店に入ることになった。

 ただ、日々の客はそれほど多くなく、流行っているとはお世辞にも言えなかった。そんな状態で、

――自分などを雇って大丈夫なんだろうか?

 と考えてしまったなつみだが、

「時期的なものがあるのよ」

 と、ママが言っていた通り、しばらくすると、客が増えてきた。

 どうして急に客が少なくなったり増えてきたりしたのかは分からない。ママに聞いてもハッキリとした回答は返ってこなかった。

 しばらくすると、仕事にも慣れてきた。

 最初は会社での仕事が自分にとっての仕事だと思っていたので、自分に務まるか、不安だった。もっと言えば、スナックといえば水商売。

「職業に貴賎なし」

 という言葉はあるが、どこか自分の中で軽んじて見ていたのも否定できない。最初はなかなか馴染めなかったが、心のどこかで、

「自分は違うんだ」

 という思いが渦巻いていたような気がする。

 そんななつみの気持ちを知ってか知らずか、常連さんは優しかった。彼らには相手が誰であれ、分け隔てなく話をしてくれる器のようなものがあった。それに比べて、意識していないつもりでいたのに、どこか見下したような目で見ていた自分がいたことに気が付いたなつみは、自らを恥じたい気持ちになっていた。

 かなり馴染んできたと思ってきた勤め始めて三か月してからくらいのことだったが、近くの商店街でブティックを経営している店長が、面白いことを言い始めた。

 年齢的にはまだ四十歳前後というところだろうか。独立でブティックを経営しているなど、ビックリである。ビックリしたのは年齢だけではなく、その雰囲気もであった。見た目よりも若く見えるその雰囲気はブティックを経営している人に似合わないほど、あまり垢ぬけた雰囲気ではなかった。それでもラフな服装が妙に似合っていて、その雰囲気が、まわりの人を惹きつけるのだろう。

 彼のまわりにはいつも同じ商店街の仲間がいた。惣菜屋さんやお肉屋さん、青果のご主人と、皆さん二代目の方が多かった。単独で店を切り盛りしているブティックの店長に、皆一目置いていたのだろう。

 なつみも、その人には気さくに話しかけられた。一番気心の知れた人だと言っても過言ではないだろう。一度店にも寄らせてもらったことがあったが、その時も気さくに話しかけられた。

「いつもと立場が逆だね」

 と言って、笑顔を満面に浮かべたその表情に、ホッとしたものを感じさせられた。

――気が付けば微笑んでいた――

 楽しい気持ちになると、自然と顔がほころんでくるというのを、今さらながらに思い出さされた気がした。話をしている時は気さくなのだが、静かに一人で呑んでいる時もある。そんな時は珍しいだけに、話しかけるタイミングが必要なのだが、他の人と違い、自分の世界を作って、そこに入り込んでしまっている雰囲気がある。そんな時は、なるべく放っておいて、彼が話しかけられる雰囲気ができるのを待っているだけだった。

 だが、そんなことは本当に稀だった。店に客が他に一人でもいれば自分一人で内に籠るようなことはない。つまり彼の一人で考え込んでいる姿を見ることができるのは、ごく限られた人だけなのだと思った。

 そう思うと、なつみには彼の気持ちに一番近づくことができるのは自分なのだという思いに駆られることがあった。

――ひょっとしてこの想いって恋なのかしら?

 と感じるまで、かなり時間が掛かった。自分でもこんな思いになるということ、そして、こんな思いになったことに気づくまで、ここまで時間が掛かるとは思わなかったこと、そのどちらも不思議だった。

 そのどちらも知っているなつみは、自分が彼に恋をしたのかも知れないと思ったのも無理もないことなのかも知れない。

 店長の名前は柏木さんという。他の人はそれぞれニックネームで呼び合っているが、彼にだけは、ニックネームで呼ぶ人はいなかった。

――敬意を表しているのかも知れないわ――

 ニックネームで呼ぶのが恐れ多いほど、柏木さんに対してのまわりの信頼は、全幅に近いほど厚いもののようだ。柏木さんも、自分のことをどのように呼ぶかなどということは別に気にもしていない。むしろ、気にしている柏木さんの姿を想像できないほど、彼には大きなものが感じられた。

 柏木さんは、時々おかしなことを話し始めることがある。オカルトっぽい話が多いのだが、その時も、いきなり不思議な言い方からだったので、

「そら来た」

 と、まわりにいる誰もが思っていたのかも知れない。

「これは僕も人から聞いた話なので、どこまでが本当か分からないんだけど」

 という前置きをしていた。

 柏木さんがこのような前置きをして話を始める時は、意外とその話を信じていることが多い。

「どんな話なんですか?」

 まず、水を向けるのはママだった。

「僕は、この間から、願いが叶うという神社を探し求めているんだけど、なかなか見つからないんだ」

「願いが叶う?」

「ええ、皆神社にお参りするというのは、自分のお願いが叶うようにお祈りするためでしょう? もちろん、僕もそうなんだけど、本当に願いが叶うなんて、どれだけの人が真剣に信じているのかって思うんですよ」

 確かになつみも、神社でお参りをする時、願い事を絶対にする。しかし、それも願いが叶うというよりも、平凡に暮らしていけることを願っていたりすることが多い。消極的だと言われるかも知れないが、消極的なことしかお願いしないということは、それだけお祈りの信憑性に疑いを持っているかということの裏返しであろう。

「でも、誰もが願いが叶うと思ってお参りするんですよね?」

 と、他の人が話に入ってきた。

「いや、そうとは限らないんじゃないかしら? 初詣だって、新年の行事として皆が行くから、自分も行くんだって思っている人もいると思うのよ。お参りは二の次、皆と出かけるというところに意義があるように思っている人もいるんじゃないかしら」

 というのは、ママの意見だった。

 なつみは、どちらかというとママの意見に賛成だった。しかし、それを自分から口にすることは避けた。

 それは、どこか神様を信じている自分がいて、バチガ当たるのを怖がっているからではないかと思っていた。神様がいるかいないかは別にして、

――バチが当たることの方が問題だ――

 と思っているのは、なつみだけではなく、案外たくさんいるのかも知れない。

「確かにそうかも知れませんね。でも、僕はそれだけではないような気がするんですよ。お参りをする人の中には、バチを与えないでほしいという願い事をしている人もいるかも知れない。後ろ向きな考えではあるし、現実的な話でもないけど、僕はお願いというよりもお祈りという意識を持ってお参りしている人なんじゃないかって感じるんですよ」

「お祈りとお願いは確かに違いますよね。私にはお祈りは、自分対して保守的で、逆にお願いは、前を見ているように思う。バチを与えないでほしいというのは、お祈りなんでしょうね」

「でも、祈願という言葉はそのどちらも入っています。あまり厳密に分ける必要なんてないんじゃないですか?」

「じゃあ、願いが叶うというのは、前向きなお願いだけが叶うんでしょうかね?」

「そこまでは分かりません。私も人から聞いた話ですからね」

 と、柏木さんは言っていたが、

「本当にそんなところがあるのなら、ぜひ行ってみたいものだ」

 それまで喋らなかった人がポツリと答えた。この人が答えると、その場が盛り上がっていたとしても、一気に冷めてしまう。逆に言えば、彼が口を出した瞬間から、話題性としてはピークを越え、ここから先はシラケていく一方だった。

 それまで、どれくらいの時間が掛かったのだろう? あっという間だったような気もするし、かなり時間が掛かったようにも思う。ただ言えることは、その間に話題はさほど膨れ上がったわけではない。ピークから冷めるのも、一気に風船が萎んでしまった時のようだった。

 話としては、取って付けたようなところがあり、とりとめもないような話題であったが、どこか気になるところでもあった。こういう話は、最初に掴みがなければ、なかなか継続するものではない。それをさらに話題を深く掘り下げるようにするのだから、言いだした柏木の話術が長けているのか、この場の雰囲気が話題を盛り上げたのか、それとも、まわりが皆興味を引かれたのか、どちらにしても、柏木さん主導の話には、いつもどこか光るものがあるのだ。

 この時の話もそうだった。しかし、途中で水を差されることは分かっていたので、どこまで話題が膨らむかというのも興味深かった。それでも、なつみの心に響くものがあり、しばらくは忘れることがないように思えてならなかった。

 水を差された形になると、決まってすぐに柏木さんはお勘定を済ませて、寂しそうに帰っていく。

「それじゃあ、お勘定」

 と言って、その日もすぐに柏木は席を立って表に出ていったが、その背中には哀愁は感じられなかった。ある意味楽しそうにも感じられたほどだ。なつみはその時の柏木の後ろ姿が、しばらく忘れられなかった。

――自分も近いうちに、同じような目で誰かに見られるような気がするわ――

 と感じていた。

 なつみは、人から自分の後ろ姿をどのように見られているのだろうかということを、時々感じることがあった。チクチクと針で刺されるような痛みに似たものを感じたことが何度かあったからだ。

 しかし、それは一時期に集中していて、それ以外の時は、ほとんどそんなことはなかった。それなのに、まだ継続しているように感じるのは、それだけ後ろからの視線に対して、恐怖のようなものを感じているからだろう。

――後ろから刃物で刺されたらどうしよう――

 というような恐ろしさと、

――後ろを振り返るとロクなことがない――

 という、聖書の中に出てくる、

「ソドムの村」

 の話を思い出した。

「決して後ろを振り向いてはいけない」

 と言われて、余計に気になったことで振り向いてしまったがために石になってしまったという話である。人間の傲慢さと、さらには、心の弱さの両面を浮き彫りにするような話だったが、やはり聖書というのは、戒めの色が濃い書物ということなのだろう。

 柏木が出て行ってから、余計にこの話が気になってきた。

「探してみようかしら?」

 と、自分では声に出していないつもりだったが、

「迷信かも知れないわよ」

 と、ママさんに言われた。

「私、今声に出して言いました?」

 と聞いてみると、

「いいえ、でも、あなたを見ていると、興味津々な思いが、柏木さんが出て行っても消えていないのが分かるのよ。きっと、探してみようって感じているんじゃないかしらってね」

「ええ、その通りです。よく分かりましたね」

 きっと、カッと見開いた目でママさんを見つめていたのだと思うが、ママさんは臆することなく、こちらを見ている。

 別に睨み返しているという雰囲気でもない。穏やかな表情には、まるで聖母マリアを見ているような感じさえした。

――ステンドグラスのその横に立っている聖母マリアの像を思い出すようだわ――

 クリスチャンというわけではないが、子供の頃に見た記憶があった。いつどうして見たのかという記憶はなかったが、繋がらないだけで、しばらくすると、思い出せそうな気もしていた。

――さっきのお話しも祈願だったけど、聖母マリアにも子供の頃、何かをお願いしたような気がするわ――

 と思えてきた。

 あの時も、聖母マリアの像を見上げていた時、誰かに、

「願い事をすれば、叶うかも知れないよ」

 と言われた気がした。

 疑いもせずに聖母マリア像に向かって手を合わせた。お祈りの仕方も分からないので、そばにいる人のまねをしてお祈りをしたものだった。大人になると、宗教に対して警戒心が生まれたせいか、今ではそんなことはしないだろうと思いながらも、何かあると、時々聖母マリアの像を思い出していた。

――柏木さんのお話を聞いていると、案外、目指す神社は近くにありそうな気がするわ――

 と感じていた。

 表向きは普通の神社なのだろうが、地元の人にとっては、霊験あらたかな神聖な場所に違いない。本当は地元なら知っているのだろうが、霊験あらたかを信じている人にとっては、興味本位でやってくる連中に、騒がれるのは決して本意ではないだろう。地元の人に聞くのは、得策ではない。

――では、どうすれば見つけることができるのかしら?

 観光ブックに載っているわけでもないだろうし、頼みの綱としては、ネットで調べるというのも、一つの手かも知れない。しかし、ネット上ともなると、不特定多数の人が、広域から入り込んでくる。どこまで信憑性があるのか、信じられるところではない。しかし、それでもとっかかりがない以上、ネットに頼るしかない。少なくとも範囲はこの近くに限ってみればいいのだ。遠ければ遠いほど、行くまでに気持ちが萎えてしまいそうだ。やはりこの時点ではまだなつみは、興味本位でしかなかったのだ。

 なつみは、その神社を当てもなく探し続けたが、考えてみれば、何を祈願するというのだろう? 漠然としてしか考えていなかった神社探し、それなのに、気が付けば一生懸命になっていた。それはまるで見つけなければこの先の自分の人生がないとでもいうかのようであった。

 今までの人生を省みると、なつみの人生には失敗が多かった。

 その原因は、

――人のいうことを信じすぎること――

 の一言に尽きるのではないかと思えるほど、人の言葉に左右されやすい性格だった。特に小学生の頃はひどいもので、

――どうして、あんなことを信じてしまったのだろう?

 いくら子供でも信じられないと思えるようなことも、信じてしまっていた。

 今ではその一つ一つを思い出すこともなくなってきたが、たまに夢に見て、目が覚めると汗をグッショリと?いていることも少なくなかった。

 目が覚めてから覚えている夢というのはそれほどあるものではないが、怖い夢はえてして覚えているものだ。

――どれが怖い夢なのか?

 と、どこで線引きをすればいいのかも曖昧だが、目が覚めて忘れてしまわない夢のほとんどが怖い夢なのだという意識は持っていた。

――楽しい夢は目が覚めるにしたがって忘れていくが、怖い夢は目が覚めても忘れることはない――

 という夢に対しての認識を持ったのは、この頃だったように思う。少なくとも覚えている夢は限られているので、本当に夢を見た回数に対しての頻度がどれくらいのものだったのか分からないが、中には、夢を見たという意識すらなかったことも多かったのではないかと感じている。

「夢というのは、目が覚める寸前に少しだけ見るものらしいよ」

 という話を聞いたことがあったが、その意識を持ったのはごく最近だったように思う。だから、それまでは、

――夢というのは、眠っている間、ずっと見ているものなんだわ――

 と思っていた。

 ただ、目が覚めるにしたがって、夢がおぼろげになってくることを感じるようになってから、

――夢を見ている間は、案外短いものではないか?

 と思うようになった。

 人から聞いた話と、自分が感じたこととで辻褄が合うようになったのが、どちらを先に意識したのかと言われると、その部分も曖昧だった。だが、自分で最初に感じていたからこそ、人の話に信憑性を感じることができたのだから、そういう意味では、意識することの方が先だったと思うのは自然なことであろう。

 そんななつみが、ついつい人のいうことを信じていたというのは、それだけ自分に自信が持てなかったということなのかも知れない。

――まわりの人たちにできないことを、私ができるはずはない――

 という思いを強く抱いていて、心の底で、

――他人と同じでは嫌だ――

 という思いが根底に渦巻いていることを意識していたはずなのに、心の中に矛盾が生じていた。

 どちらが自分の中でリアルな発想かといえば、自分に自信のないところであろう。自分に自信がないから、逆の発想として、他人と同じでは嫌だという発想が生まれてきたに違いない。だからこs、人と違うことを自分ができる自信もなかったし、ついつい人を信じてしまう。ただ、その心の裏には、

――自分で判断したんじゃないから、もし失敗しても、自分は悪くないという思いを抱くことができる――

 という思いがあった。

 それは逃げの発想であり、自分が臆病だということを、露呈しているにすぎなかった。

――いや、それはわざとだったのかも知れない――

 まわりに対して自分が臆病な人間だと思わせることで、自分には無理なことをさせないだろうという発想がなつみにはあった。

 確かに重要なことをさせられることはなかったが、そのため、雑用ばかり押し付けられた。まるで、「パシリ」のようなものではないか。

 自分にとって惨めなことは分かっていたが、惨めなことでも時間が経てば慣れてくるものだ。臆病者というのは、慣れに対しての免疫があるようで、悪いと感じる時期はごく短いものだった。逆に自分がその場に馴染むことが慣れというのであれば、順応性が高いことをいいことだと思えなくなりそうで、頭の中でまたしても、矛盾をこしらえてしまうことになってしまう。

 人を信じてしてしまったことで、結構痛い目に遭ったのを覚えている。自分がやったわけでもないのに、逃げ遅れたせいで、自分一人が悪者になったこともあった。

「皆が助けてくれる」

 と思ったが、結局誰も助けてくれなかった。

――自分一人が悪者になることがこれほど惨めな思いをすることになるのか――

 という思いもあって、

――もう、誰も信じない――

 と思うのだが、ほとぼりが冷めた頃になって、

「あの時はごめんなさい」

 と、皆から謝られたりすれば、

「いいのよ。私、気にしていないわ」

 と答えるしかなかった。

 謝罪のタイミングも絶妙だった。もう怒りも収まった頃で、

――嫌な思いは忘れよう――

 としていた矢先に、謝ってくるのだから、こちらもむげにはできないというものだ。実に巧妙である。

 もちろん、気にしてないなどウソに決まっているが、それよりも想像もしていなかった時であり、ほとんど諦めかけていた時に差し込んできた巧妙だと思うと、嫌な気がするはずもない。それまでのいきさつをすべて忘れて、

――皆を許そう――

 と思うのだった。

 許してあげると皆は感動してくれる。それを見ることで、なつみは有頂天になってしまって、実はこの瞬間が、一番危ないという意識をまったく持たないまま、相手の術中にはまってしまうのだった。

 有頂天になると、本当にまわりは見えてこない。

 何しろ今まで上ばかり見てきたのだから、今度は上を見ても、見えるのは空ばかりだ。そんな状態が有頂天であり、見なければいけない足元を見ていなかったことで、足元をすくわれることになるなど、想像もしていなかった。

 結局同じことの繰り返しである。人を信じることから初めてしまうのだ。その時は自分が臆病だなどと思いもしない。気が付けば自分だけが置き去りにされて、自分一人悪者になってしまうという、人身御供の心境に陥るのだった。

 同じことを懲りずに繰り返してしまうのは、

――いつもひどい目に遭うが、決定的なひどい目に遭っているわけではない――

 という思いがあるからだった。

 それゆえに同じことを繰り返してしまう。だが、逆に言えば、

――本当のひどい目に遭っていないのだから、好運でもある――

 と言えるのではないだろうか?

 その頃、一度、神頼みを試みたことがあった。神社に通い続け、お百度参りのまねごとをしてみたこともあったが、

――しょせん真似事ではうまくいくはずもないわ――

 と、半ば諦めていたが、それでも途中で止めるのは嫌だったので、神社へのお参りは、定期的なものとなっていた。

「やっぱり、好運だったのかしら?」

 そのうちに自分だけが置き去りにされ、悪者にされることはなくなった。

――これが神の御加護というものなのかしら?

 と思ったが、実際には、ターゲットが他の人に移っただけだ。だが、なつみから見れば自分への攻撃がなくなったのだから、ご利益があったと見ていいだろう。その頃から、少しずつ神の存在を心のどこかで意識するようになっていたようである。

 ただ、そんなことを思ったのは、中学生になってからの、実に短い時期だった。

――思い過ごしだったんだわ――

 と感じるほどの、ごく短い時間のことであり、それからは、神も仏も気にすることはなくなっていた。

 短い時間、ひたすらお百度参りをしただけで、お参りすることがどのようなご利益をもたらすのか、あるいは、お参りに際しての礼儀作法など、一切知らなかった。我流というお参りだけで、何が変わるというのだろう?

 そのことに気づいたことで、神頼みはやめた。それでも、正月には初詣を欠かしたことはない。誰かと一緒に行くのであれば、ただの年中行事の一つとして行っているだけだが、いつも一人で出かけているのは、心の中で、まだどこか神様を信じる心が残っていたからなのかも知れない。

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