第20話
(泣かないで)
と、目を開いて最初思う。目覚めてすぐのこと。
目の前にユリウスがいて、すごい顔をしていた。眉が吊り上がって、噛み締めすぎたのか口元が歪んでいる。膝に乗った手は拳の形、握りしめて指の根本まで白い。
泣いているのかと思った。けれど彼は涙を流してはいなかった。
いつもそうだった。涙を流さない。こらえてこらえて、それが普通になってしまっている。
マイヤは手を伸ばした。手首の腱がねじれたため、固定されている。あの治療師は腕がいい。痛み止めの薬草まで使ってくれて、きっとすぐ治るだろう。この治療院をアマルベルガが知っていたこと、見つけられたことは幸運だった。
「大丈夫、大丈夫」
皮膚が硬くなり始めた少年の拳を姉の傷ついた手が撫でる。一瞬遅れて、反対の手をユリウスはマイヤの手の上に重ねた。
「ほんとに……?」
「ええ、平気よ」
「ほんとに平気か。誤魔化してないか」
マイヤはぐらつきながら上半身を起こした。ユリウスの手がそれを支えた。
この治療院に運び込まれたとき、夢うつつの状態ながらもなんとか意識はあって、記憶もある。治療師から受けた説明のことも。
擦りむけた傷、いくつかの打撲、なんとか骨折はしないですんだ。それから足首の傷口は深かったが、不幸中の幸いで鋭いガラス片にやられたのであるから、綺麗に洗って浄化魔法の札で撫でて、清潔な布でくるめば病気にもならないですむこと。説明を聞いて、自分が安心したこと。
そういったことをひとつずつ、水を飲ませてもらったりそれにむせたりしながら、丁寧に弟に話して聞かせた。
「あの人たちは? 私をここまで連れてきてくれた人」
「ああ、さっき話した。アマルベルガ――さんは、まだここにいるのかな。グリーグさんは裏庭にいるよ。眠そうだった」
「あの人、ご無事なの。よかった」
ユリウスはしげしげとマイヤの白い顔を見つめた。この姉が話に聞いた勇敢な行いをしたのだとは、いまだに信じがたい。だが身体じゅうの傷が二通りあることを、長くもない冒険者生活の中でユリウスは見分けられるようになっていた。ものによってできた傷と、人相手にできた傷。
いたましい気持ちで姉のあちこちに巻かれた包帯をなぞる。
「なんで……そんなことしたの」
「何?」
「彼と、流れ者どもの間に飛び出したって聞いた。どうしてそんなことを?」
「どうしてって……」
マイヤはひどく立腹したようだった。
「人間として当たり前じゃない。あの人はもう寿命が短いのよ。岩になりつつあって、動けないの。そんな人を寄ってたかって――」
「そんなことを言ってるんじゃない」
自分で思ったよりも低い、脅すような声が出たことに一番戸惑ったのはユリウスだった。マイヤがきょとんと目を丸くする。怒られてるの、私? 弟に?
「姉さん、それがどれだけ危険なことだったかわかってるのか? ろくに力もないのに。武器さえ持っていなかったくせに。俺を遺して死にたかった?」
マイヤははっと息を呑む。間違いなく、彼女にそんな意識はなかったのだろう。
「ちが……」
「違わないよね。俺のこと忘れるくらい、死にたかったと言われても。何も違わない。俺のことどうでもよかったんだ?」
「そんなわけないじゃない」
声は震えていた。
「ユリウス、あなたが私の世界で一番大事」
「じゃあ、二度とこんなことしないでくれよ」
隣の寝台の泣き声はもうやんでいた。ばたんばたん、表の扉がひっきりなしに開閉し、そのたびに怪我人が運び込まれてくる。金のある怪我人は医者がいる病院にいく。そこでは最先端の魔法医療が受けられる。金のない怪我人はこうして治療院に来て、できるだけのことをしてもらい、ただ結果を受け入れる。痛みと悲しみが治療院には溢れている。
ユリウスはマイヤの頬をなぞって、つとめて平静を保とうとした声で、
「次、何か大きなことをしようとしたら、俺のことを思い出すと約束してくれ、姉さん。こんなこと二度としないで。二度としないで。もし――」
息が詰まった。
「あんたが他人のために命がけで戦って死んだなんてことになったら、俺は戦った相手も、その守られた人も殺すから」
マイヤは瞬きをした。それから重々しく、神から啓示を受けたただの人が重たすぎる使命に困惑するように、頷き、毛布とユリウスの手を固く握りしめる。
「わかった……ええ。わかったわ」
ユリウスとしては、自分が何を口走ったのかの自覚もない。それに意味があったとも考えられない。十六歳の少年は、ただただ姉の無鉄砲と向こう見ずが怖かった。まるで一度決めたら猪突猛進して、エルフの落とし穴に落ちる猪のようだった。
恐ろしくて恐ろしくてたまらず、家族を失ったかもしれない悲しみ、傷ついて横たわる姉を目にした衝撃さえうまく逃がせない。
ここは治療院で、他人や職員の目がある。ここがもし安心できるコヤの家の中だったとしたら、ユリウスは自分が何をしでかしていたのだか、見当もつかない。今でさえとんでもなく馬鹿なことを口走ったのだという自覚はある。
隣からかたこと音が聞こえてきた。扉の向こうで嘆きの声が上がった。
――聞きたいことが山ほどあった。だが不用意なことを口にして、凍り付くマイヤを見たくはなかった。だから無難なところから、
「姉さんを助けてくれたのが、あー、その。アマルベルガ、さん?」
「ええ。アマルベルガさんは魔法使いみたい」
「そうは見えなかったけど」
「でも、そうとしか説明がつかないの。私の目の前で狼に変身して、そして人を食い殺したのよ」
「狼に?」
変身魔法は高等術である。
ユリウスはマイヤに身を寄せ、訪ねる。
「幻術じゃなく、本当に変身してた? 幻術なら靄のようなものだから、その狼の牙は何もかみ砕けないはず」
「いいえ、本当に変身だったの。私の目の前だったもの、見間違えないわ。人が死んだの」
姉はあんなことがあったにしては元気そうで、けれどそれが実際にあったことを受け止め損ねた果ての空元気だとユリウスは知っている。げんに今朝までの自分がそうだったのだから。
なんとなく高揚した気分だろうマイヤは、なぜか夢見るような、痛みを忘れた顔をする。
「強い人だった。あんな力があったら、なんでもできるのでしょうねえ」
ユリウスはそんなマイヤにため息をつくのだった。夢見がちで世間知らずで純朴で、何もできないマイヤ。それがそのまま彼自身にも当てはまると、少なからず自覚しているからこそ耐え難い。
「マーネセンに運んでくれたのも、彼女?」
「ええ、そうなの。私はあまり覚えてないんだけどね。惜しいことをしたわ」
「信じられないな」
「でも、そうなのだもの」
ユリウスはひとつずつ頷きながら、一番聞きたいだろうことを言えないでいる。マイヤはそれがわかる。言葉は唐突にまろび出た。
「父さんと母さんは死んでしまった……」
と、言った。手を握り合いながらふたりの間で事実を共有した。
目から涙がぽろぽろこぼれ落ちて、ようやく、マイヤはそれを受け入れることができた。今でもまだ、コヤまで戻れば家があって、父母がいるような気がしている。そうではないことを知っているのに、頭のどこかで何もかも悪夢だったんじゃないかと考えている。
そんなはずないのに。
ユリウスは頭をマイヤの肩口に預けた。
花の香りにまみれていたはずのそこは、今は埃と血と泥の臭いがする。けれどそこはいつもそうだったように、ふわふわと女の柔らかさでもって彼を迎えてくれたのだった。大丈夫、きちんと大事な姉の匂いがする。
マイヤの方もこてんと首の力を抜いて、弟の頭に預けるようにする。
汗をかいて洗っていない若い男の、ユリウスのにおいがする。得体の知れない魔物の体液のようなものが銀髪に飛び散って、乾いてぎざぎざになる頬を刺す。そこにぼたぼた涙が落ちる、また落ちる。
両手を握り合ったまま、そうしてお互いの体温を確かめあっていた。ユリウスは時折嗚咽し、すすり泣きの声を立てたが、やっぱりその瞳は乾いたままだった。
やがて彼らは向き合って目を合わせた。ユリウスが泣けない代わりに泣いたマイヤと、マイヤが声を上げられない代わりにそうしたユリウスと。いびつながら補い合ってきたふたりだった。
やがて涙をおさめて、そうしたくはなかったけれど、なんとかそうして、ぽそぽそとふたりで今後の展望について話した。
「早く……コヤに戻って、父さん母さんの弔いをしないと。遺体は誰かが埋めてくれる、と信じたいわ。でも、やっぱりこの目で見るまでは心の整理ができない」
「女神様の神官は来てくれるか――いや、俺がなんとか相談役のじいちゃんとかに聞いてみるから」
「あのおじいさん、亡くなったわ。煙で息が詰まって」
「そうか……」
簡潔にユリウスは意見を述べた。
「なるべく早くコヤに戻ろう。俺は金を稼いで、貯めるから」
マイヤは頷いた。
「ごめんね。私も早く身体を治すから。どこか働かせてもらえたらいいけど」
日々の仕事が少しでも滞るとたちまち金銭問題に直面する、彼らはそういう階級の人間だった。
コヤに帰るなら歩いて帰るのか、マイヤの怪我はどうなる。ご領主様は乗合馬車の事業を継続してくださるだろうか。
マイヤは無一文だ。家からは何も持ち出せなかった。
ユリウスも他の冒険者見習いと同じように、実入りが少ないときはダンジョンでの植物採取だの街での新聞配達だので少しでも金を貯めた。冒険者は、とくに安宿に留まるばかりの見習いなんて、一度でも風邪をひいたら一巻の終わりである。心もとない貯蓄でどこまでできるか、不安はつきない。
小声で耳に囁き合うように話し終えてしまうと、ユリウスはふらふら立ち上がり、
「決めなきゃいけないことがいっぱいあるな。俺、ちょっと信頼できそうな人に相談してみる」
「あんまりよその人にこっちの内情を触れ回るのはよくないわ。するならコヤの人にしなさい」
いらっ。と、した。ユリウスは。
けれども寝台の上の姉が包帯まみれなので、それ以上は言えなかった。いまだにコヤにこだわるなんて、姉さんは姉さんだなと確認できて、安心した気持ちもあった。
とにかくまた来るから、と言い置いて、後ろ髪を引かれながらユリウスは治療院を出た。治療師に支払った前金で、ずいぶんと懐が軽くなった。
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