第21話


***



さて、ユリウスは考えこみながら足早に道を歩く。ところどころ剥がれた石畳は、元からこうだったのか魔物のせいでこうなったのか。裏道には徐々に人が戻りつつあった。時折、小さな影がぱっとよぎっては、


「あっゴブリン!?」

「目を見ろ、目を見ろ! 俺は黒い目だぞ、金じゃない!」

などという一幕もある。


裏の裏、娼館やいかがわしい占い館の並ぶ細い道の先では、

「あたしは人間よッ! しっぽがあるからなんだっていうのよォ!」

と、こんなときなのに酔っぱらって叫ぶ女もいる。


平静通りとはいかないまでも、人も亜人もまぜこぜのいつものマーネセンが戻りつつあった。けれど人々は忘れないだろう、あの日のマーネセンで私刑が横行しかけたことを。止める者がいなければ、そしてその数が少しでも少なければ、虐殺に発展しかけたことを。


ユリウスは近道をしようと、古い崩れかけのアーチの下の道を選んだ。もう使われていない小人用の小さな橋で、干からびかけたコウモリが何匹もぶらさがっている。日の差さない薄暗い路地にさしかかり、


(マイヤはもうアマルベルガには近寄らせない。魔石の話も気にかかる。グリーグさんはこれからどうするんだ? ダンジョンの最奥って? どうしてダンジョンが光って、……どうしてうちの親は死んだんだ?)


あまりにも熱心に考えこんでいたので、反応するのが遅れた。


「やあ、王子殿下」


と、そいつは言った。複数の建物と、いつからそのままなのかもわからない洗濯物の影が落ちた暗がりの、黄色いレンガの瓦礫の上に腰かけていた。


座っていてもわかるほど背の高い男だった。簡素な平民のようなチュニックとズボン姿だが、腰帯には短剣がある。こっくりした豊かな土の色の髪、青い目はユリウスと同じ色。優しそうなたれ目だが、その光はぜんぜん優しくない。


ユリウスは立ち止まり、そっちを見て、時間が止まったかと思った。その男の顔を知っていたからだ――けれど、具体的にいつ、どこで見たのか、それが誰だったかはわからない。


突然、からっとした笑い声を男はたてる。


「あはっははは。ごめんごめん、やっぱりびっくりするよなあ? なあ? 俺の顔には見覚えがあるだろう? 俺も、お前の顔を見たことがある」


男は暗がりから出てきた。蛇に睨まれた蛙のように、ユリウスは硬直している。自分の短い息の音が耳に刺さる。


「お久しぶりです、ユリウス殿下。カーレリン王国の崩壊後、行方不明だと聞きましたが――まさかこんなところでお会いできるとは! このギルベルト・フォン・イグニツェルン、感激しきりでございます」


ギルベルトと名乗った男は優雅に頭を下げた、ユリウスに向かって。前に出された左腕は太く、剣を握る手をしていた。


顔を上げたときには優雅さのかけらもない。黒に近い土色の髪がしゃらんと後ろに流れる。後ろでひとつに束ねて括る、赤いリボンが洒脱だった。


「――ってな! はっはあ! もうない国の礼儀作法なんて何の意味があるんだか。なあ? ユリウス。お前、今までどこにいたんだよ?」


顎をしゃくってユリウスの後ろを示す。今来た道の方を。


「あの女、何? お前の女?」


身体じゅうの血がざあっと下がって、ユリウスは生まれてはじめて立ち眩みがした、と思った。実際のところ彼はぴくりともしなかった。ただ拳に刺さる爪の感触が、靴の裏で感じる凹凸の石畳がよすがだった。


「――誰だ、あんた」


と、ユリウスはギルベルトを睨みつける。


「俺はあんたなんか知らない」

「おいおい、笑えないぜ」


男の青い目がだんだん白くなっていき、きっと今の俺も同じ色をしているんだろう、とユリウスは思う。


「お前が何も覚えてないってなら、それでもいいさ。小さかったもんなあ! ちっちゃなユリウスくん。王宮の愛玩動物。――じゃあカーレリンはどこに行けばいい? お前が知らぬ存ぜぬで逃げるんなら。カーレリンの誇りは、死んだあいつらの無念はどこに行くっていうんだよ?」


「何を言ってるか意味がわからない。俺は本当に知らない――いつのことを言ってるんだ? カーレリン? もう十年以上前に滅びた国の話なんて。俺は六つだった。覚えてるわけがない」


ギルベルトの目が徐々に青さを取り戻していった。


「まさか、本気か? 忘れちまったのか、全部?」

「だからっ、言ってるだろ!」


腕を取られそうになったので、ユリウスは慌ててギルベルトから距離を取った。大人の男の前では、少年の抵抗など意味などないのかもしれないが。


「ふむゥ」

と、唸り声を出してギルベルトは考えこむ風情である。顎に手を当て、


「それはちと、困ったことになったな。お前を見つけたって言われたときは、始祖イシュリアのお導きと思ったが」


ギルベルトはにっこりユリウスに微笑みかける。驚くほど人好きのする、爽やかな好青年の笑顔だった。


「じゃあお前、この俺の顔を見ても何も思わなかったんだ?」

「そ、れは……」


確かに。それは確かに、ざわざわと胸がざわめくのをユリウスは感じていた。

目の前の男の顔を自分は知っている、という既視感と、だがどこで見たのか思い出せない不快さ。


「そうだろうそうだろう。俺の顔はお前の父親に生き写しなんだ。我らが父君、愛すべきハインリヒ六世王陛下」


「何、言ってるんだ。俺はそんな奴知らない」


「俺はな、ハインリヒ六世がたわむれに手を付けた侍女の私生児なんだよ。うん。母の実家に、いつか何かに使えるかもしれないと育てられたが。俺があんまり役に立ったことはなかったなあ」


あはは、あっけらかんと笑うギルベルトは恐ろしい。ユリウスは知らない過去が追いかけてくるような気さえする。


「姉さんに何する気だ?」

「へえ、姉貴なの。あれ。どこの部族民だよ? このへんの人間じゃないだろう」

「コヤの民だ!」

ユリウスは叫んだ。


「俺も姉さんも、れっきとした【大森林】の恵みを受けた街の人間だ! お前なんか知らない! 急に出てきて、なんなんだよ!!」


ギルベルトはへらりと両手を広げる。小ばかにした仕草だった。


「おお、怖い怖い。わかったよ、悪かった。――何も、覚えてないんだもんなあ!」


ユリウスがじりじり後ろに下がると、ギルベルトもすり足で同じだけ前に出る。


馬鹿にされていることは明確、だが互いの実力の差は立ち姿で理解できるから、不用意なことはできない。


ギルベルトはユリウスが下がれば下がるだけ、距離を詰めた。だがそれを突然やめた。


「――まあいいか」

途端に興味をなくしたようである。青い目のはじっこで白さがちりちり、火の粉のように燃える。


「覚えてないってんじゃ仕方ないな? んん?」

鼻にかかった笑い声を漏らし、


「うん、じゃあ俺からはコトヴァのじいさんにこう報告するとしよう。みんなの大事な王家の生き残り、最後の希望は自分の責務を何もかも忘れて楽しく小市民を満喫してました! ってね。あの老狼、さぞかし目玉をひん剥くだろうよ」


ギルベルトは黄色いレンガを蹴って、ふわりと建物の上に上がる。梯子もなしに。なにか魔法の手助けがあったのだろう。


「気を付けとけよ。あのジジイは諦めてないからな。カーレリンのことも、王家のことも」


それきりであった。彼の笑い声が消えるまで、ユリウスはかたくなに動かなかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、けれどギルベルトの言ったことが反響する。


「俺はアルフォンソとフランチェスカの子だよ……」


と、誰も聞いていないと確信できてからようやく口にしたが、果たして今まで自明の理だと思っていたことがひっくり返っていないと、言い切ることはできなかった。誰だってできやしない、そんなことは。


「姉さんは確かに養子だけど、そんなのみんなわかってたけど」


だって容貌が違いすぎる。青い目の夫婦からどうして黒い目の子供が生まれる。でもそんなことはどうだってよかった。コヤの街の人間たちだって、もちろんユリウスだってわかっていて、受け入れていた。


「……俺が? なんで俺が?」


彼は両手で銀の髪をかき回す。ギルベルトの青い目が忘れられない。


人からひそひそ噂されるのは、どんな事情があるんですかとあるはずもない秘密を疑われるのは、だから守ってやらねば生きていけないのは、マイヤの方のはずだったのに。


「王子? 王の子? なんで、俺が?」


今更になってだくだくと冷や汗をかいていた。日の光の差さない路地裏で、ユリウスはぐったりと項垂れ力なく首を横に振る。


「どうして俺なんだ?」

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