第19話


さやさや風が吹くと、今まさに姉がこんこんと眠っており傷を負っていることが嘘のようだ。のどかな昼下がりにたわむれに亜人の話を聞いている……ユリウスはこんな自由がほしくて冒険者になったはずだ。亜人と口をきいたからと教師にぶたれるコヤの街がいやだったはずだ。


「探し、探して歩いているうちにすっかり何年も過ぎた。もうこの足では故郷の山は登れない。私は帰れなくなってしまった。もはや娘に会うことだけが希望だった。そして魔物がやってきたのだよ」


「あの、ダンジョンが爆発したときのことだね?」


トロールが深いため息をついて黙り込んでしまったので、ユリウスは一瞬、彼が老衰死したのかと思ったほどだった。


「あれはしてはならないことをした末路なのだ」


トロールの息は森の風だ。


「誰かがあの塔に忍び込んだのだ、不正規な手段で。そして核となる魔石を盗み取ったのだ……ああ、恐ろしいことを。ダンジョン最奥の封印が解かれてしまったのだよ。許したまえ森の女神よ。山の王よ。魔石の生みの親、グリモアの所持者よ」


「な、なんだよそれ? 聞いたことないぞ。最奥の? 封印? どういうことなんだ。最上階には昔の王の秘宝が眠ってるんじゃないのか」


「ちょっとお黙りなさいな、ユリウス。彼の話の続きが聞けないわ」


少年が不承不承口を閉じると、老いたトロールは再び話し出す。


「魔物から身を隠す手段は山で学んでいた。しかし人間たちへの備えはしていなかった。通常であれば私ほど大きなトロールなら、人間に襲われることはない。君たちでは私は傷つけられないのだから。私がこれほど年を取り、皮膚も弱って鎧が欠落していなければきっと抵抗できただろうに」


アマルベルガは口元に手を当て、考え込む様子である。


「朝方のことだった。私はマーネセンへ続く王の道のはずれで、少しの休憩を取った。そこで人間の若者たちに襲われ、マイヤが、彼女が助けにきてくれたのだよ」


「まさか」


ユリウスは呆けた。……あの姉が? 十五歳になっても虫が出るたび父を呼びつけていた姉が? コヤの街の価値観に染まり切って、母と一緒に隣近所の悪口にあんなに楽しそうに興じていた、あの田舎くさくて冴えない姉が?


「まさか、ではない。あの子は立派だった。かなうはずはないのに、私と若者たちの間に立ちふさがって守ってくれた。トロールは命の礼は返すものだ。決して忘れず、なんとしても一族にこの恩のことを伝えよう。きっと他の者も私と同じか、それ以上の敬意を持って彼女を扱うことだろう」


「これはほんとうの話よ」

とアマルベルガはユリウスを見据え、レースの手袋をした手をひらめかせる。


「わたくしが駆け寄ったとき、あの子は複数人に殴られていた、グリーグさんを庇ってね」


「そんな……マイヤはそんなこと、できる奴じゃない」


しなくていい。姉は、マイヤは、傷つかなくていいのだ。


それはユリウスの仕事だったはずなのに。


握り拳の爪が手のひらを傷つけた。項垂れたまま、ユリウスは動けないでいる。


「ちなみに、グリーグさん、あの人間たちは若者という年齢ではなかったわよ」


「なんと。人間の年恰好のことは、いまだにわからん」


「訛りがきつかったものねえ。きっと傭兵崩れでしょう。長年、平原で暴れ回っていたけれど食えなくなってこちらに流れてきたような」


「そんなんに姉は襲われたんですか」


口を挟まれ、アマルベルガは小首を傾げた。


「ええ、薬か酒か。少なくとも尋常の精神状態ではないように見えたわ」


「それで、あなたが――助けた? 姉を?」


グリーグが慎重に、

「私のことも。この人もまたトロールの加護を受けるだろう。マイヤ譲と同じく」

「まあ、光栄だわ」

「どうやって?」


頭がくらくらする。ふらつきつつも、ユリウスはアマルベルガをねめつける。グリーグは悩む、さっそくトロールの誓いを発揮せねばならないのか。


「どうやって助けたっていうんです? そんな細腕で。それにその話が本当なら、マーネセンにつくのが早すぎる。怪我人の女と動けないトロールなんて、丸二日かかってもおかしくないのに」


「わたくしが運んでさしあげたのよ」


「――どうやって?」


不気味だ、という疑念がユリウスの中で急速で膨らんでいった。トロールが謎めいているのは、当たり前だ、異種族なのだから。しかしこの女は、アマルベルガは異質すぎる。魔力がどうのという話はユリウスにはわからない。そんな理屈を超えて、彼女はおかしい。


だいたいが上等すぎる服も靴もおかしい。マーネセンの高級住宅街のお嬢さんだって、こんないい布の服は持っていない。彼女はおそらく貴族以上の身分だ。そんな人がこんなところに一人でいる、それがそもそもおかしい。


「落ち着きたまえ、若者よ」


「落ち着いてますよ、俺は。アマルベルガ――さん。教えてくださいよ。俺の姉を救ってくれたことは感謝しています。でもあなたは怪しすぎる」


アマルベルガがゆらりと片足に体重を乗せ、ユリウスは背中がぴりぴりするのを感じる。ノームたちがこそこそ音もなく逃げていく。グリーグが動かない身体をおして立ち上がろうとする。刹那、


「奥の寝台で寝てる女の子の弟くん、いるかい?」


ひょっこりと裏口から顔を出したのは、治療院の住み込み手伝いの亜人の女性だった。中年であるということ以外よくわからない、いくつもの種族が混じった人のいい丸い猫のひげの生えた顔で、


「お姉さんが気づいたよ。早く行っておあげな」


ユリウスは身を翻し、治療院に走り込んだ。


残されたアマルベルガはいつも通り、両方の足に均等に体重を乗せた、今にも踊り出せるし馬にも乗れる姿勢にすっと戻る。貴族令嬢のたしなみ通り、綺麗なばかりの立ち姿。


「……あなたは、何者なのだ」


とグリーグはこらえきれず、がらがら声で囁いた。


「ないしょ。わたくしはいろいろと混み入っているの」


くすり、アマルベルガは人差し指を唇の前に立てる。


「ねえ、娘さんはマーネセンにもいないのかしら? この街は探したの?」


急に話題を変えられて、グリーグは従順に答えた。山が土砂崩れを起こしたときに、一族で丸くなって流れを楽しんだときのように。


「いない。と思う。まだ聞き回っていないからわからないが、このように人が多いところだと聞き回っても意味がないこともある。トロールに同族の気配を感じ取れる、ワーウルフのような嗅覚があればよかったのだが」


アマルベルガは魔法のように畳んだ紙片を取り出し、グリーグに差し出した。


「これ、あげるわ。わたくしにはもう必要ないもの」


「これは?」


「この大陸の、今の時点での重要な地点をわたくしなりに地図にしてみたの。でももう、物語通りには進まないのねえ、この世界は」


「何を……」


そこには大陸の詳細な地図、ただしあちこちに、黒い丸がいくつか書き足されている。


グリーグが顔をあげたときには、すでにアマルベルガの姿はない。小さな、とても小さなネズミがチチッと鳴いて、壁を這う蔦を軽快に駆け上っていく。


「あなたの娘さんはきっとクスパニアにいると思うわ。行くのなら黒い丸は避けることね!」


それがグリーグが聞いた、アマルベルガの最後の言葉になった。


彼はトロール式の礼拝の仕草で、ネズミが去ったあとの壁を拝んだ。長生きはしてみるものだ、あんな、あんな生き物がこの世にいると知ることができるとは。


「人間たちは増えすぎた。きっと山の王は数を間引こうとしていなさる」


彼は疲れ切った目で呟いたが、胸のうちには希望が燃えていた。娘の居所の手掛かりが掴めたのだから。トロールのトロールらしい純粋さで、彼はアマルベルガを信じてみることにした。彼女はあれほど力ある、魔物なのだから。


ノームたちがこそこそ戻ってきて、裏庭は再び静寂に包まれる。紫色のトロールはその頃にはもういない。


彼は彼の目的のため、残りの寿命を使うのだ。

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