第16話

オーク、トロール、ゴブリンは、二百年前のカーレリン王国建国の折、もっとも迫害された種族だった。健国王に歯向かったからである。カーレリンが滅び、フェサレアの時代となってもなお、ほのかな差別感情は人の中に残った。


フェサレア王国連邦は王の下に議会が制定され、貴族には多数決により意見を表明する権利がある。それがどれほど有名無実化していたとしても。


今のマーネセンのご領主様も、その下にいるコヤの街の代官も、元はカーレリン王国の貴族だった。破壊し、残ったものを活用して統治する、あるいは――憎しみの的にはカーレリンを。フェサレアは甘い汁を吸うだけ。そのように誘導されている。


亜人たちにも彼らなりの価値観があり、社会があることをマイヤはわかっている。コヤの街は自分たちに亜人が溶け込むことを許さなかったから、それに倣い亜人へ侮蔑の感情を持った。それが正しいことだと教わったから。


――けれど、殺されかける人を見殺しにしろとは教わらなかった!


マイヤは彼が、大きな体の、紫がかった灰色の体表を持つ奇妙な生き物が殺されかかっているのを見る。きっともっと近づけば悪臭がする。向こうに言わせれば、人間の体臭こそ臭いのだという。


足がずきずき痛かった。身体のあちこちが熱く痛んだ。頭の中にユリウスの目の色があった。ロマンチストでおバカで大事な弟。弟はいざというとき駆け出すのをためらわない。正義感があってまっすぐで、そんな自分を恥ずかしがって斜に構える。今となってはマイヤこそがそれを一番よく知っている。


「――やめなさいッ!! 彼を離して!」


マイヤは叫びながら丘を駆け上がった。足を引きずりながら。両手で杖がわりの木の棒を握りしめ、本人が思う十分の一も勇ましさはなく。


それでも見て見ぬふりはしなかった。人々はそんな彼女も含め、すべての出来事に無関心である。当然だ。それでいい。


その亜人が殺されてしまうのを、マイヤは黙って見ていられなかったのだった。そのときはそれが何より大切に思えた。一瞬の気の緩みをついて、彼女は人間の男たちと亜人の間に滑り込むことができた。


「殺人罪は重罪よ、縛り首よ。人生終わらせたいの」


と、顎を上げて挑みかかる小娘に、男たちは一瞬あっけにとられ――どっと場が沸いた。旅芸人のピエロの失敗芸を見たときみたいに。


訛りがきつく、大半の言葉は聞き取れなかった。男の一人がマイヤの肩を掴み、激しく揺さぶった。脳みそが揺れる。踏ん張る。


亜人がギャアッと悲鳴を上げたが、それは若い男が先を尖らせた棒で突き刺したからだった。


「おやめ!!」


マイヤは叫ぶ。その男の持つ棒を蹴り飛ばす。


若い男は標的をマイヤに変えた。数人がかりで、呆れるほど遠慮なく距離を詰められマイヤは囲まれる。彼女は仁王立ちする。


正直なところ、恐怖は凄まじい。頭の中はすでに真っ白で、なんの対策も持たず突進してきた己への罵倒ばかり浮かんでは千切れて消える。


男の一人が舌なめずりしながらマイヤを殴った。咄嗟に頭蓋骨の硬いところを前に出して、そこに相手の拳を当てる。頬骨、それから鼻の骨にあれが当たるとしゃれにならない、マイヤはそれを知っている。


「いいから……いいから、」


と亜人は呻いた。大きな身体を埋め、ぷすぷす突かれて穴が開いた足を庇いながらマイヤを見上げる。鼻と耳が大きく、顔の輪郭と合わせてかたちはまるきり小岩だった。だがその小さな紫色の目は善意に満ちていた。彼がものすごく、ひょっとするとカーレリンの建国と滅亡を同時に見届けたのではないかと思うほど、年老いていることにマイヤは気づく。


殴り飛ばされ、地面に叩きつけられる。胴体を守って肩を強打し、束の間息が詰まった。だが決定的な痛みではない。


「逃げなさいお嬢さん、私はいいから……」


呻きながらも亜人は立ち上がろうとした。その関節は固まりかけていた。ならば彼はトロールなのだ、オークでもゴブリンでもなく。


トロールは岩山に住む種族で、死期が近くなると住処よりさらに山奥に向かい、そこで岩となる。それが彼らの死だ。どうしてそんな種族が、こんな人間の街の付近にいたのかはわからない。だがどうして彼が逃げなかったかはわかった、逃げられなかったのだ。関節が固まり、身体の半分が岩になった状態で速く走ることはできない。


――頭の中に白い雪が舞う。すうっと冷たさが、身も凍るほどの冷たさが心臓のあたりに生まれて、背筋を通り頭のてっぺんからつま先までを満たす。冷たさが冷静を連れてくる。身体じゅうの新旧の痛みがぷつりと消えて、何も感じなくなった。この状態に入れる能力のことを、数少ない特技のひとつとして彼女はひそかに誇りに思っていた。こうなってしまったマイヤは最強だ、どれだけ痛めつけられたって平気なのだから。


彼女は土を握りしめたまま上半身を起こし、


「亜人は人間! 人間を殺すと絞首刑! わかる? 縛り首よ!!」


金切り声で叫んだ。無理やりねじり出した声だったから、無惨にひび割れ引き攣れて、少しも気合が入っていない。道をゆく人々のことなど、もはや眼中になかった。自分とトロールを交互に指さして、


「絞首刑! 縛り首!」


を繰り返す。だから放せと、そういうつもりだった。


「フェサレアの法律は厳格よ。目撃者も大勢いる」


無意識のうちにトロールの手に手を重ね、小娘は小娘らしい空元気でにやっと笑った。


「縛り首、なりたい?」


男たちが顔を見合わせ、マイヤは勝ったと思った。そう、もしここがマーネセンの街中で、今が平時で、そして彼らがもう少し理性がある人間であれば、マイヤは勝っていた。


腹を蹴られたのだ、と分かったときにはもう遅い。マイヤは身を丸くし、頭の中の雪を思いっきりお腹に向かって吹雪かせた。消えろ、消えろ消えろ。


「やめろ!! この子は関係ないだろう!!」


トロールが吠える。がらがらと、谷底に落ちていく丸い石や岩のようにしゃがれた深みのある必死の声。


「最初から私を囲んでいただろう、やめろ!!」


男の手がマイヤの身体を持ち上げた。こんなのに捕まっては待っているのは地獄である。棒はとっくに手から離れてしまった。マイヤは手の中の土を投げつけ、やみくもに暴れ、叫んだ。


トロールが追いすがり、なんとか彼女の身体を連中から取り戻そうとする。若い男がへらへらとその腰を刺す。刺す。血飛沫が飛ぶ。身体が岩になるからといって、それは完全に死んでからの話。今の彼はまだ生身である。乾いた泥の上にまた泥の層が付着したような灰色の体表は、痛みのあまり赤紫色になる。


いつの間にか道に人影は消えていた。みんな自分と家族が大切だ。小道の先で起きている小競り合いなどに構わず先を急ぎ、きっと今頃は目的の場所でなんとか休んでいる。当たり前のことだ。


マイヤは死を意識した、そしてそうなってはじめて、この馬鹿な娘は気づいたのだった――まだ死ねない、ユリウスに父母の末路を話すまでは。私は責任を果たしていない。


その瞬間、痛みを覆っていた雪が全部溶けて消えた。全身を貫く痛みに小娘は悲鳴を上げた。


トロールの力は人間など軽く吹き飛ばす。彼はこの愚かだが正しい見ず知らずの人間の女のため、命を救おうとしてくれた礼をするため精いっぱい善戦した。だが老いはすべての種族に平等に降りかかる呪いである。関節は固まり、指さえ動かず、簡単に蹴り飛ばされ、目や鼻を狙って殴られ、刺され嬲られる。


後悔と恐怖と混乱と、なぜこんな相手に殺されなければならないのだという憤怒。そのとき亜人とマイヤは間違いなく共鳴していた。数刻ののち、当初の予定通り殺される亜人と、予定になく殺される女の死体がふたつ、この丘に転がるのだ……。


一方の男たちにとっては、これはよくある狩りの一種であった。ためらいも戸惑いもなく、ただ目の前に襲ってもいい対象がいたからそうした、それだけのことである。大陸の辺境からやってきたこのような種類の人間のことを、ぬくぬく育ったマイヤは存在さえ知らなかった。それもまた、それだけのことである。


さて、そんな状況だったからその声はまったくの予想外だった、その場の全員にとって。


「ああいやだ。わたくし弱い者いじめはキライよ」


高飛車で優雅な若い声だった。


マイヤは男ふたりがかりで足を開かされ、下履きを剥ぎ取られかけながらそっちを見た、我ながら間抜けな顔だったことだろう。


薄い金髪はきちんと三つ編みにされて胸の前で揺れている。ちょこんと斜めに乗った小さな群青の帽子。白い肌。薄いシフォン生地の水色のドレスは豪奢である。レースの手袋をした手に日傘を差して、どこかの令嬢の散歩姿にしか見えない。


「うえ、うへええへ、えへ」


と男たちは獣そのものの声で涎を垂らした。垢だらけの身体はわなわな性的興奮に震える。

マイヤは息を呑んでその人を見つめるしかできなかった。そんな綺麗な服装の、立ち姿でさえ凛とした人を見たことがなかった。


トロールは亜人特有の感覚で悟った、その風変わりな令嬢は――人間にしか見えないのに、人間ではなかった。


人間にしか見えない外見で、人間ではないものは二種類いる。神か、その寵愛を一心に受けるエルフ族か。


彼女の耳は尖っていなかった。エルフならば尖っているはずである。ならば。


「まあ」


と令嬢は呟いた。男のうち一人が彼女に殴りかかったのである。


一瞬だった。彼女が動いたことさえ、マイヤにはわからなかった。


巨大な、黒い狼がそこにいた。いつの間にか。なんの予兆もなかった。男の頭を咥え込んだ狼が首を振った。身体だけが千切れて飛んでいった、森の中へ。


血が噴水のように吹き出し、マイヤに容赦なくかかる。痛む身体じゅう、開いた口の中にまで入り込んでくる。


「う。うぅ……っ」


呻くマイヤなど歯牙にもかけず、狼は男たちを次々に襲い、食い殺した。嬉しそうに尻尾を振りながら。


「しぃっ。こっちに……」


トロールは慎重にマイヤを起こさせると、お互い痛む身体を庇いあうようにして丘を下った。四方八方に逃げ散ろうとした男たちは、しかし逃げる間もなく蹂躙されている。自分たちがしようと思っていた、してきただろうことを、遠慮なくやり返される。


それはごく単純で強大な暴力だった。狼の牙が爪が犠牲者を引き裂き、その巨躯のたわんでは伸びあがるさまは死の権化。耳の先から尻尾の先まで美しい彼女は――彼女は何者なのだろう?

茂みに寄りかからせてもらい、マイヤはなんとか声を絞り出した。血みどろから目が離せない。


「どうもありがとう」


「いいや、礼を言うのはこっちの方……」


彼らが声をかけあう間に、ことは済んでしまった。男たちは五、六人はいたはずだ。ずたぼろの身なりをして言葉も通じなかったけれど、それぞれ一人前の人間の身体をしていた。その残骸が今、細かな肉塊になって丘の周辺に散らばっている。


狼は満足げにその惨状を見渡すと、マイヤたちの方へ降りてきた。ゆうゆうと、伸びでもしそうな泰然たる様子である。


歩を進めながら狼は奇妙にねじ曲がり、ぐんにゃりと輪郭が融けた。融けた縁がきらきら金色に煌めきながら、くるりと一回転して彼女は彼女になる。ドレス姿の、三つ編みの、群青の帽子をかぶってレースの手袋をした彼女。


「はじめまして。生きてるかしら?」


死にかけのふたりに彼女はにっこりした。


「わたくしはアマルベルガ。魔物なの」

「……見りゃ、わかるよ。私たちにはな」


用心しいしい、トロールは答えた。両者の間で見えない力比べが行われていたが、魔力の素養がないマイヤには文字通り見えないことだ。


「目が金色じゃないわ」


とマイヤは呟いた。彼女――アマルベルガはぱあっと顔を輝かせる。


「ええ、そうなの。わたくしはいい魔物なの。うふ」

「そう……」


マイヤはうとうと瞼を閉じる。死んではいけなかったが、この眠たさには抗えない。


「ユリウスは怒るかしら……」

今眠ったら。


「ユリウス?」

と令嬢が小首を傾げるのも、


「おい、おいあんた!」

トロールが身体を揺さぶるのも、徐々に遠くなっていった。


ことんと昏倒したマイヤを見下ろして、令嬢はため息をつく。灰色の目は面白そうに光っていた。

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