第9話


道に座り込み、石畳の熱さに驚き、立ち上がっては足が痛くて熱くて、マイヤはきゃあきゃあ大騒ぎをする。見れば周りも似たようなもの、呆然とする者、狂乱する者でコヤの街は戦場の様相を呈していた。


一本道にへばりつく彼らの家だったものを、泣きわめき怒り狂い火に追われる人々そのものを、翼の影がさあっと撫でた。見上げる顔、顔、顔はそれを見つける。上りつつある月の光、星の姿を遮るようにして夜を飛ぶ翼もつものの姿を。


「ド、ドラゴンだあ……」


とは誰が言ったものか。混乱は瞬く間に広がった。燃えてない家からも人が飛び出してきた。


「ドラゴンだ、ドラゴンだ!」

「魔物が街を襲いに来たあー!」

「みんな食われる、食い殺されるぞぉっ!!」


男の怒鳴り声、女の泣き声とは判断を誤らせるものである。


マイヤは火の届かない道の真ん中で、少し焦げたスカートの穴を抑えてうずくまる。ドラゴンから自分の姿が見えないことを祈っていた、私は髪だって黒いから、暗さに紛れるはず。きっとそうよ。


彼女を現実に引き戻したのは、隣の家のおじさんだった。シュユンさん。片腕に頭から血を流した奥さんを捉まらせ、


「しっかりせい!」

とマイヤの頬を張る。

「あ、あぅ……」

「正気づいたか。母親はどうした?」


マイヤは首を横に振った。頭はぼんやりしていた。奥さんと目が合って、互いにぽかんと見つめ合った。


シュユンさんは奥さんに何事かを言いつけると、暗い夜の向こうに駆けていく。あっちは代官の家がある方だ。それから、兵士の駐在所。槍だの盾だのをしまってある武器庫。


街のあちこちからちらほらと、動ける者たちが出始めた。十年前にあの国が、絹のごとき水の都カーレリンが滅びた政変と内乱を潜り抜けた世代の者たちだった。


ドラゴンがまた火を噴いて、今まで燃えていなかった街の北側がやられた。マイヤは再び悲鳴を上げ、シュユンさんの奥さんがそれではっと気を取り直す。


「マイヤちゃん、いきましょう。フィンダーさんとこ」

「な、なんで?」

「お父さんがいるんでしょう? 街外れだし、一番安全よ。さあ」


とよろめくマイヤを押して小走りに進んだ。マイヤもつられて足を動かす。街の、通りの左右両方から人のうめき声がした。瀕死の、あるいは死にかけつつある家族の手を取って泣く人の。


振り返ることはしなかった、できなかった、念頭になかった。愛する母が今どんな状態であるのか、確認するのが怖かったのかもしれない。今となってマイヤの頭を占めるのは、ドラゴンの吠え声と炎の熱、煙のにおいばかり。


通りすがる花壇で、水気を含んだ花の茎と葉っぱが縮んで燃え上がる。


マイヤは奥さんと一緒に道を走った、無我夢中で。


その背後で数少なくない兵士たちが槍と弓矢で武装し、空中のドラゴンに反撃している。しかし相手は空を飛ぶ魔物だ。勝率は低いだろう。


動ける人がいそうならその肩を掴んで立ち上がらせ、年寄りや子供に手を貸し、そうこうしている間に炎が迫る。彼らは一群となって街の道を駆け抜けた。よくもここにドラゴンが飛んできて、火を吐かなかったものだった。あるいはそれを見越して、兵士たちが囮役を買って出てくれたのか。真実はあとになってもわからなかった――戦った人間は誰も残らなかったので。


ようやくたどり着いた街はずれの製材所で、人々はへたり込んだ。


材木置き場にされている、前庭だった。大きな壺に土が詰められ花が植えられている。綺麗に満開の、小さな赤いビビの花。火の粉のようだった。


マイヤはその壺にもたれかかり、ちかちかする視界で必死に目を見開く。貧血になりかけていた、けれど今気を失うわけにはいかなかった。汗があとからあとから止まらない。息を整えようにも肺が焼けるよう。


やっと振り返ったコヤの街は、燃えていた。空を舞うドラゴンは三匹程度に見えるのに、どうしてこれほどの被害が出るものか。


二百年。カーレリン王国が成立して、滅ぶまで。魔物は出現しなかった。人を襲うことをしなかった。


ううう、とうめき声がその場に満ちていた。マイヤの隣で頭を抱える男が、涎を垂らしながら呟いた。


「災いだ……災いだ……。禁を犯したからこうなったんだ」


死にかけたように喘いでいた老婆がむくりと起き上がり、孫をかき抱きながらしゃがれ声で唾を飛ばす。


「マーネセンにダンジョンができたからだよォ! だからあんなところは封印して、埋めちまえばよかったのさ!」


人々のざわめき、街を心配する者、戻ろうとする者を諫める者。いつの間にかシュユンさんの奥さんは、材木を背に友達と話し込んでいる。その人はよくリア夫人とも喋る人で、夜闇にも赤々と火傷が痛そうだった。


マイヤは足を引きずりながら立ち上がった。父はまだ働いていたはずだった、最近はマーネセンから材木の注文が多くて、今日も残業でしていたはずだったのだ。


「父さん……母さんが、母さんがね」


と子供のように呟きながら、材木店の扉を開けた。鍵がかかっていなかったことに、不思議に思うべきだったのかもしれない。


店の中には誰もいなかった。ささやかな工具や木工品を売る店内、会計台の奥に見える職人たちの働く工場(こうば)。フィンダーさんも、フィンダーさんの奥さんも、息子さんも、お抱え職人さんたちも、ひとりもいない。


「父さん?」


マイヤはふらふら室内を歩き回り、放り出されたままのような鉈や鉋、作りかけの引き出しなどを見て立ち止まった。あ。と振り返ったときにはすべてが遅い。


ここは街はずれにある、だからドラゴンが飛んでいるのだって見えたのだ。コヤの街にいくことが分かったのに違いない。そして、フィンダーさんはお母さんが街中に住んでいるし、あの人だってこの人だって家族が街にいて、当然、父だって。


みんな自分の家族のところに行こうとしたに違いない。街に駆けつけ、救おうとした。


「あ、あ……」


行き違ったのだ。あるいは、あるいは出会う前に火で焼かれてしまった、突風で吹き飛ばされてしまった。


「父さん! 父さん!」


マイヤは気が狂ったように他人の家、職場の中を駆け回ったが、それでどうすることもできなかった。どうにかなるということもなかった。


やがてぽつりぽつりと人の話し声が、生き残った人々のこれからどうするのかという話し合いが始まり、終わった。マイヤは製材所の扉のところでそれを聞いていた、呆然として、力なく三段しかない玄関階段の三段目に座っていた。


コヤの街には火柱が上がっていた。太い煙が何本も立ち上り、ドラゴンが飛びかっていた。こっちにくるようなことがあったら全滅だろうと分かっても、恐怖は湧かなかった。涙は出なかったが泣き疲れたような感じで、じぃんと頭の芯が麻痺している。


製材所から伸びる白い小石を敷いた道が、森の中にある女神の祠に繋がっている。自然とそっちに向いて膝をつき、祈る人がちらほらいた。マイヤもそうしたかったが、逆に口をついて出たのはこんな不信心だった。


「お祈りしたのに、捧げものをしたのに……」


それがマイヤにできる、せめてもの現実への抵抗だった。神を恨むこと、それも小声で。十九歳の小娘にできたのは、せいぜいがそれくらい。


空ではドラゴンが踊り狂い、街は燃えている。身体じゅうが痛くて、家族は今ここに誰もいない。


マイヤはひとりぼっちだった。身体じゅうが寒かった。震えて、歯の根もあわぬほど震えて、自分で自分をかき抱いた。


(ユリウス……)


自分の腕の骨が手のひらに食い込む。


(ユリウス! ユリウス! ユリウス!)


会いたかった、助けてほしかった。彼が迎えに来てくれるのを祈った、もう一度。もう一度その祈りは森の女神に対するのと同じくらいに強く、奇跡が起きるのを祈った。


祈りは届かなかった。

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