第8話

今日の夜は霜が降りそうだ、とわかったので、店のみんなで鉢植えに布をかぶせたり室内に移動させたりしていたら遅くなってしまった。


残念ながらタダ働きである。働かせてもらっているのだもの、罰当たりなことは言えない。


「じゃあねー」

と挨拶して帰り道を辿りつつ、マイヤの関心はそろそろやってくる収穫祭の装いにある。


あんまり裕福ではない家計だが、それでも父は花冠を作って新しい服を買う、あるいは仕立てるくらいは許してくれる。あんまり派手にしたりスカート丈を上げすぎると怒られるかもしれないが、それだって年に一度のお祭りなのだから許してほしい。


そろそろ暗くなる道を急ぎ足に進む。マイヤは一人で苦笑した。もし弟にスカートについて相談を持ちかけたら、イライラ丸出しで怒られるに違いない。


――どうでもいいだろ、そんなこと。自分で決めろよなーっ。


と、鬱陶しげにされる顔さえ想像できてしまう。正直言って、前にマーネセンで会ったときだって、


――俺のことを納得させに来たくせに、情に訴えるばっかでなんで理性的に話し合えないんだこの人。


くらいは思っていただろうし、


――姉さんはいっつもこうだ、自分のことで精一杯になっちまって、人の気持ちも考えられない。


とかなんとか考えていたに違いないのだ。ユリウスが自分で思っているほど大人ではないことをマイヤは知っているし、たぶんユリウス本人も気づいているのだ。早く大きくなりたくて、一人前になりたくてもがく十六歳の少年は、まだ危うい。悪い大人に騙されないか、背伸びした危険な依頼を受けないか。マイヤも父母も心配で仕方ない。


(やっぱりあの子は、まだ私たちで支えてあげないと……)


と思う。姉として、家族として。彼は大切な弟で、欠かすことのできない家族の一員。そして……。


(そして?)

「なんだったかしら?」


と一人ごちても答えはない。そうこうしているうちに家についてしまった。なんとなく街並みを振り返れば、夕食の支度の煙があちこちから立ち上り、ねぐらに帰るカラスの慌てた姿が夕日に沈んでいく。森の裾にある女神の神殿から、夕刻を知らせる鐘が鳴った。


家の周りには他の家々と同じように垣根が巡らせてあって、そこと家との間のわずかな敷地が庭、と言っていいのだろうか。わずかすぎるスペースでは母が花を育てている。マイヤのぶんの花壇もある。道に向けて少しでも丁寧に、整えられたマリーゴールドの。来年は小さなツツジでも植えてみたい。苗を買ってきて。


コヤの街は今日も、色とりどりの花の芳香に満ち溢れていた。


マイヤは振り返って街を眺めた。一本道から派生したような家々の、整然とした屋根の並びに夕日が反射する。なにやらマーネセンの方角が白んでいる気がした。また白い月が不機嫌なのだろうか。


胸の中が一日働いたあとの充足感で満ち足りていた。


肉屋で骨付き肉を買ったらしい、家の中は肉入りスープの匂いがする。


「ただいま、母さん。今日は買い物行けたの?」


「おかえりマイヤ。そうだよ、父さんに任せるととんでもない金額でとんでもないものを買ってくるからね」


「うふ」


「こうしてたまには歩かないと、本当に歩けなくなってしまう――薪を取ってきてくれる?」


マイヤは肩掛けカバンをいつもの釘にひっかけた。樽に貯められた水で手を洗い、台所を手伝うべく動く。


「はあい。明日の朝の分も?」


「そうよ。早く早く。日が暮れる前に取ってくるのよ」


と母はいたずらっぽく笑い、裏口の取っ手に手をかけてマイヤも肩を震わせた。とっくに夕暮れどきが終わりつつある薄暗がりを背景に、今更なにを言うのだか。


薪置き場は乱雑である。表の整えられた花壇とは対照的だった。古い柱を再利用した棚に、樵から買った薪が適当に詰め込まれている。マイヤとしても母としても、早いうちに整理してしまいたいところだが時間がない。父は薪を置くだけ置いて、あとのことなど知らんぷりだ。


(もう、父さんったらまた新しいのをこんなとこに置いて。古いのから使いたいからこっちを手前に出してって、いつも言ってるのに)


マイヤが身をかがめたときである。


カッと光が、それから轟音が聞こえた。マイヤは目の前につんのめるように膝をついた。


「な、なに?」


マーネセンの方角だ……。どうして、何があったの!?


マイヤが家の中に駆けこもうとしたときだった。


コヤの街には夕食の炊事の煙が、花の香りに混じって立ち上っていた。街の通りに面していない裏庭の、土が剝き出しの、小石の混じった地面が急に近くなった。


マイヤは自分の息ができないのに気づいた。頭がずきずきすする。きーんと耳鳴りがひどく、胸の上に何かが乗っているようだった。


わけがわからなかった。


けほっと咳が漏れて、それでやっと呼吸が再開した。埃臭い空気を吸い込んで噎せた。ひいひいと、とにかく綺麗な空気を求めて立ち上がる。立ち上がることができた。五体満足だ、怪我は擦り傷と打撲程度。まだまだ動ける。


マイヤはよろめきながら裏口に取りついた。真鍮の古いドアノブと、黒い木でできた薄い戸口を開くとそこに家はなかった。何もなかった、瓦礫の山だった。大きなテーブルも座ると軋む椅子も。二階に続く階段も消え失せていたし、カバンをかけるための釘は壁と一緒に消失していた。


「母さん……」


と、呆然と呟いて、


「母さんッ! どこ!?」


やっと頭が動き出した。耳鳴りがひどい。どこからか火の爆ぜるにおいが急速に広がってくる。何が起きたのかわからない、けれど急がなければいけないということはわかった。


口の中に血の味がして、鼻血が出ているのを知る。そんなことに構ってられない。母は足が悪いのだ、この上更にどこか身体が悪くなったら? 今度こそ本当に、弱って死んでしまう。


マイヤは瓦礫と家具だったものの上に這いつくばり、母がいた暖炉脇を探した。暖炉を構成していた石はあらゆるところに飛散し、割れた陶器のかけらであっという間に手が切り傷まみれになる。


はたして母はそこにいた。瓦礫にうずまり、潰されて、息も絶え絶えに仰向けに倒れていた。


「母さん! 母さんしっかりして!」


きょとり、と目が動いて母はマイヤを見た。


「ソフィヤ?」

「姉さんじゃないわ。私は姉さんじゃない」

「ああ……マイヤ」

「今出してあげるから」


だく、と母の口から黒い血が溢れた。ひいい、マイヤの喉は悲鳴を鳴らす。手を必死に瓦礫の間に差し入れて、風に乗ってきた煙に咽びながら母を出そうとする。


薄い木の板は壁に造りつけた棚板だったのだろうか、母の下半身を覆うをそれをなんとか持ち上げると、そこには血だまりが広がっていた。


暖炉の一番大きな基礎の石。いつも火を受け止めていた石が、灰を留めていた重い頑丈な石が、母の胸から腹にかけてを潰していた。もはや回復は望めないだろうことが、マイヤにもわかった。


「い、や」


首を振りながら、火のにおいを嗅ぎながら、それでも諦めきれず彼女は母をなんとか引きずりだそうとしたが、


「マイヤ、お逃げ……」

「い、いやっ。いや、母さん」

「父さんのとこに逃げなさい、まだフィンダーさんのとこにいる……。から」


ことんと母の首が後ろに落ちる。マイヤはその痩せた首の骨を支えた。


末期の息が母の唇を通った。


「この街のことなんて大嫌いだった……」


ひゅう、ひゅう、喉が動くたびに口から大量に血がしたたり落ちてくる。マイヤは真っ黒な目を見開いて、その顔を眺めていた。いつだって優しかった、子供たちのことを来る日も来る日も考えていた、そのはずだった人の顔を。


「あああ……! 今帰ります、カーレリンへ……」


そうしてマイヤの手の中に母の頭が落ちてくる。がくっと身体全体の重みが増し、これほど痩せた人なのに抱えきれないほど重い。マイヤは母の遺体と一緒にずるずる瓦礫に沈み込んだ。

母が亡国の出身だということは知っていた。


最期に言い残すほど、滅びた国に未練を残していたとは知らなかった。


彼女が死んでしまったことよりも、その頭の重さ、切り傷だらけの手が瓦礫に押し付けられる痛み、治りつつある耳鳴りよりも、どんなことよりもマイヤはそのことに驚愕していたのかもしれない――最後の最後で、目の前の私より国なんかのことを、母さんは。


火がすぐそこにある、ということにすぐには気づけなかった。


スカートの裾が妙に熱くて、目をやるとともに聴覚が戻ってくる。母の頭を膝に抱えたまま、マイヤは自分が燃えかけているのをやっと知覚した。


「や――、いや!」


悲鳴を上げて立ち上がり、瓦礫に足を取られて転ぶ。ガラスの破片で足首が切れた。


ばたばた滑稽に踊り上がって、マイヤは家の残骸から逃げ出した。母の遺体を振り向きもしなかったことに、通りに出るまで思い至らない。


一緒に燃えてあげよう、と思わなかったことを、マイヤはこれから先ずっと後悔して苦しむことになる。

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