第3話


コヤの街の住人にとって花は重要な贈り物である。


街を開いた大賢者様が、花を介在して魔法を使っていたからだという。彼女が杖をふるうたび、手にもったバスケットの中の花がぱあっと飛び散り、宝石になり、あるいは大理石になり、街のあらゆる場所を彩ったのだと。コヤの街は道も家々の壁も窓もきらめきに満たされ、大いに栄えたということだ。


もちろん、伝説は伝説だ。コヤの街の家はたいていが木板と土壁の簡素なつくりだし、きっとその当時もそうだったろう。


マイヤが家にようやく帰り着いたのは、酒場がそろそろ盛り上がるだろうという時刻だった。駅に備え付けの水盆時計は夜の八時を指していた。こんな時間に一人で出歩くのははじめてだった。


まだ真新しい石造りの乗合馬車駅の隣に、代官の家とお役所、それらよりいくらか古い兵士の駐在所がある。開いているところを見たことがない武器庫も。コヤの街だって立派に納税の義務を果たしているのだから、王国から直接、兵士が派兵されるのだ。もっとも、兵士たちが戦っているところなどマイヤには想像もつかなかった。みんな気のいいおじさんたちだ。出世とは無縁の。


ユリウスはこの街の退屈さに我慢ならず飛び出し、同じく向こう見ずに飛び出した少年少女たちは多かった。


マイヤはとてもじゃないが、そんなことはできない。マイヤはコヤが好きなのだ。ここ以外で暮らす自分を想像できず、帰ってこられたことに心から胸を撫で下ろす。正直、知った人が一人もいないマーネセンの街ではかなり怖かった。ユリウスを見つけ出すまで、かかった以上の時間を感じていたものだった。


マイヤは駅から自宅までの道のりを歩きだした。通りの家々には花壇が設けられ、溢れんばかりの花をたっぷり蓄えている。細かい泡の浮く窓ガラスごしに花瓶に生けられた切り花が見える家もある。


ああ――あのマリーゴールドはトゥッカのおかみさんが丹精込めて育ててる。枝垂れた瑠璃色の小花をつける枝はロロさんの作品。あっちの切り花はたぶんハティのお店のだろう、取り揃え方がそうだから。と、マイヤの目にはどの花に誰の手がかかっているかわかるのだった。

マイヤは花が好きである。コヤの街に住む人ならば、みんなそうである。


「おやマイヤ、おかえり」

「ああ、弟んとこに行ってきたんだってね」

「どうだった? 会えたかね?」


と、進むマイヤに方々から声がかかった。夜の花を愛でるため、小さなテーブルを出しては椅子やハンモックにくつろぐ面々だった。


でっぷりした腹をかかえた仕立て屋の赤ら顔、見ればテーブルには小さなコップと大きな酒瓶が立っている。その脇から芳香を放つ薔薇の花壇のみごとさ。


マイヤは笑って肩をすくめた。同じお酒のにおいでも、あの人とは大違いだわ。


「ぜーんぜん、言うことなんて聞いてくれなかったわ」


面々はどっと沸いた。同じように、街の中心部に位置する酒場からもどっと歓声が上がった。


「帰ってきそうかい?」

「わからないわ」

「元気だったかい?」

「それはもう」

「近頃の若い者は礼儀知らずでいかん。俺たちの若い頃は街の発展のため力を尽くしたもんさ……」

「ああ、ああ。街から若い者がどんどん流れ出ていく……」


と始まる繰り言をあとに、マイヤはそこを抜け出した。


街には通り沿いに家々が立ち並び、あとは花屋だの八百屋だの肉屋だのが続く。周辺には巨大な花畑、および野菜畑が広がるばかり。花も野菜も魔法使いや占い師が呪文に使う。マーネセンが今のようにダンジョンの街になる前、魔法使いの街だった頃から、コヤの街はその需要に寄り添うように発展してきた。


ほぼ一本道の街道に沿って発展し、魔法使いがどこかへ消えればおそらく終わる街。だからコヤの街はほんとうは街でもなんでもなくて、うたかたの花の夢なのかもしれない。

ようやくマイヤが家に帰り着くと、扉を開けずとも内側から開いた。


「あら、父さん」

「む。おかえり」

「ただいまぁ」


マイヤはくすくす笑った。父は彼女が外套を脱ぐのまで手伝ってくれた。


家は小さく、木と花の匂いがして、二階建てだがそれだけだった。幼い頃はユリウスとくるくる追いかけっこをした居間は、食事も作る暖炉、水瓶、階段だけで終わってしまう。ものは壁に刺した釘にかけておく。そうでもしないと場所がない。


母は食卓に腰かけていた。大きな一枚板で、長年の家族の汚れが染みこんでいる。


「おかえりマイヤ。スープをおあがり」

「はい、母さん」


にっこり笑うと、母の目の下にはふんわりと皺が寄った。父もうんうん頷きながら、暖炉の上の鍋をかき回すマイヤを見つめる。


なんとなく、家族三人で食卓について、マイヤだけが食べた。スープは豆と香草で煮てあって、ぐずぐずに煮崩れていたがおいしかった。


父も母も瘦せぎすの人である。元々このあたりの人らしく、どちらも灰色の髪と青い目を持っていた。栄養不足というわけではなく、おそらく体質らしい。マイヤも同様にほっそりした身体をしていたが、年頃にしては肉が足りず、やっぱり瘦せぎすだった。父母が着古した服を着ているのは普段着だからで、マイヤの青いワンピースは晴れ着だから継ぎあてがない。


大事な服に一滴もこぼさないように慎重に、マイヤは母のスープを食べた。あらかた食べ終わると、


「それで――?」


と父は身を乗り出すように聞いてくる。


「あなた、ちょっと待って。お水くらい飲ませてあげてよ」

「む。すまん」


「んふふふふふ」


それでマイヤは笑いながら焼き物のコップから水をぐいぐい飲んで、ぷはあと一息。


「戻ってくる気はないって」

「そうかあ……」


父はがっくり肩を落とした。彼は木工職人である。自分で工房を持っていない、人に雇われて働く立場だった。雇い主のフィンダーさんはいい人だ。自分とこの花畑でも小作人を使う地主でもある。一家に毎月きちんと給料を支払ってくれるし、余りの材料で小さな箪笥でも作るくらいなら大目に見てくれる。


自分のものと言えば家と家族だけの父の立場に、ユリウスは思うところがあったのだと思う。たぶんずっと前から。


マイヤにはやっぱりわからない、今が幸せなら立場なんてどうだっていいじゃないの。コヤの人たち、みんな親切でいい人よ。


「夢を追いかける、だと。バカ息子め、そんな時間、人生にはないんだ。働いて金を稼ぐことこそが大事だ」


「まだ若いから……」

と母は呟く。


「まだ自由にしてていいのよ。十六だもの」


と、自分自身に言い聞かせるようだ。


「だがこの家族はどうなる?」


父はこめかみを揉みながら顔を歪めた。


「あいつが俺に代って働いてくれなきゃ、マイヤの稼いでくる小金なんかじゃどうにもならない」


「この子の前でそういう話はやめて!」


母は手を伸ばしてマイヤの髪を撫でた。食卓に寄りかかった杖がカタンと音を立てる。母は足が悪い。おまけに肺に病気がある。父ももう年だから、そんなに長くは働けない。……でも。


「心配しなくってもいいわ、父さん、母さんも」


マイヤは自信満々に告げた。食べ終わった木器を撫でながら、


「気が済んだらユリウスも戻ってくるはずよ。だって、コヤほどいい居場所は他にないし、街じゅうみんな仲がいい街もないわ。ユリウスは安い宿に住んでた。そのうち耐えきれなくなるわよ」


両親は顔を見合わせる。この娘のどうにも考えが浅く、自分の目で見たものしか信じられない軽薄な性質を彼らは内心、気に病んでいた。


まるで十歳の子供のように、マイヤは今、ここ、で家族だけで生きていけると信じている。戦乱を知らない世代だ、無理もない。品行方正で親のいうことを疑わないのは美徳であるし、事実、今日もユリウスの様子を見に行ってくれた。蓮っ葉に育って男の子とたわむれるような娘にならなくてよかった。――けれど、マイヤは正しくはない。


ユリウスのような年頃の若者が、大きな街に出て知らなかったものに触れて、はたして退屈な田舎街に戻ってくるかどうか。ここで、父の跡を継いで木工職人になることが? マーネセンの街には喫茶店が無数にある。コヤの街には一軒しかない。そこがふさがっていれば、他人の家にお邪魔するか人を自分の家に招くのだ。


「ともかく、」

と父は大きなため息をついた。


「今度フィンダーさんに休みをもらえたら、俺が説得に行ってみる。あいつが頑張ってくれなきゃうちはどうにもならないんだから」


マイヤは最後までふぅんという顔である。父はちょこっと手を伸ばし、娘の頬をつっついた。彼女はきゃぱきゃぱ赤ん坊のように笑った。

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