第9話 「執事でございます」

 未婚の貴族令嬢とその家族たちが国内を右往左往しているといのに、レーベン公爵家はいつもと全く、何も、一切変わらなかった。


 今日もレーベン公爵は四十年以上続けている習慣に則っていつも通りの時間に帰宅し、妻の公爵夫人とのんびり過ごしている。

 公爵位はまだ譲れていないが社交は長男夫婦にほとんど任せており、公爵夫妻は本当に必要なとき、例えば王家主催のものにしか参加することはなかった。



「執事長、フランシーヌお嬢様はまだお戻りではありませんか?」

「ええ、まだです」


 レーベン公爵家の現当主が就任以来、ずっとそばで支えてきた執事長フリードリヒの言葉に、訊ねた侍女とその脇の侍女たち三人のため息が重なる。

 ヴェラ、エレイン、マキシ、この三名はフランシーヌの専属侍女である。


「また目の下に真っ黒な隈を作っていらしたらどうしましょう。明日は王太子殿下の誕生日を祝う夜会が開かれるのですよ?」

「あの絹糸のような銀の髪が無事であることを祈ります。邪魔と言ってペーパーナイフで切ろうとしたときは侍女長と一緒に悲鳴を上げたわ」

「大丈夫ですよ、ペーパーナイフなら髪は切れません」


 おっとりとしたマキシの言葉に、執事長を含む他三名は「違う、違う、そうじゃない」とがっくりと気落ちした。



 そわそわの止まらない四人のもとに、フランシーヌが乗った馬車が研究所を出たという報せが入るのだが、その馬車の中ではフランシーヌが疲れ切っていた。


 王都内の道は舗装されているが馬車の中は揺れる。

 フランシーヌは何度も窓枠に頭を打ち、うっかり車輪が石を踏んだときには座席で弾んで床に転がった。


 同乗者はいなかったのでこの醜態を誰にも見ない点はよかったのだ、フランシーヌを助け起こす者がいない状況は事態を悪化させた。

 「着きました」という御者の声に目を覚まして馬車から降りたフランシーヌの姿は、風魔法の中心にいたかのように髪はぐしゃぐしゃ、白衣は半分脱げかけ、手を差し出していた御者は固まり、出迎えた侍女三人は唖然とし、執事長はため息を吐いた。


 長年公爵家と共にあるフリードリヒから見ても、末っ子のフランシーヌは貴族令嬢の変異種だった。

 幼女の頃は人形のように愛らしく、少女の頃は天使のように愛らしく、そして今も月の女神のように愛らしいが、オンとオフの違いが激し過ぎた。


 レーベン公爵令嬢のときは『月下の佳人』と呼ばれ、数多の貴族令息たちを虜にしているというのに、魔法薬師フランのときは公爵家の下女よりもみずぼらしい姿であることも珍しくないときた。


 それもこれも、『王国一過酷ブラックな労働環境』にいるせいだった。

 なぜレーベン公爵家で大事に育てられた末っ子三女が、家族から大層可愛がられている令嬢が、あのような漆黒の魔法薬業界に身を投じたのか。

 フリードリヒにはさっぱり分からなかった。


「お帰りなさいませ、お嬢様。五日ぶりでございますね」

「魔法薬の注文がこれでもかってくらい来てしまったの。聞いてフィリー、初級の回復薬くらいなら半分寝てても作れるようになったのよ」


 五日も家に帰らずに仕事漬けだったことへの苦情を込めても、フランシーヌのふわふわした笑顔で簡単にいなされる。

 ついでに毒気を抜かれ、フランがつけた、フランだけが呼ぶ愛称フィリーを聞けば簡単に絆される。

 結局フリードリヒもフランシーヌに甘い人間に一人でしかないのだ。


「それはようございました」

「先輩にね、『一人前の魔法薬師になったな』と疲労回復薬でお祝いしてもらっちゃったわ」


 淑やかな見た目と話している内容のギャップがひどい、実に逞しいフランシーヌの報告にフリードリヒはため息を吐きたくなった。


 執事長としてフリードリヒはレーベン公爵家の家政に深く関わっていて、この公爵家にこれ以上必要なものはないことも分かっている。

 この家は権力も資産もこの国トップ(クラス)である。


 そんな家の家訓は『自主・自律・自由』で、これが見せかけでないことを彼は間近に見てきた。

 父公爵に「自由に育ちなさい」と言われた通り、子どもたちは実に自由に育ったのだが、『ワシの子はワシ』というのか、公爵家の七人の子どもは全てワシで、トンビなど一羽もいなかった。


 魔法使い、騎士からの冒険者、学者、職人、芸術家、研究者。

 父上のあとを継ぎたいと『公爵』の能力を磨き続けた長男以外の子どもたちの経歴はバラエティに富んでいる。


 彼らのすごいことは自由に進んだその道で全員が国に貢献していること。

 歴代の公爵家の者がそうだったように、彼らはさらに公爵家の名声と資産額をさらに上げて、「これ以上権力はいらないのに」と父公爵の苦笑を誘っていた。


 フリードリヒにとって公爵家はずっと「面白い家」だった。


 ***


「お嬢様、お風呂の準備が整っております。ヴェラ、頼んだぞ」


 フラフラとバスルームに向かうフランシーヌの後ろ姿に、「幽鬼の方がもう少し元気じゃないかな?」と思いながらフリードリヒは苦笑する。


 この後の展開は分かっている。

 フランシーヌは溺死を防ぐため長姉が開発した浮遊魔法付き浮き輪を首に巻き付けて、侍女三人に徹底的に髪を肌をケアされるのだ。


 現時点で夢の世界の住人なのだ。

 今夜は夢も見ずに眠れるだろう……そんな思惑はすぐに破られることとなる。



 それはバスタイム終了後、フランシーヌの私室で最後のケアをしている、髪をとかしていたエレインが何気なく問いかけた一言で始まる。


「お嬢様、明日の王太子様へのお誕生日の贈り物は何を御用意したのですか?」

「贈り物……あ、忘れていたわ」


 フランシーヌの言葉に、まずエレインが真っ青になる。

 そしてヴェラは「執事長を呼んでまいります!」と叫んで風のように走り去り、マキシは眠気覚ましの効果のある魔法薬を加えたお茶を準備した。


「夜中にあまりお茶を飲むのはよくないわよ?」

「お嬢様、今回の夜会で『贈り物なし』は絶対にありえません」


 貴族たちが全精力をかけて贈り物探しをしていることは、国を牛耳る公爵家に勤めるものなら下人たちもよく知っている。

 唯一未婚の令嬢であるフランシーヌにその気がないため『他人ごと』、王族の関心なんていまさら、必要とさえ思っていない公爵家なのだが、人として世紀のロマンス誕生の予感にウキウキはしていた。


「お嬢様、私たちも『侍女一同』で、ささやかなものですが、用意しましたよ?招待を受けたお嬢様が何も用意しないのは……」


 ルドルフは幼い頃から公爵家に出入りしていたため、ルドルフにとって公爵家は第二の我が家、使用人たちにとっては公爵家の子どもと同じ存在である。



「まあ忘れてしまったならしょうがないだろう」

「あなた、大人気ないですわよ」


 家の大事と侍女が気をきかせて当主を呼びに行ったのだろうが、「母は」と楽しそうに笑う公爵にフリードリヒはため息を吐く。

 公爵はルドルフを自分の子どもと同じように大事にしてきたが、フランシーヌを婚約者に望んだことだけは許していないことをフリードリヒは知っていた。


(できるかぎり二人が合わないようにしていましたが、今回ばかりは『未婚の令嬢全ての参加が義務』の夜会だから……嬉しそうだな、旦那様)


 誕生日プレゼントの用意を忘れていたということは、その程度の男でしかない。愛娘の王子に対する認識は公爵にとって愉快であり、それを分かっていた執事長はため息を吐いた。


「手ぶらで行くのはフランシーヌの恥になりますわよ」

「それじゃあ失礼のないものを適当に用意すればいい。フランお手製の疲労回復薬はどうだ?意外と喜ばれそうだし」


 公爵の言葉に『どこの子どもの誕生日会ですか!?』とフリードリヒは声を荒げたくなったが、


(あの方は優秀がゆえにろくに休みを取らないから……それもありかもしれませんね)


 フリードリヒ本人はテコでも認めないだろうが、彼も十分公爵家の人間だった。


「疲労回復薬なら直ぐに作れますね。ああ、そういえばお手紙があるのだっけ?」

「「「……そこからですか」」」


 侍女三人衆はがっくり肩を落とし、これについては流石に公爵も苦笑して、


「フラン、王太子殿下の嫁になんて微塵も思っていないけれど、世間では王太子殿下のプロポーズとまで言われている手紙だ。読んであげるのが礼儀じゃないかい?」


 フランシーヌ本人が望まない限り「結婚しろ」という気など公爵には全くないが、親の欲目を抜いても愛妻によく似た美しい娘。

 社交界では『月下の佳人』の二つ名をもつ美貌の娘が、そのライラック色の瞳を蕩かすのが魔法薬だけっていうのも何だかなとは思っていた。



「『名も顔も知らない貴女へ』なんて歌劇の題名のようね」


 ふふふと鈴の鳴る様なフランシーヌの笑い声に、その細く長い指が封筒を開ける音が重なる。


「何が描いてあるのかしらね」

「暗号みたいらしいけれど」

「最後の悪足掻きで適当な文様を描いたのかもしれませんね」


 侍女3人の言葉にフリードリヒは苦笑が浮かぶ。

 幼い頃の彼を知っているから、レーベン公爵家の兄弟たちとやんちゃをしていた頃の彼の笑い声が思い出された。


 ほのぼのとした気持ちは一瞬で霧散する。


「フラン―――なぜ、泣いているのだ?」


 公爵の驚いた声。

 エレインが慌ててエプロンからハンカチを出してフランシーヌに手渡す。


 おっとりしていて滅多に泣かないことで定評があるフランシーヌ。

 そんな彼女が手紙の上にボタボタと大粒の涙を落としながら泣いていた。

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