第8話 世を忍ぶ仮の姿
「最近アカデミーが賑やかね」
女性らしい華やかな声にフランシーヌは首を傾げた。
魔法薬師たちが研究棟としているこの施設は男性が九割、残り一割の女性も理知的なタイプなのであのようにキャアキャア騒ぐタイプではない。
そんなフランシーヌが答えを知ったのは数時間後。
食堂で列の前後になった顔見知りの女性研究者が「貴族のご令嬢がアカデミーにきているの」と教えてくれた。
「貴族のお嬢様が、こんなところに?」
そういうフランシーヌは貴族筆頭であるレーベン公爵家の令嬢である。
「ご令嬢たちも好きできているわけじゃないのよ。昨日だって薬草を
フランシーヌも貴族令嬢であることをこの研究所の者は知る由もない。
フランシーヌ自身は積極的に言いまわる性格でも必要性もなかったので黙っていただけで隠してはいない。
実際に研究所に就職する際に提出した履歴書にもレーベンの姓を書いたのだが、面接官たちは所長にいたるまで連日の激務と疲労困憊した脳が麻痺し、レーベンの名前も理解せずにフランシーヌの経歴だけで採用した。
研究所内で名前を書く機会もあるが、研究所では全員が名前を短くした愛称でサインする習慣があるので、フランシーヌも「フラン」と書いており、その貴族っぽい名前を知る人もおらず同僚の認識は「魔法薬師フラン」だった。
まあ、フランシーヌが貴族令嬢として認識されたいのは本人のせいでもある。
普通の貴族令嬢ならばお洒落と美容に気を使う。
家のために利益ある政略結婚をし、嫁いだ先や社交界で役に立つよう立ち振る舞うことを実家に望まれているからだ。
肌の手入れは毎日数時間、外出時は何日も前から吟味したドレスを身に着ける。
ドレスは晴天用と雨天用を準備。
急な雨で濡れたなんてときは大騒ぎして帰宅、雨天用のドレスに着替えて再び出かける御令嬢も珍しくない。
そんな努力をしている貴族令嬢たちと、三日以上着続けて薄汚れた白衣を平気で着て歩き回っているフランシーヌを同じにしては本当に申し訳ない。
美容にだって気を使うことはなく、連日の徹夜で目の下には漆黒の隈を作りつつも化粧で隠さず平気で歩いているフランシーヌを彼女たちと同じにしては本当に申し訳ない。
同僚だって目の前のこのフランが、社交界で『月下の佳人』と呼ばれ、公爵家の皆の愛情を浴びて育ったフランシーヌ・フォン・レーベンだと思うまい。
『月下の佳人』という二つ名の由来となった月夜に映える銀色の髪は適当な紐でひとつにくくられている。
近づいてみれば明らかにレポートを綴じるための粗末な糸である。
貴族令息が「一度でいいからあのライラックを思わせる美しい瞳に映りたい」とため息を零す瞳も今は骨董品のような大きな眼鏡の奥に隠れて良く見えない。
「精霊のように儚げ」と賛美される白い肌は、普段研究塔から出て来ないから日焼けしなかったというだけである。
「何でそんなにご令嬢たちがアカデミーに来ているの?」
「手紙のせいよ」
「手紙って?」
「もー、フランったらそれも知らないの?王太子殿下が国中の貴族令嬢に送った手紙。事務所にいる子爵令嬢の……名前は忘れたけれど、あの子が自慢してたじゃない」
「フランは魔法薬以外に興味がないのね」と呆れたように言いつつも同意するように笑った同僚と別れたフランはただただ首を傾げるだけだった。
***
「フラン、緊急の仕事なの。魔法師団に魔力回復薬、百本、三日以内。できる?」
「いいわよ」
飛び込んできた事務官の女性は『申しわけない』という顔をしてはいたが、フランシーヌが了承すると思っていたのだろう。
フランが了承すると同僚の顔からは申し訳さがあっさり消えた。
「自分でお願いしてなんだけど、フランの魔力量ってすごいわよね。魔法師団長のラルフ様くらいあるんじゃない?」
「さすがにそれはないわ」
フランシーヌの兄であるラルフは一人で中隊一個分の戦力を誇る魔法使いであり、いまは「大隊一個分の戦力になりたい」という目標に向かって鍛錬を欠かさない努力家である。
「魔法使いは無理としても、三日間魔法を使い続けれて、五百本以上も魔法薬が作れちゃうなんてすごいわよ」
「どっちでもフラフラになったわ。王城に納品したあとはどうやってここに戻ってきたか記憶にないもの」
フラフラですんだだけでも奇跡的な所業である。
しかしフランは「できるからやった」と思っているので、誇ることなくあっさりとしていた。
「あっと、話し込んでいる暇はなかったんだった」
「最近忙しそうね。もう一人の事務の子はどうしたの?」
「あの子は王太子殿下の手紙の謎を解くのに忙しくて連日休みよ。まあ、腰かけ令嬢だからいてもあまり役に立たないけれど」
「ああ、手紙……謎?変な手紙なの?」
「私も封筒を見せつけられただけだから。宛先にはね、『名も顔も知らない貴女へ』って書いてあったの。『王子様は私が?』って頬を染めて正直鬱陶しかったわ。全く、あの手紙はこの国の未婚の令嬢全員に届いたっていうのに」
「いくら王太子殿下とはいえ、そんなにたくさんの恋人を一度に持つのはどうかと思うわ」
あの女嫌いの王太子に何かあったのだろうかとフランシーヌは内心で首を傾げた。
あの夜飲まされた毒のような魔法薬は後遺症もなく問題なく完治したと聞いていたが、実は性欲が増すなど何か副作用があったのではとフランシーヌは思った。
「手紙の中には書かれていたのは、恨み言?」
「何で恨み言か分からないけれど、暗号だったらしく、それが誰にも解けていないの。でも殿下が『私の“好きなもの”が分かった女性を婚約者にする』なんて言ったのは有名でしょ?あの暗号を解けば殿下の『好きなもの』が分かるって言われているのよ」
「王太子殿下も……二十五、二十四?いい御年だものね」
「今回の手紙の裏には王妃様がいらっしゃるそうよ」
同僚の言葉は間違っていないが、正しくはなかった。
確かに今回のことの裏に王妃がいるが、王妃はただ「孫が欲しい」とそこらの庶民の母でも普通に言っていそうなことを言っただけだった。
王妃本人もこんなことで息子が動くなんて思っていなかったが、意外にも息子は「それなら頑張ってみましょう」と初めて前向きなことを言った。
五歳の頃から苦節二十年。
ルドルフが初めて見せた前向きな姿勢に国王は歓び、踊り、「貴族の女性なら誰であろうと文句を言わないし、誰にも文句を言わせないからな」と息子の婚活に全面協力を約束したという。
父王だけでは飽き足らず、「母上も協力してくれますか?」という念を押すような息子の問いかけに、王妃は流れる涙をぬぐいながら何度も頷いたらしい。
人に対する不信感の高い息子だったが、両親の言葉は信じた。
それでも「レーベン公爵が反対しても俺の味方をするって約束してください」という息子の言葉には十五秒ほど悩んでから頷いたらしい。
***
『私の“好きなもの”が分かった女性を婚約者にする』
御前会議での王太子の発言に貴族たちは奮い立った。
この五年間はレーベン公爵が怖くて彼らは何もできなかったが、王太子本人が結婚する意志を持てば公爵は何も言わなくなるからだ。
王太子の宣言後、貴族たちは『王太子の好きなもの』を探り始めたが、これが難航した。
本来ならば社交界に出たばかり、五歳のお茶会のときから調べておくべきのことだが、そこら辺をすっ飛ばして自分の娘を売り込んだツケである。
彼らはまず王太子の母である王妃、王太子を育て上げた乳母に訊ねた。
彼女たちは大金を積まれようと高価な宝石を差し出されようと「好きなものはわからない」と答え続けた。
彼女たちの性格が清廉だったこともあるが、彼女たちも実は王太子が『好きなもの』なんていったときから首を捻っていた。
幼い頃から何でもそつなくできたため、何かに執着をすることもなく、何でも食べるし、服やインテリアにこだわりを見せたことがなかった。
結果、多くの者たちが『王太子殿下は〇〇が好きなようだ』という噂に盛大に踊ることとなる。のちにこのときの王都の盛況な市場は『らしい特需』と言われることになる。
ある伯爵家は「王太子殿下がこの画家の絵を買ったらしい」という噂をもとに、その新人画家の絵を買い占めた。
ある侯爵家は「王太子殿下は東方の村の特産物の絹織物を気に入っているらしい」と聞き、王太子妃にと教育してきた自慢の娘に、絹織物は結構値が張ったが、費用を惜しまずドレスを数着仕立てさせた。
この『らしい特需』がある程度落ち着いたころ、国内の貴族に王太子からの手紙であることを示す水色の封筒が届いた。
宛名は「名も顔も知らない貴女へ」。
ロマンスの始まりを予感させる封筒に御令嬢たちは胸を高鳴らせ、頬を赤く染めながら封を切って中身を取り出し、仰天することとなった。
そこに書かれていた『もの』。
文字か記号か模様かさえも分からない『もの』に多くの者が首を傾げたが、これが解ければ王太子妃への道が開かれるとあって彼らは諦めなかった。
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