7-2 感情

「この部屋、薄暗くて良かったぁ。あんたの顔を明るい場所で見なくていいんだもん。部屋に連れ込んで、あんた、あたしに何するつもりよ? 一晩一緒にいても手も出せないヘタレのくせに、ほんとばかみたい。あんた、何がしたいの? 薔薇なんか用意しちゃって。似合わないんだよ」

 下品にげらげらと笑う香奈。

 青い薔薇を一輪手に取って眺めている香奈が、全然可愛いと思えない。

 これが、香奈の本性なのか。

「あたしはね、慎二君が妬いてくれたらそれでよかった。でもさー、いろいろ計算狂っちゃって。計算違いとはいっても、あんたが慎二君殺してくれたのはラッキーだったかも」

 そこで香奈は、ベッドに座る。

「この部屋なんだよね? 殺した場所は」

 香奈はきょろきょろしている。

「どうやったの? ね、どうだった? 大事な幼馴染をこの手で殺しちゃうって、悲しい? 苦しい? すっきりした?」

 香奈はベッドに座ったまま、大きな目で俺を見ている。

「悲しいとか苦しいての、あたしにはわかんないんだけどさ」

「やめろ!」

「今度は、あたしを殺しちゃう?」

 ベッドの上でけらけらと軽く笑う香奈に我慢ならなくなり、俺は、香奈をベッドに押し倒していた。

 俺は、香奈の首を絞めようとしている。右手の親指が、香奈の喉を押さえつけるのを躊躇っている。

「やるならやれば? 一人やっちゃってんじゃん」

 至近距離で香奈の顔を見るのが辛い。どうしてこんなことを言われなきゃいけないのか。

 俺は香奈から真実を聞いて、すべてを許そうと思っていたけれど、出来そうにない。

 香奈は、俺を見下している。

 俺には殺せないという、見下した目をしている。

「やるんならさっさとやっちゃってよ。でもさ、そうしたらある情報を教

えてあげられないけど」

 香奈は、動じていない。

 肝が据わっているとかそういう問題ではない。怖いという感情がないのだろうか。

「情報? 情報って何の話だ?」

 俺は、首を絞めようとしていた手を緩めた。

「あんたのお父さんの居場所、知ってんだよねー。あたしの指示一つでどうにでもなる場所にいるんだけどさ。ずっと前にあたしの仲間が、あんたのお父さん見つけてくれちゃってさ。ある場所に監禁してるの」

 監禁? なぜそんな事を?

「アキさんも知ってるのか?」

 アキさんだったら、そんな事しないはず。監禁なんてそこまで曲がった事はしないはずだ。

 いくら香奈のためでも、そこまでは……。

「アキってさ、ずっとあたしのためにいろいろしてくれてたんだけど、もう使えなーい。あんたの事、弟みたいに思い始めちゃってさ。丸くなったっていうのかな。つまんないやつになったよね」

 香奈の顔が醜くみえてくる。

「最初にアキが言ったんだよ。慎二君とあんたから、あんたのお父さんを引き離そうって。そうすれば、うまくいくからって」

「……どういうことだ?」

「あんたの父親って、慎二君の憧れの人だったんでしょ? 引き離しておかないと、再会したとき、あたしの影が薄くなるようじゃつまらないじゃん。だから、アキの元カノにお金渡して、あんたのお父さんの家出をうまいことやってもらったんだ」

 父さんが女のところにいたのは、浮気じゃなかったのか?

「どういうこと?」

「アキが元カノの風俗嬢に、あんたの父親を奪っちゃってって頼んだの。正義感が強いらしいから、それを利用したわけ。風俗やめたいけど借金あるから逃げられないとか言ったら、家を出てまでその女を助けたの」

 父さんは、俺と母さんを捨てたわけじゃなかったのか。人助けだったんだ。父さんらしい話だけど。

「でもさ、風俗嬢があんたの父親にマジボれしちゃって。騙し続けるのが辛いからやめるって言い出したらしいのね。でもその頃には、慎二君と再会できてたし、あんたもあたしに騙されてたじゃん? だからアキは、その女に口止め料を渡して消えてもらったって。そんなのつまんないじゃん? あたしは、あんたのお父さんを、あたしの別の男使って監禁しちゃった」

 なんだそれ……。

 母さんも俺も、香奈に振り回されてたってことか?

「あんたの父親を監禁してること、アキは知らないよ」

「アキさんは、香奈の事を大事に思ってるよ」

「うん、知ってる。アキは、あたしに逆らえないんだよ。あたしのこと、好きなんでしょ? 意外と純粋なとこあるよね」

 香奈は、当然の事のように言い放った。

「あたしがアキにあんたを紹介しなかったら、アキは冷酷なままだったろうね。でも、そんな事ももうどうでもいいや。コネはアキだけじゃないもん。アキの教えてくれた通りにしてると、コマなんて簡単に作れちゃう」

 くすくすと笑う香奈。

 アキさんまでも馬鹿にしているような言い方に、俺は腹が立ってきて手に力を入れた。

 香奈の顔が歪んでいく。親指が、香奈の喉を押さえつける。

 俺が本当に首を絞めるとは思ってなかったのか、香奈は何か喋ろうと暴れている。

 俺が体を押さえつけているから、香奈はびくともしない。

 どれだけ馬鹿にされていようと、香奈の真実を知っても、香奈を好きでいる自信があった。

 根拠はないけど、大丈夫だと思っていた。

 でも、もう、我慢ならない。

 俺だけならまだいい。

 父さんやアキさんまで、つらい思いをさせた。それは絶対許せない。

 慎二の事だって、好きだったくせに……。

 香奈が咳き込み始めた。目に涙を浮かべ、か細い声で「良太君」と言っているように聞こえた。

 俺はふいに力を緩めてしまった。香奈を嫌いになんかなれないんだとわかった。

 箱庭の中にあった川のその先の海のような存在に、俺はなりたいと思っていた。

 もう、それは無理だろうか。

 香奈は、慎二の両親のような深い愛情をそそいでくれる存在がいなかった。

 俺が、香奈を変えてあげたい。

 だけど、それは無理なんだ。手遅れだ。

 香奈の首から手を離し、俺は部屋の床に座り込んだ。

 香奈はしばらく咳き込んで苦しそうにしていた。

「殺して。殺せばいーよ」

 かすれた声で香奈が言った。

 聞き間違いかと思った。

 でも確かにこの耳は、香奈の声を聞いていた。

「俺が香奈を殺せると思うか?」

 さっきまでこの手は、香奈の首を絞めていた。でも、息の根を止める事は出来なかった。それを思い出しただけで、体が震えてくる。

 藍色の部屋は、物音ひとつしない。

 俺も香奈も、何も言わず、その場から動かずにいた。

 そのとき、からからとハムスターのケージから音が静かなこの部屋に響いた。

「そうよね、あんたはあたしを殺せないよね」

 香奈がベッドから起き上がり、座り込んでいる俺を冷たい目で見下ろした。

「あんたがもうちょっとイケメンだったら、違う展開を考えたんだけど。いろいろざんねーん」

 冷たい目、冷ややかな口調。俺は、そんな香奈を見ていられなくてケージの方へ視線を移す。

 小さな体でケージを走り回る姿を見ていると、こんな状況なのに心が和んだ。

「父さんをどうするつもり?」

 俺は、香奈と目を合わさないようにしながら言った。

「どうしてほしい?」

 香奈は、俺の背後に移動しそこに座り込む。香奈の右手が俺の右肩を触れる。

 右肩が熱い。香奈がそっと触れているだけで、心臓が壊れそうになっている。

 香奈の本性を知っても、俺は香奈を嫌いになんかなれないんだと痛感した。

 ずっと、ずっとずっと好きだったんだ。真実がどうであっても、簡単に嫌いになれないし、見放したりもできない。

 かといって、海のように深い母親のような愛情を持って接するのも、難し

い。

「あんたにいろいろばれちゃったし、利用価値がなくなっちゃった。もう切り札にもならないような気がしてるから、お父さんの監禁はやめちゃっていいんだけど」

 突然、背後から正面にまわって香奈が抱きついてきた。

「上野に罪をなすりつけたら、あの親父への復讐は出来ちゃうでしょ? あんたはもう、用済みになっちゃう。どうしてもらいたい?」

「俺を殺すのか?」

 香奈は、俺に抱き着いたまま、耳元で言う。

「あたしは自分の手は汚さないよ」

 俺は、香奈の右手を取る。

 悔しいとかじゃない。辛いというのでもない。今の心境をどう表現すればいいのかわからなくなっている。

「じゃあ、誰かに俺を殺させるか?」

「めんどくさいのは、いやなんだ。あんたが黙っててくれたらいいってこと! 簡単でしょ?」

「今まで通りって?」

「そう。あたしと一緒にいたいんでしょ?」

 本当の事を知った今では、揺らいでいる。

 だけど、香奈が俺に触れるたび、心臓は跳ね上がる。これは、まだ俺が、香奈を好きだという事なんだろう。

「あんたの父親はアキが監禁したことにする。あたしはそれを助ける。それでどう?」

 行き当たりばったりの思いつきで、父さんは監禁されたのか。

 怒りなのか……。このこみあげてくる感情は。

 いや、違う。

 香奈に対する呆れなのかもしれない。それでも俺は、香奈の事を好きでいる。この矛盾は、自分でどうにもならない。誰を助けたらいいのか、優先順位を考えてみても、香奈の手が触れるたび、俺の心は惑う。


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