第七章 決意
7-1 藍色の部屋
青い薔薇が届くまでに、いくつか準備をすることがあった。
まず俺は、郵便局へ向かった。窓口で手続きを済ませる。
それからスーパーへ買い物に行く。
すると、二人の刑事が物陰からこちらを見ているのに気付いた。久しぶりに井原刑事と野口刑事を見た。
二人を避ける理由がないので、そのまま進む。
「こんにちは」
とりあえず挨拶をしておく。
「郵便局へはどんな用事が?」
久しぶりに井原刑事の冷ややかな声を聞いた。
「郵便物の郵送です」
「時間かかってたよね。中で手続きをしなきゃいけない事でもあった?」
野口刑事がやわらかい口調で質問してくる。
「切手が足りなかったんです。だから窓口に行っただけです」
本当は違う目的があったけど、そう答えておく。
「そういえば、おじいさんたちと一緒に住まずに、一人であの家にいるんだね」
野口刑事は、世間話でも始めようというノリでそう言った。
「あの家は、母が俺に残してくれたものです。それに、父がいつ帰ってきてもいいように、俺はあの家にいなくちゃいけない」
「おじいさんたちと一緒の方がいろいろ楽だと思うけどね」
野口刑事は、人あたりのよさそうな口調でそう言った。
「いいんです。一人でも大丈夫ですから」
俺はそこまで話すと、二人に一礼してその場から早歩きで立ち去った。
買い物を済ませ、家に戻る。
今度は掃除だ。香奈が来るから。
恥ずかしくないくらい、キレイにしておきたい。
香奈から真実が聞けたらどうするのか、まだ悩んでいる。でも、最悪の場合を考えてその準備をしていた。あとは青い薔薇が届くのを待つだけだ。
壁と天井に貼り付けた藍色の布を、皺ひとつないようにきれいに調節してみたり、ハムスターのケージを入り口からすぐに目につくところに置いてみたりした。
落ち着かない。何度も携帯の時計を確認した。
薔薇が届いた。部屋の半分を埋め尽くすくらいの量の、青い薔薇を部屋に運びこむ。
それらは、部屋の中央に花束のままいくつか置いた。残りは近所で買った透明の花瓶に生けた。
午後五時。香奈がもうすぐ来る。
薔薇の香りで酔ってしまいそうになっていると、インターホンが鳴った。
転げ落ちるように階段を駆け下り、玄関へ向かった。
「こんにちは」と、香奈が優しく微笑みかけてくる。この笑顔が偽物だなんて思いたくない。
「上がって」
「今日はリビングじゃないの?」
「俺の部屋で話したい事があるんだ」
「そうなの。なんだろう?」
と軽く首をかしげながら微笑んだ。
階段を上がりながら、ちらちらと香奈の方を見る。香奈は俺の視線に気づいて、俺が知ってる優しい微笑みを返す。
これが演技だとは思えない。でも、アキさんが嘘を言っているとも思えなかった。
部屋のドアを開けると、香奈が「わあ、すごい!」と、声を上げた。
「壁と天井が藍色? これは、布なんだ。青い薔薇もあるのね」
香奈は、きょろきょろしている。
今ここにいるのは、俺が知ってる香奈だ。純粋にこの部屋を見て喜ぶ姿は、作られたものじゃないと思いたい。
「飲み物は、アイスティーでいい?」
作り置きしてあったアイスティーを、ガラスのコップに注ぐ。
香奈は部屋を見回している。
「間接照明だけなの?」
「薄暗いのは嫌い?」
「ううん。照明がきれいにこの藍色の布を照らしていて、素敵だね。照明とこの部屋の雰囲気が、とてもいい。それとこの青い薔薇……」
香奈は、アイスティーを飲んだ後、部屋の真ん中にある青い薔薇の花束を一つ、手に取った。
「きれいね」
「香奈が喜んでくれて嬉しい。青い薔薇は、神様からの祝福という花言葉らしいんだ」
「これ、私に?」
香奈が嬉しそうにしていると、もう真実を聞かなくてもいいような気がしてきた。いや、慎二のためにも、俺は真実を知るべきなんだ。
香奈、そしてアキさんのためにも。
俺は意を決して言う事にした。
「香奈は、慎二と付き合ってたんだってね」
俺は、自分でも驚くくらいの低い声でそう言った。
香奈は、花束を持ったまま動かない。花束で顔を隠していて表情が見えなかった。
今、香奈はどんな顔をしているんだろう。
香奈の肩が震えている。泣いているのかと思った。俺は香奈を悲しませたのかと思って、不安になる。
「香奈、ごめん。変な質問して……」
俺は言い方を間違えたかと思って、香奈に近づいた。
香奈は、俺に花束を押しつける。
泣いているんじゃなくて、香奈は笑っていた。それも、俺が知ってる慎ましやかな笑顔ではなく、それは、嘲笑う、そういう笑いだった。
俺が呆然としていると、香奈の笑い声はだんだん大きく部屋に響いてきた。
「ああ、おかしい! やっと気付たんだ。アキから聞いたんだよね。そうじゃなきゃ、気付くはずがないし?」
控え目に微笑んでいた香奈は、そこにはいない。下品に大きな口を開けて笑っている。
そんな香奈を見ていられなくて、俺は目をそらす。
「目、そらしちゃう? 信じてた香奈ちゃんじゃないもんねぇ。こんなの見たくないって?」
俺は耳を塞ぐ。
今の香奈は、何もかも下品だ。
「香奈は、俺と付き合ってるわけじゃなかったんだよな」
俺は、声を震わせながら訊ねた。
「だってぇ、付き合ってくれって言われてないじゃん? あたしの事、あ
んたの脳内で勝手に彼女にしてたんじゃん。イタイよね。今まで笑いをこらえるのが大変だった。あんた好みのオンナの演技、サイコウだった?」
けらけらと馬鹿にしたような笑い声が、部屋に響く。
香奈は、ふと笑うのをやめて、俺を横目で見る。その目は、とても冷ややかなで、俺は目をそらす。
「あんたって頭はいいんだよねぇ。でもさー、それ以外、なぁんにもできないじゃん。つまんなかったなあ」
今、この部屋にいるのは、本当に香奈なんだろうか?
別人なんじゃないかと思うくらい、今までと違う。
「ずぅっと前から言いたかったんだけどさ。あんたさ、自分の顔、鏡で見
たことあんの? 超ださい。このあたしが、本気であんたみたいなださいのと付き合うわけないじゃん。取り柄は身長が高いだけ。後ろから見たら我慢できる感じ?」
この部屋が薄暗くて良かったと思った。ダサくてどうしようもない外見なんて、そんな事、わかってたよ。
でも、香奈に言われるとは思ってもみなかった。
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