6-4 真実(2)
とても長く感じる夜が明ける。朝一番に、カウンセリングの予約をとった。
安田先生が電話をかわってくれたので話すことができた。俺の体調を気遣っているようだった。
『精神的に落ち着かないときは、箱庭療法を休んでいいと思うの』と、気乗りしない様子だった。
「今じゃないと、向き合えないような気がするんです」
『心理療法は、いい状態じゃないとおすすめできないわ』
「お願いします。大丈夫ですから」
『具合が悪くなったら途中でやめるわよ。それでもいい?』
「はい、それでもいいです」
『わかったわ。今日は予約がいっぱいなんだけど、特別に昼の一時に時間を作るわね』
電話を切った後、アキさんにメールを送った。家にいても落ち着かない。
アキさんがどこまで知っているか、知りたい。
香奈は学校に行っているだろう。今ならアキさんから、話を聞ける。
『一人で家にいたくない。店に行ってもいい?』というメールの返事は、『待ってるよ』というシンプルなものだった。
この優しさに、嘘がないと信じたい。
カフェの前で深呼吸をする。
俺は香奈とアキさんの会話を聞いていないフリをしよう。アキさんの真実を知りたい。
ドアを開ける。
カウンターの向こうのアキさんが、俺を見て「おはよう」と、いつも通りの笑顔で迎えてくれた。
「昨日、店に寄ろうと思ったんだ」
俺はアキさんの様子を探るように見る。アキさんは表情を変えない。
「近くまで来てたんだよね」
それでもアキさんは表情を変えない。香奈が来ていた事を黙っているつもりなんだろうか。
「香奈ちゃんも昨日、来てたよ。良太の事を心配してた」
アキさんはそう言ってから、「ココアでいい?」と聞いた。
俺は頷く。
香奈が来ていたことは隠さなのか。そう思うと、やましい関係はないのかと、ほっとしている自分に気付く。
「香奈、俺の事で何か言ってた?」
俺は、探るように問いかける。
アキさんはそれでも表情を変えない。
「良太が落ち着くまで、出来るだけ傍にいてあげたらいいって、そんなアドバイスしかできなかったよ」
「もしも、俺が取り返しのつかないことをしていたら、アキさんはどう思う?」
「なんだそれ。抽象的過ぎて答えようがないな」
アキさんは、鍋に牛乳を注ぐ手を止めてそう言った。
「例えば、殺人」
声が裏返ってしまう。
アキさんは、牛乳を床に落とした。わかりやすいくらいの動揺だった。
アキさんが動揺するのを、俺は初めて見たと思う。
「良太、俺に探りいれてどうするつもりだ?」
低い声。こんな声は知らない。
聞いたことがない。
「何を知ってる?」
「昨日、店の前で香奈と話してたところを聞いてたんだ」
アキさんは、ふうん、と言いながら、床に落ちた牛乳パックを拾う。
「どこまで聞いたのかなあ。それを聞いてどう思った?」
「アキさんと香奈はどういう関係?」
アキさんは、他の客の方に目を向けた。何か目配せをしたと思ったら、二人いた男女の客が席を立ち、店を出て行った。
「どこから聞きたい?」
アキさんの声がいつも通りに戻る。
「どこから聞いても、良太は俺を信じられなくなるだろうね。今の良太には、多分、耐えられないと思うよ」
アキさんの目は、優しい目をしている。聞いた事のない低い声を聞いた時とは違う。いつも通りの目だ。
「今、俺を信用するか迷ってるんだろう? これから話す事を信じるかどうか、それは良太に任せる」
「香奈のこと?」
「そうだな。どこから話そうか」
アキさんは遠い目をしている。
「良太は、香奈をどういう女だと思ってる?」
「ずっと俺は、香奈を信じてた。香奈は俺だけを見てくれてるって」
「学校で香奈はどういう態度をしてた?」
「学校?」
「良太にはこの質問は難しいか。じゃあ見方を変えよう。香奈と最初に知り合ったのは慎二君だよな。良太はいつから香奈と二人で会うようになったか覚えてるか?」
いつから?
俺は記憶を辿る。
「おばさんの体調が悪くなって、慎二が学校を休み始めた時だったかな?」
「その頃、香奈が良太に対して特別な言葉を口にしてたか?」
「特別な言葉?」
「たとえば、一緒にいたら落ち着く、とか。そんな風に言われなかったか?」
中学二年の冬、公園でそう言われた。手が触れただけで、香奈は照れ臭そうにしてたけど、ちゃんと手を握り返してくれた。
「一緒にいたら落ち着く、それは魔法の言葉みたいなもんだ。俺が教えたからね。そういうことを言うと騙される奴いるんだって」
アキさんが苦笑いをする。
「それからは気を持たせるようなことを言う。そして少しだけ、少しずつスキンシップしていく。自分のことは語らない。踏み込まれたくないだけだと匂わせる。そんな感じだったろ?」
アキさんは、まるで見ていたかのように言う。
「香奈のあの目は、嘘だったのか?」
「嘘かどうかは、俺にもわからない」
アキさんはコップに水を入れて一気に飲み干す。
「アキさんは、香奈の過去を知ってるのか?」
「それを知る前に、質問。香奈の家、どこにあるか知ってるか?」
「家は、送っていったことがない。いつも駅までしか送ってないから」
「どうして家まで送らなかった?」
「どうして……?」
気付いたら、いつも駅の改札までということになっていた。そこに違和感を覚えることはなかった。
「香奈が、家のことを話さないのは、言いたくないことがあるからだと思ってた。俺も父さんのや母さんのこと、自分からすすんで言いたくなかったから。同じようなものだとばかり」
「良太は、知らないうちに香奈の思惑に乗せられてたんだよ。この店にしても。いつもここで会うようにしてただろ? 学校ではほとんど話してないはずだ」
「それは……」
俺は言い返せなかった。
気付いたらそうなってた。
駅まで送ること、この店で会うようになったことも全部。
香奈がそう仕組んでいたのか。
「そういう思い込み。刷り込ませるやりかたも、俺が教えた」
「アキさんと香奈はどういう関係?」
「簡単に言えば、幼馴染だな。良太と慎二君のような純粋なものじゃない」
「純粋じゃないって?」
「見方によっては純粋なんだけど、香奈はそう思ってないだろうね」
「どういうことだよ」
「俺は、香奈が生きていきやすいように道を作ってきただけだ。そのためにはなんでもしてきた。利用できるものはなんでも利用したよ。それが間違った道でも」
アキさんは、そこで哀しそうな目をした。
「歪んでるのはわかってたよ。どこかで別の誰かが、香奈をいい方向に導いてくれるかもしれない。それをどこかで願ってた」
「間違ってるとわかってて、それでもアキさんはどうして!」
責めるような口調になっていた。
アキさんはそんな俺をじっと見ている。
「それでもアキさんは、俺を騙していた香奈を、別の誰かが変えてくれるまで何もしないでいるつもりだった?」
その目があまりにも切なく見えたから、俺は弱々しく言った。
「もっと
そうしたくてもできないのは、今までアキさんが俺にかけてくれた言葉に嘘はないと、信じたいからかもしれない。
「俺は小五の時、施設に預けられた。酒を呑んで暴れる親父から母親が逃げた。親父は、俺の事を家から追い出した。自分の足で、児童相談所に行った。近所の人の証言もあって、施設に行くことになったよ。これで親から解放されると思って、嬉しかった。気持ちは殺伐としてたけどね」
「施設……」
慎二も施設にいた。
もしかして……。
「その施設で俺よりずっと年下の女の子がいた。いつも一人で絵を描いて誰とも喋らない。気になって声をかけた」
「それが、香奈?」
「そうだね。香奈は、産まれて間もない頃に施設に預けられていたらしいよ。育児放棄の親にね」
慎二は、実の親から暴力を振るわれていた。香奈は育児放棄。
施設。
繋がってきたような気がする。
「慎二も、施設にいたことがある。おじさんからそう聞いてる」
「慎二君の話を知ってるなら、もうわかるだろ?」
「慎二と香奈は小さい頃に、同じ施設にいた。そういうこと?」
「俺は慎二君に会ったことはない。俺が施設に入った頃には、もういなかった。俺は、香奈を守ると約束した。何があってもいなくなったりしない、そう約束してるんだ」
「アキさんは香奈の事を?」
俺がそこまで言うと、アキさんは悲しそうな顔をして笑いながら言った。
「どうだろう。ここまで来たら運命共同体みたいなもんだから」
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