5-12 カフェ

 電話を切った後、キッチンの皿の中の灰を濡らした新聞で包んで、ゴミ箱に捨てた。

 部屋に戻ると、携帯のランプが点滅していた。香奈からのメールだった。

『カウンセリングどうだった?』

 母さんの事をどう話そうか。

 香奈に会いたい。会って聞いてもらいたい。

 でも時間が遅いから、無理は言えない。

 発信履歴から香奈の名前を表示させ、発信を押す。

『どうしたの? 何かあった?』

 香奈の優しい声が、乾いた心を潤す。

「母さんが、死んだ」

 事実だけを告げた。

『え?』

香奈は、『どういうこと?』と、慌てたように聞き返す。

「母さんが、自殺したんだ」

『自殺……?』

 涙が出ないのはおかしいだろうか。

「ああ、えっと、崖から、車で」

 逃げるように病院から立ち去ってから、そんなに時間は経っていないけど、少しだけ平常心になってきている。それは、普通じゃないように思う。

『だいじょうぶ?』

 香奈の声が震えている。泣いているように感じた。

「香奈?」

『ごめんなさい。良太君の方がつらいはずなのに』

 香奈の優しさが、乾いていた涙腺を刺激する。

「香奈に会いたい」

『うん』

 泣いているのを堪えているような、か細い声。

「無理なのはわかってる。俺こそ、ごめん」

『今、家なんだよね? ちょっとだけ、アキさんの店で会う?』

 香奈から会おうと言われたのは多分初めてだと思う。

『そんな時に、一人でいるのは辛いよね。まだアキさんの店も開いてるはずだよ』

「ホントにこんな時間に外出して、大丈夫?」

『うん、良太君が会いたいって言ってくれるなら、今日は無理してでも会いたいよ』

 それからすぐ電話を切って、アキさんの店まで全速力で走った。思わぬ香奈からの言葉に、有頂天になっていた。

 無心で走っていた。

 香奈が無理して会おうとしてくれている、それが原動力だ。

 アキさんのカフェの前に着いた時、汗で服が肌にまとわりついていた。

 息が切れている。すうっと、深呼吸をする。

 母さんが自殺したというのに、走る余力がある自分がおかしくなった。

 不謹慎にも、笑みを浮かべる。

 そして、もう一度深呼吸をする。走った分だけ、疲労がきている。これがちょうどいいくらいに、疲れた顔をさせてるかも、と、冷静に考えている自分におかしくなった。

 会えると思っていなかったのに、会える。その事の方が嬉しい。

 カフェのドアを開けると、アキさんが「あれ?」と、不思議そうな顔をする。

 俺はカウンターの席に腰掛けた。

「どうした。こんな時間に珍しいな」

 携帯の時計は、九時を過ぎていた。

「母さんが死んだんだ」

「え? 良太のお母さん、病気だった?」

 アキさんは、面食らった顔をしている。

「今の言い方おかしいよな。ごめん。俺、こんな時にかける言葉間違った」

「病気じゃないんだ、自殺なんだ」

「自殺?」

「夕方、カウンセリングで病院に行ったら、母さんが運ばれてきた」

「そんな大事な時に、ここにいていいのか?」

「一人になるの嫌だったから」

「まあ、そうかもしれないな。ちょっと俺の方が動揺して、ほんと、俺、どうかしてる」

 アキさんがおろおろしている。

「いつもの席、空いてる。それとも香奈ちゃん来るまでこの席がいい?」

「いつもの席がいいかな……」

「ああ、じゃ、飲み物何がいい?」

「アイスティーで」

 俺は席を立ち、いつもの席に移動した。

 あんな慌てたアキさんを見るのは初めてだ。

 こんな時、どういう態度をしているのが普通なんだろう?

「こんな時、食欲ないかもしれないけどさ、冷たいスープなら腹に入るかと思って」

 アキさんは、テーブルにそれを置いて、俺の正面に座る。

「あのさ」と、アキさんが何かを言おうとした時、香奈が現れた。

「良太君!」

 タクシーを降りてから走ってきたのか、香奈は汗をかいていた。

 目は真っ赤になっている。泣いてるような、そんな顔。

 香奈は俺を見たあと、アキさんを見る。

「あ、香奈ちゃん。こんな時間に大丈夫だった?」

 アキさんは何かを言いかけていたのをやめて、そう言いながら席を立つ。「こっそり抜け出して来たよ」

「ごめん……」

 俺の為に無理をしてくれた。それが妙に嬉しい。

「良太君、だいじょうぶ?」

 アキさんがテーブルから離れ、香奈がそこに座った。

 香奈が目の前にいる。それが、母さんのことも、まとわりついていた汗の事も、忘れさせてくれる。

「香奈ちゃんは、飲み物どうする?」

「うん、良太君と同じのでお願いします。その前に、顔を洗ってくるね。ご

めんね」

 俺は俯いたまま、小さな声で「うん」と言った。

 グラスのアイスティーを一口、含む。

 哀しいはずの現実。

 その現実があっても、悲しいという感情があまりない。感情が追いついていないのかもしれない。

 父さんが出て行った時の悲しみの方が、深いような気はする。それは俺と母さんの関係性が薄かったからだろうか。だから、こんな風に客観的に考えてしまうんだろうか。

 香奈、遅いな。トイレでまだ泣いてる?

 俺は席を立ち、トイレの方へ向かおうとした。トイレは、カウンターの横から奥に入ったところ。厨房につながるところでもある。

 アキさんの声が聞こえた。

「いい加減にしろよ……」

「そんなこと言わなくても……」

 アキさんだけじゃなく香奈の声も聞こえる。でもなんだか少し雰囲気が違うようだと思った。

「アキさん?」

 俺は厨房につながるドアを開けた。 

 アキさんがはっとした顔で俺を見る。

「どうして香奈がここに?」

「トイレに行く途中でふらふらしてたから、落ち着くまでこっちで話してたんだよ」

 アキさんが優しい口調でそう言った。香奈は俯いて、持っていたタオルで顔を覆った。

「ひどい顔を良太君に見せたくなくて……」

 言い争っていたような、そんな空気があったように思ったのは、気のせいだったのか?

「良太は大丈夫か?」

「うん」

「じゃ、席に戻るね。ありがとう、アキさん」

 香奈はそう言って、先に厨房を出た。俺もそれに続いて出ていこうとした。

「良太、一人になりたくないなら、俺のマンションに来るか?」

と、アキさんはいつものような笑顔でそう言った。

「え?」

「2LDKで、部屋は余ってる。俺のマンションからだと学校も近い」

「でも……」

 家賃払えない、と言おうとしたら、

「家賃なんかどうでもいい。学生から金とれるわけないだろ」

と、心を読むかのように、アキさんが言った。

 俺を心配してくれる人がいる。兄貴がいたらこんな感じなのかなと少し考えて、照れくさくなった。

「返事は急がないよ。すぐに返事出来ることじゃないだろ? 暫くばたばたするもんだろうし。考える余裕が少し出来たときに、ゆっくり考えてくれたらいいよ」

「うん」

ありがとうという言葉が出かかったけど、アキさんの「香奈ちゃんが待ってるだろ」と言うのでタイミングを見失った。

 さっき、香奈とどんな話をしていたのか気になる。でも、香奈もアキさんも俺を心配してくれてるんだから気にすることはない、と思い直す。

 席に戻ると、香奈は俯いたままだった。

「良太君、ごめんね。私の方が取り乱しちゃって」

 か細い声で香奈は言った。

「今は、私がしっかりしないといけないのに」

「俺は、香奈のその気持ちだけで嬉しいよ」

 香奈と一緒にいられる。

 それだけが嬉しい。ずっと一緒にいられるなら、迷いなんて捨てる。

「良太君はいなくならないよね」

 ふいに、香奈が俺を見つめる。

 こんな風に見つめられたら、言葉が

出なくなる。

「怖くなったの。ごめんね、私の方が心配かけてるよね」

 何か言わないと。香奈の不安を取り除いてあげないと。考えても何も浮かばない。

「俺は、消えたりしない」

 香奈がいてくれるだけでいいのに。

その言葉を飲み込む。

 大事な言葉で、今、言わないといけないと思っているのに、言えない。

「ほんとに、消えたりしない?」

 香奈は少しだけ顔を上げて俺を見る。


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