5-9 母と子
ふと、部屋の隅の鳥のシンジとハムスターのマサキのことを思い出す。
カウンセリングに行くようになってから餌と水はあげていたけど、ちゃんと様子を見てなかった。余裕がなくなっていたように思う。
マサキをふと見ると、ひまわりの種を食べているところだった。
シンジの鳥籠は静か。動いてる様子がなく、鳴き声も聞こえない。
そっと鳥籠の中に手を入れてみると、シンジが冷たくなっているのが指先に伝わった。
俺は、呆然としながら鳥籠を持ち、一階に降りていく。
リビングにいる母さんが、俺の足音に気付いて、「ご飯、食べる?」と聞いてきた。
俺が鳥籠を持っているのに気付いた母さんは、籠の中のシンジが死んでいるのを見て顔を覆った。
「父さんは、どこへ消えた?」
俺は、心の奥にある疑問を母さんに投げかけた。今、それを聞くどころじゃないとわかっているのに。
「そんなこと、私が知りたいわ」
「百万、この数字に心当たりは?」
俺は、鳥籠をリビングの床に置き、母さんをじっと見つめる。
母さんはすぐに目をそらした。
「父さんが大事なコレクションを置いていったこと、おかしいと思ってた。本当は父さんの居場所、知ってるんだろ?」
「知らない……」
母さんは、俺に背を向けうずくまる。
「一度、戻ってきてたんだろ? 何かあったんだろ?! どうして話してくれなかったんだよ……」
「良平さんが戻ってきてくれるなら、他の女のところに気持ちがうつってしまっていても、それでも許すつもりだったのよ」
母さんはそこで顔を覆い泣き始めた。
「父さんは女に『家に帰る』って言ってたそうじゃないか! それはまた一緒に暮らそうとしていたってことだろ?」
「違うの。良太の父親というのは諦められないから、それだけ……」
泣きじゃくりながら母さんは言った。要領を得ない。
「どういうことだよ」
「離婚しようと言われたの。良太を引き取らせてほしいって……」
「だから百万?」
「慰謝料の一部として置いていこうとした。受け取らなかったわよ。受け取りたくなかったから。でも、勝手に通帳に預けられてたの。それから何度か電話あったけど、話してない」
母さんは弱々しい声で言った。
「百万はそのまま?」
「使えるわけないでしょ。戻ってきたら返すつもりなのに」
「本当に母さんは父さんの居場所を知らないんだよな?」
「知らないわよ! 私が知りたいくらいよ」
母さんはそこで、洗面所に走っていった。顔を洗う音が聞こえる。
父さんは、母さんと離婚しようとしていたのか。女と別れる覚悟をして?
慰謝料を渡したまま、連絡が途絶えるなんておかしい。
母さんは、父さんが連絡しなくなった理由を本当に知らないようだ。
俺はそこで、ケージに目を向ける。俺は、シンジが死んだ事に気付かないくらい、他の事に囚われていた。餌や水をあげていただけだった。
母さんは父さんがいなくなったことから目を背けたかった、多分それだけなんだろう。
「鳥、どうするの?」
母さんが、顔をタオルで覆いながら戻ってきた。
「庭に埋めて、お墓を……作ろうかと」
俺は慎二を埋めたときのことを思い出した。あのときのことが、脳裏に蘇る。
手が震えてくる。それを母さんに気付かれたくない。
「私も手伝うわよ」
母さんの意外な言葉に、俺は驚いた。思わず母さんを無言で見つめる。
「そんなに驚くこと?」
当然だ。
今までの母さんだったら、手伝うなんて言わなかったはず。
「いいよ。一人で」
俺はシンジを鳥籠からそっと取り出した。そして、一緒に持ってきていたタオルハンカチで包む。そうしていると、母さんが小さな箱を持ってきた。
「これに入れてあげなさい」
俺は、小さな声で「ありがとう」と言った。少し、照れくさかった。
俺は部屋に戻り、百均で買ったレインコートを着る。それから、シンジを入れた箱を持って、土砂降りの中、外に出ようとした。
「同じ屋根の下にいたんだから、私だって家族でしょう?」
その声で振り向くと、母さんもレインコートを着て立っていた。
母さんがわからない。
どういう心境なのか。
父さんが俺を引き取りたいと言ったとき、拒否した理由は離婚したくないから? ただそれだけだと感じてた。
もしかしたらそれだけじゃないのか? 何かあるのか?
横殴りの雨の中、玄関から庭に出る。
父さんがいた頃、綺麗な庭だった。今は、雑草が気にならないくらいしか手入れされていない。
庭の片隅に座り込み、小さな穴を掘りながら、ふと思い付いたことを俺は訊ねてみることにした。
「もし父さんが離婚調停を強引に進めてきたら、どうするつもりだった?」
母さんは黙ったまま、立ちすくんでいた。
表情をそっと隠す。表情が見えない。
「そんなことあってほしくないけど」
と、力強くそう言った。
「そこまで別れたいということだとしても、そんなことさせない。私は昔からどこかおかしいと言われてきた。そんな私を良平さんだけは見捨てずにいてくれたのよ。それなのに、私を捨てるなんて」
母さんの声は次第に弱々しくなり、土砂降りのせいでところどころ聞き取りづらい。
「良太までいなくなったら、私はどうやって生きていけばいいの?」
ちょうどいい穴が完成し、箱を土の中にそっと置いた。ふと、慎二を埋めた時を思い出す。
「どうかした?」
手を止めた俺に、母さんがそう言った。
「祈ればこの鳥は天国へ行けると思う?」
「天国があるかどうかわからないけど、お別れの祈りは遺されたものができることだと思う。良太は、この鳥に天国に行ってもらいたいのね」
天国や地獄があるなら、俺は地獄へ落ちるだろう。慎二を殺してしまったんだから。
俺は立ち上がり、家に入ろうとしたそのとき。
「あのね、車にこれが」
母さんはそう言って、どこからともなく小さいビニール袋に入れられたmp3プレーヤーを差し出した。
それは慎二のだ。
「みんなと同じメーカーは嫌なんだ」
と言い、検索を頼まれたことがある。
俺が作ったリストの中で一番安いものを買っていた。『みんなと同じものが嫌』というのはウソだとわかっていた。
親の金で高い買い物をするのを、慎二は嫌がった。
慎二の事を思い出すと、胃の辺りが痛む。
それから目をそらし、玄関に行こうとするのを阻む様に母さんが立ちはだかる。
「車の中に落ちてたの」
「それがどうかした?」
「これは慎二君のでしょう?」
「だったら何?」
「何があったの?」
「何もないよ」
「そんなわけない。何もないのにそんな」
母さんが俺の手をぎゅっと握る。
その手は震えていて、顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
「母さんはいやだろ? 人殺しの母親なんてさ。そんなワイドショーのネタになるようなことなんか。それより、いつ気付いたんだよ」
「こんなとき、普通の親だったらどういう反応するのかしらね」
母さんはそう言って俺を握っていた手を、ゆっくり離した。
「大丈夫。良太は今まで通りにしていて」
そう言うと母さんは、傘を閉じた。
レインコートのフードを勢いよくはらいのけ、空を仰ぐ。
暗くて母さんの表情は見えない。
今まで通りでいい。その言葉の真意がわからない。
雨脚は強くなる一方だ。
雨に打たれている母さんをそのままにしておけなくなり、俺は傘を開く。
俺のその行動に、母さんは少し驚いた顔を見せた。そして、今までみたこともないような優しい微笑みを返してくれた。
台風が通り過ぎ、各地で被害が遭ったニュースが報道される中、T山の身元不明の遺体発見の速報が流れる。
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