5-8 車内

「顔色が悪いね、大丈夫かな。僕はね、君を追い込むつもりはない。君はまさき君やみやびちゃんに声をかけて気にかけていた。猟奇的に人を殺すような冷酷な人間だったなら、そんなことはしない。高瀬君は優しい。自分では気が付いてないだろうけど」

「そんなこと話していいんですか?」

「だめだろうね。カウンセリングを始めたことで心境の変化があったなら、今ここで自首を勧めるのはアリじゃないかと、僕はそう思ってこの話をしてる」

 再び野口刑事は麦茶を飲んだ。

「高瀬君が変わったのは、カウンセリングを始めたからじゃないのかもしれない。それより前、まさき君たちに出会ったことで変わったんだろうと、僕は思ってる」

 運転席から体を後ろにひねって、野口刑事は後部座席にいる俺のほうを向いた。

 鋭い口調とは裏腹に、目は穏やかだった。

「こんな役回り嫌いなんだ。できることならしたくない。でも、真実に近づいていると感じてる。それとね」

 野口刑事がそこまで言うと、携帯が鳴り始めた。

「井原からだ。ちょっと待って」

 野口刑事はそこで携帯の通話ボタンを押し、小さめの声で「井原さん、どうでした?」と言った。

 自分で自分の首を絞めるとはこういうことなんだ。これをうまく乗り越えないと、俺は香奈との未来を壊してしまうことになる。

「ああ、そうか。台風が厄介ですね」

 野口刑事は、ため息交じりにそう言った。

 台風が厄介? 

 遺体を運べても、その場所をいろいろ調べるのが難しいということなんだろうか?

 俺は、会話に聞き耳を立てる。

「あ、今、高瀬君と一緒なんですよ。だからその話はあとで」

 野口刑事が、ちらりと俺を見る。野口刑事と目が合ってしまう。

 井原刑事の冷たく見透かす目線よりも、野口刑事のいっけん穏やかそうな目が怖く感じた。

 野口刑事は、電話を切った。

「電話の内容が気になるよね。遺体の情報は話せないけど、ひとつ高瀬君に話しておきたいことがある」

「なんですか?」

「君のお父さんの行方がわからないんだ。それっておかしいよね」

「え?」

「井原が君の身辺をいろいろ探っていてね。僕はそこまで調べる必要ないと思ってたんだけど。でも、井原からいろいろ聞いているうちに、君の周りの人たちも不思議なことだらけだとわかったんだよ」

「どういうことですか?」

「高瀬君が中学二年のとき、お父さんは失踪した。でも、君のお母さんは捜索願を出さなかった。いなくなったことを認めたくないからだろうね。だから捜索願が出ていないのに、井原が個人的に調べるのは無駄じゃないかと思ってたけど」

「野口さんは回りくどいですね」

 思わず呟いてしまった。野口刑事は、そこでくすっと笑った。

「その態度、井原みたいで面白いね」と言ってから、コンビニの袋の中からコーヒーを俺に差し出した。

「喉が渇いてきたんじゃない?」

 穏やかな口調なんだけど、どこか含みがあるような言い方に、俺は少し睨みつけるように野口刑事を見た。

 それから、「いただきます」と言いながら、コーヒーを受け取った。

 野口刑事は、俺の目を見て苦笑いをする。

「お父さんは、君も予想していただろうけど、女の人のところにいたんだ」

「やっぱり……」

「うん、まあ、そう思うのは不謹慎だけど、自然だよね」

「驚かないです。母さんがそういう風に追い込んだと思ってますから」

「ほんとに君はお母さんのことを嫌ってるんだね」

 俺は、コーヒーを一口飲んで落ち着かせた。

「その人のところに半年くらい。それから、家に戻ると伝えてか出ていってらが奇妙なんだ」

「……奇妙?」

「女の人のところからの行方がわからなくなった頃、君のお母さんの名義の銀行口座に、百万。振込ではなく、ATMからの預け入れだ」

「百万?」

「僕は、そのお金はお母さんかお父さんの実家からの援助だと思ってたんだけど」

 野口刑事は、そこで苦笑いを浮かべる。

「雨が強くなってきてしまったね。この続きは後日でいいかな? 警報出そうな最中に未成年を引き止めるのは気が引ける」

 野口刑事は、そこで車を発進させた。「中途半端なところまで話しておいて、申し訳ないんだけどね」と言いながら。

 車内が急に静かになったように感じた。外の雨は激しくなっているのに。

 野口刑事は、「ひどい雨だなあ」と呟く。でもその口調は苛ついているようには感じない。

 父さんは、一度家に戻っていたのか。もしもそうなら、母さんは父さんを離さないだろう。

 それが引っかかる。あと、銀行の百万というのがわからない。

「百万はどこから?」

「そこまで話したら、普通、気になるよね。僕は、自己完結してることを人に話すのが苦手なんだよ」

 野口刑事は、苦笑いを浮かべる。

 自己完結というより、誤魔化しているようにしか感じない。

「お母さんの通帳に預け入れが出来るのは誰か、高瀬君ならわかるよね」

 野口刑事は、いちいち含みのある言い方をする。

「カードか通帳があれば、預け入れは出来ますよね」

「うん。じゃあ、それを誰が持っていると思う?」

「どういうことですか?」

「百万を現金で手渡したのか、お父さんはカードを持っていたのか。その百万は何のためのものなのか、それが気になったんだよ」

「俺には、大人の事情なんてわからない。勝手に出て行った父さんのことも自己中な母さんのことも、どうだっていい」

「どうだっていいと言いながら、この話が気になってるんだろう?」

 誘導しようとしてるのか?

 目的は?

 慎二の遺体とどういう関係があるんだ?

「家、着いたよ」

 気が付いたら家に着いていた。

 話が気になりつつも、車から降りようとドアに手をかける。

「T山の遺体のことは、誰にも言わないで。その遺体は身元不明なんだよ。そうだろう?」

 ドアにかけた手が震えている。鋭利な刃物で刺すような口調だ。突き刺さるような視線も感じる。

「ありがとうございました」

 俺は、視線から逃れるように勢いよくドアを開けて車から降りた。

 動揺を悟られたくないから、雨に打たれながら小走りで玄関に向かう。その途中で一旦立ち止まり、車の方を振り返った。

 野口刑事は、まだ俺を見ていた。俺が振り返ったところですっと目をそらし、車を発進させた。

 土砂降りの雨の中、俺は慎二を殴ったときの瞬間を思い出していた。

 すると玄関のドアが開き、母さんが出てくる。

「あら、お帰りなさい。車の音がしたから誰かと思った。早く入りなさい」

 こんな風に出迎えてもらえたのは、いつ以来だろう。小学生の頃ですら数えられるくらいしかなかった。

「……ただいま」

 俺の言葉に、母さんは驚いた顔をしている。いつもだったら、母さんを無視しているはずだった。

「味噌汁作ったの。食べる?」

 俺は頷きながら洗面所に行き、タオルで濡れた頭を拭く。

「ちゃんと着替えないと、風邪ひくわよ」

 キッチンから母さんの声。

 親子らしい会話。そんな当たり前の会話に胸が苦しくなる。

 涙が出そうになるのを堪えながら、俺は部屋に行き、Tシャツとジーンズに着替えた。

 百万が引っかかる。

 父さんは、母さんに会ってお金を渡してるはずだ。戻ってたのなら、母さんはあんな風に病んだりしなかったはず。

 父さんが出て行ってから半年後──その頃の俺は、香奈と一緒にいられることが嬉しくて、母さんを気にかけていなかった。

 俺が気が付いてなかっただけで、何かあったんだろうか?

 母さんがパートに出るようになったきっかけが、父さんの不可解な行動に関係があるのだろうか?

 俺は、薄暗い藍色の部屋でぼんやりとその頃を思い出そうとする。でも、香奈と一緒にいたことだけしか思い出せなかった。

 

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