5-5 海

「カウンセラーとしての質問じゃなくて近所のおばさんの、素朴な疑問、いいかな?」

「素朴な疑問?」

「二人は付き合ってどれくらい?」

 中二の二学期に知り合って、付き合おうと言ったわけでも言われたわけでもない。でもずっとそばにいてくれている。俺もそばにいたい。

 その気持ちはお互い変わらないものなんだ。

「二年弱、それくらいだと思います」

「長く付き合うと喧嘩もたくさんしたでしょ?」

「喧嘩は、一度もないです。俺も香奈も言いたいことを全部言うタイプではないし、意見がぶつかるようなこともなかった」

「素敵な関係なのね。言いたいこと言わなくても穏やかでいられるのかな。近所のおばさんという立場では、波あり谷ありの方が切り込んで話しやすいんだけど」

 安田先生はそこでくすくすと笑う。「ここで近所のおばさんモードは終わり!」と言いながらメモをとっていた。

「二匹がいる陸地の向こう側に木が二本、これは?」

 適当に置いたもので意味なんかなかった。だけど意味がないというのはだめなのか?

 箱庭の左隅に何気なく置いた二本の木。これをどう説明すればいいのか、俺は考えていた。

「置いたときは考えなかったけど、意味があるとしたら、父さんと慎二になるかも」

 住田先生が言っていた、喪失感というものが箱庭に出ていないとおかしいように思った。父さんと慎二のことにしてしまえばいい。

「お母さんはこの中にはいない?」

 安田先生のその言葉に、俺は首を横に振る。

「母さんは俺のこと、どうでもいいと思ってるから。俺もそう思ってます」

「今は二人きりの家族なのに?」

と、安田先生は呟く。

 でもその一言のあとに、申し訳なさそうに言った。

「高瀬君はお父さんと慎二君がよりどころだったということなのから?」

「よりどころというか、俺は父さんにあこがれていたし、慎二もそうだった。俺は慎二と出会わなかったら、香奈に会うこともなかったし、充実してなかったと思う」

 これは本音だ。結果として慎二を殺してしまっていても、慎二と出会ったことで俺と香奈は出会えたと思ってる。

「大事な二人がいなくなる、それは高瀬君にとってショックなことだったのよね。でも、彼女がいてくれて安心感があった。そうなのね?」

 俺は安田先生の目をみて頷いた。

 ようやくはっきりと安田先生の顔を見ることが出来た。

「二人とも口下手で、あまり会話が弾んだりしないんだけど、安心するんです。向き合っているだけで信じられるというか……」

「だからこの穏やかな海を二人でみたいと思うのかしら?」

「多分、そうだと思います」

 俺は満足した。

 香奈との関係が初対面の安田先生に認められたと感じたから。

 先生は俺と香奈の理解者になってくれるかもしれない、そんな風に思い始めていた。

「海は高瀬君の明るい未来の象徴とも言えるのかな。落ち着いて海を見に行けたらいいわね」

 先生が優しく微笑むのを俺はいい気分で聞いていた。

「初回だし、今日はこれくらいにしておこうかな。長く話して疲れちゃうかもしれないし」

「疲れはそんなにないですよ」

 これは本音だった。

 身構えていた割には、リラックスできたと思う。

「でも後から疲れが出てくるかもしれないから。来週、またこの時間に来れる?」

「大丈夫です」

「毎週じゃなくても、二週間に一度くらいでもいいんだけど。それは高瀬君に任せる。心の負担になるようなら意味がないから」

「来週もう一度箱庭作ってみて、それから考えたいです」

「うん、そうね。じゃ、住田先生に今日の報告をしておくわね。お疲れ様」

「ありがとうございました」

 診察室を出て、待合室の長椅子にもたれかかる。

 箱庭のうさぎを香奈に見立てたのがうまくいったような気がする。

 先生に俺と香奈とのことを理解してもらえたのも嬉しい。

「逃げ続けていいのか、良太はそれでいいと思うか? 自首して真実を受け入れてくれよ」

 椅子にもたれかかったまま、声のする方を見ると、また慎二がいた。

 長椅子から少し離れた廊下にうずくまるようにして、俺を睨みつけている。

 真実なんて言わない方がいいこともあるだろ。俺が自首したら、香奈が困るだろう。

 箱庭を体験して俺は確信した。

 香奈との未来だけを考えていればいい、と。

「隠し通せると思うのか。綻びはいつか良太の枷になる。それでもいいのか」

 俺はその言葉を聞いても動じることなく、立ち上がる。

 慎二に背を向け、ロビーへ向かう。会計を済ませて早く家に帰ろう。

「良太!」

 背後から慎二の声が聞こえたけど、そのまま足を進めた。

 うまくいく。大丈夫だ。穏やかな未来はすぐそこにある。

 このときの俺は強く信じていた。


 慎二の声を振り切って、足早に家に向かう。妙に心が軽い。

 家に着くと、薄暗いリビングで母さんがぼんやりと考え事をしているところだった。

 父さんがいなくなった時のように抜け殻のような雰囲気ではなく、別の意味で何か深刻さを感じたから、俺はリビングに入らず部屋に行こうとした。

 こんないい気分のときに、陰鬱な母さんと会話したくないからだ。

「おかえりなさい」

 低いトーンの母さんの声が聞こえた。俺は久しぶりに聞く母さんの声に胸騒ぎがして、リビングに顔を出した。

「どうかした?」

 俺は、リビングの灯りを点けた。

 母さんは何か言いたげな目で、俺をじっと見る。

 それからそっと目をそらし、「あのね」と切り出した後、躊躇うように「今、時間大丈夫? ご飯食べに行こうか」と言った。

「何だよ、急に」

「たまにはいいでしょ。本当は何か作ろうと思ったんだけど……」

 母さんはキッチンの方を見た。

 母さんの視線の先の、まな板の上に

じゃがいもがある。

「肉じゃが作ろうと思ったの。でも、良太と食事に行く方がいいと思って待ってた。制服はイヤでしょ。待ってるから着替えてきなさい」

 有無を言わさない雰囲気だった。

 俺は仕方なく着替えることにした。

 車の中は静かだった。

 母さんの運転する車に乗るのはいつ以来だろう。

「良太はどこにも行かないわよね?」

 覇気のない声だった。

 暫くして、昔家族で行ったことのあるイタリアンレストランに着いた。

「おじいちゃんたちと一緒に暮らすことになったら、どうする?」

 メニューを眺めていると、母さんが話しかけてくる。

「あの家はどうするんだよ」

「家は、父さんが帰ってきたときのために残しておかないといけないと思ってる。でもね……」

 そこでウェイターがオーダーを聞きに来た。何かを言いかけた母さんの言葉は途切れる。

「私はカルボナーラ、良太は何にする?」

 母さんは明るく言った。

 様子がおかしいと思ったのは気のせいなのか?

「俺もそれでいいよ」

 ウェイターが離れてから、母さんは俺をじっと見る。

「カウンセリングを受けてるの?」

「それがどうかした?」

「病院の先生、……住田先生から電話があったの。良太の様子に気付けなくてごめんなさい」

「俺はなんともないよ」

 関心すらなかったくせに……。

「いつのまにか、部屋に鍵をかけてるし……。知らないことばかりだと今頃気付いたの」

「今更、何言ってんだよ」

「そうよね、今更なのよね」

 母さんはぼんやりと外を眺めていた。

 外を眺めていた母さんは、ふと思い付いたように、「最近、車を使った?」と言った。

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