5-4 カウンセリング開始

 家に着いた。鍵が開いている。

 中に入るとリビングに母さんがいた。

「あら、帰ったの。ごはんは?」

 義務的な質問に、俺は「いらない」とだけ答える。

 冷蔵庫を開けてウーロン茶のペットボトルを取り、食器棚から取り出したコップに注いだ。

 母さんはぼんやりと天井を見ている。何を考えているのかわからない。

 高校を卒業したら就職して一人暮らししようかと考えている。この人のそばにいると苛々してしまうから。

「今度、時間があるとき、昔行ったイタリアンレストランで食事しましょう」

 母さんが突然俺の方を見て言った。「どうして?」と思わず聞き返す。

「一緒に食事に行く理由がいるの? 親子なのに?」

 母さんがまともなことを言う。

 でもこんな気まぐれな言葉に振り回されたくない。

 俺は適当に返事をして部屋に行く。今更のんびり食事なんて、会話が成りたつはずがない。美味いパスタも不味くなるだけだ。

 シンジとマサキに餌をやり、携帯で箱庭について調べてみた。詳しいことはわからないままだった。

 とりあえず、何のおもちゃをどこに置くか、俺はノートに書いてシミュレートを繰り返す。

 実際にするときは、似たようなおもちゃで代用すればいい。


 

 箱庭療法の第一回目。

 待合でノートに書いたものを頭の中で繰り返す。当たり障りないものを考えたはずだ。

 名前を呼ばれて診察室に入る。

 住田先生が、「一週間どうだった?」と尋ねてくる。

「変わったことはないです」

「そうか。この前の心理テストの結果を話す前に、箱庭療法を担当するカウ

ンセラーを紹介しておくよ」

 住田先生がそう言ったあと、部屋の隅に座っていた女性が立ち上がり、お辞儀をする。

「安田といいます。よろしく」

 年齢は母さんより少し年上くらいかな。穏やかな雰囲気だ。服装はカジュアルなんだけどラフすぎない。

「高瀬です。よろしくお願いします」

 住田先生は机の上に、俺が描いた絵を置いた。

「これからこの絵を見て安田先生に感じたことを話してもらうね。そのあと、これからどうしていくかを話していこう。それが終わったら箱庭にうつるよ」

 安田先生がそれを聞いて、机の横の椅子に腰かけ、俺が描いた絵をじっと眺める。

「高瀬君は鳥を心配する優しい気持ちがあるのね。枝を丁寧に描いているのに、葉っぱの部分の緑、このあたりが雑に塗られているところが気になったかな。最初にした心理テストの結果では計画性があって完璧主義というのが強くみられたのに」

 おっとりしているように見えて、この人も鋭いのか。

 矛盾をついてくる。すべてに一貫性がないとあとで面倒くさいことになる。

「ふたつの心理テストの結果の感想より、箱庭で高瀬君の【今】を知りたいです。住田先生、いいでしょうか?」

「そうだね。安田先生は箱庭のほうが専門だから、そっちを見てもらった方がいいのかもしれない。高瀬君、それでいいかな?」

 矛盾をつつかれるよりは、その方がいいと思ったので俺は頷いた。

 箱庭のある場所に移動する。

「それじゃ、安田先生お願いしますね。終わったら隣にいるので呼んで

ください」

 住田先生はその場から離れた。

「じゃ、好きなように置いていっていいわよ。全部置き終わったらデジカメに保存させてもらうわね」

 まず砂を触ってみる。穏やかな気持ちになる。

 砂を左端によせて右半分を海に見立てた。それからおもちゃを一通り見てみる。

 ふと目に付いたのはハリネズミだった。でも俺は、その横にあるうさぎと象を取る。うさぎと象を左半分の真ん中あたりに向き合って置いた。

 ノートにシミュレートしたものに似せて全部の配置を終えた。

 俺は安田先生の方を見て、「終わりました」と言った。

「この質問に答えていてくれるかな。撮影してるから」

 A4サイズの紙。

 両面に質問事項があった。箱庭の説明と感想、一番最初に目についたおもちゃとその理由など、細かく質問が並んでいる。

 俺は戸惑ったけど、それを隠そうと俯く。

「高瀬君、どうかした? 気分悪くなった?」

 安田先生はデジカメを置いて俺を見る。俯いたまま首を横に振る。

 部屋の隅にあるテーブルで、質問に答えていく。動揺しないようにしないと。

 おもちゃを置いていった順番の質問は問題なく答えられた。この箱庭の主人公がどれだと思っているか、という質問は悩む。

 そんなこと考えてなかった。とりあえず、象にしておこう。

 撮影を終えた安田先生が、

「思ったまま、感じたまま、箱庭に感じる物語を書いていくだけ。何も考えずに置いていってるようでも、作った箱庭には、物語があるものだと私は思ってる」

と言った。

 物語の中に俺の潜在意識があるということなんだろう。

 見られたくはない。

「焦ることはないわ。最初は箱庭の中の物語を言語化できない人が多いの。最初は難しくても、二回目以降には答えやすくなるから」

 俺はちらっと安田先生を見た。

 目が合う。にこやかにほほ笑み返し

てきた。

 慎二の母親の雰囲気に似ている。

「難しいかな。じゃあ、質問を変えるわ。最初に右半分をこんなにしたのはどうして?」

「ここは海です。こっちは陸」

 俺は箱庭を指さす。

「動物はうさぎと象。おもちゃを見渡して躊躇わず動物を選んだ。このどちらかがこの箱庭の主人公だと思ったんだけど、どちらだと思う?」

 話し方の抑揚も、おばさんに似ている。嘘がいいづらい雰囲気のところも。

「象かな」

 『象』と答えたのが良かったのか、安田先生は違和感なくノートにメモをした。

 ここで何かあれば、多分聞き返してくるだろう。

「じゃあ、こっちのうさぎは誰なのかしら」

 うさぎ。象と向い合せ。

 象は主人公、つまり俺なんだろう。

 だったらうさぎは香奈しかいない。

「うさぎは彼女です」

「彼女? 彼女がうさぎなのね。かわいいイメージなのかな」

 安田先生はメモをしながら言った。

「向き合っているのを見て、高瀬君はどう感じる?」

 向き合っているのは当然だ。

 付き合っているんだから。

「問題なく付き合っているから、当たり前だと思います」

「仲が良いのね。でも、同じ動物じゃないのはどうしてかしら。象の方が体が大きい。間違えて踏み潰してしまう、そんな不安はないかな?」

「俺が香奈を踏み潰すはずがない」

「大事な彼女なのね。この二匹はここで立ち止まっているのか、それともこれから動いていこうとしているのか、どちらだと思う?」

「向き合って、そのままだと思います」

「お互いを労わる関係ということね。いい関係だわ」

 安田先生の【いい関係】という言葉に、俺は当然と言わんばかりに頷く。

「じゃ、右半分の海はこの二匹にとってどういうもの? どう感じていると思う?」

 海。漠然としたもの。

 俺と香奈にとってどういうものなのか。俺は、どう答えたらいいのかわからなかった。

「難しいかな。じゃ、質問を変えるわね。この海はどういう状態で、二匹はこの海の存在を知っているか、どう思う?」

「海は、穏やかだと思います。ちょうど潮の満ち引きの間、かな。うさぎも象もこの海をよく知っていて、いつか行こうとしているんだと思います」

 無難に答えてみる。本当にこれでいいのかはわからない。

 先生の受け止め方で、どうとでもとらえられそうな気がするけど……。

「二匹で見てみたい場所、つまり二匹には未来がある。不安はないのね。羨ましいわ」

 安田先生は、そこで俺の顔を覗き込む。

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