第五章 転機

5-1 医者

 目の前に白い天井があった。藍色じゃない。俺の部屋ではないようだ。

「具合はどうかな?」

 寝返りを打とうとしたら、ベッドのそばから穏やかな声が聞こえた。

 俺のそばに来たのは、中肉中背の男性。白衣を着ているところを見ると、医者なんだろう。

「一緒にいた女の子には帰ってもらったよ。いつ目を覚ますのかわからなかったからね。高瀬君はどうしてここにいるか、覚えてるかな」

「まさきのお見舞い、それで、途中で病室を出て……」

 慎二の幻覚を見た。

 そんなことは言えない。

「ところで、今、何時ですか?」

と言いながら、体を起こす。

 ここに来たのが五時半過ぎだった。運ばれてからどれくらい時間が経っているのか気になる。

「まさきの病室を出て、凄く不安になってしまって……。頭の中がぐちゃぐちゃになって。あまり覚えていないんです」

 当たり障りのないことを言ってみた。淡々と感情を出さないように弱々しい声を出してみる。

「九時過ぎだね。どうして不安になったのかな? まさき君の意識、戻ったと聞いているけど」

 ざっくりと切り込んでくる質問とは裏腹に、口調は穏やかだ。でも井原刑事のような嫌味な雰囲気はない。

「警戒しなくていい。私はこの病院の心療内科の医者だよ。ここで高瀬君が喋ったことはどういう内容であれ、私の心の中にだけに留めておくから」

 見透かされているような言い方にどきっとした。

「もう平気ですから。帰ります」

 この医者と話していたくないと感じたから、そのまま言っておいた。

「前にも路上でパニックになったらしいね。そのときとは状況が違うよね」

 俺は医者に表情を読み取られないようにすっとベッドから降りて、靴を履く。

「目の下のクマや顔色を見る限りでは、あまり眠れないのかな。高瀬君の話、ある程度刑事さんから聞いたけど、不安なことが沢山あるようだね。お父さんのことや親友のこと、そして親友のお母さんのこと。以前、ここの屋上で雨で濡れて内科で診察も受けてるよね」

 この医者には曖昧な話が通用しないと感じた。

「高瀬君にとって大事な人がいなくなってる。喪失感というのは人を弱くさせるものだ。特別なことじゃない。平常心でいられないのが普通だよ」

「慎二がいなくなってから、時々幻覚が見えるんです。幻聴もあります」

「それはどんな?」

「慎二が現れるんです。どうしてかわからないんですけど」

 まさか俺が慎二を殺してることまで気付かないだろう。

「お父さんのことがあるから、大事な親友までも失うのが怖いということかな?」

 俺はその問いにゆっくりと頷いてみる。

「今の高瀬君の状況になれば誰でも不安になる。今の段階だと、薬物療法はしなくて良さそうだ。この病院にはカウンセラーもいる。毎週ここに話をしにくるというのはどうかな?」

「じゃあ、今日のところはこれで帰っていいんでしょうか?」

「そうだね。出来れば次回、親御さんも一緒に診察に来てほしいけど大丈夫?」

「母は仕事があるので来ないと思います。自分のことしか考えてないし」

 俺は投げ捨てるように言った。

 医者は俺をしっかり見つめながら「高瀬君一人でもいいんだよ」と言った。

「幻覚を見なくなりますか?」

 俺の問いに医者は少し考え込んでいる。

「不安が少しでもなくなれば、その状態は軽減されるだろうね。それがいつになるかは断言できない。人によって喪失感を乗り越える時間は異なるんだよ」

 治療を始めたら、刑事達も俺を疑うのをやめるだろうか。カウンセリングで何かが変わるのであれば。

「カウンセリング、お願いします」

 俺の言葉に医者は微笑む。

「都合のいいときに診察においで。二回目からは予約できるけど、初回の予約は空きがあるか、今、確かめられないから」

「こんな時間までありがとうございました」

「いや、いいんだよ。今日はたまたま当直だったんだ」

 にこやかな笑顔が妙に安心する。

 俺は再度お辞儀をしてその部屋を出ようとした。

「おや、いい時計を持ってるね」

 俺の腕にある時計を見ている。

「これは父のなんです。でも修理しないといけなくて」

「着けてるということは、愛着湧いたのかな?」

 時計自体に、愛着はない。これは、父さんのだから。父さんが大事にしていたから。

 愛着なくなったから、父さんは時計も俺も母さんも捨てていったんだ。

 新しい暮らしを求めた。そっちの方が楽だから。

 俺が考えこんでいたら、医者は何かを察したのか、気まずそうな顔をした。

「父さんはいらないものを捨てていったんですね。いいんです。そういうことなんだと諦めついてますから」

 俺は、もう一度お辞儀をした。

 部屋を出て、足早にがらんとした病院のロビーを通り抜ける。

 病院を出て財布の中身を確かめてからタクシーに乗り込んだ。ポケットに突っこんであった携帯を見ると香奈からメールが届いていた。

『落ち着いたら連絡してね。具合が気になるから詳しく話を聞きたいの。でも今日は早く眠って体を休めてほしいから返信は無理しなくていいよ』

 香奈の心遣いが嬉しかった。

 香奈の声が聞きたい。でも、気遣うメールをしてくれてるのに電話をするのは気が引けた。

 家に着いてひとまず部屋でTシャツとジャージに着替える。

『今家に帰ったよ。驚かせてごめん。混乱していたみたい。よく覚えてないんだけど、今は落ち着いてる。カウンセリング受けることになったよ』

 そうメールをするとすぐに返事が戻ってきた。

『落ち着いてきたのなら安心だよ。カウンセリングでもっと落ち着いたらいいね』

 香奈に『おやすみ』と返信してベッドに横になる。

 鳥のシンジの鳴き声が俺に「逃げるな」と言っているように聞こえた。俺は耳を塞ぎ目を閉じる。

 病室にいたまさきの様子を思い出し怖くなる。まさきが助かったあとのことを考えると、まさきの親に罪をかぶってもらった方がいいんだと言い聞かせる。

 あの親と一緒にいない方が、まさきにとっては幸せなんだ。自分の罪を認めないことがより罪深いことであるのはわかっていても、そう思わないとやりきれない。

 精密な時計が壊れた場合、直すには専門の職人が必要だ。人の心も繊細なもの。

 精神科医やカウンセラーに診てもらうことでいい方向に向かうと考えるべきなんだろう。人間の心の専門家を騙せることが出来るのかどうか、やってみないと解らない。

 香奈とずっと一緒にいるためには捕まるわけにはいかないんだ。

 物的証拠が出ない限り、警察は強引に俺を犯人扱いは出来ないだろう。浅い考えかもしれないけど。



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