3-7 屋上
もし慎二が死んでいるとわかったら、おばさんから笑顔はなくなるだろう。おばさんは、生きていけなくなる。行方不明でこんなにつらそうだ……。
そして俺が殺してしまったことを知ったら、この二人は俺をどう思うんだろう。変わらず笑顔を向けてくれるだろうか。
俺はおじさんもおばさんも大好きなんだ。父さんと同じくらい大事な大人なんだ。俺を理解しようとしてくれてた人達だったんだ。
「もしかして良太君は、最後に会ったのが、自分だからと責めてるのかな?」
俺はおじさんに寄り掛かるのをやめて、ふらふらしながら体勢を整えた。
二人はどうしてこんなに穏やかでいられるんだろう。その穏やかさが俺を苦しくさせる。
「大丈夫よ。慎二は帰ってくる。あの子は優しい子だから。良太君を心配させるようなことはしない」
おばさんは自分に言い聞かせるようにそう言った。
俺はその場から走って逃げた。病院の屋上まで夢中で走った。階段を駆け上がり息苦しくなりながらも、夢中で。
屋上に着いて空を仰いだ。
空は薄く雲がかかっている。ブルーグレーの空だ。
太陽の光が届かない。
俺の心に差し込んでくれたら、少しは救われるのに。
この手で、二人の大事な慎二を殺してしまった。
俺は泣いていた。声を上げて泣いていた。
空の青が見えなくなってくる。
こんな気持ちを抱えたまま、これから俺はどうしたらいいんだろう。
屋上のフェンスにもたれかかり、俺は叫んだ。泣き叫ぶのはたぶん初めてだ。どこからこんな声が出るんだろうというくらいの声をあげて泣いた。
俺は生きていていいのか。
誰からも好かれる慎二より、俺が死んだ方が周りの悲しみは少なかったんじゃないか。
母さんだって肩の荷が下りて楽になるんじゃないか。
ここから飛び降りてしまえば、これで終わる。終わらせられる。
フェンスの網に手を絡める。
この向こう側に行くだけですべてが終わる。
もう一度空を仰いだ。
雲がどんどん黒くなっていく。涙で滲んでよく見えないけれど、視界は暗くなっていく。
嗚咽が屋上に響いている。
今なら誰もいない。向こう側に行くだけだ。
肩が震えている。手も足も、震えている。
死んで償える?
汚れた洗濯物が、洗っても新品にはならないように、この手も俺の罪もまっさらになんかならないんだ。
俺は一瞬の憎しみから殺人という罪を犯し、すでに心は死んでいるんじゃないのか。
父さんだって戻ってこない。
母さんの態度でいつか父さんは母さんから離れていくんじゃないかと、俺は感じていたのかもしれない。だからショックだったとしても、俺は今のように震えるくらいに泣くことが出来なかったんだ。
自首したほうがいいのかな。元に戻れないのなら、償うために自首したほうがいいのかもしれない。
おじさんとおばさんに償うためには
自首するしかないのかな。それなら最後に香奈の声を聞いておきたい。
ポケットに入れていた携帯の電源を入れる。アドレス帳から香奈の名前を表示させ、心を落ち着かそうと深呼吸する。さっきまで泣いていたから、肩が震えている。
発信ボタンを押す。
呼び出し音が途切れるまで、深呼吸する。
『おはよう。良太君、どうしたの?』
香奈の澄みきった声を聞いて少しばかりほっとした。
曇っていた心に僅かに光が差して温かくなったような気がした。
「今、おばさんに会っててさ。慎二の母親に。昨日倒れたらしくてさ。入院していて、俺、今、おじさんと病院にいる。慎二いなくなったのに、おばさんは俺の心配ばかりしてるんだ。自分の体調より俺の心配してる」
……俺は慎二を殺してしまったんだ、そう言おうとした。
『おばさんの様子で、改めて慎二君がいなくなったこと、実感したのかな。怖くなったんだね。ずっと一緒にいたんだもんね。気丈に振る舞うおばさん
を見たから、動揺したのかもしれないけど、良太君はお父さんのこともあるからいろいろ不安になるのはあたりまえだと思う。大丈夫だよ』
言葉を選びながらゆっくりと香奈は言った。
俺のこの不安は、あたりまえでいいのか?
人を殺したんだぞ。のうのうと生きていこうとしていいのか?
あたりまえでいいんだろうか。
俺はフェンスに軽く頭をぶつける。香奈に聞こえないように。
『アキさんにも話して、手伝ってもらって慎二君を探してみる?』
香奈は俺が黙ったままだからか、元気づけようとしてくれてるのか、優しい口調でそう言った。その言葉に、俺は頷いてしまった。
自首してしまったら、香奈に会えなくなる。
それなら親友を探し回る可哀想な男を演じたほうがいいのかもしれない。
「今から、会えるかな?」
俺は香奈に会って、ぶれる気持ちを抑えたいと思った。
香奈は少し考えているようだった。
「何か用事ある? 無理ならいいよ。アキさんに話を聞いてもらうことにするし」
『用事ってわけじゃないよ。勉強してただけ。私もアキさんの店に行くよ。良太君が落ち着くまで一緒にいる。なんだか良太君、苦しそうだし……。心配だから』
香奈は電話越しに俺の苦しそうな気配を察したようだった。香奈の言い切る言葉に俺はまた、涙を流した。
こんな汚れた手で香奈の手を握っていいんだろうか。
香奈がもし真実を知ったら?
香奈はそれでもそばにいてくれるんだろうか。
『病院まで迎えに行こうか?』
香奈はこんな俺を心配してくれる。
おじさんもおばさんも真実を知らないまま、俺の心配をしてくれてた。
俺は隠し通す決意をした。
「大丈夫だよ。先に店で待ってるよ」
俺は手で涙を拭った。
そのとき、ぱらぱらと雨が降り始めた。
「雨が降り出したから、電話切るよ」
俺は小走りで屋根のある場所まで移動した。
『今から準備して行くからね』と香奈はそう言い、電話を切った。
電話を切った直後から横殴りの雨に変わる。
この降り方だとすぐに小降りに変わることはなさそうだ。
足が竦む。
決意はどこに行ったのか。
ぶれないと決めたのにこんな雨くらいで揺らぐのか?
香奈が会ってくれると言っている。今頃、出かける準備をしているはずだ。
雨に濡れるくらい何の問題もないのに、どうして足が竦むんだろう。
おばさんの笑顔と香奈の笑顔。
頭の中でぐちゃぐちゃになっていく。
止まっていた涙がまた溢れ出す。
……頭を冷やそう。
そう思って俺は一歩踏み出し、雨に打たれた。
激しい雨が涙と揺らぐ心を洗い流してくれるのなら暫くこうしていよう。
香奈ならきっと待ってくれる。
激しい雨音で嗚咽は消されていく。
どれくらいの時間、立ち竦んでいたのか解らないけど、気が付くと傘をさした看護師が俺の横に立っていた。
看護師はふらつく俺を支えながら、「体が熱いわね、先生に診てもら
いましょう」と言った。
俺は力が抜けて看護師に寄り掛かる。よろよろしながらエレベーターに乗り、診察室へ向かった。
「服が濡れているから着替えた方がいいわ」
病院のパジャマを借りた。空いている部屋で着替えようと、案内された部屋に向かう。
「おうちの人に連絡したほうがいいわね。名前と連絡先教えてくれる?」と、看護師に呼び止められ、事務的に言われた。
「母は、仕事行っているので家にいません」と、力のない声で答えた。
「そう、じゃあ着替えたら診察室の前で待ってて。問診票を書いてもらうわね。そこに連絡先とかを書いておいて」
そう言って看護師は去っていった。
服は、絞れるくらいびしょ濡れだった。どれくらい屋上で雨に打たれたまま立ち尽くしていたのかわからないけど、足のだるさは熱のせいだけじゃないようにも思える。
時間を確認しようと携帯の画面を見た。二通のメールと何度かの着信があった。香奈からだ。
もう昼はとっくに過ぎていた。
焦った俺は急いで着替えて、香奈に電話しようとしたら看護師に呼ばれてしまった。
問診票を書いてから、診察室に入ると、長い時間雨に打たれていたことを言うと叱られてしまった。
ゆっくり休むように言われたけど、そういう訳にはいかない。香奈に連絡しないと。
俺は診察室を出たあと、いったん病院の外に出る。雨は変わらず土砂降りのままだった。着信履歴から香奈に電話をかける。呼び出し音はすぐに止まった。
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