第二章 混沌
2-1 怒り
玄関のドアが閉まる音を聞くと、俺は一階に降りてシャワーを浴びる。母さんと顔を合わせたくないからだ。
あれから数日、俺は一日のほとんどを部屋で過ごしている。
シャワーを浴びたあと、冷凍庫の中から冷食のえびピラフを取り出す。ピラフの封を開け、皿に盛りつけレンジにセットする。
母さんの手料理なんていつから食べてないだろう。手料理自体がレアではあったけど。
冷蔵庫にあるペットボトルの麦茶を取り出し、コップに注ぐ。
母さんが働くようになってから、家の冷蔵庫にはいろんな種類のペットボトルのお茶やジュース、冷凍庫には冷食が常備されるようになった。それらを適当に自分で食べろということらしい。
中学の頃は、慎二の家で晩ご飯を食べることもあった。おじさんとおばさんは、俺のことも自分の子どものように接してくれていたから。
レンジで温められたピラフと飲み物をお盆に入れて、部屋に持っていく。
冷房の効いた薄暗い部屋が、妙に落ち着く。そこにいれば、何も考えなくてもいいような気がした。
二階には、二つ部屋ある。父さんがいなくなるまで父さんと母さんの寝室でもあった部屋が、今では父さんのものを置いた部屋になっている。
あと一つは、俺の部屋。母さんが二階に上がってこないのは、今の自分には必要ないからだ。それがわかっていても、俺は部屋に鍵をかけた。
ピラフを食べ終わり、パソコンの電源を入れる。
この部屋の天井の電気は外してしまったので、明かりは間接照明とこのモニターがだけになった。
わずかの明るさも、今の俺には目障りだと感じるくらい、気持ちは落ち込んでいる。
父さんの失踪、そして慎二の裏切り。この二つは俺を打ちのめすには十分すぎるくらいの出来事だ。
モニターの前に座り、ブラウザを立ち上げる。ジュースを飲みながら、適当にリンクをクリックしていく。
風景写真のブログをぼんやり眺めていると、その中に青い薔薇の写真を見つけた。しばらくの間、それに見入っていた。
青い薔薇の花言葉は、〈神の祝福〉らしい。神を信じてるわけじゃな
い。
俺と香奈の未来には、神の祝福があってもいいはずだとは思うけれど。
この部屋に青い薔薇を散りばめる。間接照明で照らされたそれは、思考を麻痺させてくれるような気がした。
俺は、青い薔薇が一番安く売っている店を検索し、十本カートに入れた。配達日は、母さんが仕事で留守にしている時間を選ぶ。配達日に、母さんと顔を合わせたくないから。
ネットをしても落ち着かず、課題用に買っていたノートを広げ、勉強しようとテキストを手にした。でも、問題が頭に入ってこない。
思い浮かぶのはあの日の二人ばかりだ。
俺は、それを掻き消したくて、ノートにシャーペンで書きなぐった。シャーペンの芯が何度も折れる。そのたびに芯を出し、また何かを書きなぐる。むしゃくしゃして吐きそうになりながら、無心で書きなぐる。シャーペンの芯が全部なくなったとき、シャーペンを床にたたきつけて、床に寝転んだ。
書きなぐったノートには、いろんな言葉が綴られている。
偽善者。
八方美人。
憎い。
泥棒。
消えろ。消えてしまえ。
慎二とは、兄弟のように一緒にいたのに。優しくていいやつだと思っていたのに。
でも、本当は偽善者だった。なんでもソツなくこなして父さんに褒められて、そして俺のことを心のどこかで馬鹿にしていたんだ。俺から父さんを奪えなかったから、香奈を奪った。おじさんやおばさんの前ではいい子ぶっていた。
俺は、慎二に騙されていたんだ。
こみあげてくる行き場のない怒りを、ノートにぶつけることにした。
地獄におちろ!
気が付くと、ノートは最後のページになっていた。床には芯の折れた鉛筆が何本も転がっていた。力を入れ過ぎたせいで、裏面の文字が浮き出て見えている。
ノートを壁に投げつけ、ベッドに横になる。
それと同時に、マナーモードにしていた携帯が床で震えはじめた。ちらっとサブディスプレイを見ると、慎二の名前が表示されている。
慎二は、滅多に携帯で連絡してこない。家が近所だから、直接家に来るのがほとんどだ。
今、慎二と話したくなんかない。
床で震え続ける携帯を無視して、俺はリビングへ行こうと部屋を出た。階段をおりたところで、インターホンが鳴る。
慎二だとすぐにわかった。電話に出ないから、直接来たんだろう。インターホンを何度か鳴らした後、慎二は諦めたらしく帰っていった。それから部屋に戻り、俺は慎二の携帯番号を着信拒否に設定した。
青い薔薇が届いたその日まで、慎二から何度も着信があったようだった。通話履歴を見ると、いらいらする。
リビングに、母さんから走り書きの手紙まであった。
『慎二君が、心配してるわよ』
母さんまで取り入ろうとしているのかと思うと、むかむかしてくる。俺はその手紙を、破り捨てた。
青い薔薇は、部屋の真ん中に花束のまま飾った。枯れてきたらドライフラワーにすればいい。ちょうどいい花瓶が家になかったから、こうするしかなかったんだけど。
間接照明が青い薔薇にあたるように、角度を変えてみる。薄暗い部屋が少し明るくなった気がした。
藍色の空間は、いやなことを遮断してくれる。きつい薔薇の香りになかなか慣れなかったけれど、日が経つにつれてそれが当たり前になっていった。
八月に入ると、毎日のように母さんの置手紙があった。慎二からの伝言を伝えるもので、見るたびに破り捨てていた。
殴り書きしたノートが、気が付いたら三冊目になっていた。一冊目は勢いで書いたものだったけれど、二冊目からは、慎二のむかつくところを、書き綴っていっていた。
三冊目を開いたところで、携帯の着うたが流れはじめた。その着うたは、香奈から着信があったときのものだった。
香奈は、携帯番号を俺にだけ教えてくれた。慎二も知らないらしい。
高校に入学してすぐ、香奈が照れくさそうに教えてくれた。
『誰にも言わないでね』
あのときの香奈の表情を思い出すと、頬がゆるむ。
携帯を手に取り、通話ボタンを押そうか迷っていると、着信音が止まってしまった。
慎二と腕を組んでいた香奈の姿を頭から消そうと、頬を軽くたたく。
携帯を見ると、留守番電話にメッセージが入っていることに気が付いた。
『夏休みの課題、すすんでますか。いつものカフェで数学を教えてもらいたいです。連絡待ってるね』
慎二と腕を組んで歩いていたときの甘ったるくてだらしない声じゃなく、いつもの香奈の声だった。
香奈は俺を裏切っていない。慎二が俺を騙しているんだ。
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