1-6 中学

 久しぶりの学校は、居心地が悪く感じた。周りが好奇の目で俺を見る。それに耐えられなくなり、二時間目が終わってすぐ鞄を持ち家に帰ろうとした。

 すると、

「ねえ、もう帰っちゃうの?」

と、あの日慎二と一緒にいた女が俺を

呼び止めた。

 周りの目なんか一瞬で忘れてしまうくらい、俺はその女に集中していた。目が合うと、俺の心臓が異常なくらいに高鳴り、息苦しさが押し寄せてきた。このまま倒れてしまうんじゃないかと思うくらいに。

 女は、俺をじっと見つめながら言った。

「ここで逃げたらずっと学校に来れなくなるよ。私も慎二君も高瀬君の味方だよ。帰らないで」

 囁くような声。

 ざわついている教室なのに、しっかりと俺の耳に届く。

 ゲーセンでもそうだった。騒がしいはずなのに、この女の声は、よく聞こえる。

「高瀬君は、一番の理解者が慎二君だって、わかってるんだよね」

 心に訴えてくるような、まっすぐな目。それは、純粋に俺を心配してくれているように感じた。

 俺は、鞄に仕舞っていた教科書や筆記用具を取り出した。そのあと顔をあげてみると、顔をうっすら赤くしながら上野香奈が微笑んでいた。その笑みがまぶしく感じた。

 だけど、不思議だ。この前会ったばかりの俺を、どうしてここまで心配できるんだろう? ここまで親身になれる理由がわからない。

 でもあの笑顔を見ていると、そういうのは気にしなくてもいいんじゃないか、と思えるようになってきた。俺をちゃんと見てくれる人にわかってもらえたらいい。

「お父さん、早く戻ってきたらいいね」

「ああ、うん。えっと上野さん、ありがとう……」

 中学に入ってから女と話すことがなかった俺は、たったそれだけを言うだけで緊張してしまった。

「香奈でいいよ。私も高瀬君のことをこれから、良太君って呼ぶから」

 上野香奈は、顔を真っ赤にしながらそう言った。

 香奈は、よどみのないきれいな目をしている。香奈の真っ赤な顔を見ていると、またどきどきしてきた。心臓の音が、香奈に聞こえるんじゃないかと不安になり、俺は香奈からそっと目をそらす。

「どうしたの?」

 香奈の顔を見ていられなくなり、俺は椅子に座り香奈に顔を見られないように、手で覆った。

 すると香奈は、俺の正面の席に座り、俺の無言を見守るようにそこにいてくれた。そうしていると、チャイムが鳴り三時間目が始まった。

 香奈は自分の席に戻る前に、「元気出してね」と耳元で囁いた。

 三時間目の授業は、上の空だった。  


 香奈のことが俺の頭の中でいっぱいになってしまっていた。香奈を意識するようになっている。

 少し離れた席にいる香奈のことを、気がついたら見つめていた。話しかけられると気がたかぶるし、笑顔を向けられると空に舞い上がりそうなくらい嬉しくなる。

 俺は香奈を好きなのかもしれない。そう思いながら、俺は戸惑う。異性を好きになるはずがないと思っていたからだ。

 母さんを見てきて、誰かに恋をするなんてばかばかしいことだと感じていた。母さんのように、父さんしか目に入らないような生き方はしたくない。ずっとそう思ってきた。

 俺を理解しているのは、父さんと慎二だけのはずだった。

 父さんがいなくなって、母さんがあんな状態になりヤケになっていたけど、香奈が現れたことで心がかなり楽になっていた。香奈は、俺を理解しようとしてくれている。そういうのを香奈の態度でなんとなく感じていた。

 その一方で、香奈にどっぷりはまって母さんのように周りが見えなくなっていく自分に嫌悪感を抱いた。

 香奈を好きかもしれなくても、俺は母さんのようになりたくなくて、心にブレーキをかけていた。


 そんな俺の心のブレーキを解除するような出来事が起きる。

 それはその年の十二月。

 寒さも本格的になり、慎二の母親おばさんが入院した頃のことだった。

 それまで、学校で慎二と俺と香奈は一緒にいることが、時々あった。でも、慎二は放課後になるとすぐおばさんの病院へ行くようになり、放課後二人でいるようになった。

 香奈は、クラスの女とほとんど喋らない。俺か慎二のどちらかと喋ることはあっても、それ以外の誰かと話しているのを見たことがなかった。それを不思議に思って、一度訊ねたことがある。

「女の子の集団って、苦手なの」と苦笑いしながらそう答えた。

 香奈は、いまどきの女とは違うんだと思った。群れを作る。そこからはみださないように同じような外見、下品な言葉づかい。そういうところがまったくないから、俺は香奈を好きなんだと思えた。

 放課後になると、待ち合わせをして一緒に過ごすことが増えた。この町の小さな公園で三十分くらい、好きな小説家の話をした。香奈が好きなものと俺が好きなものは、嬉しいくらいに似ている。

 二人で会っていることを、慎二には言えなかった。おばさんが大変なときに、俺だけ幸せな気分なのが、後ろめたかった。それに、香奈との時間は誰にも邪魔されたくなかったから、言いたくなかった。

 ベンチに座り、香奈が隣にいるというだけで、寒さなんか忘れられた。


 年末年始は香奈の都合で会えなかったけど、冬休みが明けて三学期が始めると、またいつものように放課後になると、公園で会っていた。


 一月の中旬。

 いつものようにベンチに座り、ぼんやりと過ごしていた。会話がなくても、同じ時間を共有しているだけで良い。

 ふいに香奈がつぶやいた。

「ほとんど毎日、こうして会っているけど、良太君は私と一緒にいて楽しいのかな?」

 一緒にいるだけで十分だ。そう言いたかった。でもそんなこと恥ずかしくて言えない。

「私は、良太君と一緒にいたら落ち着く。良太君も同じだったら嬉しいな」

 香奈はそう言った後、俺の手に触れた。俺はびっくりして香奈の方を見た。

 香奈は照れくさそうにうつむいている。耳まで真っ赤になっている香奈を

見て、俺は動揺した。

 香奈も、俺のことが好き、なのか?

「俺も、香奈と一緒だと、落ち着く」

 俺も、香奈の手に触れた。そして、ゆっくりと香奈の手を握った。香奈もすぐに、握り返してくれた。

 これ以上の言葉がなくても、俺の気持ちは香奈に伝わったと感じた瞬間だった。

 握り合った手は、空気の冷たさと裏腹にとても温かく、母さんのことでささくれだっていた心がほぐれたようだった。

 はにかむように俺を見つめる香奈。それから俯いて照れくさそうに、そっと上目使いで俺を見る。すべての仕草にどきどきした。

 手を握るだけで精一杯だった。

 香奈のことをたくさん知りたいと思いつつ、香奈を目の前にすると、一緒にいられる時間があればそれだけでいいと思ってしまう。香奈自身のことをいろいろ聞きたくなっても、焦らなくてもそのうち知っていくだろうとも思った。


 二月になり、おばさんは回復し退院した。

 慎二は日頃から笑顔を絶やさない。自分がつらい状況にいても、そういうのは表に出さないようにしているようだった。おばさんが退院したときは、いつも以上の笑顔をみせていた。

 慎二に香奈とのことを話せば、喜んでくれるだろうと思う。だけど、恥ずかしくて言えないでいた。

「恥ずかしいから、二人のことは誰にも言わないでいようね」

 香奈からそう言われたので、言わないことにした。


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