第319話 ドーラさんと海06

ドーラさんが軽くうなずき、

「じゃぁ、次はお魚ですわね」

と言ってさっそく先ほど捌いたリエッカを手に取る。

まずは、スッと一切れ切って、

「失礼しますね」

とひと言断ってから味を見た。

「まぁ、美味しいこと」

と微笑み、一切の迷いなく魚を切り始めたドーラさんの手元に再び料理人の視線が集中する。

誰もが息を呑みながら、その光景を見つめた。


「はい。じゃぁ次は握りますね」

と、魚を切り終えたドーラさんがさっそくシャリを手に取ろうとして、私に視線を向ける。

私は、いったいなんだろうかと思って、

「ん?」

と聞き返すと、ドーラさんは、

「ワサビはいかがいたしましょう?」

と聞いてきた。

「あー…」

私は一瞬迷ったが、

「我が家の大人用と子供用みたいに、入れた物と抜いた物、両方作ろう」

と言って、道具箱の中からこの日のために開発した乾燥ワサビが入った瓶をドーラさんに渡した。

こちらにも料理人たちの目が集まる。

私は、

「あー、これはワサビと言って、トーミ村で栽培している植物の根の部分を乾燥させて粉にしたものだ。薬味として使うんだが、慣れない人間には刺激が強すぎるから、入れた物と抜いた物を作ってもらう」

と、それが何であるかを説明した。


「それは興味深いですね」

と言うシエラさんに、苦笑いで、

「試してみるか?」

と聞くと、当然、

「ぜひ!」

と言う答えが返ってきたので、ドーラさんにお願いして、味見用にワサビを練ってもらう。

そして、それをシエラさんに、

「ほんの少量から試してみてくれ」

と言って、手渡すと、シエラさんは匂いを嗅いだあと、私の忠告通り、ほんの少量口にした。

「んふーっ」

と声を上げてシエラさんが目を見開く。

「こ、これは…」

と私に、疑問の目を向けるシエラさんに私は苦笑いで、

「醤油と一緒に刺身につけて食ってみてくれ」

と、本来の薬味としての用途を説明した。

すると、シエラさんは何かに気が付いたようにハッとした表情になる。

シエラさんはさっそく、近くにいた料理人に、

「醤油を」

と指示すると、自分は目の前にあった赤身の魚のサクを手に取り、切り始めた。

醤油がやってくると、シエラさんはさっそくワサビを乗せて刺身をおもむろに口に運ぶ。

「…んっ!」

とシエラさんが唸った。

側にいた料理人たちもつぎつぎにワサビのついた刺身を口にする。

やはり反応は同じようなもので、中には鼻を抑えて、必死にあのツーンとした刺激に耐えている者もいた。

シエラさんもそんな様子を見て、

「なるほど、これは人を選びますね…。しかし、慣れればこれ無しで刺身を食べる気にはならなくなってしまう人も出てくるかもしれません」

とつぶやく。

「ああ。ちなみにトーミ村では、蕎麦に使ったりローストした肉に添えたりして、かなり使われているな」

と私が紹介すると、また、シエラさんはハッとしたような表情になり、

「そんな使い方も…」

とつぶやいた。


「うふふ」

というドーラさんの声が聞こえて、シエラさんが我に返る。

「し、失礼しました」

と居住まいを正すシエラさんに、ドーラさんは、

「いいえ。じゃぁさっそくに握りますね」

と声を掛けると、さっそく、いつものように見事な手並みでスシを握り始めた。

スシが次々と握られていく様子をみんなが固唾を飲んで見守る。

私もそうだ。

(ついに。ついに、この世界に寿司が…)

胸の中に溢れる感動をいったい何に例えればいいのだろうか?

私は密かに丹田に気を集め、必死に涙をこらえながら我が家の、いや、この世界の食の神、ドーラさんの神々しい姿を見つめた。

やがて、その場にいた料理人と私の分、ワサビ入りとワサビ抜き、両方の寿司が握りあがる。

そして、

「どうぞ」

という、神の声が私の胸を振るわせると、みんな一斉にスシをつまみ、私も息を呑んで、さっそく醤油をつけ、口に放り込んだ。


私の口の中に宇宙が広がる。

甘味、塩味、うま味、酸味。

ほんのわずかだが、海のミネラルが持つ苦みも加わっているだろう。

全ての味が絡み合い完成する、寿司という一つの味、一つの世界。

そこにはまさにこの世のすべての味が凝縮され、ひと口の中に表現されていた。

(ああ…)

言葉にならない言葉が胸をつく。

白身魚独特のコリコリとした歯ごたえ。

そこにほろりと解けていくシャリの絶妙な握り加減が合わさり描き出されるコントラストはどんなに高名な画家でも描き出せないだろう。

淡白な魚のうま味に、醤油の香りが加わって、ワサビが爽やかな刺激を添えるその味は何に例えたらいいだろうか。

海と大地が手を結び、森が生まれる。

そんな悠久の歴史が刻まれたこの星そのもののようだ。

例えようのない喜びが全身を駆け巡り、私は涙を流した。


「…ワサビ、多過ぎましたかねぇ?」

というドーラさんの少しとぼけた冗談が聞こえる。

私は、思わず、

「ありがとう」

という言葉を口にした。

この世界に生まれてくれてありがとう。

トーミ村にいてくれてありがとう。

そして、私と巡り会ってくれてありがとう。

そんなすべての想いを込めてドーラさんに感謝を伝える。

「まぁ…。村長ったら相変わらずですわねぇ」

というドーラさんの照れた声が聞こえて、私はようやく夢の世界から解放された。


「さぁ、お昼も近いですから、もっとたくさん握りましょう。ああ、テンプラも揚げるんでしたわね」

とドーラさんがその場の空気を変えるように声を掛ける。

すると、私同様、感動に浸っていた料理人が、少し慌てたように、

「はい!」

と返事をして、厨房は再び慌ただしく動き始めた。


私は、いきいきと動き始めたドーラさんや料理人たちの姿をなんとも嬉しい気持ちで見守る。

すると、あのメイドさんがやって来て、

「エデルシュタット男爵様、食堂へどうぞ」

と声を掛けてくれた。

「ああ」

と、ひとつなずいて、ドーラさんに視線を送る。

そして心強くうなずいてくれたドーラさんに後を託し、私は厨房を離れた。


広い邸内のどこをどう歩いたのか。

数分かけて食堂に着く。

通されたその食堂にはドーラさん以外の家族とルシエール殿、そして、おそらくエルリッツ商会の当主であろう人物がすでに揃っていた。

「遅れてしまったようで、失礼した」

私はそう言ってその当主と思しき人物の方へ近寄ると、あちらも立ち上がってこちらに数歩歩み寄り、

「お初にお目にかかります。バンドール・エデルシュタット男爵様。昨日はご挨拶も出来ず失礼いたしました。当エルリッツ商会で会頭と務めております、オルセーと申します」

と言って、綺麗な礼を取る。

私はいつものことで、

「あー。バンドール・エデルシュタットだ。すまんが、そういう堅苦しいのは苦手でな」

と苦笑いで右手を差し出した。

「妻から聞いていた通りのお方ですね」

とオルセー殿も苦笑いで手を握り返してくる。

「ははは。ああ、そうだ。まずは礼を言わせてくれ。家の子供達に素晴らしい環境をありがとう」

「いえ。こちらこそ、楽しい毎日をすごさせていただき感謝申し上げます」

「ははは。そこまでのご迷惑をおかけしていないようで何よりだ。引き続きあの子達を頼む」

「ええ。もちろんですとも」

とにこやかな会話を交わすと、

「さて、今日の食事はなにやら趣向を凝らしているとか。楽しみにしています」

というオルセー殿の言葉に、

「ああ。期待していてくれ」

と私はやや自慢げに胸を張って答えてさっそく勧められた席に座った。


オルセー殿の第一印象はなんとも柔和な人物で、年齢は私と同じくらいに見える。

いかにも代々続く老舗大商会の主といった雰囲気で、なんともいえない懐の深さを感じた。

まずは大人には私とエルリッツ夫妻には食前酒、その他のみんなにはお茶が配られる。

「では。よき出会いに」

とオルセー殿が音頭を取り、軽くグラスを掲げると、そこへ前菜が運ばれてきた。

前菜はソルのマリネ。

バンポに似た果物が添えてある。

「「い、いただきます…」」

と緊張気味の声が聞こえて、リアとシアがさっそくナイフとフォークを手に取った。

(一応、この日のために教えてきたが…。お、意外と上手にできてるな。うん。これなら心配ないだろう)

と、2人の様子を微笑ましく見ながら私もやや緊張気味に食べる。

(うん。美味いな。ああ、しかし、こういうのはチーズと一緒にオープンサンドにして食いたい)

そんなことを思いながら食べていると、横から、

「サンドイッチの具にしたら美味しそうですわね」

と、ささやくような小さな声が聞こえた。

ふと見ると、マリーがいたずらっぽい笑顔をこちらに向けている。

私もつい、

「ふっ。そうだな」

と微笑み返すと、いくらか緊張がほぐれて、その後の昼食会を落ち着いた気持ちで楽しむことが出来た。


オルセー殿の話によるとリズとユークの2人は相当優秀だったらしい。

しかし学業もさることながら、食べ物での貢献が素晴らしかったらしく、ユークは学校の食堂でチキン南蛮を名物にしたり、リズはアイシングクッキーを広めて一躍女子生徒の人気者になったんだとか。

他にも、いろいろな功績があるが、そのおかげでトーミ村はすっかり美食の村として学生の間で有名になってしまったとのこと。

そんな子供たちの活躍を嬉しく思い、さらに楽しく食事を進める。

すると、そこへいよいよ、本日の主役、寿司と天ぷらがやってきた。


ドーラさんとシエラさんに続いて、数人のメイドがカートを押して食堂へ入って来る。

手際よく並べられていく、寿司と天ぷらを目の前にして、私たち家族の興奮は一気に頂点へと達した。

「こちらがバンドール・エデルシュタット男爵様考案のスシとテンプラになります。スシは醤油とお好みでワサビという薬味を付けて、テンプラはつゆか塩をつけてお召し上がりください。なお箸で食べるのが流儀とのことです」

とシエラさんが説明すると、オルセー殿が、

「ほう。それは…」

と寿司と天ぷらに好奇の目を向けながら、箸を取る。

まずは寿司を選んだようだ。

さっそく器用に寿司をつまみ上げると、醤油をつけて口に運んだ。

「…っ!」

と声にならない声が上がる。

ふと見ればルシエール殿も驚いているようだ。

マリーやうちの子達もさっそく食べ、

「まぁ…これは…」

「す、すごいね」

「ええ。すごいわね、ユーちゃん」

「ヤナとかトーミとは全然違うね!」

「うん!海のお魚美味しい!」

と、それぞれに感想を漏らした。

オルセー殿がまたひとつ寿司をつまみ、

「これは広めたいですね」

と嬉しそうに微笑む。

「ええ」

とルシエール殿も続き、

「シエラ。レシピは覚えたかしら?」

とシエラさんに声を掛けた。

「はい」

とシエラさんは答えるが、さらに続けて、

「ただ、これに近い味を出すには少なくとも5年、もしかしたら10年程度お時間をいただくことになるかと」

と答える。

「まぁ…」

とルシエール殿が驚きの声を上げ、オルセー殿も、

「それはずいぶんと長いお預けだね」

と苦笑いを浮かべた。

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