エデルシュタット家の食卓18
第271話 おうちカレー
初秋。
ちょうどリアとシアが無事2歳を過ぎたころ。
我が家にはあの香りが漂っている。
あの香り。
刺激的かつ蠱惑的、世界中どこを探してもこの香りの魔法に対抗できる人間などいないだろうというあの香り。
そんな食堂で、珍しくエルことエルドバンが泣き出した。
きっと、カレーの放つ絶大な魔力にあてられてしまったのだろう。
まだ1歳に満たない乳幼児にはかなり刺激が強かったのかもしれない。
私は、そんなエルの様子をみて、
(しまった。いくらなんでも乳幼児には刺激が強すぎたか?)
と慌ててしまったが、ローズは落ち着いたもので、
「はいはい。お腹が空きましたねー。今おっぱいあげますよ」
と言っていったん食堂から出て行く。
どうやら、刺激は刺激でも食欲を刺激されてしまったらしい。
(こんな幼子の心まで刺激するとは…)
改めてカレーが持つ魔力の恐ろしさを感じ、私は戦慄を覚えた。
そんな私が最初に選んだメニューは王道の「おうちカレー」。
もちろん、スパイスカレーやスープカレーの可能性もドーラさんやシェリーには伝えてある。
しかし、やはり基本を外してはならない。
まずは基本から。
物事の鉄則だ。
子供から大人まで様々な年代の人間が同居する我が家では、子供用に甘くも出来るし、大人用に多少辛くもできるという「おうちカレー」が最適だという判断もあった。
それになんともいっても、「おうちカレー」は、家族の象徴だ。
「今夜はカレーよ」
には、
「今夜はスキ焼よ」
とはまた違う魅力がある。
いつもの食卓に上るちょっとしたご馳走。
たらふく食べられる幸せな料理。
それにカツやから揚げが乗っていた時の喜びはスキ焼に勝るとも劣らない。
ごく一般的な日常のささやかな、しかし、とびっきりの笑顔を生んでくれる料理、それが「おうちカレー」だ。
私は、
(さて、どんな衝撃と笑顔が広がるんだろうか?)
そんな期待を胸にあの香りを感じながらその時を待った。
これまでの試行錯誤を振り返る。
私、リーファ先生、シェリーが何回も森に入り、その時最も良い状態の薬草を見つけて回る日々。
途中、魔獣に邪魔されたおかげで、というと語弊はあるが、シェリーもずいぶんと戦えるようになった。
もうイノシシや鹿くらいなら1人で大丈夫だろう。
そんな未来の料理人兼冒険者のことを微笑ましく思っていると、やがてあの香りが強くなってくる。
そして、いよいよ食堂の扉が開かれた。
鍋とお櫃。
まるで学校給食のようなスタイルでカレーが配膳されていく。
みんなの視線が釘付けになった。
私とリーファ先生は何度か試食に立ち会っているが、香辛料の配合を整えた、現時点での完全版はまだ口にしていない。
最後の試食の時も、ドーラさんとシェリーはまだ首を傾げていたからきっとまだ何かあるのだろう。
私としても、
(美味い。しかし、何かが…)
と思っていたから、きっと2人その答えを見つけ出したはずだ。
そして、全員にカレーが配膳されると、一気に私に視線が集まる。
私はみんなに向かって深くうなずくと、おもむろに口を開き、
「いただきます」
と言って、さっそくスプーンを手に取った。
とろっとした感触が伝わって来る。
今日の具は村で比較的手に入りやすい、普通のイノシシ肉と玉ねぎこと丸根、それにニンジンこと赤根にジャガイモこと丸イモ。
かなりシンプルなものにした。
これもまた普及を考えた王道。
(ああ、これぞまさしくおうちカレー…)
感動すら覚えながら米とカレーがおおよそ半々になるように掬い上げる。
そして、口に入れた。
(おぉ…)
感動以外の言葉が出てこない。
カレー。
ここにはまさしくカレーがある。
香辛料の風味、柔らかい辛味、野菜の甘さ、肉のうま味。
まさにコクという表現がぴったりの重層的な味のハーモニー、いや、これはもうシンフォニーと言ってもいいかもしれない。
言葉の使い方としては違うのかもしれないが、もう、この重層的でそれぞれの個性が響き合い、重なり合って響くこの味はまさしくシンフォニーだ。
ドーラさんと言う稀代のマエストロの手によって指揮される交響曲の美しさ。
これを何に例えればいいのだろうか?
私の中で喝采と喝采と喝采が巻き起こった。
「むっふーっ!?」
といういつもの叫び声が2か所から同時に聞こえ、いつものようにリーファ先生が勢い込んでしゃべり出す。
「なんだい、この深い味わいは…。辛味と香りの塩梅が素晴らしい。どちらも主張し過ぎず手を取り合っている。そして、独特のこの強い味。しかし、強いだけじゃない。この味はなんでもその味にしてしまうだけじゃなく、どんな味のものでさえも快く受け入れ、その具材が持つ魅力を最大化してくれている…。なんという包容力。すべての根源であり、目指すべき最高峰。そして、帰るべき場所…。それはまるで母…、そうだ、これは母なる食べ物だ!そうでなければ、この強さと包容力の説明がつけられない!」
そう熱弁を振るって、リーファ先生はカレーを母なる味であると結論付けた。
「まぁ、辛いわ。でも、なんでしょう。不思議な辛さ。どんどん食べたくなっちゃいますわね。なんででしょう…。とってもとっても、不思議なお味ですわ…」
どうやらマリーはこの味をなんと例えていいかよくわからないようだ。
そして、みんなもとろけたような顔だったり、目を見開いたりして、懸命のその料理の味を心の中で解析している。
しかし、おそらく答えは出ないだろう。
なにせ、カレーの味はカレー味だからだ。
そして、今のところ私だけが、いや、おそらくリーファ先生やドーラさん、シェリーはもう気が付いているだろう。
このカレー味に正解がないということに。
千変万化。
何者にも染まらず、何物をも染め上げてしまう。
そんな驚異の調味料、カレー粉。
もしかしたら、私は開けてはいけない箱を開けてしまったのかもしれない。
そんなことを思っていると、リーファ先生が、
「これには可能性を感じる…、いや、可能性しか感じないね」
とカレーを見つめながらつぶやいた。
そんな言葉に私は深く共感し、
「ああ。無限だ。無限の可能性がある。香辛料の配合を変えるだけじゃない。具も見た目もなんだって変えられる。しかし、その本質は変わらない。いつまでたっても、どこへ行っても、どんな姿に変わろうともカレーはカレーでカレーのままあり続ける。そんな永遠の真理。それがカレーという食べ物だ」
とやや哲学的につぶやき返す。
そんなつぶやきに、みんながうなずき、ハッとしてまたガツガツとカレーを掻き込み始めた。
止まろうとする人間などいようはずがない。
子供達も子供用に甘口にしたものをバクバクと食べている。
そんな子供たちの嬉しそうな顔を見ながら、
(良かった…)
と私はこの革命を起こしたことを心の底から誇りに思い、思いっきりカレーを掻き込んだ。
そして、みんなが十分に満足し、鍋の中のカレーがすっかり空になってしまったころ。
食後のお茶を飲みながら、そう言えば、と思い出して、
「そう言えば、ドーラさん。このカレー。試食した時とは違ってまろやかさが際立っているように感じたが、いったいどういう工夫をしたんだ?」
と疑問に思ったことを直接ドーラさんに聞いてみる。
そんな疑問にドーラさんは、なにげない表情で、
「ええ。あのままですと、お子様用に辛味を抑えたとしても、なんだか刺激が強すぎるような気がいたしましてねぇ。ちょっと迷ったんですが、リンゴをしっかり飴色になるまで炒めた物とメッサリアシロップをほんのちょっと入れてみたんですよ」
と答えた。
(なっ!?…メッサリアシロップ。あれには蜂蜜のような香りとコクがある…。ということは…)
この驚愕をなんと例えればいいのだろうか。
(やはりドーラさんは大魔法使いであらせられるに違いない。すでにアレにたどり着いているとは…)
そんな日本の記憶を元に驚いている私にドーラさんがきょとんとした顔を向けてくる。
そして、
「今度はこれにから揚げを乗せてみましょうかねぇ」
という言葉を発し、私とリーファ先生、そしてルビーの心に止めを刺した。
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