第239話 緊張の夏02
メルが無事に出産を終えた日から数日。
今日も我が家には朝から赤ん坊の泣き声が響き渡っている。
メルの生んだ子は女の子で、エリザベスと名付けられた。
そんな元気なリズことエリザベスをみんなが温かく見守り、うち子達も、
「きゃん!」(リズ、元気で可愛いね!)
「にぃ!」(うん。とってもいい子!)
「ぴぃ!」(私の妹!)
と言って嬉しそうにしている。
私もマリーも日々愛くるしさを振りまくリズを見て、微笑ましい気持ちになった。
もちろん不安はある。
しかし、その不安の先にはこんなにも幸せな日々が待っているのだという事実を目の前にすると、やはり待ち遠しい気持ちの方が強くなり、不安な気持ちが少し薄らぐのを感じた。
おそらくマリーも同じように感じているのだろう。
リズを抱かせてもらうたびに嬉しそうな表情をしている。
そんなマリーの表情に私も勇気をもらい、
(マリーをしっかり支えよう。そして、良い父親になろう)
と気持ちを新たにした。
そして、私たちはついにその日を迎える。
夏の5月1日。
早朝。
いつものように裏庭で木刀を振っていると、コハクがやって来て、
「ひひん!」(もうすぐだよ!)
と言った。
私は慌てて勝手口をくぐり、朝食の準備をしていたドーラさんに事を告げ、急いで部屋へ向かう。
普段ならまだ眠っているはずのマリーを見るとやや息が荒く、うっすらと汗ばんでいる。
私は、マリーに、
「大丈夫だ」
と声を掛けると、すぐにリーファ先生の部屋へと向かった。
起きてきたリーファ先生に指示を仰ぎ、すぐにエリスとフィリエに馬車を頼んで助産師さんの元へと走る。
屋敷に戻り、マリーに、
「安心しろ。みんなが付いている」
とひと言伝えて部屋から出ると、あの日のジュリアンと同じようにただただ不安な時間を過ごした。
何も手に着かない。
飯も喉を通らない。
「村長、いくらなんでも少しは召し上がらないと…」
と言う、ドーラさんの言葉に、
「ああ…」
と返して、握り飯をひとつ食ったような気もするが、まるでその感覚がない。
当然味もしなかった。
私は心の底から祈る事しかできない。
そして、祈り続けて何時間が経ったのだろうか?
突然、
「きゃん!」
「にぃ!」
「ぴぃ!」
と部屋の中にいたうちの子達が一斉に鳴いた。
外からも、
「ひひん!」
とコハクの声が聞こえる。
その声にハッとして立ち上がると、産声が上がった。
私は急いで部屋に向かう。
ただし、すぐには入れない。
焦る気持ちを抑え、元気な産声を聞きながら入室の許可を待った。
ようやくリーファ先生が出てきて許可をくれると、駆け込みたくなる気持ちを抑えながらもやや早足でマリーの元へと近づく。
ぐったりとしながらも微笑むマリー。
そして、その横には元気に泣く我が子の姿があった。
ベッドの脇で崩れ落ちるかのように跪く。
私はきっと泣いていたのだろう。
ぼやける視界を必死に拭いながら、
「ありがとう」
という言葉を何度も繰り返しマリーと生まれたばかりの我が子に伝えた。
また、どのくらい時間が経ったのかわからないが、
「さて、いったん外に出てくれ。準備もあるしいくら何でもマリーを少し休ませないといけないからね」
と言うリーファ先生の言葉でふらふらと部屋の外に出る。
ふと目をやった窓の外はすっかり暗くなっていた。
何時ごろなのかは定かではないが、トーミ村の夜空にはいつものように満天の星空が広がっている。
(ああ…、良かった…)
そんな感想しか出てこない。
もっと詩的な美しい感想や喜びに溢れた激しい感情が湧き上がるのかと思っていたが、とにかく安堵する気持ちしか出てこなかった。
リビングに戻り、窓を開けてコハクと抱き合いながら、
「ありがとう」
と礼を言い、足元にすり寄り肩にとまるうちの子達にも同じように、
「ありがとう」
と繰り返して抱き合う。
また涙が出てきた。
私が元はどこの誰で、はたして日本人だったのかどうなのか。
それはわからない。
しかし、そんなことはどうでもいいことだと思った。
とにかく、私は今この世界にいる。
そして、この世界の優しさに包まれて、この世界で幸せを得た。
それだけが私の人生だ。
心の底からじわじわと溢れてくる喜びの感情を味わいながらそんなことを思って、またトーミ村の夜空を見上げる。
(ありがとう)
私は万感の思いを込めて、この世のすべてに感謝の気持ちを伝えた。
出産の翌日。
朝日の眩しさで目を覚ます。
どうやら私はリビングのソファでうちの子達と一緒に眠ってしまっていたらしい。
慌てて飛び起きるとびっくりするルビーとサファイアとユカリにひと言、
「すまん」
と謝ってマリーの元へ向かった。
部屋に入る時、一瞬ためらう。
マリーはまだ休んでいるだろう。
そう思ったが軽くノックをすると中からリーファ先生が扉を開けてくれた。
改めて我が子を見、美しく微笑むマリーと見つめ合う。
私はもう一度、
「ありがとう」
と伝えると、すやすやと眠る我が子の顔をそっと撫でた。
「抱っこしてあげてください」
と言うマリーの言葉に喜びすぐに手を伸ばすが、またためらって、
「…起こしてしまうかもしれない」
と言って、リーファ先生の方に視線をやる。
「大丈夫だよ」
というリーファ先生の言葉を聞き、私は深呼吸をすると、恐る恐る我が子を抱き上げた。
(ジュリアンと一緒に練習していてよかった)
と思いながら私の腕の中の小さな我が子を見つめる。
すると、赤ん坊が、
「んぎゃ…」
と小さな声を発した後、
「んぎゃぁー!」
と激しく泣き始めた。
「あ、ああ…」
と私もおろおろしてしまう。
「ど、どうしたら…」
と言う私に、マリーは、「うふふ」と微笑みながら、
「大丈夫ですわ。この子は一生懸命お仕事をしているんですよ」
と言った。
そんな言葉に私は、
「ああ。そうか。泣くのは赤ん坊の仕事だったな…。生まれたばかりだというのにお前は一生懸命仕事をして偉いな。私とは大違いだ」
と言って、苦笑する。
そして、
「よしよし。だが、働き過ぎは良くないぞ」
と言って笑いながら赤ん坊を慎重にマリーに渡すと、すぐさま泣き止んだ赤ん坊を見て、少し複雑な気分になった。
(やはり冒険者の無骨な手は赤ん坊には評判が悪いらしい…)
リズを抱かせてもらった時にもやはり泣かれたことを思い出しながら、「ははは…」と力なく笑う。
そんな私を見て、笑いながらマリーは、
「バン様。お名前を付けてあげてください。元気な男の子ですよ」
と言った。
私はそんなマリーの言葉に、ひとつうなずく。
事前に男の子だったら私が、女の子だったらマリーが名前を付けようと話していたが、どうやら赤ん坊は男の子だったらしい。
私は一度深呼吸をすると、真っ直ぐに我が子を見つめて、最近ずっと考えていた名前で初めて我が子に呼びかけた。
「ユークリウス。お前の名はユークリウスにしたぞ。どうだ、気に入ったか?」
と微笑みながらそっと赤ん坊ことユークリウスの頬を撫でてやる。
すると、ユークリウスは、今度は泣きださずに笑ってくれた。
私はそんなユークリウスの反応に少し安心すると、今度はマリーに向かって、
「私の師匠と同じユークという愛称になるようにしてみた。師匠のように真摯な心で物事に向き合える子に育って欲しいと思ってな。…どうだろうか?」
と聞いてみる。
するとマリーは、
「まぁ…。素敵なお名前ですわ。ねぇユークちゃん」
と胸に抱いた我が子にさっそく愛称で呼びかけた。
そんな母の問いかけにユークは再び、
「んきゃ…」
と笑ったので、きっと気に入ってくれたのだろう。
いつの間にか私の側に来ていたうちの子達も、
「きゃん!」(ユーク!)
「にぃ」(ユーちゃん!)
「ぴぃ!」(弟もできた!)
と楽しそうにはしゃいでいる。
こうして、我が家に生まれた新しい家族の名はユークことユークリウスに決まった。
私はもう一度我が子の頬をそっと撫でる。
ユークは少しくすぐったそうな表情をしながらも、また、微かに笑ってくれた。
秋が近づく晩夏の朝日が窓から差し込み、柔らかくマリーとユークを包み込んでいる。
今日もトーミ村にはいつもと同じように平和で穏やかな時間が流れることだろう。
その平和な村をこれからも守っていなかければならない。
この子のためにも、家族のためにも、そして村で暮らす全ての人たちのためにも。
私はそんな決意を新たにし、いつの間にかすやすやと眠ってしまったユークをもう一度そっと撫でてから、自分の仕事へと向かっていった。
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