エデルシュタット家の食卓 09
第130話 ナポリタン・ショック
私、シェリーこと、シェルフリーデル・エル・リード・ルシェルロンドはこの日の衝撃を一生忘れないでしょう。
エデルシュタット家にお仕えするようになってから5日。
ただの野菜サラダですら一つ格上の美味しさにしてしまうドーラ師匠の魔法としか言いようのない腕前に圧倒されながらも、こんなチャンスをいただけたことに感謝しつつ毎日楽しく働いています。
「うふふ。シェリーちゃん。このキューカはさっきのよりもほんのちょっとだけ薄く切ってあげるともっと美味しくなるわよ」
と何気なくおっしゃる師匠の手元を見てみると、確かに厚さが微妙に違っていました。
言われなければ絶対に誰も気が付かないくらい、微妙な違いです。
「師匠。なぜ違いがわかるのですか?」
と私が驚きながらも率直な疑問を投げかけると、師匠は、
「うーん…。なんでかしらねぇ?なんとなくなんだけど、お野菜がそう言っているような気がするのよ」
と少しだけ困ったような顔ではにかみながらそうおっしゃいました。
(…師匠は野菜の声が聞こえている!?)
そんな常識外れともいえる答えですが、師匠が言うとなぜか納得してしまいます。
「精進します!」
と私が本気でそう答えると、
「うふふ。大丈夫、シェリーちゃんならきっとすぐに覚えられますよ」
と言って、師匠はまた楽しそうにキューカを切りだしました。
「ああ、そうそう。今日はたくさんトマトをいただいたから、ケチャップを仕込みましょうね」
と師匠は楽しそうに笑って、籠いっぱいのトマトを抱えると、さっそく裏庭の井戸へと向かいます。
私もお手伝いして、トマトを運びながら、
「師匠。ケチャップとはなんですか?」
と聞いてみました。
「あら。やだ、私ったら。そう言えばまだ村の外ではまだあんまり広まっていないんだったわね。いやね、私ったら。もうすっかりいつもの味になっているから、てっきりみんな知ってるものだとばかり思って…。うふふ。うっかりね」
と少し照れたように笑う師匠はとってもチャーミングです。
「なるほど。師匠の開発なさった新しいお料理なんですね?」
と私が言うと、
「いいえ、ケチャップっていうのは村長が教えてくださったトマトを使ったソースみたいなものなの。たしか外国のものだっていうお話だったかしら?村長のなんとなくの記憶を頼りに、最初はご一緒に作ったの」
と、そのケチャップというものの正体を教えてくださいました。
「どんなソースなんですか?」
と聞いてみると、師匠は、
「うーん…。なんて説明したらいいのかしら?なんというか、普通のトマトのソースよりもドロっとした感じで、甘酸っぱくて…。あと、いろんなお料理の調味料にもなるの」
とおっしゃしますが、私はいちひとつピンときません。
そうやって私が疑問に思っていると、
「うふふ。私ったら説明が下手ね。でも、一緒に作ったらすぐにわかりますからね」
と微笑んで、師匠は楽しそうにトマトを洗い始めました。
「けっこうたくさんトマトを使うんですね?」
と私もトマトを洗いながら聞くと、師匠は、
「ええ、そうなの。作るのに、少し時間がかかるものだから、一度にたくさん仕込んでおくのよ。うふふ。でも、リーファ先生はこのケチャップが大好きだから、けっこうすぐになくなっちゃうの」
とおかしそうに笑います。
リーファ先生といえば、あの子爵家ながら古い歴史のあるお家柄で、先の大公陛下にもつながる名門、デボルシアニー家のご出身。
そんな高貴な方のお側にお仕えするというので、最初のうちはかなり緊張しましたが、実際はとても気さくな方でほっとしました。
しかし、さすがは名門のお嬢様。
確実な味覚と的確な表現力をお持ちです。
あのお方がお好きなものであれば、きっと素晴らしいものに違いありません。
そう思って、私はワクワクしながらトマトを洗いました。
洗い終わると、さっそく調理にとりかかります。
切って煮込んでつぶして漉して。
師匠がお酢とスパイスの加減を目分量でやっているので、
「計らないのですか?」
と聞くと、師匠は、
「ええ。トマトの味もそうだけど、その日のお天気によっても少しずつ加減が変わってきちゃいますからね。ああ、でも安心して。大体の分量はこんなものだから、大きく失敗することはないわよ」
と教えてくださいました。
そして、味を調えながら煮込むことしばし。
かなり時間がかかりましたが、どうやら完成したようです。
「うふふ。少し味を見てみましょう。ここで大体の見当をつけて味を調えるの。そのあと少し寝かせると味が落ち着くから、あんまり濃くならないくらいがちょうどいいのよ」
と言って師匠が差し出してくださったスプーンで一口味を見てみると、私の脳に、いや体全体に衝撃が走りました。
「し、師匠…」
もう、言葉になりません。
「うふふ。なんとなくわかってもらえたかしら?私もね、最初に食べたときはびっくりしたのよ。でも、その時はまだ、ちゃんと美味しく出来なかったから、ちょっと悔しくて何度も挑戦したわ」
と師匠はなんとも気軽におっしゃいますが、いくら村長のヒントがあったとは言え、この味にたどり着くのは並大抵のことではなかったはずです。
それをこうも気軽に教えてくださる師匠の優しさに感動して、私は思わず泣きそうになってしまいました。
すると、師匠は、朗らかに笑いながら、
「あらあら。そんなに美味しかったの?うふふ。エルフさんのお口にはケチャップが合うのかしら?そのうちお国でたくさん作られるようになるといいわね」
とエルフィエルで広めてよいとまでおっしゃってくださいます。
そんな師匠の寛大なお言葉に、私は、これから自分が故郷のために果たさなければいけない責任の重さと、師匠という壁の高さを感じながらも覚悟を決めて、
「はい!必ずやこの味がエルフィエルの国中に広まるよう努力いたします!」
と全身全霊の力を込めて誓いました。
そんな私を見て、ちょっと苦笑いをした師匠は、
「さぁ、今日はまだケチャップの味が落ち着いてないから、まだ使えないけど、明日のお昼はこのケチャップを使って、リーファ先生の大好きなナポリタンを作りましょうね」
と師匠はまた私の知らない単語をおっしゃいます。
「ナポリタン…ですか?」
と私が聞くと、
「うふふ。それも村長が教えてくださったのよ。このケチャップを使ったパスタなんだけどね、簡単なのにとっても美味しいの。明日のお昼が楽しみね」
とおっしゃって笑う師匠のお顔は、どこかいたずらっ子のようでやっぱりチャーミングでした。
そして、翌日。
今日はいよいよそのナポリタンです。
朝の稽古を終えた私はいつもより気合を入れてメイド服に着替えました。
今日は、まだ見ぬ料理と出会える。
そう思うとワクワクした気持ちが抑えられません。
自分の部屋で「ふんっ!」と気合を入れると、私は意気揚々とお給仕のお手伝いに向かいました。
まずはいつものようにみなさんと一緒に朝食を食べて、家のお仕事を手伝います。
頭の中はナポリタンのことでいっぱいですが、お仕事はきちんとこなさなければなりません。
そこは一生懸命手を抜かずに頑張りました。
お掃除にお洗濯。
私にはどれも慣れないことばかりですが、師匠は楽しそうにテキパキとこなしていきます。
さすがです。
そして、お昼が近づくと裏の井戸でお野菜を洗い、いよいよ準備に取り掛かりました。
「まずはサラダとスープね」
と言って師匠は、野菜を切ったり時に無造作にちぎったりしながら手早くサラダを作り、おそらく朝のうちに仕込んでおいたスープの味を見て、「うん」とうなずくと、次にパスタを茹で始めます。
すると、リーファ先生と村長が帰っていらっしゃいました。
「うふふ。ちょうどよかったわね」
と師匠はなんでもないことのようにおっしゃいますが、完璧過ぎるタイミングにびっくりしてしまいます。
「さぁ、まずはソースね」
と言って、師匠は丸根とピーマン、ソーセージを炒め始めました。
そこへ例のケチャップを入れます。
「ケチャップはちょっと炒めて少し酸味を飛ばしながら香ばしさを引き出すと美味しくなるのよ」
そう言う師匠の横で私はしっかりとメモを取りながらも手元をしっかりと見て、鼻と耳にも魔力を集中させました。
手元の動きだけでなく、音と香りもしっかりと覚えるためです。
やがて、酸味が飛び始め、ケチャップが煮詰まるごとに甘さと香ばしい香りが漂ってきます。
そして、その香りの奥の方にあるスパイスの香りも引き立ってきました。
「ここでパスタを入れて、普通のパスタよりもちょっと長めに炒めるのよ」
とおっしゃり、香辛料で味を調えながらパスタを炒める師匠の動きにはまったく無駄がありません。
宮殿で見た料理長の手並みですら、この域に達しているかどうか。
改めて師匠のすごさを実感しました。
「さぁ、できましたよ。お味見してみる?」
と師匠は気を遣ってそう聞いてきてくださいます。
しかし私は、
「いえ。みなさんと一緒にいただきたいです。きっとその方が美味しいと思います!」
と笑顔で答えました。
すると、師匠はちょっと驚いた顔をしたあと、優しく微笑んで、
「うふふ。そうね。その方がきっと美味しいわね」
とおっしゃいます。
「さぁ、冷めないうちに運びましょう。みなさんお待ちかねよ」
と笑う師匠のお顔はとてもうれしそうでした。
そして、いよいよ待ちに待った実食の時です。
ひと口食べた瞬間、私は、
「むっふー!」
と思わず奇声を発してしまいました。
濃厚なトマトの甘みとスパイスの風味の奥にあるかすかな酸味。
その酸味がトマトのうま味を引き立て、全体の味を見事に引き締めています。
そして、この香り。
ケチャップが炒められることによって引き出されたのであろう、甘さをまといながらも、爽やかな香ばしさ。
具の丸根の甘い香りとピーマンのほろ苦く青い香り、ソーセージの焦げが作り出す力強い香りが複雑に絡み合い、混然一体となって私の鼻腔を刺激してきます。
気が付けば、みなさんが私を見て、笑っていらっしゃいました。
村長は少し苦笑いが入っているけど、どことなく嬉しそうな笑顔。
リーファ先生はなぜか自慢げで、ズンさんは慈しむような穏やかな笑顔です。
「あらあら。ゆっくり食べましょうね。お腹が痛くなってしまいますよ」
と言って師匠は優しく微笑んでくれました。
「きゃん!」
「にぃ!」
と鳴いて、ルビーさま…、もとい、ルビーちゃんとサファイアちゃんも楽しそうです。
私も、自然と笑顔になって、
「はい!」
と元気よく返事をすると、またナポリタンを思いっきりすすり込みました。
始めて食べるはずなのに、どこかなつかしさを感じさせるナポリタン。
まさしく完璧な料理です。
いつかこの頂へとたどりつけるのだろうか?
そう思って私が夢中で食べ進めていると、師匠が、
「うふふ。今度は半熟卵を敷いた鉄板の上に乗せるタイプのナポリタンを作りましょうね」
とおっしゃいました。
どうやら、この頂の先にはさらなる高みがあるようです。
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