第17話

 カランコロン。

 出入り口でドアノッカーが鳴った。


 あ、新しいお客さんだ、お客さんが来たッ。

 あたしは振り返った。足早に場を離れる。


 後ろの気配は相変わらずだった。あたしを気にした素振りすら無い。店員という名の部外者がいきなり勢いつけて消えた、というのにだ。でも今回ばかりは、気にされないのが嬉しい。



 ありがたや、ありがたや。

 とても非常にすごく自然な立ち振る舞いで、あの空間から離脱できた。ドアから漏れる西日で姿はよく見えないけど、そんなのは些細なこと。


 間違いなく、このお客さんは救世主だ。

 ついでに、店内の空気もマシにしてほしい。ちょっと、ほんのちょっとだけ、きっかけみたいなので良いから。


 ドアはゆっくり閉まっていく。陽光は仕舞われて、天井のランプが淡く輪郭を浮かばせてきた。あたしは感謝を込めて、満面の笑みを浮かべた。

「いらっしゃいませ、カフェ=クロックヴィクトリアンですッ」




「あ、うん。どうも」

 そこにいたのはあきらさんだった。ゆっくりとステップを降りて、カウンターへ近づく。なぁんだ。鳴りを潜めていくあたしの笑顔に、晃さんは口を開いた。


「表情が死んでいる。店員として良くないよ」

「新しいお客さんかと思ったので。あ、もしかしてお客さんですか」


「違う。今日はシフトが入っていないけれど、おつかいの帰り」

 そう言って、晃さんは両腕の大きな紙袋をちらりと見た。


 やっぱり違うんじゃん。

 あたしは盛大にため息をついた。


 というか、デフォルトが無表情の晃さんに愛想とか言われたくないんですけど。

 しかめっ面で晃さんを見ると、晃さんは時計の方へ視線を動かした。このぅ。




 水野さんは晃さんへ笑いかける。

「お疲れさま、晃。折角の休日なのにごめんね」

「良いよ、これくらいどうってことない。控え室に置いておくから、後で把握よろしく」


 水野さんは頷くと、「そういえば」と疑問をあげた。

「表から入るなんて珍しいね、どうかしたのかい」

「いや、特に。今なら誰もいないかなって」


 え。

 しれっとした顔で晃さんは「冗談だよ」と告げる。あんぐりと口を開けそうになって慌てて閉じた。


 じょ、冗談かぁ。そうだよね冗談だよね。全く顔色変えないから、本気で言っているのかと思った。良かったぁ。

 水野さんも半目になっていた。


「晃、身内だからってジョークが黒過ぎるよ。波須歯はすばさんもいるんだから、もう少しホワイトなものにしなさい」


「もう少し緩め、か。わかった、努力する」

 晃さんはこくりと頷いた。

 えぇ、本当かな。あたしは目を細めて晃さんを見る。しかし晃さんは気にも止めない。そよ風の如くいなして、さっさと裏手へ消えてしまった。むむむ。





 扉の先へ唸っているときだ。視界の端に、あのカップルがカウンターを見ている姿を捉えた。

 かあっと顔が熱くなる。あたしはくるりと客席へ背を向けた。


 みみみ、見られてたよねッ。

 なんだか恥ずかしい。

 胸がドキドキして足が浮き立って、心がざわめいて仕方がない。


 うう、どこかに隠れるところないかなぁ。

 他にお客さんがいないのを良いことに、あたしは隠れる場所を考えることにした。


 トイレ掃除、は行くの早すぎ。裏の倉庫、には行く用事がない。控え室の方は尚更。掃除用具を取りに行こうにも、あのカップルが入ってくる前に色々やっちゃったんだよね。ほうき掃きとかモップがけとかそれでもってあの二人は、非常識なレベルで汚すこともしていなかったし今もしていない。


 つまり、もう通常業務で掃除する場所がない。隠れる場所もない。万事休す。





 カウンターに両手をつけていると、再度、目の端にあのカップルが入った。二人とも、未だにこっちを、カウンターを見つめている。

 あれ、あれれれれ。まだこっち見ているの。なんで。


 水野さんからの温かい視線を受けながら、あたしは客席へ目を向ける。二人ともぼんやりとした顔をしていた。その目の先は一心にカウンター方向に存在している。


 いや、待って。だとしたらおかしい。

 あたしを見ているのなら、視線を向ける方角がずれているのだ。何処だろうこれは。なんとなくだけど、あともうちょっとだけ左側っぽい。

 そろそろと目の先を追う。すると、二人分の視線が帰結する場所を見つけた。


 先程、晃さんが荷物を持って消えた場所だった。


 控え室への扉。そこがカップルの視線の行き着く場所だった。

 ダメ押しで2回ずつ辿ったから、間違いはないと思う。

 そ、そっか、あたしを見ていたわけじゃなかったんだぁ。良かったぁ。漸く心の嵐が鎮まったのを感じて、あたしは脱力した。




 とは言えども。

 クールダウンした頭で、ゆったりとあたしは思い返す。晃さんはすたすたと歩いて去った。しかも去ったのは数分も前のこと。


 その時点から二人とも、扉をガン見しているってことだよね。

 ちょっと長すぎないかな。うう、そう思えばなんだか心配になってきた。大丈夫かな、様子見てこようかな。


 なら、彷徨うろついていても不自然にならないようにしなきゃ。あたしは布巾、ダスターを準備してアルコールスプレーを持った。


 よし。方針の確認。

 まず反対側の端っこの席から行って、作業をする。作業をしながら、空席を確認する体であのカップルの様子をちらちらと見る。


 作業が終われば次の席、次の席と移動。すぐ隣の席、斜めの席と近いところからどんどんと二人に近づく。勿論、聞き耳を立てつつ。


 うん。

 絶対に気づかれない、最高に完璧な案だね!


 よぉし、出発だッ。

 あたしの手がスイングドアに触れたとき。



「はッ、何だよ。その顔」





 ささらめくような彼氏さんの声がした。

 その声に、すぽぽぽぽんとあたしの頭の中はすっからかんになってしまう。固まったあたしは、川の流れより緩やかに二人の客席へ注目した。


 彼女さんはぎょっとしていた。上体を斜めにし、ほんの少しだけ肩を引いて真横の彼氏さんを見ている。彼氏さんは棘を含ませて笑った。


「扉の向こうをガン見しちゃって。頬だって真っ赤に染めて、何これ」

「え、これは、その」

「その癖に俺には他の女と喋るな一緒にいるなとか、本当に。移り気なのはどっちだよ」


「ちが、違う、浮気なんかじゃないわッ」

 ガタンとテーブルを揺らして、彼女さんは立ち上がった。肩を小刻みに震わせながら、キッと目尻を尖らせた。


「単にあの人が綺麗だったから、ちょっと見惚れてしまっただけよッ。それに貴方だってずっと見ていたでしょう、なんで私だけ浮気になるのよ」


「ははッ、逆に、俺の立場なら何処がおかしいんだよ。同性なら問題ないって言ったのはお前だろう。しかも異性なら友達ですら距離を取れって言ったのも、お前。なのに、これだ。浮気と言っても、差し支えないだろ」


 彼氏さんは鼻を鳴らす。彼女さんはぐらりと上体を揺らした。力が抜けたように、ソファへ腰を降ろした。そんな彼女さんを一瞥すると、彼氏さんは眉を顰めて手元のグラスへ目を落とす。





 ヤバい。

 あたしはカウンターの内側で立ち尽くしていた。


 あ、あたしまだスイングドアの真ん前にいるじゃん。これではお邪魔だ。あたしはそそくさとドアを避け、前掛けのポケットにダスターを入れる。アルコールスプレーは元の場所に戻した。



 救世主かと思った人は悪魔だった。いや、晃さん自身は何も悪くないけど。

 ただ、ちょっと、いやかなり、普通の人よりビジュアルが良かっただけだ。


 よくよく考えてみれば、晃さんってイケメンだったっけ。

 いや勿論、今も神々しいくらい顔もスタイルも声も良いんだけど。1週間もここで働いてたら慣れちゃったんだよね、あたし。


 それに本人が全く気にしてないし。水野さんも常連さんもみんな気にしてないし。

 晃さんがすごく美形なのをすっかり忘れていた。


 そうだよね。晃さんってテレビに出たり、モデル雑誌の表紙を飾ったりしてもおかしくないレベルだからね。

 そんな人がいきなり、ドアの向こうから出現したんだもん。そりゃあ見惚れるよね。わかる、あたしもそうだった。



 とは言っても、さっきよりヤバい状況なのは変わらない。

 彼女さんは彼氏さんへ身体を向けたままだった。顔を揃えられた膝へ向けて、口元をふるふると震わせている。


 彼氏さんは我観せずといった装いで、アイスカフェラテを飲んでいた。けれど表情は険しいままで、ちらちらと彼女さんを横目で観察している。雲行きは良さそうに見えないし、改善の兆しも感じない。





 長い間、軽やかな音色のオーケストラが空回って聞こえていた。

 そんな中。

 ぶつりと小さく、彼女さんの声が聞こえた。


 はわわ、進展、進展したッ。

 すぐさまあたしはカウンターの前で屈む。テーブルとサイフォンの隙間から、息を殺して客席を見つめる。


 彼女さんの声に彼氏さんは顔を上げた。ただし、今回は何も言うことなく首をゆっくり捻るだけだ。彼女さんはぎゅっと、膝の上で握り拳を作った。


「信じられない、信じられないよッ。何でわからないの、何でわかってくれないの。こんなの普通にわかるよ、わかってよ」



 彼女さんは叫んだ勢いのまま、立ち上がった。左手をテーブルにつけて、彼氏さんへ向き直る。苦いものを思い切り噛んだような顔をして、ゆるゆると彼氏さんは彼女さんを見上げた。


「あのさ。被害者面するのは止めてくれないかな。俺はお前じゃないんだから、わからないよ」


「被害者面も何も事実でしょう。は、あり得ない、本当にあり得ない。言わなきゃわからないの?本当に?本当に、そんなに言わなきゃわからないの。そんなに複雑ではないでしょう、これ」


 だんッと机を叩く音が何度も何度も、カウンターまで届く。スタッカートに響くその音は、語調と共にどんどんと強くなっていった。

 だけど彼氏さんは何も言わない。自分の額に手を当てて、重ためな息を吐くだけ。




 呼吸で出した空気が震えていた。

 はわわ。

 方や囂々ごうごうと燃え盛る炎、方や寒々と凍てつかす吹雪。両方ともどんどん激しくなっていくし、着地点だって次から次へと消し飛んでいる。


 漂ってくる雰囲気が重すぎて怖い、今すぐ目を逸らしたい。なのに。カウンターを触れていた手に力が籠った。すごく気になって仕方ない。どうなっちゃうんだろう、これ。きちんと収まるのかな。


 彼女さんは唇を戦慄わななかせていた。けれど、覚悟を決めたように口を閉じる。「そう、そうなのね」と再び紡いだ口元は歪んでいた。


「貴方、あたしのこと好きではないんでしょう。だから、わからないのね」

「何を、言っているんだよ」





 彼氏さんの顔が困惑に染まる。そのまま彼女さんへ振り向いた。彼女さんは腕を組んだ。

「だって、そうでしょう。あたしのことなんかどうでも良いから、理解できないし、してくれないのでしょう」


「そんなわけないだろ。阿呆なことを言うのは大概にしてくれないか」


「阿呆なのはどっち。確かにあたしは自分に正直であったけれど、貴方へだって正直に誠実にしてきたつもりよ。なのに浮気しただのなんだの。自分だって見惚れていたのに棚に上げちゃって、まぁ」


 彼女さんは呆れたように目を細める。

 彼氏さんは喧嘩中なのも忘れているようだった。眉をハの字に降ろして、彼女さんを諫めるように言葉を返していた。


 でも。見惚れていた、と彼女さんが口にした瞬間。彼氏さんは歯噛みした。忽ち、かあと顔が赤く染まる。

「何、男が男に見惚れていちゃあ悪いかよ」



 彼氏さんはすくっと立ち上がった。彼女さんがつと、後方へ下がるように身じろぎした、ような気がする。彼氏さんは鼻で笑った。


「それとも、お前はああいうのが好みなの。まぁ、そうだろうね、全然美形だったからね」

「ちょ、ちょっと待って。そんな話はしていないわ、話を逸らさないで」


 あからさまに彼女さんは狼狽うろたえていた。すぐさま気丈に言い返したけれど、語調はとても駆られていた。彼氏さんは肩を竦める。


「何処も相違ないだろ。あーあ、利発そうな人だったな。言葉にしなけりゃ理解できない俺なんかと違ってさ」


「だから理解してよって言っているでしょうッ。聞いていれば頓珍漢なことばかり言って、何?そんなにあたしのことを理解するつもりがないの、あたしのことなんて好きではなくなったってことなのッ」





 「あぁもう」

 彼氏さんの焦れた声が店内へ刺さった。


「この分からず屋がッ。そんなに言うなら、良いよ。もう別れてやるよッ」

「えぇ、わかったわ。終わりにしましょうよあたしたち」


 言い終わるが否や、二人は座る。不機嫌な表情のまま、そっぽを向いた。

 え、え、嘘、ちょっと待って?!

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